人は意識、無意識で自分が正しいと信じて生きています。ですから時々感じる寂しさとか愛の孤独感についても、その原因は自分には無い、社会のせい、人のせいにして生きています。また、そうしないと益々変になつていきますので、ある意味、今の解釈をよしとしないと生きていけません。しかし、どうしても切なくて哀しい時、心から自分を大事にしてくれる相談者がいればいいのですが、そんな人はあまり居ません。相談に行けばいくほど、益々、嫌な事態になるようです。癒してくれる人を持つ人は本当に幸せな人と言えるでしょう。そういう相手が居ない場合の解決方法はセルフカウンセリングの手法を覚える事しかありません。寂しさ、愛の孤独感はその人の生育史から捻出されてくる理想(こうありたい、こうあらねばならなし、というイメージ)と現実の解釈から生まれますので、先ずその理想のイメージの内容を現実吟味力で再点検します。次に現実の解釈が正しいかどうか、それも現実吟味力で再点検しますと、その二つの内容が少々、現実離れしていた、ど気づく場合もあります。理想を捨てるか、現実を100パーセント受け入れるか、その中間で納めていくか、この作業を月に一度の割合で行う事しか方法はありません。厳しい現実は変わりませんが、このセルフカウンセリングの手法に慣れ成功していくと、自分の力を信じ逞しく生き抜く勇気が出てきます。
味覚を病気で喪失した知人は悲劇です。食べないと生きていけないので味が無くても毎食、必死で食べています。さて味覚を意識しなしと人生の醍醐味、生き甲斐が半減します。味わう事を意識化した人は幸福感が倍加するそうです。味覚を意識化すると平安感、友好的感情、健康感、幸福感、統御感が確実に増加しますので、食事の折に、どんな味を今、感じているか意識と言葉にしてみて下さい。涙が出るくらい幸せになります。甘い、酸っぱい、辛い、美味しい、と意識化するのです。某大学病院での事例ですが、腐敗したものを意識して食べさせて鬼のような母親が心を病んで入院してきました。この事例は子供は心の病気にはなりませんでしたが、その母親が何故か、心を病んでしまったのです。この昔の体験は味覚の神秘をしみじみと私に沢山の事を教えてくれ、味覚研究の多方面での示唆を与えてくれました。味覚は幸福感と直結していますし神学、哲学、宗教学、政治学、経済学とも深く結びついていきます。味覚の中に雄大な神仏を感じ、素晴らしい愛の世界を提供したシェフも存在しています。味覚の世界を是非、思索しましょう。人々の幸福を簡単にもたらす世界でもあります。
富士山への信仰は江戸時代に再燃しますが明治初期には「宮下文書」のように国家神道からも政府からも偽書として葬られていきます。古代富士王朝が存在したかどうかは、その筋の専門家におまかせするとしても、私達祖先が富士山や筑波山、大山、白山、磐梯山等への山岳宗教に平安感を感じ取り生きた歴史は消せません。邪教と言われた古代の宗教もある種の人々に幸福感を与えた事は事実です。「自己肯定・他者肯定」の思想がフランス革命の後、法律化されてきますが国連憲章でうたいあげる人類の基本的人権の思想を得るまでには長い歳月が必要でした。富士山信仰が時の政府を不安定にさせ、都合が悪かったからです。それほどに富士山信仰は日本人の背骨のような存在でした。富士山信仰を消滅させていく歴史の中でも一番面白いにが古事記、日本書紀の研究でしょう。何故、大和王朝が富士山信仰を撲滅すべく必死だったか、ご興味のある方は生き甲斐の一つとして研究なさいませ。ここでは今でも何故に日本人がこれほど富士山が好きなのか、生き甲斐の心理学が何故に、これほど富士山を愛しているのか、その理由を知って欲しいとおもい、ながながと書いてきました。深い魂と歴史、民話、伝説、大自然、そして火山という恐れ、この富士山をこれからも大いに楽しみつつ、そのエネルギーを頂きましょう。
臨床心理学としての理由は「自然治癒力」という概念で納得します。ホメオスターシスとも言われています。森の散歩、海や山に行きますと理屈抜きに元気になるのと同じ理由です。五感と体感が快感と元気を与えてくれますので、もう、それで十分なのです。原初感情と言われている「怖い、怖くない、好き、嫌い」が原因だ、と洞察すれば、もう、それ以上の分析は不要と言われています。心理療法ではノイローゼの原因として激しい恋愛結婚はしたものの、数年すると大嫌いになる自分が許せなくて心の病気になる若い二人は沢山います。あんなに恋した自分が、そういともやすやす相手が嫌いになる、自己嫌悪になる、そんな相手を見抜けない馬鹿な自分ではない、と自問自答する、このような自己分析をしている内に、成育史の違いから、そう解釈する相手は当然だなあ、と理解すれば、嫌いになった理由について自己嫌悪する必要もなく、当然だ、と本気で納得したとたん、ノイローゼが治癒したりします。富士山を見て心が明るくなり元気になる、そういうノウハウを身につけて、意識して富士山を楽しむのです。わざわざお金を払い遠くまで行かなくてもあの雄大な富士山を見ながら古代人のように素直に手を合わせると縄文時代のDNAが現代人の複雑な悩みを単純明快にしてくれます。複雑系は複雑な悩みに翻弄されますので出来れば単純に生き抜きたいものです。
今日の表題をご覧になり、あれ、何だろう?と思われる事でしょう。どの民族にも山を見ると安心する傾向があります。比較宗教学による心理療法では「イメージ療法」という手法を使用しますが、日本人の場合、富士山を見て嫌悪感を感じる日本人はまずいません。富士山をみると心が平安になるのが普通です。この民族の特性を世界的な学会でも注目し、それを人々の平安感を湧きださせる手法として使用します。さてどんな方法か明日説明します。人類誕生から神話が生まれアニミズムが生まれ、この自然崇拝心理は地球上の全ての文化に影響を与えています。この大事な心理を人々の生き甲斐に応用していくわけです。
縄文時代の日本人の信仰は山岳宗教とも言われています。まさにアニミズムで山、草、樹木、石への崇敬の念はとても美しいもので、この思想については諸説ありますが、今でも、大自然への崇敬の念は現代人にも通用する信仰心です。水の流れに罪の汚れを禊ぎ、互いに水に流して許し合い、決して恨みつらみから殺戮を避ける、この思想は現代の殺戮をとても見苦しく感じさせます。テロリズムや罪のない大衆への爆弾事件は、この日本の古代思想からは考えられない悲劇です。改めて和を大切にする古代思想に敬意を表します。古代日本にもそれなりに殺戮はありましたが大化の改新、壬申の乱あたりから、相当な大きな殺戮の歴史が始まります。山を、水を、岩を、草木の中にも自然の神の摂理を感じた古代人の信仰心に対して私は何とも言えないぬくもりを感じます。縄文時代の日本人の精神文化を大切にしたいものですが、東海道新幹線に乗り、富士山を見て、いつも誰かが、何と美しい山だろう、と叫ばない列車はないようです。古代の血が富士山を見ると騒ぐのでしょう。
良い天気の朝食は富士山を見ながらのトーストと紅茶ですが、いつも心に浮かぶのが大和朝廷誕生前の日本人の富士山への熱い信仰心のことです。私の愛読書の一つに「富士山を知る事典」という本がありますが、その本は富士山について何でも書いてあります。地形、植物、民話、伝承、富士信仰の歴史等などで、とても夢を豊かに育んでくれる辞典です。天照大神を祀る伊勢神宮の海岸線からも富士山が見えるそうですが、古事記、日本書紀にはこの縄文時代の信仰の山・富士山については書いてないそうです。万葉集にだけ何故が和歌が少し書かれていますが、この富士山信仰について少し書いていきます。富士山を見る私の心は平安感にみたされますが、この心境と平安感は深い関係があるようです。
他者が見る目が正しいのか、セルフイメージが正しいのか?セルフイメージは自分の人生を支配していきますので、とても大事なものです。色々の意見がありますが、結論は「セルフイメージ」がもし自己否定的ですと、そこに大きな問題が出てきます。他者がどんなに、その人の個性に美しさに感動して、そ点を褒めても、強烈な劣等感や自己否定的な人は平安感や幸福感を素直に感じないようです。本人のセルフイメージについて時々点検する必要があるようです。
古代の治水がうまく出来ない時代は、川が勝手に流れ民を苦しめました。京都の鴨川、外国では、揚子江、アマゾン、インダス等、そのように私達人間もセルフコントロールをうまくしないと、川の流れのように最終的に何処に流れていくのか分からないまま漫然と生きていくこととなります。せめてどこに流れていきたいか、その行く先だけはイメージしたいものです。例えば信仰の場合は天国に直行したいなあ、という激しい願いを私は持っています。どこに流れて生きたいか、幸せな国に流れつきたいと思えば人間はそうなるようです。
自分でも理解不能のイライラがこの事例の代表的な事例です。自分がイライラしているなあ、と気付けば良いほうで、本人そのものが、イライラしている事に気付かず、周辺に八つ当たりしています。あなたの周辺に、このような人はいませんか?周囲も迷惑ですが本人は悲劇的です。そのうち誰も相手にしなくなるでしょう。たまたま企業の各部門の長、大官庁のそれぞれの組織での長、色々ですがその組織の配下がたまりません。このイライラの人の原因は70億の人類の、それぞれの生活環境で理由は全部違いますが、学問はその理由をその人の成育史での理想と現実のギャップからくるストレス曲線(不安感、怒り、身体症状、鬱、錯乱の5つ)が原因だと解釈しています。このストレス曲線は意識化されているものと、無意識の世界からの投影があります。こうありたい、あらねばならない、という理想の領域と現実のギャップから生まれるのがストレス曲線です。現実の解釈に病的なものがあれば、益々、そのギャップは大きくなります。当たり散らす人の取り扱いは、この心の仕組みを理解した人でないと対処は不可能です。成育史上の理想は3つあります。魂の領域(神仏への問題)、成育史上の心の傷、身体からくる医学的な問題、この3つです。この3つの大問題が意識、無意識の世界に存在していて、その取り扱いを学問、特に生き甲斐の心理学では重視していますので、なまはんかな知識では、それぞれの人への対処は困難を極めます。さあ、誰がその人を救うのでしょうか?こうした問題を抱えながれ人類は数千年生きています。身近な所で、この心の仕組みをきちんと勉強している人がいれば、その周辺は小さいけれども心のともしびがつくでしょう。
「生き甲斐の心理学」を学習していると、時々「無意識の世界からの投影」という言葉が出てきます。この心の仕組みを知っておくと自分を虐めるような事、例えば修行が足りない、人間が出来ていない、学歴不足、経験不足等など。この反省は大事ですが、暗い気分にさせるくらい自分を追い込んでいく人を見ると、私はとても哀しくなります。無意識の世界は確かに存在していて、その中に人生での難問への答えが存在しているだけに、この心の仕組みを意識化する必要があるのです。意識してしまえば、もやは、それは意識の世界。無意識の世界に必ず自分に相応しい答えが存在している、と信じるだけで、人生が明るくなります。さて、どうしてその答えを意識の上に出していくか、ここが難しい所、人により意識化する方法が全部違いますが、明日からこの仕組みを考えていきます。
しばしば自分は不幸だ、という方にお会いします。心の仕組みを意識化しておく必要があるようです。朝、目が覚める、その時、憂鬱な気分が出たら、すぐ、この心の仕組みを思い出し、手を打つのです。その心の仕組みとは例えば「あーあ、めんどくさい、今日も、ばたばた生きねばならない」と暗い感情が起きたら、朝だけはその暗い感情を抑圧するのです。普通、感情の抑圧は健康を害しますが、この月曜の朝だけは、暗い感情を抑圧したほうがよさそうですし、必要があるようです。そして無理をしてでも、何か気分が明るくなるような過去の思い出、特に幸福なイメージ(幸福感の原型)を思い出すと、何故か、その一日は幸福になるようです。人は考えた通りの人間になる、月曜は忙しい朝ですから、事例を思い出そうとすると電車に遅れますので、常にブルーの気分の時は、これを思い出そうと一つ、二つの事例を準備しておくのです。私は幸せだった2010年のパリの旅を思い出すと、たちまちにして幸福感を味わえます。特に月曜日は大体、皆さんブルーなので、是非、月曜や休日の翌日には思い出しても幸せになるような場面(幸福感の原型)を準備しておいて下さいませ。
松本清張さんの小説・波の塔の主人公 結城頼子さんが何故、樹海に走りこみその人生を閉じたのか、本当に残念でした。小説とはもうせ切なく哀しい愛の物語でした。体験の解釈を変えれば美しい人生が展開したのに、と残念です。人それぞれが経験する辛いこと、哀しいこと、嫌なこと、何故、そのような事が身辺に起きるかと言いますと、それは永遠の幸福な世界に、永遠の生命に入る為の試練だと解釈したほうがいいのです。その為に人類の祖先達は色々の神話や民話、伝説、宗教を命がけで誕生させました。現代の私達人類はその遺産を侮蔑したり嘲笑したり軽く扱つかっては宝物をどぶに捨ててしまうこととなります。その精神遺産を大事にして、その知恵をもとに体験の解釈を変えると世界が明るく変化していきます。一度、素直に解釈論として挑戦し、その真理を体験してほしいものです。さてこの小説の作者がどう思って頼子さんを樹海に走らせたか、その真意は知るよしもありませんが、私は確信します「恋する人への愛の為に自殺する愚かさ」をこの小説は教えています。愛する人の為には生き延びねばなりません。
小説「波の塔」のキーワード:生き甲斐の心理学から見た一番の問題点は「絶望」です。いかなる人生でも自分からした思考とその結果について反省は必要でしょうが、湧き出す感情・絶望感から、自殺するような思考は大きな過ちです。殺人から自殺までを含め、そこまで自分を追い込む思考の内容について、もし、自分の思考内容を反省して自己否定するならば、その考え方は間違っています。どんな反省でも、最終的に自分を許していかないと、多分、人の過ちをみて、その人を自殺に追い込むタイプの人間になるでしょう。どんな事情があるにしても、最終的には自己肯定・他者肯定の思考で納めていく人生を歩みたいものです。キリスト教ではこの人類の絶望感を贖罪という思想で解決しようとしています。どんな聖人君主でも、日本文化の中で流れている重要な意識:汚れと禊:から見た場合、誰にでもあるものですが、キリスト教では贖罪と復活の思想で人々の心の幸せにしようとしています。
松本清張さんの小説の話です。一時期、富士山麓の樹海での女性の自殺があり、枕元にこの小説がしばしば見つかる、という事件がありました。この小説を読む契機があり、今、下巻を読んでいる最中です。ここに登場する結城頼子さんは素敵な女性ですが、悲劇の主人公で、とても切なくなる物語です。この小説を読む契機は「謎の宮下文書」という古代史が契機でした。大和王朝が誕生する以前に、富士山のふもとに古代の王朝があった、という書物です。さらに松本清張さんがこの富士王朝を小説にしている、といううわさを聞き、私は数カ月、その小説を探し求めたのです。福岡の松本清張記念館にまで電話をかけて調べてもらいましたが、結果としては、どうも無い、という事で、非常に残念な思いをしていました。その小説の探索をしているインターネットで検索すると、必ずこの「波の塔」が出てくるのです。えいやあ、と買って読みだしましたら、この悲劇のヒロイン:結城頼子さんの人生に触れた次第です。この古代王朝を調べていたさなかに出会ったこの小説は心理療法を職業としてきた私を或意味、愕然とさせています。この結城頼子さんと自分の人生を重ねて、明るく元気に生き抜いた人と、同じ樹海に人生を終えた人(昔の私のクライエント)を思い出したからです。解釈の違いで生命が伸びたり短くなったりするのです。この小説は何とも恐ろしい小説だなあ、と今、感じています。クライエントと重なってしまうと、何とも切なく、昔の私の挫折感が湧き出してきます。しかし、今、ここで、読むのを中止したら、私は更に挫折するので、愛である神様に祈りつつ、最後まで読みきり、明るく元気に人々が生き抜けるよう努力しなければなあ、と思いました。松本清張さんの小説・波の塔:は何とも恐ろしい小説です。