大森第一小学校第40期卒業生同期会

卒業して幾星霜、さあ懐かしい面々と再会し、浮世の憂さも忘れて、思い出話に花を咲かせよう!

つぶやきの部屋127

2024-09-20 16:49:13 | Weblog

「一生忘れられない日」

と試合後のインタビューで答えた大谷。
それもその筈、50-50(51‐51)をいとも簡単に成し遂げた。
つい此間、フォーティ・フォーティ・クラブの仲間入りを果たし
たばかりだと云うのに、当分誰もこないであろうフィフティ・
フィフティ・クラブで独りぼっちとなった。

それにしても今日の試合(対マーリンズ)での大活躍で他の記録
達成も見えてきたのですよね。
 6打数6安打(内HR3本)、10打点。2盗塁。サイクルヒットの
 可能性もあったが三塁でタッチアウト。

ホームラン(現時点で51)、打点(現時点で120)はナ・リーグで
トップ。まず二冠は揺るぎないところですが、8月の不振で下げた
打率も今日の結果で三冠王がチラっと見えてきた。
現時点での打率は「.294」で、残り試合はロッキーズ戦3、パドレ
ス戦3、ロッキーズ戦3の9試合。
現時点でのナ・リーグの首位打者はアラエス(パドレス)の「.320」
ですから、その打率に大谷が達するには、以下のようになります。
 必要な総安打数=目標打率×総打席数。これに実際の数値をあて
 はめると、(残り試合は1試合あたり4打席とした)
 0.320×(567+9×4)=192.96

つまり、約193本の安打が必要です。現在の安打数が170本なので、あ
と23本となります。 
ですから、一試合当たり2.555…本。5試合3安打、4試合2安打で達成
できることになります。
厳しい数字ですが、アラエスも打率を落としてくる可能性があるので、
こちらもフィフティ・フィフティ。ホームでの対パドレス3戦が見もの
です。!(^^)!

追記)2024.10.03
大谷は197安打だったので、どこか数字が違っていたようです。
567という数字に間違いがあった、と反省しきり<(_ _)>
それにしてもおしかったね。でも沢山良い記録を遺したから
チョベリグ(もはや死語)(^^ゞ


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つぶやきの部屋126-4

2024-09-07 16:35:15 | Weblog

「歌を盗られたカナリヤは(その4)」

ひばりの「不死鳥コンサート」には、コロムビアに大儲けを企んだ仕掛け人がいて、ひば
りを焚きつけて開催の運びに至ったのだけど、ひばり自身はちあきの歌であったなんて知
らなかったと思いたい。(「真赤な太陽」の前科があるので何とも云えないが、そのとき
とは状況が違う。)
で、既に吹き込んでいたものを選りに選って、さんざんちあき等を甚振(いたぶ)ったコロ
ムビアに搔っ攫われたことに、加えて唯々諾々と従ったテイチクに対しても、腹に据えか
ねる思いがしたと思うのです。
 コロムビアは、ちあきが郷鍈治と付き合い始めてから彼女の音楽活動に影響が出ている
 ことに不満を持っていて、『週刊文春』(1978年9月14日号)に‟コロムビア側はときに
 は二人の関係をマスコミに否定するなど努力を重ねてきた。それなのに一言の断りもな
 く、電撃結婚をしてしまった”とリークしたのも、7月に専属契約解除をしたことの言い
 訳でしかない。それ以前(1975年6月にそれまでの三芳プロダクションから独立後)にも、
 三歳で死別したことになっていた父親が生きていて、たびたび事件沙汰を起こしていた
 ことや、ちあきとの交際がうわさされていた森進一、千昌夫、荻島慎一と結び付けられ
 るようにして、ちあきが年に一度は産婦人科に入退院をくりかえしていたと酷い記事を
 書きたてられている。
 先に取り上げた映画『象物語』の主題歌2曲をちあきが歌ったときにも、「レコード業界
 のためにも、当方が契約を解除した歌手を使ってほしくない」とコロムビアが横槍を入
 れたらしい。

このときに「もう歌いたくない」とちあきは郷鍈治に訴えたのでしょう。
 コロムビアを契約解除されたときで無いと思うのは、デビュー3年目(1971年)に目黒区
 八雲に当時の金額で三千万円とも四千万円ともいわれた邸宅を建て、そこに母ヨシ子と
 二人の姉の家族と一緒に住むようになって、一家の大黒柱として稼がなきゃならない立
 場にあったから。郷鍈治と結婚したばかりでもあり、生活のためには歯を食いしばって
 頑張らなけりゃいけないときに、そのような甘えを云う筈がないと思うからです。

母ヨシ子が1984年1月18日に乳ガンで亡くなっていたので、最早ちあきにとっては、彼女の
天賦の才能の理解者であり、やくざな世界での庇護者であり、信頼のおける者は郷鍈治だ
けになっていた。
その彼が「僕のために歌ってほしい」、防波堤となって守るからそうしてほしいと願った
のでしょう。
だから郷鍈治が死の間際に「もう歌わなくていいんだよ」と声を絞るようにしてちあきに
伝えたことに繋がる。
 よくぞ宥めてくれたと、郷鍈治に感謝したい。なぜなら、その後も素晴らしい歌を沢山
 残してくれたのですから。ただし、船村徹作品を新たにレコーディングすることは無か
 った。

でもどうして予定されていたオリジナル・アルバムが宙に浮いてしまったのだろう?
『LADY DAY』の再演に協賛社として名を連ね、宣伝用ポスターにそのアルバム発売日まで
告知していたと云うのに…。
 当時のテイチク社長は、コロムビア時代の「喝采」以来ずっとちあきに寄り添ってきた
 東元晃。彼がちあきを慰撫して、ちあき側も気を取り直して、アルバム制作に取り組ん
 だ筈なのに。

結局、オリジナル・アルバムの発売は見送られ、そのアナウンスも無く、『LADY DAY』に
ついても大きな劇場での再演も行われることはなかったし、収録されたであろう映像や
歌の数々についてもテイチクが何ら語ることは無かった。
この辺りの経緯は僕の中でも揣摩臆測すら及ばない。
 
冒頭の写真は、その見出しにあるように2年前の『週刊新潮』に掲載されたもので、亡夫の
命日に母も眠る墓に向かうちあきの姿です。(例年同じような出で立ちだ。)
写真に添えた説明書きには‟近所のスーパーに立ち寄り、墓前に供える花を念入りに選んで
いた。(中略)彼女がスーパーで買ったのは供花だけではない。30分ほど店内を歩いてカ
ゴに入れたのは、2割引きの芋の煮っ転がしや、3割引きのカット野菜といった食料品。(後
略)”とある。
アパート経営や印税もあって金銭的には困っていないが、外出も滅多にしないし、上記の
ように質素な生活をしているようです。

歌を忘れたカナリヤは、「♪ぞうげの船に銀のかい 月夜の海に浮かべれば 忘れた歌を思
い出す」けど、歌を盗られたカナリヤは、もう二度と華やかではあるが恐ろし気な歌の世界
には戻らずに、ひたすら平平凡凡たる静かな余生を送っている。

直(9月11日)に郷鍈治の三十三回忌がやってきます。その後すぐに(9月17日)ちあきが喜
寿を迎えます。
デビューは、A面「雨に濡れた慕情」B面「かなしい唇」をリリースした1969年6月10日です
から、55周年になります。
33、55、77とまるで七五三がダブルでやってくるような記念の年ですから、商売熱心な連中
がまたぞろ騒ぎ立てていますが(もっともファンとしてはどのような形であれ嬉しいのです
が)、ちあき本人は多分無関心。洗濯機の中で様々な色合いの衣類がまるで万華鏡のように
ぐるぐる回る様をぼんやり眺めて居たいのではと…。

(了)

                               ブログトップへ戻る


つぶやきの部屋126-3

2024-09-03 13:01:00 | Weblog

「歌を盗られたカナリヤは(その3)」

2003年4月下旬に通販商品として日本教育音楽センター(後ユーキャン)から発売さ
れたアルバム『うたくらべ ちあきなおみ』。その名が示すようにコロムビア、ビ
クター、テイチク時代の作品をVol.1「誕生」からVol.10「爛熟」まで10ブロックに
分けて、それぞれにカテゴライズされた166曲もの作品が収められてあって、それ
ぞれの時代を味わうことができるようになっています。
この商品には歌詞集の他にちあきのフォトアルバムが付録として付けられてあって、
そこに縁のあるひとの賛辞が寄せられているのですが、その中のひとり船村徹は次
のように述べています。
“唄書きにとって、「ちあきなおみ」ほど恋しくなる素材はない。「美空ひばり」と
の唄作りが闘いなら、ちあきとのそれは恋愛のようなものだ。”(抜粋)

この前には、‟年齢のせいだろうか、(中略)小さな悲しみのようなものが心に刺さ
ったまま取れずにいる。「ちあきなおみ」をあきらめきれずにいるからなのだ。”と
ある。心に刺さったまま取れずにいるものとは一体何なんだろう。それが「歌を盗ら
れた」ことと関係していて、そのために彼女との信頼関係が損なわれて、‟あの娘は
きっと戻ってくる”と語った船村の望みが到頭叶わうことがなかったとしたら…。

船村は、ちあきと美空ひばりとを喩えで比較していますが、それが同じ曲を通じての
想いだとしたら…。
幻のオリジナル・アルバムの発売予定が1990年6月21日であるならば、アルバム『紅と
んぼ』同様に12曲ほどの新譜で臨まなければなりませんから、すぐにというより既に
取り掛かかっていた筈です。
 『紅とんぼ』のリリースが1988年10月5日で、それに収めるか迷った「母のいない
 故郷」が1983年以前に作られていたとしたら、かなり前から兄弟とも云える2つの
 オリジナル・アルバムが同時に企画されて、その準備に取り掛かっていたと考える
 ことができます。

では、その頃に何があったのか?
地方公演中の1987年4月22日に慢性肝炎と両側大腿骨頭壊死という重病で済生会福岡
総合病院に緊急入院した美空ひばりが、再起不能説も囁かれる中、突然その夏(8月)
に退院したのは、竣工した東京ドームをこけら落としの舞台にする話が持ち上がった
からであり、直ちに復帰作の依頼が船村徹と星野哲郎に持ち込まれた。
そして、その年の10月9日に演奏と同時録音(伴奏と同時の一発録り)されたのが、
以下の2曲である。
「みだれ髪」、作詞星野哲郎、作曲船村徹、編曲南郷達也
「塩屋岬」、作詞星野哲郎、作曲船村徹、編曲蔦将包
そして、A面「みだれ髪」、B面「塩屋岬」として1987年12月10日にコロムビアから
発売され、5万人もの観客を集めて行われた1988年4月11日の「不死鳥コンサート」の
話題も相俟って、ミリオンセラーとなった。
 美空ひばりのシングル出荷枚数の集計によると、「川の流れのように」の205万枚
 を筆頭に、「柔」195万枚、「悲しい酒」155万枚、「真赤な太陽」150万枚、「リ
 ンゴ追分」140万枚、に次いで「みだれ髪」が125万枚となっている。
 
同時録音せざるを得ない体調の中、立ち会った船村はこのときのことを以下のように
語っています。
”「みだれ髪」のワンコーラス目の詞でいうと♪投げて届かぬ 想いの糸が~という
一節がある。この届かぬの『ぬ』から『が』の間の音の動きを、私は完全五度の音程
に書いておいた。この部分は、私が最もあれこれと苦しみ抜いたところである。完成
した段階でも、なんとなく気持ちが引っかかっていたのだった。……スタジオに流れ
るひばりさんの歌は、とても病み上がりとは思えないような、張りのある美しい歌声
だった。録音後、改めて聞いてみると、私が書いた完全五度音程が、スムーズに流れ
る短三度の動きに直され、歌われていたのだ。「やられた……」。だれにも見つから
ないように、その場で私は譜面を書き直した”。
 短三度(たんさんど)は、音楽理論における音程の一つで、二つの音の間に半音が
 3つある音程を指す。
 例えば、ド(C)からミ♭(E♭)の音程が短三度で、具体的には、以下のような特
 徴がある。
 ・音程の幅:短三度は、全音1つと半音1つの組み合わせで構成される。例えば、ド
  からミ♭、レからファなどが該当する。
 ・音の響き:短三度の音程は、長三度(全音2つ)に比べてやや暗く、悲しげな響き
  を持っている。
 要するに、ひばり得意の侘しげな演歌調になる。

ね、船村はひばりとは闘うどころか有無を言わさずあっさりと寄り切られた。作曲家も
形無し、向っ腹も立った筈。
対して、ちあきはその部分を船村の音符に込めた思いを優雅に表現仕切って歌った筈。
 完全五度(かんぜんごど)は、音楽理論における基本的な音程の一つで、以下のよ
 うな特徴がある。
 ・音程の幅:完全五度は、基音から七半音(全音4つと半音1つ)離れた音程です。
  例えば、ド(C)からソ(G)、レ(D)からラ(A)などが完全五度に該当する。
 ・音の響き:完全五度は、非常に安定していて調和の取れた響きを持つ音程で、
  このため和音の基礎としてよく使われる。音楽の中で非常に重要な役割を果たし
  ており、和音の構成やメロディの進行において欠かせない要素である。
 要するに、ちあき向きの抒情的な曲調になる。

美空ひばりはのファルセットは誰もが認めるものですが、ひばりの母からは本当はファ
ルセットは苦手なのでやめるよう言われていたにも拘らず、「みだれ髪」では一番高い
ファルセットのさらに半音高い音をサビで使った。
平成24年(2012年)1月7日の「週刊N新書」(テレビ東京、11:30~)に船村徹がゲスト出
演したときに、番組ホストの田勢康弘に「みだれ髪」について、病み上がりの美空ひば
りに、あのファルセットを使用する出だしはきつかったのでは、と突っ込まれていた。
船村は、あえてそのようにしたとか何とか苦しい言い訳じみたことを返していたけどね。

星野哲郎も次のようなことを語っている。「みだれ髪」の二番の歌詞に‟祈る女の性かな
し”があるが、ひばりの容態を見てのことかのようにして、他の歌詞に変えることを打
診したところ、ひばりは「今の私は『祈る』という言葉を大事にしたい」と云ったので、
そのままにしたと。
初めからひばりのために書いたのであれば、容態がどのようなものか人伝にでも分かり
そうなもの。取って付けたようなエピソードとしか受け取れない。

ね、美空ひばりにと考えていたメロディーや歌詞じゃなかったように思えるでしょ。
ちあきならファルセットじゃなく地声で歌える。それも演歌調じゃなく抒情的に歌える。
それに先ほど並べて比較したアルバムの中で『紅とんぼ』には、作詞星野哲郎、作曲船
村徹の「ひとりしずか」があるけれど、『男の友情』には1曲も無い。けったいな話だ。

(続く)

                               ブログトップへ戻る


つぶやきの部屋126-2

2024-09-02 13:03:21 | Weblog

「歌を盗られたカナリヤは(その2)」

『紅とんぼ』とあるのは、1988年10月5日発売のオリジナル・アルバム『紅とんぼ
/ちあきなおみ 船村演歌を唄う』を指しています。
この後に発売されたのは、1989年3月21日発売のアルバム『男の郷愁』と1989年6月
21日発売のアルバム『女の心情』。どちらも時期的に合致しないだけでなく、とも
に昔の歌をカバーしたものです。
しかも冠にあるように『紅とんぼ』は全て船村徹作曲のものなのに、カバーものに
は船村作品は『男の郷愁』では「矢切の渡し」の1曲だけ、『女の心情』でも「さだ
め川」の1曲だけです(共にコロムビア時代のものでは無く、テイチクで再レコー
ディングしたもの)。
オリジナルとあるからには、『紅とんぼ』同様に船村徹の新譜尽くしのアルバムで
あった筈なのです。

ちあきが表舞台から姿を消してから3年近くの時を経て怪しげなアルバムがリリー
スされました。1995年5月21日発売の『男の友情 ちあきなおみ船村徹を唄う』と
題されたものです。
 1992年9月11日に最愛の夫郷鍈治が肺がんが原因の心不全で亡くなり(享年55)、
 16日の記者会見の席ではちあきは姿を見せず、以下の自筆コメントが発表(代
  読)された。
 「故人の強い希望により、皆様にはお知らせせずに身内だけで鎮かに送らせて
 いただきました。主人の死を冷静に受けとめるにはまだ時間が必要かと思います。
 皆様には申し訳ございませんが、静かな時間を過ごさせて下さいます様、よろし
 くお願い申し上げます。ちあきなおみ」。
 以後表舞台から姿を消した。
 ※14日に親族だけで郷鍈治の密葬・告別式が行われた。

冒頭の画像は、カセットで発売された二つのアルバム、『紅とんぼ/ちあきなおみ
船村演歌を唄う』と『男の友情 ちあきなおみ船村徹を唄う』とを比べたものです。
この二つの内容を見比べながら論を進めることにします。
怪しげなアルバムで、赤枠で囲った曲は『紅とんぼ』に収録されているものですし、
青枠で囲った曲はアルバム『男の郷愁』に収録されているもの、ピンク枠で囲った
曲は『女の心情』に収録されたものです。
黒枠で囲った曲は先述した「母のいない故郷」で、鳥羽一郎が1983年11月にシング
ルリリースしています。ちあき版は、この怪しげなアルバムが初出になりますが、
この後で述べる理由から2001年9月21日発売の5枚組アルバム『The Anthology of NA
OMI CHIAKI ちあきなおみ大全集』まで待たねばならなくなりました。
 ちあきの「母のいない故郷」は、抒情的なよくできた作品だと思うのですが、船
 村は『紅とんぼ』に収録することをしなかった。そして幻となったオリジナル・
 アルバムへの収録も考えていなかったのだろうか。それで弟子の鳥羽一郎に回し
 たのだろうか。ただ、記憶が曖昧で申し訳ありませんが、何かのTV番組(ちあき
 の特集番組であったか)で、船村の奥様が、船村がちあきの「母のいない故郷」
 を何度も何度も繰り返し聴いていたと話していたので、船村には捨て難い思いも
 あったのは確か。
 なお、鳥羽一郎のリリース時期から推して、アルバム『紅とんぼ』と幻のオリジ
 ナル・アルバムに着手した時期は1983年より前と考えることができそうです。

怪しげなアルバムで枠囲いしなかった曲(*印の付いたもの)は、全てJASRACには
最近まで登録されていなかった(ちあきの名が無かった)ものです。つまり未発表
曲として長いこと扱われていたのです。
 「母のいない故郷」もしばらくは同じ扱いになっていたために、前述したように
 「盗られた歌」ではないかとの疑いをもたれた。

何故そうなったのかですが、未完成曲(仮歌の状態)のものが含まれているとクレ
ームが付いたからです。船村徹からと云われていますが、それはテイチクへ申し出
たのが彼であっただけの話であって、ちあき側からのクレームを受けた船村がそう
したのが真相でしょう。船村の冠の付いたアルバムですからね、発売にあたって彼
の了承を得ていない筈が無いからです。
その仮歌と明らかに分かるのが「夜啼鳥」です。残りの4曲のうち「女の影」と「炎
の秋」も好い出来映えとは云えません。(個人的には、歌詞よりもメロディーに手
直しが必要と思える。)
 「たまゆらの宿」と「居酒屋『津軽』」は、ちあきの歌唱もしっかりしています
 ので納得の行く仕上がりだったと思います。ですからこの2曲はちあき以外にも
 提供されて数名のアーティストが登録されています。しかし、ちあきが最初に登
 録されてしかるべきなのに、それぞれ3番目と2番目です。「夜啼鳥」、「女の
 影」、「炎の秋」の3曲に至っては、ちあきしか登録されていません。
 つまり船村自身満足の行くものは、他の歌手に提供したからなのですが、何故に
 そのようなことになったのか?
 
結局、オリジナル・アルバムでもベスト盤でも無い、この怪しげなアルバムは2年で
廃盤となります。
 降って湧いたようにリリースされたのは、おそらくその年に紫綬褒章を叙勲した
 船村を祝っての(テイチクの忖度の働いた)もののように思うのですが…。
 廃盤になったとは云え、2年間は流通していたので、経緯や事情は不明ですが、今
 になってちあきの名もJASRACに登録された。

作品には、作詞家、作曲家、歌手の他に編曲家も加わります。船村徹の長男蔦将包
も船村作品に数多く携わっています。
ここではアルバム『紅とんぼ』とアルバム『男の友情』について、どのようなメン
バーが携わっていたのか(船村を除いて)曲ごとに比べてみることにします。
(曲名、作詞家、編曲家の順。◎印は両方のアルバムで重なったもの。〇印は他の
アルバムからのもの。×印はちあきの歌としてはボツとなったもの。)

◎「紅とんぼ」、吉田旺、南郷達也
◎「都の雨に」、吉田旺、南郷達也
・「情け歌」、石本美由紀、丸山雅仁
◎「君知らず」、千家和也、南郷達也
・「冬の華」、吉田旺、前田俊明
・「帰郷」、吉田旺、蔦将包
◎「歳月川」、新本創子、南郷達也
◎「しのび雪」、新本創子、前田俊明
◎「汐鳴り」、吉田旺、丸山雅仁
・「昭和えれじい」、吉田旺、南郷達也
・「ひとりしずか」、星野哲郎、前田俊明
・「片情」、吉田旺、蔦将包

〇「男の友情」、高野公男、蔦将包←アルバム「男の郷愁」から
〇「さだめ川」、石本美由紀、蔦将包←アルバム「女の心情」から
×「夜啼鳥」、吉田旺、丸山雅仁 ←仮歌、ちあきのみ登録
〇「矢切の渡し」、石本美由紀、蔦将包←アルバム「男の郷愁」から
×「女の影」、千家和也、斉藤恒夫←ちあきのみ登録
・「母のいない故郷」、新本創子、南郷達也←後にちあきも登録
×「炎の秋」、しの綾、前田俊明←ちあきのみ登録
×「たまゆらの宿」中山大三郎、丸山雅仁←後にちあきも登録
×「居酒屋『津軽』」吉田旺、丸山雅仁←後にちあきも登録

こうすると面白いことが分かります。
あくまでも推測ですが、殆ど同じメンバーで臨んでいることから、ボツ曲も「母の
いない故郷」と同様にかなり前から着手していたと思えることです。
幻と消えたオリジナル・アルバム用として『紅とんぼ』同様に新譜が作られていた
としたら、ボツ曲だけではまだ足りていません。一体全体10曲ほどの新譜はどうし
たのか?

(続く)

                               ブログトップへ戻る


つぶやきの部屋126-1

2024-09-01 14:35:20 | Weblog

「歌を盗られたカナリヤは(その1)」

ひと頃、ちあきなおみのファンの間で、彼女が呟いたとされる「歌を盗られた」
が、どの曲なのか憶測が飛び交ったことがあるのですよね。

いつそれを呟いたのか、それがハッキリすれば絞り込むことも可能になるのです
が、分からないが故に次のようなものが取り上げられました。

まずは、コロムビア時代の「矢切の渡し」。後に細川たかしが歌って、レコード
大賞に輝いた石本美由紀作詞、船村徹作曲のちあきにとって代表曲の一つ。
でもね、コロムビアを去った(1978年7月21日契約解除)後に誰が歌おうと競作
扱いならば、盗られたとは云わない。ましてや自分がレコード大賞を獲れたかど
うかわからないものをやっかんで口走るほど彼女は迂闊でも愚かでも無い。
それにちあきは、テイチク時代に「矢切の渡し」を再レコーディングしてもいる。
盗られたとは言い難い。 
 ちあきを筆頭として、84名(組)のアーティストがJASRACに登録されている。
 ※JASRACは、一般社団法人日本音楽著作権協会のこと。
 ちあきの「矢切の渡し」は、初めは「酒場川」のB面曲だったが、後に梅沢富
 美男が芝居でのBGMとして使用したことから話題となり見直されるようになっ
 た。
 (ちあき本人は「酒場川」の方が気に入っていた。僕もこの曲の方が優れて
 いると思うけど、一般大衆に受けることとは別の話。ちあきにミリオンセラ
 ーが無いのも彼女の歌が大衆向けではないからだと思う。)

次に上がったのがサントラ『象物語』に収録された「風の大地の子守唄」と「ア
フリカン・ナイト」。シングル化にあたって黛ジュンに替わったことからその
ような見方がされたのですが、映画が劇場公開されたのが1980年3月20日なので、
ちあきは無所属の状態で引き受けたことになり、後にそれらの版元であるCBS・
ソニーに移籍した黛ジュンがシングル盤でリリースするのは自然の流れ。
(JASRACにはアーティストとして黛ジュンの名しか無かったことからも、ちあき
側とは相互了承済みの映画だけでのワンポイント・リリーフであると考えるのが
妥当だ。以前にも書いたように本来はCBS・ソニー所属の山口百恵が歌うことに
なっていたのが結婚のゴタゴタからフリーのちあきにお鉢が回ってきた。)
これまた盗られたとは言い難い。
 黛ジュンは、1980年に東芝音楽工業からCBS・ソニーに移籍した直後の2月25日
 に上記2曲のシングル盤をリリースしている。レコーディング時期は不明だが、
 短期間での発売に至るためには、ちあきの歌を参考にできる状況にあったと
 考えることができる。

次に取り上げられたのは、テイチク時代にレコーディングされた「母のいない故
郷(ふるさと)」。
これはこの後に解き明かして行く曲でもあるので、ここでは簡単に触れると、
当初JASRACでのアーティスト登録に他の歌手の名はあってもちあきの名が無かっ
たことから生じた疑惑でした。
現在は、5人中の4番目にちあきも登録されています。ちあきの曲がしばらくお蔵
入りしていて、それが解禁されて世に出た時期が遅かっただけなのですが、その
時期がちあきが長期の活動休止に入った後なので、いかにも怪しげですが、後に
述べる理由から、この曲もちあきが口走ったものとは違うと思います。

では、ちあきが盗られた曲は何だったのだろうか。
ここからは、憶測の域を出ませんが、ヒントにはなると思えることを縷々(るる)
述べて行きます。
その手掛かりとなったのが、冒頭に掲げた見出し用の画像で、ちあきが最初に手
掛けたソロ・ミュージカル『LADY DAY』の宣伝用ポスターでした。
正確に云うと、初演(1989年11月)でのものでは無く、好評を得て再演(1990年
5月)したときのものです。、
 『LADY DAY』は、ちあきとピアノ(倉田信雄)だけのひとりミュージカルで、
 オリジナルはロネット・マッキーの『Lady Day at Emerson's Bar & Grill』。
 死と向き合ったビリー・ホリディをロネットがニューヨークの小さなホールで
 演じて絶賛された。ロネットが歌ったジャズの名曲の数々を吉田旺が和訳し、
 ちあきが歌い演じ、いまや伝説と化した舞台です。
 ※「LADY DAY」は、ビリー・ホリディの呼称。

初演のときの協賛は「金鳥」だけでしたが、再演のときには「テイチク」も名を
連ねているのは、好評を得たことから商売になると踏んだからだけなのか?
 シアターVアカサカというキャパが250人ほどの小さな劇場での公演であり、
 当初は評判にもならなかった代物。当該劇場は小さいながらも、俳優で演出
 も手掛けたことのある瑳川哲朗が1989年2月に設立・運営したものであり、
 収録機材は揃っていた。

でもそれだけではないと思うのは、歌を盗られたことと関係がありそうだから。
映像が未だに日の目を見ないのもそれゆえと思えるから。

画像下側の白い帯の左側にある赤い楕円の中、少し小さいので読み難いのですが、
“『紅とんぼ』から1年半、ちあきなおみの新境地を開く、待望のオリジナル・
アルバム6月21日発売予定”と書いてあります。
ところが、この再演直後に発売予定とされていたオリジナル・アルバムは発売さ
れなかったのです。

(続く)

                               ブログトップへ戻る