一人で沈黙を楽しむのが良い場合、二人で沈黙を楽しむ方がより人生の味を深めてくれる場合、色々です。絵画、音楽の鑑賞を一人でしたいか、二人でしたいか、この区別を意識して楽しむ事が生き甲斐の人生探索では非常に重要です。沈黙が何とも言えない<静寂の美>を体験してしまうと、人は沈黙が恐怖でなくなります。言葉は虚しく、騒音に近い感覚になります。親子、親友、知人、恋人、仕事の関係者、いずれの場合も同じです。この静寂の美意識、感覚は非常に神秘的で、奥の深い喜びを人に与えます。この静寂の美を一度味わうと二人の関係は益々美しいものに成長していきます。美しい音楽も詩も小説も静寂の中でこそ一段と輝きを増します。一度意識して静寂の美しさを味わってみましょう。
自殺者または自己否定者が何故、激増しているのでしょうか?色々理由が述べられていますが、第一原因は日常生活での第一不安感をどう取り扱っていいか、または、心理療法的に、どう対処していいか、わからない人々が激増しているからです。第一不安感(理想と現実のギャップ)が原因ですが、どう生きるべきか、と言う<理想>がつかめないのも大きな原因です。その答え(生き抜く喜びを得る方法)は既に心の中に存在していますが、なぜか、それが見えません。見えなくしているのが日常生活でのストレスです。ストレスとけがれの想いの、すぐ裏側に美しい個性と生きる喜びが潜んでいます。それを見つけ出す手法がこの生き甲斐の心理学の諸原理です。
<考え方>は汚れる可能性がありますが<心と身体が病気になる事はあっても>決して汚れた存在ではありません。これが真実です。しかし<汚れている私>を消し去りたいと願う人も存在しています。<汚れた>と信じたように、別な信じ方もあります。人は魂、心、身体で構成されていますが、<魂は病むことのなく老いることもなく、永遠不変のもので、愛そのもの、清潔で美しいもの、臨終とともに身体から離脱する知的生命体>という古来からの哲学を信じてみましょう。信じて見えてくる世界、信じて見えなくなる世界、自分は今、何を信じ、見ているのかを再点検しつつ人間の美しいものを、あえて探し出す努力をしつつ生き抜いていきましょう。汚いものは努力しなくてもて見えてきます。
政治家に、弁護士に、主婦として子育てに生きたい、と人々はそれなりに希望して生きています。何となく人生が虚しくなり、これでいいのか、と悩む時、初めて真面目に生き甲斐を思索します。どう生きたいか、それが分らなくなったときの解決方法は一人静かに部屋に座り、または森の散歩をしながら、自分に正直に、見栄、挫折感、劣等感を捨て去り、あるがままの自然体を保持する努力をすると、必ず心の奥底に、湧いてくるものがあります。<---がしたい>、この倫理道徳を超越した<---がしたい>という貴重な意欲こそが私を支え、天が私たちにささやく天命です。素直にそれに従って生きていきましょう。自分に正直に生きないと悔いを残します。
<意識と発する言葉>が<本心>と相当違うと人間は何となく病んでいきます。心理療法で大切にしている<アイデンティティーの統合>という概念は、どんな思想でもいいから、自分なりの考え方を整理統合して生きていけば心の病にはなりません、あれも、これもと錯乱的に追い求めると、変な心の状態になります。正直に本音で生き抜くと、それに協賛してくれる良き友人が何となく周囲に集まりだします。ただし<本音>と<真善美>を常に重ねる修行をしないと、本音を暴露するのを恐れる小心者、うそつき、誠実性の無い人間になっていくようです。本音に生きようとする場合、どうしても「真善美とは何か?」を平素勉強したり、思索していきませんと、幸福な道には到達できないようです。そこが人生の難しいところ、かつ、やりがいのある人生になるようです。
両親から与えられた身体ですが、親が嫌いなために、自分の身体までも嫌う人々がいます。更に悪い事には自分の才能、よさ、美しさすら否定している人々を見ると私は何故か、涙が出てしまいます。残念無念、こんなに良い所を山ほどあるのになあ、と悔しくてたまりません。人間、厳しい人生を生き抜くためには、相当の<信念、くせ、思い込み、こだわり、気に入った習慣等>が必要なのですが、一度思い込んだ<自己否定フィルター>を消すには<自由で何物にもとらわれない喜び>を五感と体感で体得する必要があります。私の著書<生き甲斐の心理学>を学習して欲しいのです。このテキストは第1章から11章あり、愛の孤独感、心理療法の基本、病理論、傾聴方法、ストレス対応方法、心をのびのびさせながら生き抜く方法などが世界の学会レベルの内容で書かれています。生涯の愛読書として十分再読できる本です。