大森第一小学校第40期卒業生同期会

卒業して幾星霜、さあ懐かしい面々と再会し、浮世の憂さも忘れて、思い出話に花を咲かせよう!

つぶやきの部屋38

2017-07-04 14:26:51 | Weblog

「龍馬愛用の短刀は今何処」

坂本弥太郎の「借用書控」にも、「出品目録控」にも、「寄贈品目録控」にも、一切その名を留めない龍馬愛用の短刀は、どうなっちゃったのかしらん。

写真は、左端が慶応3年11月に越前へ行った時に撮られたと考えられているもの、中央が慶応3年1月に後藤象二郎から贈られた紋付を着用して長崎で撮影したとされているもの、そして右端が長崎で撮影されたもののその撮られた年月がハッキリしないものです。

ハッキリしないものの、「坂本龍馬手帳摘要」と称される龍馬の日記(覚書)にそのヒントがありそうです。

註)原本は、八方手を尽くして探したものの、ついに発見できず、釧路市の大火で焼失されたと考えられています。それなのに何故今に伝わるかと云うと、坂本直(高松太郎)が所蔵していたときに、土方直行氏(高知県高岡郡佐川町出身)が借り受けて写し置いたからです。

その手帳(小さな普通の横巻き紙)の慶応2年5月29日のところに、「4両3歩を寺内氏、(当時、寺内新左衛門と称していた亀山社中の新宮馬之助のこと)から借用。さらに2両を借りた。これは、備前兼光無銘合口(鍔の無い短刀)の拵えとその研ぎ代として、併せて3両2朱余の支払いに充てた」(意訳)とあるのですが、このときに龍馬がどこに居たかと云うと、お龍とのいわゆる新婚旅行(実際は寺田屋で受けた刀創の湯治)で鹿児島に居たのですよね。もっとも6月2日には桜島丸(ユニオン号)に乗船して鹿児島を去るのですが。

何故に短刀の拵えや研ぎが必要になったのか、つらつら考えるに、薩長同盟に立ち会い、伏見の寺田屋に戻ってきたとき(慶応2年1月23日夜午前3時)に伏見町奉行配下の捕り方に襲われるのですが、袴は次の間に置いてあったので、着流しのまま大小を差して云々とある(慶応2年12月4日付の兄権平、一同宛の書簡)ので、そのドタバタの格闘・逃走の際に疵付いたり汚れたりしたのだと。その後、伏見薩摩屋敷、京都薩摩屋敷に匿われて、そして大坂蔵屋敷へ移ってから3月4日に薩摩藩船三邦丸に乗船して鹿児島へ旅立っているので、大事な短刀を手当てする暇が無かった。で、鹿児島でやっとそれが可能になったのだと。

3枚の写真の龍馬の腰にある短刀をそれぞれ拡大したのが下側の写真。帯に差したそれぞれの角度に多少の違いがあるので判断し難いですが、そして右端のものが不鮮明で分かり難いですが、いずれも同じ拵えです。(右端のものについて以下に理由を述べます。)

右端の写真ですが、『坂本龍馬全集』(平尾道雄監修、宮地佐一郎編集・解説、光風社出版)によると、向かって龍馬の右側にいる腕組みをしている人物が伊藤助太夫、左側のかしこまっている人物が伊藤家の使用人とあり、撮影時期については慶応2,3年ごろとあります。

助太夫は、長府藩領長門国赤間関の大年寄で、下関阿弥陀寺町に「本陣」と呼ばれた大名相手の旅館(部屋数が20、畳数で1,100を越える広大な屋敷であったと云う)の主人。龍馬は馬関商社設立準備のために慶応2年暮れから助太夫のもとに寄寓し、慶応3年2月には長崎からお龍を呼び寄せて、「自然堂」(じねんどう)の額の掛かった座敷を借りて夫婦生活の拠点としています。お龍が龍馬の悲報を聞いたのもここでした。

写真の龍馬は、中央のものと同様に左手を懐手。左端の写真も左手を右手で覆うようにしています。(中央の写真と一緒に撮ったと思える、椅子に座った斜め横向きの写真でも左手を右手で庇うようにしています。)なぜなら、寺田屋で遭難したときのこと、捕り方の一人が障子の陰から脇差でもって龍馬に斬り付け、短銃を拝み持つ龍馬の右手親指の根もとを削ぎ、左手親指の節を切割り、左手人差し指根もとの骨の関節を切ったからです。これら刀創の中でも左手人差し指の傷は動脈に達しており、鹿児島での湯治では機能回復しなかったのです。つまり、右端の写真も鹿児島の湯治行から長崎に戻って来た以降のものであることだけは確かなのです。

さて、龍馬が長く愛用したこの短刀ですが、太刀は取っ換え引っか換えしている(吉行でさえ5ヶ月ほどしか帯刀していない)のに、これほどまでに大切にしてきたのにはワケがある筈。そのヒントとなるのが、千葉佐那に取材した「坂本龍馬氏の未亡人を訪う」と題する記事(明治26年『女学雑誌』352号、山本節著)です。そこには「天下静定の後を待って華燭の典を挙げんと請う。厳君(定吉)これを許し、阪本氏またこれを諾す。時に女史(佐那)、年二十一、二。これにおいて女史の家より聘礼(ユイノウ)として短刀一口(フリ)を阪本氏に贈る。阪本氏は云う、余に一物の聘礼に充つべきなし、やむなくんば春嶽公より拝領してすでに着古びた袷衣(アワセ)衣(桔梗の紋、付けたるもの)一領をもって聘礼に代えんかと。すなわちこれを千葉家に贈る。」とあるのです。

註)カッコ内が片仮名のものは本はルビであったもの。この記事の信憑性については、「千葉灸治院」(明治25年に東京府南足立郡千住で灸治院を開業していた佐那に小田切謙明・豊次夫妻が面会取材した内容をもとに高木薫明が『土佐史談』170号に発表)の中でも「押し入れより(佐那は)大事に保管してある由緒ありげな小箱を取り出し、箱の中の布切れを謙明夫婦の前に拡げた。黒紋付いた着物の小袖で、それには桔梗を輪違いで包んだ紋が染めぬかれていた。」とあることからも明確です。

佐那からの付け文も後生大事に隠し持っていた龍馬のことですから、龍馬にとって二度目の出府(安政4~5年、特に安政5年)当時の思い出には特別な感慨があったのでしょう。その思いの象徴が短刀。常に腰に帯びて、眺めてニンマリ、擦ってニヤニヤしていたかも。

近江屋で暗殺されたときにも腰に帯びていた筈のこの短刀、その後は吉行同様に土佐の実家に返された筈なのですが、一体全体何処へ行ったやら。巻物は帰ってきたけど、短刀となると、無銘でもあるし、難しいかも。(-_-;)

これにて、「没後150年坂本龍馬展」に纏わる物語は、一巻の終り。



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