大森第一小学校第40期卒業生同期会

卒業して幾星霜、さあ懐かしい面々と再会し、浮世の憂さも忘れて、思い出話に花を咲かせよう!

つぶやきの部屋48

2019-05-15 22:19:02 | Weblog

 

「名花散る」

というより、「巨星墜つ」と表現する方が相応しい女優であったように思います。
母の日に当たる5月12日に色々なレッテルを貼られた京マチ子さんが心不全で旅立たれ
ました(享年95)。
最近になって、虫の知らせと云うのでしょうか、どうされているのだろうと気に掛ける
機会が増えていたのですが…。

『女優』(サンデー毎日別冊、1991年4月13日発行)の中で映画評論家の佐藤忠男は、
“京マチ子もじつは映画デビューは戦争中である。しかし戦後、舞台のショーダンサー
としてグラマラスな躍動する肉体で観客を圧倒し、肉体解放の気運に乗って映画にカム
バックした。そして「痴人の愛」「羅生門」など、まさに強靭な肉体で見栄っぱりの男
たちのお体裁を粉砕する役どころで一時代を画するスターとなった。”と語っています
が、まさに肉体派とかヴァンプ(男たらし)とかのレッテルを貼られたときのことを指
しています。

少々付け加えると、彼女が5歳のときに父が蒸発して、母と祖母の手で育てられたことも
影響していると思うのですが、小学校を終えると、大阪松竹少女歌劇団(OSK)に入団し
ています。そこで娘役として活躍していたとき(戦時下の1944年、昭和19年)に松竹で
映画を2本撮っています。そして1949年(昭和24年)、25歳のときに大映に入社してい
ます。どのような経緯でそのようになったのか全くもって存じませんが、好条件で引き
抜かれたのでしょうか。
そして、その年に『痴人の愛』で、翌年(1950年)に『浅草の肌』で、その官能的肉体と
すらりとした脚線美を観客の目に焼き付けます。それで肉体派・ヴァンプと喧伝される
ようになったのです。

しかしその期間はさほど長くはありませんでした。なぜなら同年(1950年、昭和25年)に
邦画にとって記念碑と云うべき画期的な『羅生門』(黒澤明監督作品)が公開され、ヴェ
ネツィア国際映画祭グランプリ(サン・マルコ金獅子賞)を獲得したからです。
上に挙げた画像のうち、左上が『羅生門』の1シーンですが、このときの彼女の演技はま
さに神がかりの如き素晴らしいものでした。
もともとは、黒澤は東宝の原節子をこの役にすることを考えていたのですが、大映からの
要望のみならず、京マチ子自身も眉を剃り落としてメーキャップテストに現れて意気込み
を示したそうです。その熱意もあって黒澤は京マチ子を選びますが、あの狂気を内に秘め
た役柄を原節子では上手く表現し得なかったように思います。宮川一夫のカメラが映し出
すあの京マチ子の鬼気迫る演技があってこその受賞でもあるのです。
 その演技力の高さから、第5回毎日映画コンクールの主演女優賞に輝いています。
 5月16日の読売朝刊「編集手帳」には、『羅生門』の撮影に入ってから、黒澤が“髪結い
 の部屋に入ってきた。そのとき京さんは眉を剃り落としたばかり。時代劇に自分の眉は
 濃すぎて向かないと思い、一存で顔を変えたという◆「先生はこれは面白いと言ってく
 れて、自由に演技させてもらいました」”とかって京マチ子が語ったと書かれてありま
 すが、上述したものが正しいように思います。彼女の語ったことの時制が整理されてい
 ないのかも知れません。

翌年(1951年、昭和26年)には『源氏物語』(吉村公三郎監督作品)に第5回カンヌ国際映
画祭撮影賞をもたらし、1953年(昭和28年)には『雨月物語』(溝口健二監督作品)でヴェ
ネツィア国際映画祭サン・マルコ銀獅子賞を獲得。その1シーンが画像右上のもので、主人
公の森雅之に取り付く死霊役の京マチ子の演技は、能面に模した幽玄な表情と相俟って、
不気味な心霊の世界をその身辺に漂わせていて、原作の怖さが観る者に迫って来ました。

さらに同年(昭和28年)の『地獄門』(衣笠貞之助監督作品)は、詩人ジャン・コクトーに
「自分は生まれてからこのかた、こんな美しいものを見たことがない」と言わしめた大映カ
ラー作品で、見事カンヌ国際映画祭グランプリを受賞しました。
 少し遅れますが、1957年(昭和32年)の第14回Jussi賞(フィンランド)で主演女優賞に
 輝いています。
 柳の下に二匹目の泥鰌を狙った大映は、永田社長自らが陣頭指揮を取って、縁起まで担い
 で題名に「門」を付けましたが、原作は、菊池寛の『袈裟の良人』。(「袈裟」は、京マ
 チ子演じる悲恋に悩む佳人の名。)    

斯様に海外の名のある映画祭で立て続けにグランプリを受賞したことから、それらに出演し
た彼女には以後「グランプリ女優」と二つ名が付くようになります。
 『鍵』(市川崑監督、1959年)でも、カンヌ国際映画祭審査員特別賞を受賞。すべて監督
 が違うところが、彼女の貢献度(存在感)の大きさを示しているように思います。

市川雷蔵は自著『雷蔵、雷蔵を語る』(朝日新聞社発行)の中で、『ぼんち』(市川崑監督
作品、1960年、昭和35年)の主人公である雷蔵に対して因縁浅からぬ関係を持つに至る四人
の女性について、撮影中に感じた彼女らの印象を語っていますが、その中の一人である京マ
チ子について、“『千姫』以来久し振りでした。『千姫』といえば、私が映画に入ってまだ
三本目のカチカチ時代で、しかもその私が世界的に有名なグランプリ大女優の京さんと共演
することになったのですから、(中略)心理的にはまったく頭の上がらない感じだったので
すが、その時の京さんは馴れない私を大きく包んで受けとめるように包容的な芝居をしてく
ださった(後略)”と記しています。
 『千姫』(木村恵吾監督作品)は1954年(昭和29年)なので、『ぼんち』はその6年後の
 作品。京マチ子以外の3人は、若尾文子、草笛光子、越路吹雪。

売出し中の主演男優(雷蔵)に気兼ねさせるほどのこのレッテル、彼女にとって勲章どころ
か負担に感じさせるものだったかも知れません。

画像右下の1コマは、『浮草』(小津安二郎監督作品、1959年)の最後の1シーン。金を持
ち逃げされたドサ回りの座長中村鴈治郎が一座を解散して、隠し子からも見放されて、出直
しの旅に一人出ようとしたときに、隠し子のことで喧嘩別れのようになっていた妻で相棒の
京マチ子が駅で待っていて、二人車中のひととなってから京が酒を注ぐところ。京マチ子の
表情が実に好い。
先日と云っても大分前のことですが、4Kで放送されていたのです。何度も観た作品ですが、
ジャン・コクトーではありませんが、こんな美しいカラーに仕上がったものを見たことがな
い。賞は獲っていませんが、僕の好きな映画なので敢えて採り上げました。
 京マチ子は、関西人(大阪府大阪市出身)特有のはんなりした面(菩薩面)と女性の妬心
 としてのはんにゃの相(夜叉面)とが微妙に入り交じった演技が自然にできるひとで、
 『浮草』ではそれが存分に発揮されています。

大人びて見える京マチ子ですが、垣間見せた一面を雷蔵が次のように述べています。
“『ぼんち』が終るとすぐアメリカへ行くことになっているのをとても楽しみにしていまし
た。セットの合間もその話で持ち切りで盛んにはしゃいでいるところを見ると、大変娘っぽ
い無邪気さまる出しのいわゆる役者子供の感じだったのが微笑ましく思われました。”と。
仕事では無く、多分仲の好い友人たちと、アメリカはアメリカでもハワイへ遊びに行く話で
あったように思えます。
 京マチ子は独身で通したひとで、自分のことを奥手で引っ込み思案だと語ったことがあり
 ますが、そのことには父親の一件も大いに関係しているのでしょうけど、童心を持ち続け
 ていたことも確かなように思います。同じマンションに住み、長らく親交のあった石井ふ
 く子(プロデューサー)が彼女のことを「心の美しい本当に清からかな方でした」と悔み
 を述べたのもその顕れであるように思います。

これが切っ掛けとなって大のハワイ好きになったのかどうか分かりませんが、大正(13年3月
25日)に生を享け、昭和、平成をまるまる生きて、令和の御代に変わるや2週間足らずで急く
ようにして彼岸へ旅立ち、自らが数年前に手配したというハワイの墓に入ると云う。合掌。

(5月16日に加筆・修正をしています)


                               ブログトップへ戻る