「展示されている吉行は龍馬佩用のものとは別物」
それが本物と断定された(2016.5.11)のは、弥太郎の「出品目録控」に続けて次の記載「然ルニ大正二年十二月二十六日北海道釧路市大火ノ際仝市ニ居住セシ坂本家類焼ト共ニ此刀モ亦罹災ス之ヲ札幌市ノ富田秋霜氏苦心シテ研キ上ゲタリ、刀身ノ反リナキハ焼ケタル結果也 此刀ノ鞘ハ焼失セリ 約八寸ノ裂ケ目アリキ」があったことと、平成27年に京都国立博物館が研ぎ直しで見えにくくなっていた刃文を最新機器で確認したことによります。
その丁子乱の刃文は、写真下のように角度によって目視で確認できます。僕もこの目で確かめました。だから、最新機器で云々なんて必要無いのですが、科学的検証とやらのお墨付きが欲しかったのでしょう。でも吉行作と証明できても、龍馬の佩刀であったとの証明にはなりません。
写真右上は、罹災する前の龍馬佩刀吉行とその鞘が写ったもので、柄は近江屋での格闘で血みどろになったためか、仮のものに付け替えられています。写真左の龍馬の写真は、慶応3年11月、最後に撮られたものと云われているものですが、腰に帯びているのが吉行。煙草盆に隠れて鞘の先まで確認することはできませんが、小振りの太刀であることは分かります。
鞘の反り具合から、「つぶやきの部屋33」の写真にある埋忠明寿くらいの反りはあったことが分かります。また、敵の斬撃を受け流そうとしてできた鞘の削り跡を平尾道雄氏は6寸としていますが、弥太郎は8寸としています。写真から、6寸であれば刀身は2尺2寸(約66.7㎝)と推定できますが、それが8寸だと刀身は約92㎝にもなってしまうので、弥太郎が自ら測って記載したのでは無いことが分かります。
さて、京都国立博物館の学芸部上席研究員である宮川禎一氏は、「火災の熱のため刀身の反りが伸び、刃文が消失してしまった。そのため被災後に研磨され、火肌を落として中直刃状の刃取を行った姿が現在のものである」と述べていますが、反りが伸びて6㎝ほども長くなったりするのでしょうか。参考までに中心(なかご。柄に収まる部分)に開けられた目釘孔(この位置、大きさは変わっていない筈)を合わせて吉行同士を較べてみました。どうです、これだと14㎝ほども違うのですよね。刃渡り71.5cmが正しいのであれば、龍馬佩刀の吉行は約57.5㎝(1尺9寸)ということになり、長刀というより脇差であったことになります。
註)脇差の名の由来は、鎌倉時代以前の太刀は腰にさすものでは無く、腰に吊るしていたが、室町時代以降は腰に差すようになり、それまで腰に差していた小振りの腰刀と併せて大小の2本差しとなったことから、小刀の方を脇差と称するようになった。
龍馬は、慶応3年10月13日付と思しき陸奥源二郎宗光に宛てた書簡の中で「小生の長脇差をご覧になりたいとのことですが、ご覧に入れましょう」(意訳)と書いていますが、『坂本龍馬全集』の中で、監修者平尾道雄氏の意向を受けてのことだと思いますが、編集・解説の宮地佐一郎氏は、「脇差は普通、一尺五寸未満を云い、一尺五寸より一尺九寸五分までの刀は長脇差とよんだ」の解説を付けているにもかかわらず、「龍馬の身長から」(長身なので)「二尺二寸の愛刀吉行を、わざと長脇差と称したと考えたい」としているのはこじつけもいいところ。
僕も、書簡にある長脇差は吉行だと思っています。つまり刃渡りが二尺二寸ではなく一尺九寸であれば長脇差です。平尾氏がいずれの史料をもとに二尺二寸としたのか全くもって不明なのですが、それが誤りであることは上記理由からも明らかです。
註)龍馬と陸奥は9月18日に一緒に芸州震天丸で長崎を発って、下関で二人は別れます。二人が再会するのは龍馬が土佐で武器を引き渡して大坂に着いた10月6日以降のこと。龍馬が慶応3年6月24日付の兄権平に宛てた書簡に「先頃西郷から、兄のお送り頂いた吉行を受け取り、この頃は京においても常に帯びています」(意訳)とあるように、受け取った吉行は常に帯びていた筈ですが、陸奥宛ての書簡には、「(陸奥に)差し上げようと云った脇差は、未だ大坂から使い(贈るときの礼儀として、大坂に研ぎにだしていた、その使いの者)が帰らないので分かりませんが、只今あなたより持って寄越した短刀は差し上げようと云ったものより余程良いものです。中心(なかご)の銘や形からしても確かなものに間違いはありません。大坂から刀が研ぎ帰ってきたときにその者に見せて鑑定してもらいましょう」(意訳)と前段にありますので、おそらく吉行も研ぎに出していたのでしょう。それもかなり以前に。それらが戻ってきたときに吉行もご覧にいれるとのことだと。
いずれにせよ、14㎝も伸びてしまうなんてことは有り得ず、今回展示されている吉行は別物。これが僕の導き出した結論です。
この続きは次の記事で。
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