大森第一小学校第40期卒業生同期会

卒業して幾星霜、さあ懐かしい面々と再会し、浮世の憂さも忘れて、思い出話に花を咲かせよう!

つぶやきの部屋111ー4

2023-09-25 20:44:41 | Weblog

「龍馬が大政奉還の一報に接した場所(その4)」

兎にも角にも、菱屋についてネットで調べてみたところ、それらしいのが見つかった
のです。それが冒頭(111ー1)に挙げた画像。
古めかしい大看板(見出し画像左)には菱型の中に「六」の文字が。その商標を囲む
文字は判読できませんが、その下に草書で分かりにくいのですが、「麹種もやし」と
あるようです。
場所は京都市東山区松原通大和大路東入二丁目轆轤町79となっています。
古地図でその場所を調べてみると、四条通と五条通の間にある松原通、その通を鴨川
を渡って東へ行くと愛宕寺と西福寺が通を挟んだ形であるのですが、その愛宕寺の脇
に位置することが分かります。
そこをざっくり云うと鹿野安兵衛(菊屋峰吉)の云う「四条下ル東側」になります。
 菱六の裏側(北側)には、株式会社菱六があって、両方併せるとかなり広大な敷地
 になります。

「もやし」は僕らの知っている豆もやしではなく、大麦もやしのことで、麦芽と称さ
れるように酒類の醸造用として使われるものを指してします。
 一般的には「種麹」(たねこうじ)と呼び、味噌や醤油などでも「種麹」は使われ
 るのですが、現在でも酒造メーカーだけは「もやし」と呼ぶ習慣があるそうです。

ということは、菱六は元々は酒造業で、もやしも自家製であった可能性があります。
 なぜそう思うのかですが、大店にしては大看板が一枚板ではなく、細長い板を何枚か
 並べ釘などで繋げた質素なものであるからです。酒造業を止めたときにその大看板を
 下ろして、副業として片隅で営んでいたときのものを使っているとも思えるからです。
 現在のご主人は創業がいつなのかご自身が何代目に当たるのかご存じないようですが、
 幕末に存在していたことは確かなようです。それは、見出し画像右の縦看板を見て頂
 ければ分かると思うのですが、こちらには「登録商標」の文字が見える。日本での特
 許制度は、1885年(明治18年)7月1日に施行された専売特許条例に始まるので、それ
 以降に作られたものであることが分かります。

「菱六」の屋号ですが、これは牽強付会も甚だしいと云われそうですが、鹿野安兵衛は
菱屋利右衛門(りえもん)と伝えていますが、六右衛門(りくえもん)を聞き間違えた
のかもしれません。代々その名を継いでいたので、「六」を菱型の中に入れた商標にした
とも考えられます。
 制度化されたのは上述したように明治に入ってからですが、江戸時代には他者と区別
 するために商標が使われていました。 
 
商標の解釈はさておいて、今まで述べてきた理由から、近江屋で無いことだけは確かな
ように思います。
改めて龍馬研究家には洗い直してもらいたい。もしやもやし、しょーゆーことです。

(了)

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つぶやきの部屋111ー3

2023-09-24 13:55:00 | Weblog

「龍馬が大政奉還の一報に接した場所(その3)」

戸田(尾崎)は、大宰府に落ち延びた三条実美の家士で、実美の命により、情勢
探索のために長崎へ出て龍馬と知り合いになり、途中長州に上陸したり土佐に上陸
したりと寄り道をしながら、土佐藩船で大坂に到着し、入京したのが10月9日のこと。 
 同船した者に海援隊の陸奥、中島作太郎(後の男爵信行)と二三人の隊士、
 そして土佐藩士岡内俊太郎がいましたが、入京した中島(明治32年3月歿)も
 岡内(大正4年9月歿)も、長州に残った陸奥(明治30年8月歿)も、川田の聞
 き取り調査対象とはなり得なかった。
 岡内は、この間の模様を長崎にいる大監察で土佐商会の責任者であった佐々木
 三四郎(後の伯爵高行、明治43年81歳で歿)に手紙(慶応3年10月14日付)で
 報告している。そこには、“龍馬は作太郎ト共二木屋町に宿し、戸田は知人の宅
 へ参り、私は藩邸内に止り申候。翌日、龍馬、作太郎、私参人共に白川邸へ参り、
 石川清之助を訪問し、昨今の時情を聞き(中略)坂本より後藤殿へ手紙出し候模
 様聞合せ置候処、左の如く急使を以て申来候。其写し左に、私持ち居り候。”と
 あります。
 後藤象二郎からの手紙は、龍馬が死ぬつもりで二条城での大政奉還の場に臨めと
 檄を飛ばした手紙(10月13日付)への返書で、さらに岡内は夕刻に至って、慶喜
 が大政を朝廷に返上することを表明し、明日14日に奏聞、翌々日15日に参内し、
 勅許を得て、すぐに政事堂を仮に設け、上院下院を創業する運びになった旨を後藤
 が手紙で知らせてきて、その写しも持っていると書いているところからして、岡内
 も龍馬や戸田と一緒の場にいたことが推察できるのですが、その場所については一
 言も触れていません。
 なお、「木屋町に宿し」とあるのは、海援隊の屯所である酢屋のこと。石川清之助
 (石川誠之助)は陸援隊隊長の中岡慎太郎のこと。

戸田は大政奉還の報に接するや、同月16日に龍馬に新官制擬定書と後に称されること
になる新政府の職制案を示し、実美への復命のために(長崎へ向かう中島と同行して)
同月19日に大坂から薩摩藩船に便乗した。
 この船には討幕の密勅(偽勅)を携えた小松帯刀、大久保一蔵、西郷吉之助が乗っ
 ていた。
 先の岡内が佐々木に宛てた手紙では、中島はイロハ丸海難事故の賠償金の件で長崎
 へ行くことになった、自分は龍馬と打ち合わせた上で変事を避けることは難しい旨
 の一報を国元の同志に急いで報じるために明日15日に京を立つと書いています。

京に出て大政奉還という大事件に接した戸田がそれを聞き知った場所を忘れる筈がない
と思うのですよね。しかも四条下ル東側に菱屋という酒造業があるとの峰吉の証言もある。
隠居所か酒造店かは定かではありませんが、龍馬とも昵懇の間柄なら、短期間(二週間
ほど)の逗留なら許されただろうし、それなら下宿とは見なされない。
 酢屋は屯所で、四五人が加わるには手狭だったのかも知れません。それで顔見知りの
 菱屋を選んだのかも知れません。取り敢えずの逗留ならば、岡内がその名を佐々木に
 知らせることがなかったのもうなずける。
 第一、長いこと近江屋を下宿にしていたなら、龍馬のことだから郷里の乙女に連絡先
 を知らせただろうに、その形跡は一切見つかっていない。

(続く)

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つぶやきの部屋111ー2

2023-09-22 16:33:07 | Weblog

「龍馬が大政奉還の一報に接した場所(その2)」

では、龍馬の身辺に「菱屋」と云う商家が無かったかと云うと、さにあらず。
龍馬が、海援隊士にあってその商才を認めた陸奥元二郎(後の伯爵陸奥宗光)に
宛てた手紙(慶応三年十月二十二日付)に次の下りがある。
“御案内の沢やの加七と申候ものゝ咄、是ハ御手下のひしや某が聞得所なり。
(以下略)”
要は、沢屋加七が仙台の国産品を一手に引き受けて商売をしたいので、その元手
となる一万両を出してもらいたいと龍馬に言ってきているが、商法のことは陸奥
にまかせているから、陸奥がうんと言えば金のことはなんとかすると答えている。
でも大金ゆえよく思案しろ云々といった内容。
そして沢屋加七は陸奥の商売の関係者でもある菱屋某から聞き得たものと付言して
います。龍馬も菱屋のことは知っている口振りです。
 
川田瑞穂は、岩崎鏡川からの依頼で移転時期を聞き取り調査をした(大正6年9月)
のですが、その鏡川自身が『坂本龍馬関係文書』(大正15年4月)の中の「坂本と
中岡の死」と題する事の顛末を記したノンフィクションとも云える小説において、
いろいろと調べた結果なのでしょう、以下のようにそれを改めています。
“前年伏見寺田屋に於ける遭難以来、龍馬の一身は幕吏の指目其之く所に随ひ、危
険いふ許りなかりければ、藩邸の胥吏堀内慶助(後良知)はこれを憂ひ近江屋新助
に謀りて、龍馬が福井より帰京するを待ちて龍馬をこの家に潜伏せしめぬ。”
 胥吏(しょり)は、地位の低い役人のこと。龍馬は10月24日に京を立ち、福井か
 ら帰ってきたのは11月5日のこと。
 この出所を鏡川は、井口新之助としています。川田の聞き取り調査の後に調べた
 か思い出したかしたのでしょうか。

(続く)

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つぶやきの部屋111-1

2023-09-21 22:25:25 | Weblog

「龍馬が大政奉還の一報に接した場所(その1)」

通説では、龍馬が暗殺された醤油商「近江屋」とされていますが、果たしてそうなの
でしょうか。
そのときに龍馬とともに大政奉還の一報を聞いた戸田雅樂(26歳、後の男爵尾崎三良)
は、最初は「菱屋某」という名の酒造商であったとしていましたが、川田瑞穂の聞き
取り調査により、三条、四条にはそのような名の商家が無かったことから、それ以前の
談話の速記録みならず、尾崎の書き残したものまで「近江屋」に書き改めてしまってい
ます。
それは「男爵尾崎三良手扣」と題する尾崎の手控えに括弧書きで以下のように記されて
いることから分かるのです。
“小沢庄次(尾崎三良)、坂本龍馬、中島作太郎、岡内俊太郎等ト共二、河原町三条下ル
醤油屋某方(尾崎男爵ガコノ醤油屋を最初菱屋某と称セル為メ二大二紛淆ヲ生ゼシガ、
川田瑞穂氏ノ調二ヨリテ確然判明セルコト(以下略)”
 川田瑞穂が聞き取り調査した相手は、龍馬が暗殺された当夜、龍馬の使いで軍
 鶏を買いに出ていて難を逃れたとされる菊屋峰吉(聞き取り時は鹿野安兵衛)、
 近江屋の井口新之助(近江屋新助の息子)、材木商「酢屋」(海援隊の屯所)
 の中川嘉兵衛ですが、当時幼かった新之助(4歳)を除く他の二人(峰吉17歳、
 嘉兵衛14歳)がそれぞれ「半年くらい前」、「せいぜい2、3か月前」と証言して
 いることから、川田瑞穂は、龍馬は酢屋から近江屋への転居が慶応三年春夏以後で
 あり、尾崎三良の云う「菱屋」は誤りであるとしている。
 なお、ここで云う大政奉還の一報とは、慶応3年10月13日に二条城において在京
 の10万石以上の諸藩重臣からの意見を求める形で将軍慶喜が政権を朝廷へ返上
 する意向を表明したことをそこに参加してしていた後藤象二郎からの通知(手紙)
 で知ったことを指します。
 
でもね、聞き取り調査で鹿野安兵衛が次のようなことを云っているのを聞き捨て同然に
している。
“尤モ四条下ル東側二酒造業菱屋利右衛門と称する者アリ、随分立派ナル家ニテ、維新
後藤村紫朗ガ京都府大参事タリシ時分、此隠居所に下宿シ居タルモ、維新前に浪人
ノ下宿シタル模様ナシ。”
えー、これって聞き捨てできない、近江屋説を覆すだけのインパクトのある証言ですよね。
何も三条、四条に限定する理由なんてありゃしませんから。
 龍馬は、元治元年6月5日夜に起きた池田屋事変当時、方広寺南門前の河原屋五兵衛
 宅に潜伏していたことがある。方広寺は七条通より南に位置する東山にある。

(続く)

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つぶやきの部屋110

2023-09-17 14:01:41 | Weblog

「回転一時停止」

大谷翔平のIL(負傷者リスト)入りで、今季の投打での活躍もジ・エンド。
その活躍の雄姿を象徴するかの如く勢いよく回転するフィギュアもピタッと停止。

大谷が右横腹を痛めてから、ネビン監督の出る出る詐欺に騙され続けてきましたが、
今日、久しぶりにベンチ入りしたその笑顔を見ることができて、9回裏に同点に追い
ついたときの喜びようを目にすることができて、でも結局延長戦で点が取れず、今季
のエンジェルスの試合を象徴するかの如き敗戦に肩を落とす後ろ姿を見ることがで
きて、いつもの見慣れた光景だなと取り敢えず安堵した次第。

来季も期待できそうにないエンジェルス。対してヒリヒリする9月を切望する大谷。
さてさて、回転人形のユニホーム・カラーはどうなるのでしょうか。

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