大森第一小学校第40期卒業生同期会

卒業して幾星霜、さあ懐かしい面々と再会し、浮世の憂さも忘れて、思い出話に花を咲かせよう!

つぶやきの部屋34

2017-05-24 16:09:34 | Weblog

「展示されている吉行は龍馬佩用のものとは別物」

それが本物と断定された(2016.5.11)のは、弥太郎の「出品目録控」に続けて次の記載「然ルニ大正二年十二月二十六日北海道釧路市大火ノ際仝市ニ居住セシ坂本家類焼ト共ニ此刀モ亦罹災ス之ヲ札幌市ノ富田秋霜氏苦心シテ研キ上ゲタリ、刀身ノ反リナキハ焼ケタル結果也 此刀ノ鞘ハ焼失セリ 約八寸ノ裂ケ目アリキ」があったことと、平成27年に京都国立博物館が研ぎ直しで見えにくくなっていた刃文を最新機器で確認したことによります。

その丁子乱の刃文は、写真下のように角度によって目視で確認できます。僕もこの目で確かめました。だから、最新機器で云々なんて必要無いのですが、科学的検証とやらのお墨付きが欲しかったのでしょう。でも吉行作と証明できても、龍馬の佩刀であったとの証明にはなりません。

写真右上は、罹災する前の龍馬佩刀吉行とその鞘が写ったもので、柄は近江屋での格闘で血みどろになったためか、仮のものに付け替えられています。写真左の龍馬の写真は、慶応3年11月、最後に撮られたものと云われているものですが、腰に帯びているのが吉行。煙草盆に隠れて鞘の先まで確認することはできませんが、小振りの太刀であることは分かります。

鞘の反り具合から、「つぶやきの部屋33」の写真にある埋忠明寿くらいの反りはあったことが分かります。また、敵の斬撃を受け流そうとしてできた鞘の削り跡を平尾道雄氏は6寸としていますが、弥太郎は8寸としています。写真から、6寸であれば刀身は2尺2寸(約66.7㎝)と推定できますが、それが8寸だと刀身は約92㎝にもなってしまうので、弥太郎が自ら測って記載したのでは無いことが分かります。

さて、京都国立博物館の学芸部上席研究員である宮川禎一氏は、「火災の熱のため刀身の反りが伸び、刃文が消失してしまった。そのため被災後に研磨され、火肌を落として中直刃状の刃取を行った姿が現在のものである」と述べていますが、反りが伸びて6㎝ほども長くなったりするのでしょうか。参考までに中心(なかご。柄に収まる部分)に開けられた目釘孔(この位置、大きさは変わっていない筈)を合わせて吉行同士を較べてみました。どうです、これだと14㎝ほども違うのですよね。刃渡り71.5cmが正しいのであれば、龍馬佩刀の吉行は約57.5㎝(1尺9寸)ということになり、長刀というより脇差であったことになります。

註)脇差の名の由来は、鎌倉時代以前の太刀は腰にさすものでは無く、腰に吊るしていたが、室町時代以降は腰に差すようになり、それまで腰に差していた小振りの腰刀と併せて大小の2本差しとなったことから、小刀の方を脇差と称するようになった。

龍馬は、慶応3年10月13日付と思しき陸奥源二郎宗光に宛てた書簡の中で「小生の長脇差をご覧になりたいとのことですが、ご覧に入れましょう」(意訳)と書いていますが、『坂本龍馬全集』の中で、監修者平尾道雄氏の意向を受けてのことだと思いますが、編集・解説の宮地佐一郎氏は、「脇差は普通、一尺五寸未満を云い、一尺五寸より一尺九寸五分までの刀は長脇差とよんだ」の解説を付けているにもかかわらず、「龍馬の身長から」(長身なので)「二尺二寸の愛刀吉行を、わざと長脇差と称したと考えたい」としているのはこじつけもいいところ。

僕も、書簡にある長脇差は吉行だと思っています。つまり刃渡りが二尺二寸ではなく一尺九寸であれば長脇差です。平尾氏がいずれの史料をもとに二尺二寸としたのか全くもって不明なのですが、それが誤りであることは上記理由からも明らかです。

註)龍馬と陸奥は9月18日に一緒に芸州震天丸で長崎を発って、下関で二人は別れます。二人が再会するのは龍馬が土佐で武器を引き渡して大坂に着いた10月6日以降のこと。龍馬が慶応3年6月24日付の兄権平に宛てた書簡に「先頃西郷から、兄のお送り頂いた吉行を受け取り、この頃は京においても常に帯びています」(意訳)とあるように、受け取った吉行は常に帯びていた筈ですが、陸奥宛ての書簡には、「(陸奥に)差し上げようと云った脇差は、未だ大坂から使い(贈るときの礼儀として、大坂に研ぎにだしていた、その使いの者)が帰らないので分かりませんが、只今あなたより持って寄越した短刀は差し上げようと云ったものより余程良いものです。中心(なかご)の銘や形からしても確かなものに間違いはありません。大坂から刀が研ぎ帰ってきたときにその者に見せて鑑定してもらいましょう」(意訳)と前段にありますので、おそらく吉行も研ぎに出していたのでしょう。それもかなり以前に。それらが戻ってきたときに吉行もご覧にいれるとのことだと。

いずれにせよ、14㎝も伸びてしまうなんてことは有り得ず、今回展示されている吉行は別物。これが僕の導き出した結論です。

この続きは次の記事で。


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つぶやきの部屋33

2017-05-21 13:35:36 | Weblog

「展示の吉行は、龍馬が近江屋で暗殺集団(見廻り組)と渡り合ったものなのか?」

いずれの疑問も以前に提起したものですが、改めて整理したいと思います。

最初の疑問は、今回展示されている太刀吉行は龍馬愛用のものとは別のものではないのかです。

この展示されている吉行は、刀身の反りが殆ど無く(0.15㎝)、刃文も「吉行」の作風である丁子乱(刃文の乱れの頭が丁子の蕾に似ていることから)と異なる、さらに龍馬研究の泰斗であった故平山道雄氏が、自らの著書『龍馬のすべて』の中で、北海道釧路市の大火(大正2年12月26日)での損傷を受ける前の吉行とその鞘の写真(この後の記事で掲載)を載せ、吉行の刀身を二尺二寸(約66.7㎝)、そして「敵の鋭い刀は、太刀打のところから六寸ばかり鞘を削り、三寸ばかり刀身を削って」と書き添えているのですが、展示されている吉行の刀身は71.5㎝とあります。僕は、目を皿のようにして、矯めつ眇めつして調べてみたのですが、三寸(約9.1㎝)ほど削り取られた痕跡らしきものを見つけることはできませんでした。

ここに挙げた写真は、今回展示されているものですが、僕は初めて目にしました。古い写真で、昭和4年(1929年)5月10日から東京の青山会館で開催された「土佐勤王遺墨展覧会」に出品した龍馬遺品の一部を写したものと考えられます。

なぜなら、やはり今回展示された資料の中に坂本弥太郎(後述)の書いた「出品目録控」があって、そこに写真奥に写っている「梅椿図」の掛軸、その前の刀掛けに並ぶ3口の刀身、そのいずれもが記載されているからです。

3口の刀身は、上から吉行、埋忠明寿(刀身70.3㎝、反り1.1㎝)、そして脇差(刀身52.7㎝、反り1.9㎝)。写真全体が黒ずんでいるので火災にあったものをそのまま展示したように見えてしまいますが、当時のカメラや印画紙、写真の経年劣化のなせる業であって、今回展示されている吉行の写真を貼り付けて、被災後に研ぎに出された吉行であること(後述)の証にしました。

一番下にある脇差が再発見されたのは、この写真の存在が分かったのが切っ掛けで、平成27年に北海道の個人宅で見つかりました。備前国の刀工二郎左衛門尉勝光(甥)と左京進宗光(叔父)との合作で、永正2年(1505年)8月に作られた室町時代の古刀です。弥太郎の「出品目録控」には、「此刀ハ龍馬ガ特ニ愛セシモノ也」の記載がありますが、佩用したとの記載が無いだけでなく、龍馬が身に帯びていた脇差は慶応2年初頭の最初の写真から次の記事に挙げる最後の写真まで常に同じ短刀(遺品には見当たらない)。ですから刀剣愛好家としての龍馬の蒐集品の一つであるようにも思えますが、そうでないかも知れない。

長刀吉行について同控で弥太郎は、「此刀ハ元ト西郷吉之助佩用ノモノニシテ坂本龍馬二贈ル爾来坂本之ヲ佩用ス」と誤った記述をしています。吉行は龍馬が郷里の兄権平に所望して、慶応3年2月に四侯会議への出席要請に土佐を訪れた西郷へ権平が龍馬へと託したもので、龍馬は6月に京都で西郷もしくはその使いの者から受け取っています。弥太郎は婿養子に入ったひと(龍馬の長姉千鶴とその夫高松順蔵との間の次男が直寛。その直寛の長女直意の婿養子が弥太郎。もと熊本県濱武弥平の次男)なので、このように龍馬について疎いところがあるのです。

同控には、さらに続けて「慶応三年十一月十五日坂本、中岡ト共二京都河原町ノ寓居二於テ刺客二遭ヒ突嗟ノ場合鞘ヲ払フ二暇ナク鞘ノ侭ニテ受ケタルハ即チ此ノ刀也」とありますが、この記載でもって正真正銘と太鼓判を押すのはどうなんですかね。

この続きは次の記事で。

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つぶやきの部屋32

2017-05-17 20:10:01 | Weblog

「没後150年坂本龍馬展」

5月15日(月)に江戸東京博物館へ行ってきました。この日は、旧暦なら4月20日。150年前の龍馬は、前日に長崎を出港したいろは丸に乗船していました。

そして明日18日(旧暦4月23日)夜11時ころ、瀬戸内海の塩飽諸島海域に達しようとするときに、塩飽諸島を抜けて備後灘に入ってきた紀州藩の明光丸と衝突するといった日本初の蒸気船同士の海難事故が起きました。そんな時期に当たります。

写真の銅像は、入館した1F正面にあります。右下に説明書きがあったので、どこから持ち込んだのか、よく読めばよかったのですが、顔つきやブーツを履いていることから、慶応3年初頭の長崎での龍馬の雄姿。ですから、平成22年11月13日に除幕された京急立会川駅前の銅像―若き日(二十歳)の龍馬の姿―でないことだけは確かです。

今から7年前の平成22年には、やはり江戸東京博物館で「2010年NHK大河ドラマ特別展 龍馬伝」(4月27日~6月6日)が開催されましたが、僕はそのときにも見てきたのですが、今回の展示品にはそのときと重なるものも多くありますが、その後に新たに発見された龍馬の書簡や刀剣なども展示されていて、そして僕が疑問を抱いていた2つのことについて、じっくり調べてきたいと思っていたものも展示されていることから、また足を運びました。その2つの疑問とそれぞれについての僕なりの解釈は、写真が必要になるので、次の記事で。

P.S.

大相撲夏場所がすぐ横の国技館で始まったので、両国界隈は浴衣姿のお相撲さんや外人さんの姿が目立ちます。国技館を囲むようにして薫風にはためく色とりどりの力士名を記した幟も賑やかです。(でも龍馬展は空いていますので、じっくり見学することができます。なお、5月15日は特別で、月曜日は休館ですので注意してください。)

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