大森第一小学校第40期卒業生同期会

卒業して幾星霜、さあ懐かしい面々と再会し、浮世の憂さも忘れて、思い出話に花を咲かせよう!

つぶやきの部屋27

2015-08-16 18:04:16 | Weblog

「火垂るの墓」

終戦記念日が近づくと、先の大戦に纏わる映画が劇場公開されたり、テレビで放映されたりするのが常ですが、
今年は『火垂るの墓』が実写版(8/11)とアニメ版(8/14)とが続けて流れました。
 アニメ版は、高畑勲監督によるスタジオジブリ製作の1988年公開作品。
 実写版は、日向寺太郎監督による2008年公開作品。

僕の蔵書『火垂るの墓』は、文藝春秋社の単行本で昭和46年3月20日付の第13刷(初版第1刷は昭和43年3月25日
付)ですが、わずか29頁の短編です。
その野坂昭如の直木賞受賞作に、より忠実なのがアニメ版です。
『となりのトトロ』との抱き合わせで上映されることを考えて、いずれも60分ほどにする予定であったらしい
のですが、出来上がったのはどちらも90分近くに膨らんだ作品。
原作は、独特の文体で淡々と綴られているのですが、その骨子を変えることなく、上手く肉付けをして、より
涙を誘うものに仕上がったように思います。

小説は、次の書き出しで始まります。
“省線三宮駅構内浜側の、化粧タイル剥げ落ちコンクリートむき出しの柱に、背中まるめてもたれかかり、床
に尻をつき、両脚まっすぐ投げ出して、さんざ陽に灼かれ、一月近く体を洗わぬのに、清太の痩せこけた頬の
色は、ただ蒼白く沈んでいて、(中略)ひっきりなしにかたわら通り過ぎる脚の群れの、気づかねばよしふと
異臭に眼をおとした者は、あわててとび跳ね清太をさける、清太には目と鼻の便所へ這いずる力も、すでにな
かった。
 三尺四方の太い柱をまるで母とたのむように、その一柱ずつに浮浪児がすわりこんでいて、彼等が駅へ集まる
のは、入ることを許される只一つの場所だからか、常に人込みのあるなつかしさからか、水が飲めるからか気ま
ぐれなおもらいを期待してのことか、(中略)ひたすら食物の臭いにひかれてあてもなく迷いこんだ清太、防空
壕の中で水につかり色の流れあせた母の遺身(かたみ)の長じゅばん帯半襟腰ひもを、ゴザ一枚ひろげただけの
古着商に売りなんとか半月食いつなぎ、つづいてスフの中学制服ゲートル靴が失せ、さすがにズボンまではとた
めらううち、いつしか構内で夜を過ごす習慣となり、”
そしてもらい物などで食いつないで、
“水だけはいくらでもあるから、居つくと根が生え、半月後に腰が抜けた。
 ひどい下痢がつづいて、駅の便所を往復し、一度しゃがむと立ち上るにも脚がよろめき、把手のもげたドアに
体押しつけるようにして立ち、歩くには片手で壁をたよる、こうなると風船のしぼむようなもので、やがて柱に
背をもたせかけたまま腰を浮かすこともできなくなり、だが下痢はようしゃなく襲いかかって、みるみる尻の周
囲を黄色く染め、(中略)
 もはや飢はなく、渇きもない、重たげに首を胸におとしこみ、(中略)「今、何日なんやろ」何日なんや、ど
れくらいたってんやろ、気づくと眼の前にコンクリートの床があって、だが自分がすわってる時のままの姿でく
の字なりに横倒しになったとは気づかず、床のかすかなほこりの、清太の弱い呼吸につれてふるえるのをひたと
みつめつつ、何日なんやろな、何日やろかとそれのみ考えつつ、清太は死んだ。(中略)
 昭和二十年九月二十一日の深夜で、おっかなびっくり虱だらけの清太の着衣調べた駅員は、腹巻の中にちいさ
なドロップの罐をみつけ出し、ふたをあけようとしたが、錆びついているのか動かず「なんやこれ」「ほっとけ
ほっとけ捨てとったらええねん」(中略)ドロップの罐もて余したようにふると、カラカラと鳴り、駅員はモー
ションつけて駅前の焼跡、すでに夏草しげく生えたあたりの暗がりへほうり投げ、落ちた拍子にそのふたがとれ
て、白い粉がこぼれ、ちいさい骨のかけらが三つころげ、草に宿っていた螢おどろいて二、三十あわただしく点
滅しながらとびかい、やがて静まる。”

そして6月5日のB29による神戸空襲の回想へと繋がるのですが、上に挙げた箇所のみならず、次のようにホタル
は「螢」の文字が当てられています。

父(海軍大尉、連合艦隊の巡洋艦摩耶に搭乗)の従弟の嫁の実家という極めて縁の薄い西宮の家に身を寄せて
いたものの、その家の未亡人と反りが合わず、7月6日にそこを出て、そこからほど遠くはない満池谷の防空壕に
二人して住みつくようになるのですが、その夜のこと。
“寝苦しいままに表へでて二人連れ小便して、その上を赤と青の標識燈点滅させた日本機が西へ向う、「あれ
特攻やで」ふーんと意味わからぬながら節子うなずき、「螢みたいやね」「そうやなあ」そして、そや、螢つか
まえて蚊帳の中に入れたら、少し明るなるのとちゃうか”
と百余りのホタルを捕まえて蚊帳の中に放ち、そのホタルの光の列が、やがて夢の中で昭和10年10月の観艦式
での六甲山の中腹に飾られた船形のイルミネーションの灯りと重なっていくのですが、その翌朝にはホタルの
半数は死んでしまっていて、節子がその死骸を壕の入口に埋めているところを見た清太が
“「何しとんねん」「螢のお墓つくってんねん」うつむいたまま、お母ちゃんもお墓に入ってんやろ”

節子は下痢が止まらなくなり、
“右半身すき通るような色白で、左は疥癬にただれ切り”
節子が大切にしていた人形の手足よりも痩せ細り、やがて
“八月二十二日昼、貯水池で泳いで壕へもどると、節子は死んでいた。骨と皮にやせ衰え、その前二、三日は声
も立てず、大きな蟻が顔にはいのぼっても払いおとすこともせず、ただ夜の、螢の光を眼でおうらしく、「上い
った下いったあっとまった」低くつぶやき、”。

翌日、清太は市役所から特配された木炭一俵でもって、
“満池谷見下す丘に穴を掘り、行李に節子をおさめて、人形蟇口下着一切をまわりにつめ、”
木炭を配給してくれた男が教えてくれた方法で節子の亡骸を火葬に付す。
“夜更けに火が燃えつき、骨を拾うにもくらがりで見当つかず、そのまま穴のかたわらに横たわり、周囲はおび
ただしい螢のむれ、だがもう清太は手にとることもせず、これやったら節子さびしないやろ、螢がついてるもん
なあ、上ったり下ったりついと横へ走ったり、もうじき螢もおらんようになるけど、螢と一緒に天国へいき。暁
に眼ざめ、白い骨、それはローセキのかけらの如く細かくくだけていたが、集めて山を降り、”
そして三宮駅へ。その一月後には節子の後を追うようにして、
“三宮駅構内で野垂れ死にした清太は、他に二、三十はあった浮浪児の姿態と共に、布引の上の寺で荼毘に付さ
れ、骨は無縁仏として納骨堂へおさめられた。”

しかし野坂が付けたタイトルは『螢の墓』ではなく、『火垂るの墓』。
アニメ版のキャッチコピーには糸井重里の「4歳と14歳で、生きようと思った」が使われていますが、その命の
灯は、まるで線香花火(人の一生をその火花の形で模しているそうですが)のように一瞬に燃えつき、その火玉
が筋をひいて落ちる。その様を「火垂る」としたかったからなのだと思います。ホタルに囲まれ悼まれるような
死ではなく、戦争の惨禍で幼い、若い死を迎えざるを得なかった悲劇をその文字に託したからだと思うのです。

物語りは、野坂自身の体験をもとに作られているのですが、節子(実際は二人の妹がいて、その下の方の惠子)
は未だ1歳と4ヶ月であり、まだ裕福な時期に病気で亡くした上の妹(野坂は愛情を注いでいたという)と二人
併せた妹像を創作したのでしょう。
なぜなら、惠子に対しては清太のようにやさしい兄ではなかったと語っていますし、実際、わずかな米をお粥
にして惠子にやるとき、スプーンでお粥を浅くすくい重湯の部分を与える。自分は底からすくい、実のあると
ころを食べたと語っています。飢えた惠子はよく夜泣きし、野坂は泣き止ませるために頭を叩いて脳震盪を起
こさせたこともあったと云います。そして、衰弱死していく惠子を尻目にして、自分だけ食べ、しまいには妹
の太腿にさえ食欲を感じたと『わが桎梏の碑』に書いてさえいます。
しかしながら、惠子を慰めるために蚊帳の中にホタルを放ったことや、惠子が野坂の手の中で死んでいったこ
と、その亡骸を火葬したこと、その骨をドロップ缶に入れていたこと、これらは実際の話であり、決して野坂
自身が我が身のことだけに気を廻らしていたわけではなく、幼児をどのように扱えばよいのか、その術を持た
なかったことへの悔悟の念がそのようにさせたのであり、そして懺悔をもってこの小説『火垂るの墓』となし
たように思うのです。
 野坂は、次のように語っています。
 「一年四ヶ月の妹の、母となり父のかわりつとめることは、ぼくにはできず、それはたしかに、蚊帳の中に
 蛍をはなち、他に何も心まぎらわせるもののない妹に、せめてもの思いやりだったし、泣けば、深夜におぶ
 って表を歩き、夜風に当て、汗疹と、虱で妹の肌はまだらに色どられ、海で水浴させたこともある。(中略)
 ぼくはせめて、小説『火垂るの墓』にでてくる兄ほどに、妹をかわいがってやればよかったと、今になって、
 その無残な骨と皮の死にざまを、くやむ気持が強く、小説中の清太に、その想いを託したのだ。ぼくはあん
 なにやさしくはなかった」と。



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