ブログトップ 2025-02-10 10:58:48 | Weblog 何があるのでしょう?ふーむ、取り敢えず入ってみるか。 ※記事を選択した当該メニューに戻る場合は、ウィンドウ上部左端にある「←」キーを押してください。メニュー7メニュー6メニュー5メニュー4メニュー3メニュー2メニュー1駅の待合室1 雑談広場5雑談広場4雑談広場3雑談広場2雑談広場 « ブログトップ(メニュー7) | トップ |
35 コメント コメント日が 古い順 | 新しい順 お知らせ (4組のizisです) 2010-09-23 14:56:07 それぞれの記事の最後にある「ブログトップへ戻る」をクリックすると、この画面(記事)に戻り、最初の状態になります。記事メニューもそのうちに用意致します。 返信する お知らせ2 (4組のizisです) 2011-05-02 18:07:24 今夏が昨年のような猛暑でないことを祈るばかりですが、とりあえず節電には協力しましょうね。ということで、東京電力の電力使用量が一目でわかるパーツを貼り付けました。一時間ごとに使用状況が更新されます。 返信する 調査中 (4組のizisです) 2011-07-14 18:04:33 東京電力の電力使用量が何故か更新されなくなっていたので、再登録をしたら、今度は表示されなくなってしまいました。それまでの一時間ごとではなく、7月1日から5分ごとに対応できるようにと変更したらしいので、その辺りが原因かもしれません。復活できるかどうか定かではありませんが、とりあえずは、以下の「TEPCOでんき予報」をご覧ください。http://www.tepco.co.jp/forecast/index-j.html 返信する 復活!? (4組のizisです) 2011-07-15 11:33:47 東京電力の電力使用量パーツ、復活していました。5分ごとの使用量が表示されるようになっています。ちょっと神経質すぎるように思いますが…。 返信する 電力使用制限令解除 (4組のizisです) 2011-09-10 11:36:45 昨日(9/9)、15%の節電義務が解除されました。今日なんて、結構暑いのですが土曜日なので大丈夫と踏んだのでしょうか。資源エネルギー庁は、引き続き15%の節電を努力目標に掲げているようですが、とまれ、このブログでの節電協力の表示は止めることにします。 返信する フォトチャンネル (4組のizisです) 2011-12-14 13:09:05 このサイトを訪れたとき(未だ暗証番号を入力する前)に、画面上部中央に「記事一覧|フォトチャンネル一覧」と書かれた箇所があります。 暗証番号を入力して記事が表示されたときには、画面最下 部中央に表示されます。写真(合成のものも)は、個々の記事に一枚しか貼り付けることができないようになっています。しかし記事の中の数々のコメントの中には、参考となる写真があった方がよい場合があります。そこで、このフォトチャネルを使用することにしました。閲覧する場合には、「フォトチャンネル一覧」をクリックします。ただし閲覧には暗証番号が必要になっています。暗証番号を訊いてきたならば、このサイトの暗証番号(8桁)の下4桁を入力してください。現在はテスト用に一枚だけですが登録してあるものが表示されます。皆さんが、このフォトチャンネルに写真を投稿する場合には、・写真のタイトル(60文字まで)・その紹介文(1000文字まで)を書いて以下のEメールアドレス宛に、当該写真を貼付して送付してください。僕の方で掲載致します。 d1s40doukikai@mail.goo.ne.jp 返信する 「素敵な作品」 (4組のizisです) 2011-12-16 12:11:22 「わが街、わが里そこかしこ」“気の向くまま、我が里や街のそこかしこを訪れ遊んでいます”として、投稿者の方が秀逸な作品(79枚)を公開していましたので、このページでも掲載させてもらうことにしました。それにしてもデジカメでもこのような写真が撮れるのですね。どんなテクニックを使っているのだろ? 返信する 「工場鑑賞」 (4組のizisです) 2012-01-12 11:59:03 前回とは異なって、今回は無機質な写真集です。とはいえ、どこか生命力を秘めたその威容は荘厳ですらあります。どこかで見た記憶があると思ったら、昨年の 9/18(土)にNHK「ワンダー×ワンダー」で放映されたもののようです。はとバスツアーでも工場見学のコースが幾つか用意されているように人気があるのですよね。美しいイルミネーションとして楽しむひとだけでなく、中には郷愁を覚えたり、神社仏閣のように感じるひともいるように思います。どれがどこの工場のものだか僕にはさっぱりですが、以下のところのものであるとのコメントが付されてありました。①鹿島臨海工業地帯②京葉工業地帯(JFEスチール 第5高炉)③京浜工業地帯④奥多摩工業(地帯?) 返信する 「一期一会の風景画」 (4組のizisです) 2012-02-06 12:14:48 一連の写真には(枕に「旅で出会った」が付いていますが)、このようなタイトルが付けられています。このチャンネルが作られた日付を見ると、2010年12月9日となっていますので、大震災の起こる前の穏やかで長閑な、今も童謡の中に息づく、懐かしい日本の原風景ばかりです。私たちの住む小さな町でも、その変貌振りにはただただ驚かされるばかりですが、いくらその景色が変わろうとも、子供の頃の懐かしい思い出の中に棲む四季の風光は、そこに息づく人々とともに、心のアルバムの中に、色褪せることなく、一期一会の風景画として収められています。そのような郷愁に、傷ついた身も心も癒されて、今日を、明日を、気持ちを新たにして生きて行けるものなのかも。 返信する 「懐かしの昭和」 (4組のizisです) 2012-03-06 17:15:23 この写真集を投稿された女性は、僕らの世代よりも一回り以上若い方だと思われます。なぜそれが分かるかといいますと、写真の一枚一枚にその方の短い思いが綴られてあるからです。(画面下のテロップがそれ)たとえば次のようなものです。 「小学校の頃、バリカンでよく先生に刈られていた男子生徒 がいた。貧乏だったけど楽しい時代だった。私は小学校まで、 じいちゃんにでっかい裁縫用のバサミで“昌子ちゃんカット” に切ってもらってた。私にとってじいちゃんは自慢の美容師 だった。」森昌子は、1958年生まれで、「せんせい」(中三)でデビューしたときのヘヤ―スタイルが「もんちっち」のような独特のもの。ですから、森昌子とは少なくとも3つ以上離れていることは確か。つまり僕らよりも13以上若いと云うことになります。昭和を彩る懐かしい品々がこれでもかこれでもかと連綿と続きますが、その方にとってはそれらの一つひとつに思い出がたっぷりと詰まっているのでしょう。かく云う僕にも、それぞれに纏わる思い出があります。でも、全部は大変なので、いくつかピックアップ。今回は、TVについて。白黒TVは、僕が小学校4年生のときに我が家へ遣って来ました。月賦で購入したのですが、月々の返済が当時のお金で\4,000。今でいうと\80,000くらいでしょうか。随分無理をして買ってくれたのです。そのくらい高価なものだったので、立派な緞帳が付いていて、見ないときにはそれが下ろされていました。当時は音響機器メーカーもTVを作っていましたから、コロムビア製でした。金糸銀糸の緞帳に音符記号が縫い付けてあったように記憶しています。丸みを帯びた14インチの画面、今から思うと随分と小さなものであったのですが、そこに広がる世界は大きなものでした。お昼には、「おとなの漫画」という番組があって、僕は学校が終わると、すっ飛んで帰ってきて、クレージーキャッツのショートコントを昼ごはんを食べながら、ごはんやおかずをこぼしながら、見たものです。作、青島幸男とか河野洋とかを聞いて、どっちの脚本が面白いとか生意気にも批評。大相撲やプロレスの中継があると、ご近所の方々が玄関先へ集まってきて、それこそ「Always三丁目の夕陽」のシーンのようになります。電気を消して、青白く光り輝く小さな画面にやんややんやの大喝采。それまでは、弁天神社や梅屋敷東口商店街の空き地に据え付けられてあった街頭TVを見に行っていました。後者で夜遅くまで、といっても午後8時とか9時とかだと思うのですが、子供心にも怖い番組であったのでしょう、当時は街灯も殆ど無い闇夜の中を一目散で走って帰った記憶があります。そういったことも心配で、無理して買ってくれたように思います。その頃は、昼間は殆どテストパターンしか流れていませんでした。時は流れて、僕が高校2年時のこと。後発のテレビ東京(当時は東京12チャンネルだったかしらん)、昼間に流す番組にお金を掛けるだけの余裕が無かったのでしょうね、後輩の女子連が体操着姿でラジオ体操ならぬTV体操をしているのを目にして唖然。どのような伝手でそのようなことになったのか今もって謎。今でもハッキリ覚えているのは、フォークダンス同好会の女子がバッチリ映っていたこと。こういったことは忘れない、懐かしい昭和の、そして青春の一頁。 返信する 「桜セラピー」 (4組のizisです) 2012-04-04 12:12:18 こんなタイトルで投稿されていた写真集です。そのコメントに「ピンクは癒し効果があると言われています。桜の声があなたの元に届きますように。」とありました。ピンクセラピーと云う療法があるそうで、どのようなものかその文面からだけでは詳しいところまで分かりませんが、「ひたすらピンク色を塗るこのセラピーを受けた人は、個人差がありますがピンク色を塗っていくうちに今迄の人生で最も幸福だった時を思い出すそうです。」とあります。また「ピンクは友情や友人・安心感を与える色でもあります。男性から女性に、または女性から男性に対して友好的な雰囲気を作りたいなら、ピンクのワンポイントを利かせた服装が有効です。」ともあります。なるほど、なるほど。参考になります。 ピンキーやピンクレディーの活躍の陰には、このような深層心理 が働いていたのかも。 ♪恋は 私の恋は 空を染めて燃えたよ 死ぬまで私を ひとりにしないと あの人が言った 恋の季節よ ♪熱い勝負は恋の気分よ 胸の鼓動がどきどき 目先はくらくら 負けそう 負けそう 私ピンクのサウスポー 私ピンクのサウスポー きりきり舞いよ きりきり舞いよ 魔球は魔球はハリケーンこの写真集、一昨日に登録されたホッカホッカのもの。時節柄、ちょっとの間ですが、載せることにしました。♪さくら さくら やよいの空は 見わたす限り かすみか雲か 匂いぞ出ずる いざや いざや 見にゆかん歌も花盛りとなりました。 返信する 「見上げてごらん」 (4組のizisです) 2012-04-15 12:19:38 桜もあらかた散ってしまいましたので、斯様なタイトルの写真集に替えてみました。どこか一点を見上げているのでしょうが、夢見るような表情もあれば、気持ちのよさそうな様子も、何かを狙っている素振りもあれば、思索にふける哲学者のような面影も。夏目漱石の吾輩は、飼い主の中学校の英語教師苦沙弥に似てか、中々の博学才子で、おまけに辛辣な批評家でもあります。密かに思いを寄せる二絃琴の御師匠さんの飼い猫「三毛子」のような三毛でも無ければ、車屋の乱暴猫「黒」のような黒猫でも無い。笹原に棄てられたくらいだから、雑種の猫だったのでしょう。最期はビールに酔って足を取られて水を張った大きな甕の中に落ちて溺死するのですが、もがくのを止めて「もうよそう。勝手にするがいい。がりがり(甕を爪で引っ掻く音)はこれ限り御免蒙るよ」と観念したときに、空を見上げたと思うのですが、そのきの表情は、この写真集の中のいずれのものであったのかしらん。月夜の晩のことですから、♪見上げてごらん 夜の星を ぼくらのように 名もない星が ささやかな幸せを 祈ってる名もない猫が解脱して、このような心境になったとしても不思議では無いように思うのです。 返信する 「南太平洋ポリネシアの孤島、タヒチとイースター」 (4組のizisです) 2012-06-05 18:08:24 この写真を投稿した方は、遥々と太平洋を南東に下ってタヒチ島へ、そこからさらに東南東に4,000㎞も隔てたイースター島へと足を延ばしたようです。地図を見ただけでも大変そう。でも、仏領ポリネシアで最大のタヒチ島は、エメラルド・グリーンの海と白砂のビーチ、そしてひたすら広がる紺碧の空とそこに様々に形作る雲、その絶妙のコントラストが素晴らしい!瞬間移動できるものなら、行ってみたい!!チリ本土からも3,800kmも離れているイースター島、太平洋の丁度真中にあるため、地球のお臍とも云われているそうですが、この島が有名なのは、巨大石像モアイがあるから。かつて島で最大規模の集落があったと推測されるトンガリキには15体のモアイが建ち並ぶんでいます。ここは島の東側にあるため、モアイの間に昇る朝日を眺めることができるそうです。あちこちにあるモアイ(1000体もある)は何故か海を背にして立っているそうですが、唯一アキビに立つ7体のアモイだけは海を見つめているとのこと。なぜなら、伝説の酋長ホツマツアがイースター島を見つけるために派遣した7人の使者を祀ったものだからで、その7人(と酋長ホツマツア)の故郷であるヒヴァの国を望んでいるようにしたからだと。15体のモアイが建ち並ぶトンガリキが日の出スポットだとすれば、こちら(モアイの見つめる先)は、美しい夕日を眺めることができるそうです。 最後の夕景の写真、アキビではなく、真西にあるタハイに近いハンガ ロア村から撮ったのではないかしらん。(と、行ったことも無いくせに 偉そうに推測してみたりして。)いずれにせよ、美しい、美しすぎる。美・サイレント! 返信する 「お滝さん」 (4組のizisです) 2012-06-26 15:04:02 時季ものの写真にしました。あじさい寺の別称のある鎌倉の長谷寺と豊島園のあじさい祭りの写真だそうです。あじさいって、ユキノシタ科の落葉低木なんですね。ユキノシタという名の多年草があって、その系統に属するからなのでしょうけど、そのユキノシタがマンサク科に属するそうですから、何ともややこしい。鶴岡八幡宮のある雪ノ下という地名の由来は、その地にユキノシタが繁茂していたからだそうで、長谷寺のアジサイのことも考え合わせると、草と低木の違いはあっても生育環境に適した地であったのでしょう。石坂洋次郎の作品に『あじさいの歌』(1959年)というのがありましたが、同じ題名の「あじさいのうた」という歌(作詞・作曲原由子)があります。♪雨に咲いてた つぶらな花びら 雨の予感に揺れて 虹色に染まるのあじさいの花びら(花弁)と思われているものは、実はそれを支える萼片(がくへん)で、その4、5個ある萼片が花弁状に発達して、薬玉のように丸く集まって咲いているのが私たちが目にするアジサイなのです。♪もうすぐ あじさいみたいに オシャレになって あなたのぬくもりに この身をまかせる だんだん好きになって そしてだんだん恋になる初めは白っぽい黄緑色で、それがだんだん薄い青色にかわり、さらに淡紅色を帯びてくることから、アジサイは「七変化」とか「八仙花」とも云われます。『ことばの歳時記』(金田一春彦)に、“いつか、NHKの「話の泉」の時間に「リトマス試験紙は何から作るか」という質問に対し、渡辺紳一郎氏が「アジサイの花」といったのには感心した。たしかに、あの薄くぼうっとした色はよく似ている。”とありますが、物知り博士の異名を持つ渡辺紳一郎(懐かしいですね。ラジオのクイズ番組「話の泉」よりもテレビの「私の秘密」の方が馴染み深い、黒縁メガネの口髭のおじさん)のこと、根拠なくして云った訳ではないのです。写真にもあるように色々なアジサイがあるのは、萼片のアントシアニンという色素が、土壌のpH(酸性度)によって、酸性ならば青に、アルカリ性や中性ならば赤になるからです。 酸性だとアルミニウムが溶けだしやすくなり、そのイオンを吸収する と青になる。また、初め白っぽい黄緑色であったものが青や赤に変わって行くのは、たっぷりあった葉緑素が日を経るにつれて分解され、それとともにアントシアニンが活性化するから。青が赤に変わって行くのは、有機酸の蓄積(青を保つアルミニウムイオンの吸収の妨げになる)、つまり花の老化を現しているそうです。身につまされますね。なお、アジサイは「紫陽花」と漢字表記しますが、唐の詩人白居易が別の花に名付けたものを、平安時代の学者源順が誤ってこの漢字をあてはめてしまって、現在に至るとのこと。青と赤の混ざり具合によって様々な色合いの紫が「陽」(あらわ)になった花、の意とも採れる訳で、これはこれで好いものと。さて、タイトルの「お滝さん」ですが、アジサイに関係がるのです。またまた『ことばの歳時記』からの引用。“アジサイの学名をH.M.var Otaksaと呼ぶ。その命名者はシーボルトで、日本で出来た彼の二号さんを「お滝さん」といったことにちなんでつけたものだという。”そして“シーボルト先生随分いい気分だったろう。”と結んでいますが、医者であったシーボルト先生、アジサイに毒性があることを知らなかった筈はありません。シニカルに名付けてニンマリだったのかも。 過呼吸、興奮、ふらつき歩行、痙攣、麻痺などを経て死亡する場合も あるほどの毒性。 返信する 「一万回のノッカー!」 (4組のizisです) 2012-07-05 00:03:56 お陰様で、ブログ開設から1290日目で訪問者の延べ人数が10,000人を超えました。有難うございます。どのくらい続けられるか分かりませんが、出来得る限り、齢相応にボチボチですが、続けて行きますので、どうぞ「ノック」してね。 返信する 「地球のフタ」 (4組のizisです) 2012-07-18 11:17:34 と、面白いタイトルの付いた写真集です。投稿者自らが実際に全国各地を見て回ったものだそうです。1枚目は香川県琴平町のマンホールだそうで、あの長い石段を駕籠に乗って上る姿が描かれています。僕も何度も上りました。本殿までは1368段もあるので、しんどいしんどい。4枚目は、香川県高松市のマンホール。源平の屋島の合戦での那須与一が描かれています。12枚目は奈良市のもの。吉野桜でしょうね。14、15枚目は堺市らしく、貿易船の図柄。18枚目の大津市のものは、何とも賑やか。25枚目のアメンボ、名古屋市のものだそうですが、どんな関係があるのだろ?33枚目は太陽の塔が。万博のあった吹田市のもの。等々、カラフルなものや、面白いデザインのものや、お国自慢も含めて色々と楽しめます。 返信する 「さざんか」 (4組のizisです) 2013-01-07 21:37:26 都会では、めったに北風が「ぴいぷう」吹くことがなくなりましたが、僕らの子供の頃には、頬や耳をつんざくような木枯しに縮かむ思いをしたものです。そのようなときの道端のたき火は、まさに天佑。♪さざんか さざんか さいたみち たきびだ たきびだ おちばたき あたろうか あたろうよ しもやけおててが もうかゆいご存じ、唱歌「たきび」の二番の歌詞ですが、最近では、霜焼けも都会では死語になったようです。山茶花も、やはり都会では目にしなくなりましたが、昔は、歌詞にもあるように、生垣によく利用されていて、晩秋から冬にかけて淡いピンクを交えた白花を付けていたものです。♪くもりガラスを 手で拭いて あなた明日が 見えますか 愛しても愛しても あゝ他人の妻 赤く咲いても 冬の花 咲いてさびしい さざんかの宿大川栄策の「さざんかの宿」(作詞:吉岡治、作曲:市川昭介)ですが、この宿に咲く山茶花は、自生の白花ではなく、園芸品種の赤い花。ここでは、三重県四日市にある南部丘陵公園に咲く、その赤い山茶花をアップしました。山茶花は、中国語でツバキ類を指す山茶に由来していますので、本来はその読みである「さんさか」でなければならないのですが、それが訛って「さざんか」になったといわれています。「さざんか」となったからこそ、山茶花究という芸名が成立したわけで、「山茶花の こゝを書斎と 定めたり」(子規)をもじって、さしずめ「山茶花の 九九を処世と 究めたり」といったところでしょうか。 返信する 「1500日」 (4組のizisです) 2013-01-29 14:06:30 本日が当ブログ開設から1500日目ということらしいです。昨日まででトータル閲覧数(PV) 31,364トータル訪問者数(IP)15,046を数えています。これも皆さま方のご愛顧の賜物。今後ともよろしくお願い致します。 返信する 「断片が形作る世界」 (4組のizisです) 2013-03-22 20:21:39 桜も満開の春たけなわ。早春風景に替えて、ちょっと面白いものにしてみました。ニーチェは「事実なるものはない、ただ解釈だけがある」として、様々な人間が世界に対して様々な評価を行うことでしかない、とのたまっていますが、この写真集にも「無意識の断片を寄せ集めた物が新たな意味を持つというテーマで作ってます」と説明が付されてあるように、その意味も見る人の価値基準で形作られることになるというわけです。HDR(High Dynamic Range)とか云う、特殊な加工を施すことによって、人間の認識する(記憶にある)風景をつくり出すことができます。写真撮影の場合は、レンズは明るい箇所と暗い箇所とをハッキリと区別するので、人間の目のように、明るさを調整しながら、それらを認識するような芸当ができません。そこで、同一アングルで露出を変えた、例えば明るい箇所に合わせた画像、暗い箇所に合わせた画像、その中間の画像といったものを用意して、それらを合成して1枚の画像にして、どこもかしこもハッキリクッキリしたものをつくり出します。今回アップした写真集は、同一のアングルからだけでなく、複数の被写体をも合成してあって(HDR画像の作成には専用のソフトを使う)、通常のHDR画像とは趣を異にするものですが、幻想的でもあり、それだけ夢といった断片がつくり出す記憶の画像に近いものがあるかも知れません。 返信する 「これぞHDR!」 (4組のizisです) 2013-04-02 12:57:38 桜も大方散ってしまいましたね。今回は、いかにもHDRと云った写真集にしてみました。前回と同じ女性の作品のようで、滋賀県五個荘町の街並みだそうです。写真と云うより絵画のようでしょ。ひとはこのように見て記憶しているのですね。 返信する 「またまたHDR」 (4組のizisです) 2013-04-06 12:38:24 この写真集も同じ女性の手になるものです。なかなかにシャープな感覚の持ち主で、渋谷、原宿、六本木、新宿、スカイツリー、六義園、目黒、汐留、日比谷、といった都会に漂う無機質な空間をHDRでうまく表現しています。 返信する 「百花繚乱」 (4組のizisです) 2013-04-13 12:48:58 今頃咲いている花、これから咲く花、いろいろな花の写真集です。3~4月に花開くアネモネ、4~5月に艶やかな色を付ける牡丹、チューリップ、フリージア、夏に花を付けるヤマユリ、蓮、槿(むくげ)などなど、美の饗宴です。♪覚えてますか 初めて誰かを 愛した頃の 春の日差しを 生まれたことの 喜びに似た 胸のときめき そして切なさ スミレ 撫子 人知れず つのる想い 艶やかに あ… 四季それぞれに華があり 愛それぞれに人がいる 人それぞれに恋をして 百花繚乱 したたかに 返信する 「私の昭和」 (4組のizisです) 2013-05-21 11:31:54 このようなタイトルの付いた写真集ですが、当時の写真ではなくて、木彫りの人形で、当時の子供の姿を再現したものです。その紹介文には、「ほとんどの男の子は、頭は丸刈りだった。交番の署長の息子は坊っちゃん刈りだった。遊びの時も手伝いの時もいつでも学生服だった。そんな私の昭和です。」とあります。僕らの世代と重なるようでもあるし、も少し前の世代とも思える。都会(と云っていいのだろうか?)の子供の風俗と地方のそれとの違いなのかも知れないけどね。僕らは、ほとんどが坊ちゃん刈りだったから。でも襟のある学生服や学帽は、僕は好きで、高学年になってからはよく着用していました。卒業写真にも学生服姿(正装だし)の男子が何人も写っていますが、当時は未だそういった風習がかろうじて残っていた時代だった。 返信する 「鉄人28号?」 (4組のizisです) 2013-06-19 11:47:13 このオブジェを制作したひとの奥様が投稿したようで、この写真には「記念だそうです」というタイトルが付いていました。奥様のブログには、このオブジェについて、次のような書き込みがありました。“凝り性なんです。 夫の、還暦記念(本人がそう言っています。)が完成し ました。 最初は鉄人28号を作ろうと思っていたようでしたが、 どんどんイメージがふくらんで、こんなロボット??? オブジェになりました。 材料はホームセンターで購入したり、いらなくなった 何かの部品。 無駄にしない精神は、なかなかのものです。 リモコンに見える物は電池が入り息子のいらなくなった おもちゃの部品で作ったライトがつきます。 後ろ姿もマントをつけてこだわっています。 目も点滅し、ピピピーと、音が出る仕組み。 リモコンのスイッチは還暦を表現して、赤にしたかった そうです。 お誕生日には、これを眺めながら、お酒をいただくそう です。”ちなみに、このご主人、昨年は「戦艦三笠」を名刺で作ったそうです。ほんに、凝り性かつ倹約家のようで。 返信する 「monodays*」 (4組のizisです) 2013-07-08 12:21:12 梅雨も明けて、またもや酷暑の襲来。昔なら、この辺りでも、アスファルトジャングルや排気ガス、ましてやエアコンの吐き出す熱風なんぞとは無縁であって、路地の隅々にまで涼やかな風が吹き抜けていて、それこそ「下下も下下 下下の下国の 涼しさよ」(一茶)でしたが、今や、「ジジもジジ ジジの地獄の 釜の中」(鈍末)そんな暑さを少しでも和らげてくれるであろう、モノクロームの詩情あふれる写真集を掲載しました。「mono」は、「モノクローム」ではなくて、「唯一の」の意味で使っているのでしょうか。投稿者の女性は、「静かな日々の一瞬の輝きを見逃さぬよう暮らしたい。」とのコメントを付しています。ですから、「*」は、その一瞬の輝きを表現しているのでしょう。 返信する 名画鑑賞 (4組のizisです) 2013-08-30 14:44:15 小さな、極めて小さな仮想美術館でのささやかな、極ささやかな展覧会の開催です。初めのコーナーは、ジャン・オーギュスト・ドミニク・アングル (1780 - 1867)の21点。(7/26)次のコーナーは、フェルディナンド・ヴィクトール・ウジェーヌ・ドラクロワ(1798 - 1863)の18点。(7/30) その次のコーナーは、ジャン・バプティスタ・カミーユ・コロー (1796 - 1875)の7点+写真1点。(8/4)さて、通路をまたがる小部屋には、アンリ・ルソー(1844 - 1910)のコーナーがあります。15点ですが、最初の「眠るジプシー女」は僕の好きな1点。右手手前にある壺の中には、ジプシー女の飲む水が入っているそうです。ルソー自身がそういっているのですから間違いありません。こういった幻想的な絵が多いのがルソーの特徴。「蛇使いの女」と云う飛び切りの絵もあるのですが、残念なことにはこのコーナーにはありません。悪しからず。(8/9) ルソーの横のコーナーは、ジョヴァンニ・セガンティーニ(1858 - 1899)の12点+写真1点。あまり聞きなれない画家ですが、13歳から16歳までミラノの感化院にいたという数奇な運命を辿ったイタリアの画家です。生まれ故郷のアルプスの絵が多いため、アルプスの画家として知られていますが、5枚目「悪しき母達(嬰児殺し)」(1894)のような神秘的、退廃的な絵も描いていることから、世紀末芸術とも称されています。パレットで絵具を混ぜることなく、点描とは違った、一筆一筆を細くぬりかさねて描くという筆触分割の手法を使っていますので、鮮やかな発色の絵となっています。(8/17)あれまー、通り過ぎていた部屋がありました。ドイツロマン主義を代表する画家であるキャスパー・フリードリッチ(1774 - 1840)の作品66点です。色々とあって、29歳のときに自殺未遂を起こし、61歳のときには脳卒中で右手が不自由になり、油彩を諦めてペン画に戻ったという、これまた数奇な運命を辿った画家です。ナチスに政治利用されたこともあって、過小評価されている画家ですが、その作品は静謐な中に崇高さを湛えたものが多く、日本画の東山魁夷もその影響を受けています。(8/23)最後のコーナーは、日本の画家国吉康雄(1889-1953)です。79点の作品と21点の写真から構成されています。これらをアップした方は、「国吉のニューヨークでの回顧展カタログの翻訳に使った画像です。」とコメントされていますが、2004年3月23日から5月16日まで東京国立近代美術館で開催された「国吉康雄展アメリカと日本、ふたつの世界のあいだで」でも、大半は、と云いたいところですが、約1/4(5,6,9,12,13,20,24,25,29,31,39,40,58,61,72,73,76,77,78,82,86,90,91,92,93枚目の25点)が出展されていました。ですから、僕も今回初めて目にする作品が沢山あります。明治22年9月1日に岡山市中出石町(現岡山市 北区出石町1丁目79番地)に雑貨商の長男として誕生した国吉は、17歳の時に単身渡米し、働きながら美術学校に学ぶものの、なかなか芽が出ず、初めて展覧会に入選したのが32歳のとき。翌年には個展も開き、子供や牛を題材にした、プリミティブで幻想的な画風が、徐々にアメリカの画壇でも認められて行きます。その後、2度の渡欧でエコール・ド・パリの作家の影響を受けて、憂愁や倦怠、孤独感などを漂わせた女性像を多く描くようになり、その画風が大きく変わります。さらに日米開戦を契機として虚無感を強く感じさせる作品(88の写真に写っている「飛び上ろうとする頭のない馬」、91「誰かが私のポスターを破った」など)が制作されるようになり、戦後は赤を主調とした仮面をつけた人物像など(68,79,92,93)が描かれるようになります。以上、大きく4つに分けましたが、国吉の画風の変遷をお楽しみください。(ただし、順番通りではなく、シャッフルされていますので、見当を付けながら、ご覧ください。)僕の持っている図版よりも色合いは良さそうですが、実物はもっともっと素晴らしい色使いです。まだまだ残暑は厳しいですが、芸術の秋。本物を観て目の肥やしにしてくださいね。 返信する 「小豆島への誘い」 (4組のizisです) 2013-09-25 17:17:12 この写真を投稿された方は、ご夫婦とそのお母さんの3人連れで高松港から小豆島へ1泊2日の旅行をされたようです。小豆島を「あずき島」とか「しょうず島」とか呼ぶひともあるようですが、全くの誤りというわけではなくて、大昔には前者で、その後中世頃までは後者で呼ばれていたそうです。僕も3度ほど小豆島へ行ったことがありますが(故郷が高松ですから)、最初に行ったのは、18歳のときで、まだ鄙びた感じが至る所に残っていましたが、3度目(S56.8)に行ったときには、島全体が観光地然としていて、ちょっとガッカリした記憶があります。小豆島は、西に向いた亀のような形をしていて、面積153.30k㎡、海岸線の全長126kmといたって小さな島です。寒霞渓のある所が島では一番高いところですが、それでも816.7mしかありません。そのような島でも、観光地化もあって、結構見どころがあります。小豆島へは船でしか渡ることはできません。僕は高松港から土庄港のルートしか使ったことがありませんが、その他にも高松港からは池田港と草壁港への2つのルートがあります。この方々は、草壁港行きの便(フェリー)を使用したとのことです。 僕は、高松港の横っちょにあった築港と云ったところから乗船し たように記憶していますが…。この方々の小豆島観光ルートは、写真と照らし合わせてみると、次のようであったようです。草壁港(島の南側中央)に着いてから、島を右回りに、オリーブ公園、オリーブ園を見学。それから亀の左前足に相当する半島にある小豆島ふるさと村を尻目にして、その半島を一回りしてから、土渕海峡(ギネスブック認定の世界で最も幅の狭い海峡)に立ち寄っています。それから北上しながら島の北側中央にある大坂城残石記念公園を見学してから、南へ下る道で島の中央に入って、寒霞渓へ。その途中の美しの原高原で、近くにあるお猿の国自然動物園からの猿でしょうか、その歓迎に出会っています。寒霞渓では、ロープウェイで昇降。その後、道をひたすら南に下って、右手に海が見えてきたところが亀の左後ろ足に相当する半島で、その先端に岬の文教場があります。その近くにある二十四の瞳映画村へも立ち寄っています。(高峰秀子主演の映画で使用したのと同じボンネットバスもあります。)そして草壁港近くの宿で一泊してから、翌朝高松行のフェリーで帰途に就いています。1泊2日であってもこれだけ見て回ることができますが、もう少しゆっくり見て回ることができれば、映画村へ向かう途中にあったマルキン醤油記念館、島の東側にある太陽の丘、オリーブ神殿、平和の鐘、壺井栄文学碑、さらには若いひとに人気のある土渕海峡近く(東南へ行った直ぐの所)の天使の散歩道(エンジェルロードとも云い、満潮時は海に沈んでいるが、干潮になると姿を現す)なども見どころです。秋は、特に寒霞渓の紅葉が美しく、長閑な瀬戸内の風光とともにお薦めです。 返信する 「残照広島湾」 (4組のizisです) 2013-10-15 14:11:30 台風26号が、関東、それも首都圏を直撃しそうですが、結構大きい勢力なので、被害の拡大が心配です。今回の写真集は、10月4日、台風23号(高気圧のお蔭で弾き飛ばした)の雲が日本列島にかかるように伸びていたものの、黄金山から望む広島湾上空は、かように綺麗な夕焼けであったとのことです。カレンダーに目を遣れば、明日16日は「一陣の風」(いちじんのかぜ:ひとしきり激しく吹く風)で、翌17日は「遼天」(りょうてん:何処までも広がる大空)となっていました。偶然とはいえ符号しているのですよね。 返信する 「夕焼け雲に 誘われて」 (4組のizisです) 2013-11-13 14:21:24 千昌夫の歌う「夕焼け雲」は、歌詞から判断すると秋、それも晩秋の頃だと思うのですが、この写真集の夕焼けはいずれの季節のものか判断できませんが、秋のように思います。もう立冬の次候(11月12日から)に入っていて、暦の上では、「地始凍(ち はじめて こおる):大地が凍り始める」と、最早冬なのですが、ぎりぎり晩秋ということでお許しあれ。毎度お馴染み『ことばの歳時記』(11月9日の項)では、「秋の暮れ」と題して、“四季それぞれに夕暮れの落ちついた風情は好ましいものだが、古来日本ではとりわけ秋の夕暮れのさびしい趣が愛されてきた。『枕草子』の巻頭の文「秋は夕暮。夕日のさして山の端(は)いと近うなりたるに」は有名であるが、『新古今集』には「三夕(せき)の歌」と呼ばれて親しまれた三首がある。いずれも花も紅葉もないわびしさ、さびしさのそこはかとなくただよう秋の夕暮れの情緒をよんだものである。”ちなみに、「三夕の歌」というのは、「秋の夕暮れ」を結びとした次の三首を云います。寂蓮(じゃくれん)法師の「さびしさは その色としも なかりけり 槙(まき)立つ山の 秋の夕暮れ」西行法師の「心なき 身にもあはれは 知られけり しぎ立つ沢の 秋の夕暮れ」藤原定家の「見渡せば 花も紅葉も なかりけり 浦の苫屋(とまや)の 秋の夕暮れ」『ことばの歳時記』では次のように繋いでいます。“ただ「秋の暮」というとき、ずっと以前には暮れていく秋、つまり晩秋をいった。それがいつからか混乱して、秋の夕暮れをいうことばにかわってしまったらしい。”とまれ、目を空に転じれば、見紛うばかりの美しい夕焼けが、その七色の光が時々刻々と織りなす、まるで万華鏡のような光景が。 返信する 「片雲の風に誘われて」 (4組のizisです) 2013-11-29 13:40:46 またまた「誘われて」ですが、タイトルに使った文言は、“月日は百代(はくたい)の過客にして”で始まる芭蕉の『おくのほそ道』から借用したもの。元々は「たびびとの写真集」と云ったタイトルが付けられていて、“一年前から最近までの思い出に残る「風景・滝・渓流」の写真を中心に集め”とのコメントが付してありますので、おそらく芭蕉と同様に“片雲の風にさそはれて、漂泊の思ひやまず”、旅に出て、心に残る風情をカメラに留めたものと思われます。 返信する 「雪のある風景」 (4組のizisです) 2014-01-02 12:41:38 大一小のあるここら辺りは、年末からずっと好天が続いていて、気温も比較的暖かく、昨年のように成人式辺りに雪が降るかどうか…。さて、北海道では雪や吹雪のようで、今回掲示した写真集のように、どちらを向いても雪また雪の銀世界。旭川やそこから少し外れたところにある美瑛(びえい)、和寒(わっさむ)といった北海道内陸部のことですから、厳寒も一入なのでしょうね。啄木が一年の間、北海道を漂流して詠んだ「忘れがたき人人」という歌集がありますが、その中に札幌を発って岩見沢、旭川、そして釧路に至るまでの冬景色を描写したものがあります。さながら写真のような風景の中に身を置いていたのでしょうね。札幌―岩見沢間の列車の中から目にした石狩平野を「忘れ来し煙草を思ふ ゆけどゆけど 山なほ遠き雪の野の汽車 うす紅く雪に流れて 入日影 曠野(あらの)の汽車の窓を照せり」と詠み、旭川駅を出る汽車の様子を「水蒸気 列車の窓に花のごと凍てしを染むる あかつきの色」旭川―釧路間を「ごおと鳴る凩のあと 乾きたる雪舞ひ立ちて 林を包めり 空知川(そらちがわ)雪に埋れて 鳥も見えず 岸辺の林に人ひとりゐき 寂寞を敵とし友とし 雪のなかに 長き一生を送る人もあり」と詠みました。「暮れてなほ 天上蒼し 雪の原」(遷子) 相馬遷子(そうませんし)は、水原秋桜子に師事し、「馬酔木」 同人となった昭和の俳人。 返信する 「夜明けのうた」 (4組のizisです) 2014-07-22 11:45:36 東京も梅雨明け間近。でも、この写真集は「梅雨明け」ならぬ「夜明け」。大仏次郎は、鞍馬天狗を坂本龍馬になぞらえて、「杉作、日本の夜明けは近いぞ」と言わしめるわけですが、場所は、日本ではなくてフィリッピン。時は幕末ではなくて、今年の6月22日。午前5時から、この写真を投稿した方の自宅から北東の空に展開される光の万華鏡。夜明けの空を眺めて、今日という新たな一日に願いを込め、祈りを捧げる。二度と再び訪れることのない今日という日の夜明けの空に向かって。♪夜明けのうたよ あたしの心の きのうの悲しみ 流しておくれ 夜明けのうたよ あたしの心に 若い力を 満たしておくれ 夜明けのうたよ あたしの心の 小さな倖せ 守っておくれ 夜明けのうたよ あたしの心に 思い出させる ふるさとの空註)昨日の内容、脱字があったので訂正しました。 返信する 「猫はこたつで丸くなる」 (4組のizisです) 2014-12-16 17:36:36 気分転換でテンプレートを替えてみました。唱歌『雪』の2番の歌詞♪雪やこんこ 霰やこんこ 降っても降っても まだ降りやまぬ 犬は喜び 庭駈けまわり 猫は火燵で 丸くなるから「丸くなった猫」の絵にしました。で、赤い花も「寒牡丹」と見立ててね。「こんこ」のところ、子どもの頃には「こんこん」と歌っていました。でも、語源には「来む来む」(降れ降れ)であろうとの説がありますので、まあ意味的にはOK。『雪』は作詞・作曲ともに作者不詳となっていますが、明治44年(1911年)の『尋常小学校唱歌(二)』が初出となっているので、これより先(明治34年、1901年)にあった滝廉太郎作曲、東くめ作詞の『雪やこんこん』(幼稚園唱歌、出だしは♪雪やこんこん あられやこんこん)と同じになるのを避けたとも云われています。でも、出だしのメロディ(1~2行)もドボルザークの『聖書の歌』( Op.99 B. 185、1894年作の歌曲で全10曲から成る) の第10曲の前奏と酷似しているそうだから、「こんこ」は「concoct」(でっち上げる、混ぜ合わせて作る)だったりして。 以下のところで聞いて確かめてみてね。 http://www.sakimura.org/2011/07/1171/テンプレートを替えたついでに、写真集の代りに大田区の「お天気時計」を載せました。時計下にあるアイコンをクリックすれば、天気、気温、風向き、降水量、湿度をそれぞれ見ることができます。試してみてね。猫の丸まり具合でもざっくりしたところは分かりますけどね。 返信する 「分かり易いが一番」 (4組のizisです) 2015-01-24 14:13:28 立春まで、今の「丸くなった猫」のテンプレートにしておく積りでしたが、やはり見づらいようなので、思い切って今度は文字が大きくハッキリ見えるものに替えてみました。スクロールさせるのに、これまでよりちょっと時間が掛かりますが、乱視も入った僕は例外として、メガネが無くとも読めると思います。漱石の句に「秋立つや 眼鏡して見る 三世相」 ※「三世相」(さんぜそう)とは、人の生年月日の干支や人相 などにより、三世(前世・現世・来生)の因果・善悪・吉凶 などを判断すること。または、それを解説した書物のこと。 この句、漱石が正岡子規に送ったもの。がありますが、さしずめ(ちょっと早いですが)「春立つや 眼鏡いらずの 模様替え」(鈍末) といったところでしょうか。 返信する 「恋のしずく?」 (4組のizisです) 2016-02-13 00:25:36 肩をぬらす?頬をぬらす?髪をぬらす?いえいえ、葉をぬらすしずくです。しずくに何が映っていますか?思い出ですか?未来ですか?いえいえ、あなたの今の心の裡が。一年も同じテンプレートではちと飽きる。で、今年はこのテンプレートにしてみるか、と。 返信する コメントをもっと見る 規約違反等の連絡 コメントを投稿 goo blogにログインしてコメントを投稿すると、コメントに対する返信があった場合に通知が届きます。 ※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます 名前 タイトル URL ※名前とURLを記憶する コメント ※絵文字はJavaScriptが有効な環境でのみご利用いただけます。 ▼ 絵文字を表示 携帯絵文字 リスト1 リスト2 リスト3 リスト4 リスト5 ユーザー作品 ▲ 閉じる コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。 コメント利用規約に同意する 数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。 コメントを投稿する
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クリックすると、この画面(記事)に戻り、最初の状態に
なります。
記事メニューもそのうちに用意致します。
今夏が昨年のような猛暑でないことを
祈るばかりですが、とりあえず節電には
協力しましょうね。
ということで、東京電力の電力使用量が
一目でわかるパーツを貼り付けました。
一時間ごとに使用状況が更新されます。
なくなっていたので、再登録をしたら、
今度は表示されなくなってしまいました。
それまでの一時間ごとではなく、7月1日
から5分ごとに対応できるようにと変更
したらしいので、その辺りが原因かもしれ
ません。
復活できるかどうか定かではありませんが、
とりあえずは、以下の「TEPCOでんき予報」
をご覧ください。
http://www.tepco.co.jp/forecast/index-j.html
5分ごとの使用量が表示されるようになっています。
ちょっと神経質すぎるように思いますが…。
今日なんて、結構暑いのですが土曜日なので大丈夫と
踏んだのでしょうか。
資源エネルギー庁は、引き続き15%の節電を努力目標
に掲げているようですが、とまれ、このブログでの
節電協力の表示は止めることにします。
画面上部中央に「記事一覧|フォトチャンネル一覧」と書か
れた箇所があります。
暗証番号を入力して記事が表示されたときには、画面最下
部中央に表示されます。
写真(合成のものも)は、個々の記事に一枚しか貼り付けること
ができないようになっています。しかし記事の中の数々のコ
メントの中には、参考となる写真があった方がよい場合があ
ります。そこで、このフォトチャネルを使用することにしま
した。
閲覧する場合には、「フォトチャンネル一覧」をクリックしま
す。ただし閲覧には暗証番号が必要になっています。暗証番
号を訊いてきたならば、このサイトの暗証番号(8桁)の下4桁
を入力してください。現在はテスト用に一枚だけですが登録
してあるものが表示されます。
皆さんが、このフォトチャンネルに写真を投稿する場合には、
・写真のタイトル(60文字まで)
・その紹介文(1000文字まで)
を書いて以下のEメールアドレス宛に、当該写真を貼付して
送付してください。僕の方で掲載致します。
d1s40doukikai@mail.goo.ne.jp
“気の向くまま、我が里や街のそこかしこを訪れ遊んでいます”
として、投稿者の方が秀逸な作品(79枚)を公開していましたので、
このページでも掲載させてもらうことにしました。
それにしてもデジカメでもこのような写真が撮れるのですね。
どんなテクニックを使っているのだろ?
とはいえ、どこか生命力を秘めたその威容は荘厳で
すらあります。
どこかで見た記憶があると思ったら、昨年の 9/18(土)
にNHK「ワンダー×ワンダー」で放映されたものの
ようです。
はとバスツアーでも工場見学のコースが幾つか用意
されているように人気があるのですよね。
美しいイルミネーションとして楽しむひとだけでな
く、中には郷愁を覚えたり、神社仏閣のように感じ
るひともいるように思います。
どれがどこの工場のものだか僕にはさっぱりですが、
以下のところのものであるとのコメントが付されて
ありました。
①鹿島臨海工業地帯
②京葉工業地帯(JFEスチール 第5高炉)
③京浜工業地帯
④奥多摩工業(地帯?)
ようなタイトルが付けられています。
このチャンネルが作られた日付を見ると、2010年12月9日となって
いますので、大震災の起こる前の穏やかで長閑な、今も童謡の中に
息づく、懐かしい日本の原風景ばかりです。
私たちの住む小さな町でも、その変貌振りにはただただ驚かされる
ばかりですが、いくらその景色が変わろうとも、子供の頃の懐かし
い思い出の中に棲む四季の風光は、そこに息づく人々とともに、心
のアルバムの中に、色褪せることなく、一期一会の風景画として収
められています。
そのような郷愁に、傷ついた身も心も癒されて、今日を、明日を、
気持ちを新たにして生きて行けるものなのかも。
若い方だと思われます。
なぜそれが分かるかといいますと、写真の一枚一枚にその方の
短い思いが綴られてあるからです。(画面下のテロップがそれ)
たとえば次のようなものです。
「小学校の頃、バリカンでよく先生に刈られていた男子生徒
がいた。貧乏だったけど楽しい時代だった。私は小学校まで、
じいちゃんにでっかい裁縫用のバサミで“昌子ちゃんカット”
に切ってもらってた。私にとってじいちゃんは自慢の美容師
だった。」
森昌子は、1958年生まれで、「せんせい」(中三)でデビューした
ときのヘヤ―スタイルが「もんちっち」のような独特のもの。
ですから、森昌子とは少なくとも3つ以上離れていることは確か。
つまり僕らよりも13以上若いと云うことになります。
昭和を彩る懐かしい品々がこれでもかこれでもかと連綿と続き
ますが、その方にとってはそれらの一つひとつに思い出がたっ
ぷりと詰まっているのでしょう。
かく云う僕にも、それぞれに纏わる思い出があります。
でも、全部は大変なので、いくつかピックアップ。今回は、TV
について。
白黒TVは、僕が小学校4年生のときに我が家へ遣って来ました。
月賦で購入したのですが、月々の返済が当時のお金で\4,000。
今でいうと\80,000くらいでしょうか。随分無理をして買ってくれ
たのです。
そのくらい高価なものだったので、立派な緞帳が付いていて、見な
いときにはそれが下ろされていました。
当時は音響機器メーカーもTVを作っていましたから、コロムビア
製でした。金糸銀糸の緞帳に音符記号が縫い付けてあったように
記憶しています。
丸みを帯びた14インチの画面、今から思うと随分と小さなもの
であったのですが、そこに広がる世界は大きなものでした。
お昼には、「おとなの漫画」という番組があって、僕は学校が終わ
ると、すっ飛んで帰ってきて、クレージーキャッツのショートコン
トを昼ごはんを食べながら、ごはんやおかずをこぼしながら、見た
ものです。作、青島幸男とか河野洋とかを聞いて、どっちの脚本が
面白いとか生意気にも批評。
大相撲やプロレスの中継があると、ご近所の方々が玄関先へ集まっ
てきて、それこそ「Always三丁目の夕陽」のシーンのようになり
ます。電気を消して、青白く光り輝く小さな画面にやんややんや
の大喝采。
それまでは、弁天神社や梅屋敷東口商店街の空き地に据え付けら
れてあった街頭TVを見に行っていました。
後者で夜遅くまで、といっても午後8時とか9時とかだと思うの
ですが、子供心にも怖い番組であったのでしょう、当時は街灯も
殆ど無い闇夜の中を一目散で走って帰った記憶があります。
そういったことも心配で、無理して買ってくれたように思います。
その頃は、昼間は殆どテストパターンしか流れていませんでした。
時は流れて、僕が高校2年時のこと。後発のテレビ東京(当時は
東京12チャンネルだったかしらん)、昼間に流す番組にお金を
掛けるだけの余裕が無かったのでしょうね、後輩の女子連が体操
着姿でラジオ体操ならぬTV体操をしているのを目にして唖然。
どのような伝手でそのようなことになったのか今もって謎。今でも
ハッキリ覚えているのは、フォークダンス同好会の女子がバッチリ
映っていたこと。こういったことは忘れない、懐かしい昭和の、
そして青春の一頁。