生き甲斐の心理学

自分は何の為に生きているのか? 生き甲斐とは何か、自分の魂と成育史と身体を大事にしているか、を思索していきます。

自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

2024年05月31日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
神が存在するかどうかの問題は人類の永遠の課題ですが比較宗教学・比較文化では存在論としての信ぴょう性はその筋の学者にお任せしています。その代わりキリスト教、仏教、ヒンズー教、イスラム教等の信徒を統計的、臨床的に洞察しつつ何を見ているか、神仏をどう見ているか、その信じ方のありようを洞察して「信じて見えているもの、見えないもの」を学問として理解しようと努力しています。例えば私の場合、カトリツクの三位一体の愛である神を信じた時に見えた親の愛は、信じる前のものと相当違いました。高校時代に洗礼を受けましたが煩い親の干渉が何とも言えない深い親の愛として理解出来ました。何気ない散歩の途中に見るアリの大群が自然の摂理という美しいものに変身しました。身辺の悲劇の奥にある意味を考えるようにもなり、過去の歴史の解釈も激変しました。このように信じると見えてくる世界がある、という事にも驚きでした。存在論からの神の存在を自分が思索するよりも「信じて見えたもの」が余りにも魅力的な愛である神なので存在論は大事ですがもう、どうでもいいなあ、という信仰の世界に変換されました。信仰の世界は議論の世界ではなく幸福曲線(平安感、友好的感情、健康観、幸福感、統御感)の世界なので他者が入り込めない世界なのです。丁度、愛する二人の世界のようなもので、神と自分との問題となります。それだけに他者から信仰者を見た場合、そこにもし教養と礼節と真善美を感じない場合、その人の信仰とその宗教の意味は激しい侮蔑の対象となります。常識と教養の無い信仰者が恐れられるゆえんでしょう。 

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自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

2024年05月30日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
大部前、ここで紹介しましたエリアーデの「世界宗教辞典」をお読みになると分かりますが、地球に存在している色々の宗教を良いとか悪いとかいう視点で見ようとはしていません。学問としてその宗教の姿を把握しようと努力している精神がこの世界宗教辞典から読みとれますし、何故、その地方にその宗教が必要であったか、という疑問への答えもキチンと書かれています。このようにこの比較宗教学・比較文化の視点は「信じて見えてくるもの、信じて見えなくなるもの」という視点から捕らえようと努力しています。高天原という概念はその国の権力の中枢がどんな所から生まれてきたかを国民に理解させ統治、管理、正中線を見せようとしていますし、えびす神社の「商売繁盛、ささもってこい」はめちゃくちゃにもうけるのもいいが、キチンと感謝しなさいよ、と錯乱をいさめています。このようにカオス(混沌)の世界を何とか統合された世界にしようという人間の魂に替って比較宗教学・比較文化の視点から暖かく人間に希望を持ってもらい、逞しく明るく元気に生き抜いてくださいね、という学問です。この信じて見えてくるもの、信じた為に見えなくなるもの、という視点を人間の身辺に生起する森羅万象を解釈する方法を学問として展開していく視点です。


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自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

2024年05月29日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
数年前、京都の「えびす神社」を参拝しましたが、その途中、にぎやかな楽典が聞こえだしました。その音楽を耳にすると、踊りだしたい気分になるのです。その衝動に驚いた事があります。インドの何とかというリズムに触れた時も身体が自然に踊りだして困りました。どの民族にも、どの人にでも、或リズムに触れると魂と身体が異常なほど、陽気になり、祈りと踊りが混在してくるのです。その時、聴きました「えびす神社」の「商売繁盛、ササもってこい」という言葉にも深い意味があるようです。商売が繁盛してお金が出来たら御酒をとどけよ、と私は勝手に解釈していますが、商売が繁盛した時に御酒を届けますが今は貧しい私を豊かにしてください、とも解釈出来ます。その人の成育史は、その人の身辺に生起する森羅万象からくる五感に触れた時、その解釈は、その人を幸せにするようにと働きますので、素直に五感からくる示唆を一旦受け止める訓練をしていくと、物凄い知恵に恵まれるそうです。五感からの喜怒哀楽をねじまげる人は、その知恵に気付かないとも言われています。五感を正直に意識化する訓練はとても大事なようです。
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自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

2024年05月28日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
松本清張さんの最後の小説「神々の乱心」は実に面白い。私の推測ですがどうも乱心したのは大正期、昭和初期の皇室関係者の事らしく、某を巡る政治事件のようです。有名な大事件2・26の背景や満州での大連阿片事件も絡み私の世代では皇室に対して少々畏れ多い感じの小説で、ここまで書くのかなあ、大丈夫なのかなあ、と心配になる内容でした。しかしこの小説は奥が深く政治学者の某先生が解説の本を書くくらい複雑で難しい歴史を実に明快に書いた松本さんならではの推理小説なのです。昭和史発掘、清張通史、などの名作を書かれた小説家の最後の遺品なので私も相当気をいれて読みました。現代に生きる私たちがそろそろ意識化しておかないと本当の平和構築が難しくなる時代だなあ、とも思いました。戦争の恐怖は子供でも知っていますが、その戦争を生むまでの陰の歴史をこの小説は教えてくれます。中学、高校生徒も読んで欲しい小説で比較文化論、比較宗教学に興味のあるかたの必読の書かもしれません。比較宗教学視点の面白さが分かるように、ここでも徐々に話していこうと思います。
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自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

2024年05月27日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
太極拳の仲間との会話です。年齢は関係なく、太極拳が自分に大きな生き甲斐を与えているのを知り感動しました。さて太極拳を愛する身心ともに元気な方が大勢おられたせいもあるのですが、持病があっても病気の話は一切出ませんでしたが、生きるよろこびを追求する情熱に感動しました。好奇心が強く、それぞれが大好きな分野の勉強を楽しみ、かつ、この太極拳には、義務感からではなく強い興味に揺り動かされて精進している集団です。色々の哲学や宗教をもった人々の会合でしたが、共通の趣味である太極拳の仲間達が繰り広げるこの雰囲気に、こんなひびの幸せもあるのだなあ、と感謝しつつ帰宅した一日でした。
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自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

2024年05月26日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
あちこち日本国内を旅しますと古い神社に必ずそこに祭られている神々の名前が厳かに書かれています。その文章の中に「高天原」という言葉が出てきますと、人によっては、フン、と侮蔑的に解読する人がいるようですが、この高天原、という意味はイギリスでは「日本における権力の中枢を高天原」という、と教えられました。古代史でいう「高天原」を権力の中枢機関ととらえると案外楽しく勉強出来るのです。権力の中枢から、その地へ派遣された人、と解釈すると面白いのです。各地に現存している古い神社の社伝は正確な歴史学を気にする人々にとって笑いの対象となったりしていますが、ギリシャ神話にしてもエジプトの神話にしても、その深い意味、特に精神性を理解しないと目を疲労させるだけの書物となります。これから高天原という言葉、概念に触れた時、是非、権力の中枢を意味していると解釈するとアマテラスを持統天皇とした話も益々楽しく解釈出来るようになります。
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自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

2024年05月25日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
1995年、ロンドンでのイギリスの大学関連学会での話ですが「もしエリアーデの世界宗教辞典という本が出なかったら、この学問の世界で思索しようとする学徒は相当、混乱していったろうなあ」と学会後の親睦ワインパーティーでの話です。それほどエリアーデは世界の人々に愛され尊敬されています。例えば彼が書いた日本の「神道」の頁を見た読者は非常に驚きます。その造詣の深さ、説明の正確さ、整理された文章は驚きです。古事記、日本書紀の説明はとても簡潔で美しいのです。私の心と人生を豊かにして下さったエリアーデを想いつつ、今から日本文化に潜在する世界共通の魂論からの話を京都の旅や奈良の旅を念頭にしつつ気楽に書いていきたいと思います。

追記:比較宗教学がイギリスで発達した理由の一つは大英帝国イギリスの政治性とキリスト教を視点の中心に置いて、世界各地の宗教を冷静に学問的に把握しようとした努力が背景にあります。つまり三位一体の愛そのものである全知全能の神の概念を比較の正中線においてありますので、その視点を忘れないようにして下さい。どれが正しい、という批判はありません。しかし、その正中線はあります。


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自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

2024年05月24日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
3Vの法則という面白い原理があります。visualize, verbalize, vitalizeのvを言います。ヴィジョンを描く、言葉にしてみる、行動する、の意味ですが、長い人生の間に棚から牡丹餅、という珍しい幸運もありますが、それとても、平素、心の底で、そうありたいという願いを祈りのように唱えているから実現するのです。私は海外で色々の事故や事件に巻き込まれて人生を生き抜いてきましたが、心の底で人生最後の海外旅行は、こんな人々と楽しい旅をしたいなあ、と思っていましたが、そんな虫の良い旅はまずは無いだろうなあ、とも考えて生きてきました。どんな条件かと言いますと、同じ信仰を持った人、家族、魂を刺激しうっとりさせるフランスかイギリスの古い土地をのんびりと数名で旅行をしたい、そんな夢を持ち続けていました。大震災の年の後でしたら、多分、チャンスがありましても、私の性格上、こんな夢は断念したことでしょうが、夢がかない日本に戻りましたのが2011年1月3日でした。親しい家族とフランスでしたが、マドレーヌ寺院でレクイエムを聴き、ノートルダムで新年のミサにあずかり、魂のモンサンミッシェルに泊まり天を仰いで感動する、素晴らしい10日間の旅でした。美しい思い出は人生の宝物。
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自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

2024年05月23日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
どんなに厳しい環境と現実を迎えても人類にはそこを生き抜いていく知恵が必ず備わっています。但し錯乱すると、その現場を生き延びる事は難しくなります。恐怖感、憎悪、嫉妬等沢山の激しい感情が湧き出しますと、その人の心の自由を保持しようと大脳が働きだし、その激しい感情を防衛し、自由な心を保持しようと防衛機制という精神作用が働くのですが、それを知らないで、ひたすら感情に振りまわされますと現実吟味力を喪失して破滅していきます。飛行機事故で胴体着陸した体験は強烈ですが、自分を謙遜にしたようです。
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自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

2024年05月22日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
古代の治水がうまく出来ない時代は、川が勝手に流れ民を苦しめました。京都の鴨川、揚子江、アマゾン、インダス等、そのように私達人間もセルフコントロールをうまくしないと、川の流れのように最終的に何処に流れていくのか分からないまま漫然と生きていくこととなります。せめてどこに流れていきたいか、その行く先だけはイメージしたいものです。例えば信仰の場合は天国に直行したいなあ、という激しい願いを私は持っています。どこに流れて生きたいか、幸せな国に流れつきたいと思えば人間はそうなるようです。そんな話を以前テレビでお話しましたら意外の大きな反応がありました。自分は無宗教派だと名乗りながらもホモサピエンスの歴史は「あの世」がきになるものです。そんなときは祖先のお墓詣りを時々してみると思わぬ気づきに恵まれるようです。

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自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

2024年05月21日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
イギリスの大学の研究室には世界各国から集まった青年達がいました。プロフェッショナルサイコセラピストという学位を取る為です。しかし自信を持つ青年は一人もいません。教授は「自分は草原の小さな儚い草の一本」に過ぎないと思っていた青年達に元気を与える為にドーヴァー海峡の軍事要塞だったトンネル(第二次世界大戦の時、チャーチルがここでドイツのロケット爆弾を避けつつ指揮にあたった場所。手術室の隣が食堂だったり、戦死者を一時的に置く広い霊柩室があったり、人によっては亡霊を見る場所。暗い惨めな印象がありました)に案内した後、君達は草原の中の大木だ、というお話をしてくれました、そうして青年達が持つ個性の美を草原の中の大木に例えながら自信を持たせようと努力して下さいました。私は草原の中の柳だ、というイメージをその時以来、持ち続けています。どんな厳しい嵐、雪、災害が襲ってきて柳の葉が落とされたり大木の皮が腐食してはげ落ちても私は今まで立ち続ける事が出来たのはその恩師のお陰でした。
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自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

2024年05月20日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
人は何かを考え、湧いてくる感情を処理しながら目的に向かって行動しています。今、人類は80億くらいいますが、それぞれの環境の中で、それぞれに相応しい思考と感情と行動のバランスを保持しないと人は破壊していきます。アフリカの少年兵のバランスの仕方とニューヨークのビジネスマンのバランス、精神病棟でのバランスは環境により全部違います。明るく元気に逞しく生き抜くバランスは80億通り存在しています。皆様のバランスとは?
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自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

2024年05月19日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
人前で堂々と振る舞える行動と、こそこそと人前では見せられない行動をとるのが生身の人間の常なのですが、案外、この裏の行動には貴重な意味が潜在しています。世間の常識を気にする人間ですので、自分もこの行動は裏の行動だなあ、と自信がなく、こそこそした感じとなります。しかしこの裏の行動を意識すると、その行動はその人の個性の美を天が暗示している貴重なシグナルである場合があるのです。例えば一人になりたくて、そーっと隠れるように部屋に姿を隠す子供を親はしばしば変な子、と非難します。しかし、その子は将来、有名な詩人になりました。目立ちがりやの変な子が有名な俳優さんになりました。変だと言われても変だ、と思わないで、一度、それは職業選択でも、生き甲斐の選択でも、何らかの意味がある行動なので、自己肯定しつつ変な自分の中に天命を見つける努力を楽しんで下さい.

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自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

2024年05月18日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
嫉妬心は生身の人間が死ぬまで持ち続ける感情ですが、この嫉妬心を抑圧すると人は心の状態も生活も変になっていきます。消そうとしたり抑圧して見ないように努力するのも人間の美しい営みの一つではありますが、人間の心の仕組みを知っておくと無駄な努力をせず、無駄なストレスを感じないで爽やかに明るく元気に生き抜いていけます。湧き出す嫉妬心のエネルギーは強烈なので、そのエネルギーを転用して別な方向に向けるのです。例えば人に言えない嫉妬心がむくむくと湧きだしたらこれは変な嫉妬心(病的な嫉妬心)だから仕事で発散しようと決意し、かつ、その嫉妬心の理由、つまり理想と現実のギャップが嫉妬心なので、キチンとその理想(こうあってほしい、こうあるべきだ、という成育史上の想い)と現実を比較考察しつつ、その嫉妬心の原因を理性的に一応意識化しておくことが大事だ、と言われています。健全な嫉妬心と病的な嫉妬心がありますので、きちんと把握しておく必要はあるようです。
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自分は何処へ旅しているのだろう?幸福な日々の為の自問自答

2024年05月17日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
生き甲斐の心理学では時々、慈眼と邪眼、という言葉を使います。少々、どきっとする言葉なのですが、人々が幸せに生きる為には、どうしても通過しなければならない概念なのです。皆様の周囲に良い人なのに何故か基本的な部分で人を信用していない人がいませんか?にこにこしていても最終的に人を信じていない人の疑い深い眼差しを邪眼といいます。この邪眼があるとその目つきで見られるとぎょっとして理由の分からない不安感と不快感に襲われ、何か自分が相手に失礼な事をしてしまったのかなあ、と自信喪失状態になります。この自分の邪眼に気付いた人が勇気を奮い起して相手を信じる努力を開始した人がいました。眼差しは正直です。犬や猫、その他の動物は必ず人間の目を見つめて判断しているように、目は正直に物を語りますので、その人は修行する内に段々と眼差しが澄んできて、穏やかな瞳に変化していきました。そうすると周囲の人々も態度が優しくなってくるのです。邪眼をしている内は人間は本当の幸せは掴めません。一度、自分の眼差しが慈眼か邪眼か検討してみましょう。
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