大森第一小学校第40期卒業生同期会

卒業して幾星霜、さあ懐かしい面々と再会し、浮世の憂さも忘れて、思い出話に花を咲かせよう!

つぶやきの部屋10

2010-08-04 16:41:44 | Weblog

この写真、複製ですが、薩長同盟を見届けて寺田屋に戻ってきた
龍馬が伏見奉行配下の捕り方に襲われた際に使用したアメリカの
スミス&ウェッソン社製のピストルと云われています。なぜ断言
できないかと云いますと龍馬が(両手に刀傷を負ったために)その
場に捨て去ったからで、現存しないのです。

龍馬が小五郎(慶応元年九月に木戸寛治に改名)に宛てた手紙(慶応
二年二月六日付)に「高杉より送(贈)られ候ピストールを以て打払」
とありますので高杉晋作から贈られたものであることが分かります。
この写真のものは南北戦争終結(慶応元年三月、陽暦四月九日)後に
日本に大量に入ってきていますので、晋作が密航を企てて三月に長
崎へ渡ったときにグラバーから入手した可能性が大です。

龍馬へいつ贈られたかですが(確かな史料は遺されていませんが)、
龍馬と小五郎との下関における最初の会談(慶応元年五月、閏五月)
のときには、晋作は下関を開港することを主張したために、その地
を有する長府藩の藩士から命を狙われる身となって井上聞多ととも
に脱藩亡命していたので有り得ません。
しかし同年十月に龍馬が再び下関へ渡ったときには、十二月にその
地で小五郎の他に高杉晋作、井上聞多とも会見していますので、そ
のときに贈られた可能性は大です。
 龍馬は翌慶応二年一月に小五郎(十二月末薩長同盟のために京都へ
 出立)の後を追っていますので、そのピストルを携帯したまま上京
 したことになります。危険な場に臨む龍馬の身を案じて(それだけ
 龍馬の周旋に期待を寄せていたことになりますが)護身用にと贈っ
 たのでしょう。

このピストル(正確にはスミス&ウェッソン2型アーミーモデル)は
1858年(安政五年)に作られた、回転式弾倉(シリンダー)が取り
外し可能な6連発で、高さが10cm、長さが25cmです。
旧型のリボルバー(1/2ファーストイッシューモデル)は、銃身が
5cm短く、近江屋で落命したときに所持していたピストルですが、
5連発です。
龍馬が土佐の実家に宛てた手紙(慶応二年十二月四日付)では、寺田屋
で襲われたときの有様が、まるで講談師のように臨場感たっぷりに語
られていますが、そこではそのピストルが6連発のリボルバーであり、
回転式弾倉が取り外せるものであったことが述べられていますので、
この写真のスミス&ウェッソン2型アーミーモデルで間違い無いよう
に思います。
 懐中するにはちょっと長めのように思えますが、大柄な龍馬のこと
 ですから問題は無かったのでしょう。(龍馬が「始終衣服の襟を、ダ
 ラリと開けて」といった格好をしていたのは懐にピストルを忍ばせる
 ようになってからかも。)
 でもやはり大き過ぎると思ったのでしょうか、次に求めたのはやや
 小振りの1/2ファーストイッシューモデル。お龍に持たせたのも
 同じものと思えます。

撃鉄を起こしてからでないと引き金を引いても弾丸は発射されないの
ですが、龍馬は(晋作から注意されていたのでしょう)暴発を懼れて5発
しか装填していませんでした。
 懐に仕舞っているときなど、何かの拍子に撃鉄が起きてしまうと
 回転式弾倉が1/6回転して、その位置(発射位置)にある弾丸が、
 これまた何かの弾みで引き金を引いてしまう(撃鉄よりも起き易い)
 と発射されて、自らを傷つけてしまうことがあるので、その弾丸を
 抜いて措くのです。
3発撃ったところで捕り方に斬り付けられて指に傷を負います。その
傷を負った部位から両手でピストルを握っていたことが分かるのです
が、この負傷のために、全てを撃ち尽くして弾を込めようとしたとき
に、弾倉を落として見失ってしまいます。それでピストルを捨てて逃
げ出すことになるのですが、龍馬伝の第36回「寺田屋騒動」では、こ
の辺り(最初に空撃ちしているか、両手で握っているか、発射した弾丸
は5発であったか)を注意して見てくださいね。尤もこれまでの龍馬伝
からすると、そんなことは意に介することなく、格好よく片手撃ちな
んてことになるかも。

矛盾する記述がありましたので一部訂正しました。(2010/08/11)


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