「菊を何と聴く」
先日(10月2日)の読売新聞「編集手帳」に、「菊」が「きく」以外に読み方
が無いことと音読みであること、そして平安時代に中国から渡来したとされる
菊を古い中国語では「くく」と発音していたことから、それが訛って「きく」
になったと考えられている云々とありました。
なぜに掲題としたのかですが、では「松菊」を何と読むのか。これがこの稿の
本題。
「松菊」は、維新の元勲の一人である木戸孝允(桂小五郎)の雅号の一つで、
「しょうぎく」と読むのが慣例とされてきましたが、果してそうなのか?
慶応3年9月20日付の龍馬から小五郎に宛てた書簡の中に次の一文があります。
「先生(小五郎のこと)の方には、英訳するようお勧めした時勢論が出来上が
ったことと存じます」(意訳)。
さて、英訳を誰に頼んだかですが、そのヒントになる書簡があります。先の書
簡のちょっと前(慶応3年9月4日付)に小五郎が龍馬に宛てたもので、そこに
は「諸外国へ向けた手筈も何卒その地(長崎)のひこなどへ極々役得である旨
をしっかり説得しておくことも極めて大切なこととこれまた思う次第です。
実に諸外国への(根回しの)良し悪しは必ず芝居(大政奉還に関わること)の
成否・盛衰に必ず関わることになります」(意訳)
ここに「ひこ」とあるのが、英訳したそのひとで、ジョセフ・ヒコのことです。
ヒコは、ジョン万次郎同様に漂流してアメリカに渡りました。米国の市民権を
得て、カトリックの洗礼を受けた後、彦太郎からジョセフ・ヒコと名乗るよう
になり、漂流(1850年)から9年後の安政6年に神奈川領事館通訳として駐日公
使ハリスともども長崎に到着(6月18日)し、そこから神奈川へ赴任(6月30日)。
その後、領事館を辞任し貿易商社を興しアメリカへ帰国。再び横浜に帰り、領
事館通訳。またも辞任し、横浜で商館をひらくなどした後に『海外新聞』を発
刊。そして横浜の地を発って長崎へ遣って来たのが慶応3年(1867年)1月3日
のことです。
龍馬がヒコとこの地で知り合った日時は不明ですが、龍馬の仲介があってのこ
とと思いますが、6月に小五郎と伊藤俊輔(博文)がヒコと面会しています。
そのときにヒコは、米国の歴史・制度・政治(民主政治)を説明しています。
龍馬が感銘し、小五郎にも是非知ってもらいたいと考えたのでしょうね。
小五郎は再度(9月)ヒコのもとを訪ね、日本の真の君主は天皇であること、徳
川幕府は大権をほしいままにしている、その大権を奉還させ皇政を復古しよう
としている、これらのことを日本の歴史を知らない外国人によく説明して欲しい
と頼んでいますので、このときに英訳の話が纏まったものと思えます。
さてさて、これからが本題。
その英訳されたものは何か。それは『Fuku Ko Ron(復古論)』です。
海援隊文司だった長岡謙吉の手になる『HAN RON(藩論)』ともども駐日英国公
使パークスの通訳官であったJ・Cホールが英訳したとされていますが、両者には
明らかな違いがあるのです。
タイトルの大文字、小文字の使い分けもそうですが、『藩論』は「Shogun」や
「Daimyos」としてあるのに対して、『復古論』では「Shogoon」や「Daimios」と
してあるのです。
前者は明らかに英語式のローマ字ですが、後者は音をもとに綴っています。ヒコ
は日本についての学問が余り無かったと云いますから、音を頼りに記述したのだ
と思います。
さてさて、本題、本題。
『Fuku Ko Ron』の脚注に次のような記載があるのです。(脚注は後からJ・Cホー
ルが付け加えたものと思える。そこでは「将軍」も「Shogun」としてある。)
「(A discussion) by SHOSHU, a retired Samurai ―(probably a fictitious
name.」(元は武士で、おそらく偽名であろう「しょうしゅう」による論文である)
出てきた出てきた「しょうしゅう」が。小五郎が論者であるならば、筆名にあたる
雅号「松菊」を使う筈。ならば「菊」は「しゅう」と読むことになります。
中国では、時代と地域の違いに応じて、「呉音」、「漢音」、「唐音」、「宋音」な
ど様々なものがあるのですが、「シュー」と発音するものがあるとのこと。
出典は、陶淵明「帰去来辞」の中の「松菊猶存す」であると思えます。陶淵明(365
~427年)は六朝時代の東晋の詩人ですので、かなり古い音であることは確か。
「松菊猶存す」の意味は、隠者の住居の荒れ果てた庭にも、緑変わらぬ松と清らか
な香りの菊はまだ残っている。隠遁生活にも昔の知己がいること、また、乱世にも
節操の高い志士が存在することのたとえ。
少々疑問に思うのは「長州」のことを「Choshiu」としてあるので、「Shoshiu」と
なるのではと思うのですが、その疑問に応える推測はできそうです。
『藩論』が邦文、英文ともに存在するのに対して、『復古論』は英文のものしか見付
かっていません。でも脚注をJ・Cホールが付けた際にはそれと分かるものも付いてい
た筈です。それには「SHOSHU」とあったので、固有名詞としてそのまま記載したと考
えられます。
そもそもヒコは「松菊」をどう読んでよいのか分かる筈もなく、小五郎に尋ねたのも
確か。そして学ある小五郎のことですから、音声で応える代わりに、ローマ字で原本
もしくは訳本に「SHOSHU」とサインした。英国で原本が発見されれば、その辺りのこ
とも分かるのですが、見付かっていないので破棄されてしまったのかも知れません。
いずれにせよ、漢籍に明るい小五郎のこと、素読の音をそのまま使ったのでシュー。
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