大森第一小学校第40期卒業生同期会

卒業して幾星霜、さあ懐かしい面々と再会し、浮世の憂さも忘れて、思い出話に花を咲かせよう!

つぶやきの部屋53

2019-10-22 22:22:29 | Weblog

「菊を何と聴く」

先日(10月2日)の読売新聞「編集手帳」に、「菊」が「きく」以外に読み方
が無いことと音読みであること、そして平安時代に中国から渡来したとされる
菊を古い中国語では「くく」と発音していたことから、それが訛って「きく」
になったと考えられている云々とありました。

なぜに掲題としたのかですが、では「松菊」を何と読むのか。これがこの稿の
本題。
「松菊」は、維新の元勲の一人である木戸孝允(桂小五郎)の雅号の一つで、
「しょうぎく」と読むのが慣例とされてきましたが、果してそうなのか?

慶応3年9月20日付の龍馬から小五郎に宛てた書簡の中に次の一文があります。
「先生(小五郎のこと)の方には、英訳するようお勧めした時勢論が出来上が
ったことと存じます」(意訳)。
さて、英訳を誰に頼んだかですが、そのヒントになる書簡があります。先の書
簡のちょっと前(慶応3年9月4日付)に小五郎が龍馬に宛てたもので、そこに
は「諸外国へ向けた手筈も何卒その地(長崎)のひこなどへ極々役得である旨
をしっかり説得しておくことも極めて大切なこととこれまた思う次第です。
 実に諸外国への(根回しの)良し悪しは必ず芝居(大政奉還に関わること)の
成否・盛衰に必ず関わることになります」(意訳)
ここに「ひこ」とあるのが、英訳したそのひとで、ジョセフ・ヒコのことです。

ヒコは、ジョン万次郎同様に漂流してアメリカに渡りました。米国の市民権を
得て、カトリックの洗礼を受けた後、彦太郎からジョセフ・ヒコと名乗るよう
になり、漂流(1850年)から9年後の安政6年に神奈川領事館通訳として駐日公
使ハリスともども長崎に到着(6月18日)し、そこから神奈川へ赴任(6月30日)。
その後、領事館を辞任し貿易商社を興しアメリカへ帰国。再び横浜に帰り、領
事館通訳。またも辞任し、横浜で商館をひらくなどした後に『海外新聞』を発
刊。そして横浜の地を発って長崎へ遣って来たのが慶応3年(1867年)1月3日
のことです。

龍馬がヒコとこの地で知り合った日時は不明ですが、龍馬の仲介があってのこ
とと思いますが、6月に小五郎と伊藤俊輔(博文)がヒコと面会しています。
そのときにヒコは、米国の歴史・制度・政治(民主政治)を説明しています。
龍馬が感銘し、小五郎にも是非知ってもらいたいと考えたのでしょうね。
小五郎は再度(9月)ヒコのもとを訪ね、日本の真の君主は天皇であること、徳
川幕府は大権をほしいままにしている、その大権を奉還させ皇政を復古しよう
としている、これらのことを日本の歴史を知らない外国人によく説明して欲しい
と頼んでいますので、このときに英訳の話が纏まったものと思えます。

さてさて、これからが本題。
その英訳されたものは何か。それは『Fuku Ko Ron(復古論)』です。
海援隊文司だった長岡謙吉の手になる『HAN RON(藩論)』ともども駐日英国公
使パークスの通訳官であったJ・Cホールが英訳したとされていますが、両者には
明らかな違いがあるのです。
タイトルの大文字、小文字の使い分けもそうですが、『藩論』は「Shogun」や
「Daimyos」としてあるのに対して、『復古論』では「Shogoon」や「Daimios」と
してあるのです。
前者は明らかに英語式のローマ字ですが、後者は音をもとに綴っています。ヒコ
は日本についての学問が余り無かったと云いますから、音を頼りに記述したのだ
と思います。

さてさて、本題、本題。
『Fuku Ko Ron』の脚注に次のような記載があるのです。(脚注は後からJ・Cホー
ルが付け加えたものと思える。そこでは「将軍」も「Shogun」としてある。)
「(A discussion) by SHOSHU, a retired Samurai ―(probably a fictitious
 name.」(元は武士で、おそらく偽名であろう「しょうしゅう」による論文である)

出てきた出てきた「しょうしゅう」が。小五郎が論者であるならば、筆名にあたる
雅号「松菊」を使う筈。ならば「菊」は「しゅう」と読むことになります。
中国では、時代と地域の違いに応じて、「呉音」、「漢音」、「唐音」、「宋音」な
ど様々なものがあるのですが、「シュー」と発音するものがあるとのこと。
出典は、陶淵明「帰去来辞」の中の「松菊猶存す」であると思えます。陶淵明(365
~427年)は六朝時代の東晋の詩人ですので、かなり古い音であることは確か。
 「松菊猶存す」の意味は、隠者の住居の荒れ果てた庭にも、緑変わらぬ松と清らか
 な香りの菊はまだ残っている。隠遁生活にも昔の知己がいること、また、乱世にも
 節操の高い志士が存在することのたとえ。

少々疑問に思うのは「長州」のことを「Choshiu」としてあるので、「Shoshiu」と
なるのではと思うのですが、その疑問に応える推測はできそうです。
『藩論』が邦文、英文ともに存在するのに対して、『復古論』は英文のものしか見付
かっていません。でも脚注をJ・Cホールが付けた際にはそれと分かるものも付いてい
た筈です。それには「SHOSHU」とあったので、固有名詞としてそのまま記載したと考
えられます。
そもそもヒコは「松菊」をどう読んでよいのか分かる筈もなく、小五郎に尋ねたのも
確か。そして学ある小五郎のことですから、音声で応える代わりに、ローマ字で原本
もしくは訳本に「SHOSHU」とサインした。英国で原本が発見されれば、その辺りのこ
とも分かるのですが、見付かっていないので破棄されてしまったのかも知れません。
いずれにせよ、漢籍に明るい小五郎のこと、素読の音をそのまま使ったのでシュー。
(*^^)v

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つぶやきの部屋52

2019-10-08 18:44:01 | Weblog

「年貢の納め時」

上に掲げた写真は、韓国の建国記念日(10月3日祝日)だと云うのに、ソウル中心部の青瓦台
(韓国大統領府、中央奥)周辺に雲霞の如く結集した「反文在寅政権」を掲げる大大大規模な
デモの有様。
それまでも親政権派のものも含めて、大なり小なりのデモが行われていたのですが、光化門
からソウル駅までの道路を埋め尽くしたこの日のデモの規模は、朴槿恵(パク・クネ)前大統領
を弾劾に追いやった所謂ロウソク集会と称するデモを遥かに上回る300万人(集会を主催 した
韓国最大野党・自由韓国党の発表)に達するほどのものであったそうな。
 ソウル市の中心部、光化門広場からソウル市庁、そしてソウル駅までのおよそ2キロの車道
 (10~12車線)は人人人の“人波”となったそうで、どのくらい集まったかと云うと、実際の
 ところは、TV朝鮮が計測(警察が使用する「フェルミ技法」<3.3㎡の空間に人が 座ると6人、
 立っていると9人で計算する方式>を使い、10~12車線の道路が長さ2.1キロメートルに渡
 って人々で埋め尽くされたとの観測から、約32万人と推計)したところでは、2016年12月に
 当時の朴槿恵大統領の退陣を求めて光化門を埋め尽くしたロウソク集会時に警察が推算し
 た数字と同じ。ちなみに、当時のロウソク集会の主催側は、参加者を170万人と発表。警察
 がわざと人数を少なめに発表していると強い反発を招き、以後、警察は集会人員の推定値を
 一切公開しなくなった。 いずれにせよ、朴槿恵のときと同等かそれ以上の人数であったこと
 は確かなようです。

朴槿恵を弾劾に追い遣った張本人の文在寅は、2017年2月に放送局がセットした大統領候補討論
会で次のような綺麗ごとをのたまった。
「そのようなことはないだろうが、(デモ隊が)退けと言うなら、私は光化門広場に出て市民た
ちの前に立ち、徹底討論でもして説得するように努力を傾ける」
「デモの代表団を大統領府に招待し、十分に対話したい」

しかーし、己にとっての不都合なことには一切聞く耳をもたない文在寅はダンマーリ。
 9月29日に瑞草洞で開かれた「検察改革」を訴える支持者たちの集会について、「予想しなか
 った多くの人たちが集まった」(200万人と発表したが、実際は、最寄り駅2カ所の下車数で測
 ったところによると10万人あまり)として、「数多くの人たちが声をそろえたことを重く受け
 止めるべきだ」と政権側は胸を張って云っていたのですよね。

集会は、自由韓国党にウリ共和党と文在寅下野のための汎国民闘争本部の保守3団体がそれぞれ
光化門(青瓦台の目と鼻の先にある)、ソウル駅、市庁前で行なわれ、その後は一団となって
大統領府に向かって「曺国(チョ・グク)辞任、文在寅退陣」「曺国拘束、文在寅拘束」などの
スローガンが書かれたカードと太極旗を掲げて練り歩いたのだけど、一部の参加者が角材を振り
回すなどしたため、青瓦台近くで保守団体の会員46人が現行犯逮捕された(同日午後8時の時点
での警察発表)。
 韓国のネットユーザーは「瑞草洞の集会は官製デモだったが、今回の集会は自発的に集まった
 国民によるデモだった」「瑞草洞の集会は官製デモで警察とグルになっていたから問題が起こ
 らなかった。光化門の集会は反政府集会だから暴力的になるのは当然だ」といった的を射たコ
 メントを寄せた。

シュプレヒコールで「文在寅は大韓民国のための大統領ではない!北の将軍のための大統領だ!」
が鳴り響いたそうな。
金大中政権時代の文在寅が、朝鮮労働党員として当時の北の指導者・金正日に忠誠を誓う文書に
署名している史料も出てきたと『月刊Hanada』の2019年10月号と11月号で記事(筆者はジャーナ
リストの篠原常一郎氏)になっている。(この記事が原因で10月号は直ぐに売り切れとなった。)
  “誓詞文は、2014年6月15日の金大中、金正日両首脳による「南北首脳会談十四周年」を記念
 して、韓国の地下(秘密)党員たちが北の最高指導者と朝鮮労働党に対して祝意と忠実を示し、
 当面する活動課題の遂行を誓うために送ったものである。”とありますが、箇条書きされたその
 内容は、まさに工作員活動そのものへの誓い。また、
 “左派運動の一部、特にかって「親北」を公然と掲げた活動家が金 一族世襲独裁と過酷な人民
 支配に絶望し、「北朝鮮民主化」運動を2000年前後から開始していたが、2016~17年の朴大統
 領失脚で一気に進んだ韓国全体の「親北」化に危機感を募らせ(中略)「誓詞文」が巡り巡って
 筆者の許に届けられたのは、文在寅政権が進める親北基調の「改革」路線について、その危険性
 を国際社会に知らしめるとともに、海外で「文在寅、地下党員疑惑」を暴露することで韓国国内
 に影響を与えたい、との彼らの切望があってのこと”とあるように入手経路(原本をコピーした物)
 に「?」が付くものの、国際社会へ知らしめる手段としては、10月号の記事の発売日(8月26日)
 の朝、韓国左派TVのJTBCの番組「ビハインド・ニュース」が直ちに「信用ならない日本の
 右翼雑誌」と中身に触れずに表紙だけ映してこき下ろしたにも係わらず、TVの影響は大きく、
 誓詞文のコピーが反文在寅デモの現場で配付されたり、読み上げられたりしたそうですから、
 少なくとも韓国国内に影響を与えた(10月3日のデモに効果があった)ことは確かなようです。

僕も読みました。真偽のほどは分かりませんが、もしも誓詞の内容が真実であれば、文在寅は、韓
国の誰だかが作成したコラージュ(上に掲げた画像の右側に並べた)のように、縄付きの身になっ
て、チョ・グクともどもブタ箱入りになるでしょうね。その日は意外と近いかも。●~*


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