「デュエット」
二重唱とか二重奏のことですが、もう一つ意味があるのですよね。
それは、ユーモラスな表現として、「二人だけの対話」というもの。
ちあきなおみがコロムビアからデビューする前年に預けられたのが作曲家
鈴木淳のところ。
ドサ回りをしているうちに、客受けのする演歌の(まわり過ぎる)コブシ
が身についてしまっていたので、それを取り除くために、西田佐知子の
ストレートボイス唱法が徹底的に叩き込まれた。だから初期の歌には、
あの魅惑的なビブラートが使われていない。
時代は演歌からポップな歌謡曲へと移り変わり、デビュー曲も8ビートの
「雨に濡れた慕情」。
♪雨の降る夜は 何故か逢いたくて
濡れた舗道をひとり あてもなく歩く
昭和44年6月10日発売ですから、僕が大学3年のとき。その頃は比較
的時間に余裕があって、朝ものんびりできたからでしょうか、そのプロモ
ーションビデオ(朝に流れていた)を何度も見た記憶があります。
トレンチコートに身を包んだちあきが、降りしきる雨の夜をさ迷い歩く
モノクロ映像でしたが、その陰のある大人びた面差しに惹かれたことを
否定はしませんが、なんと上手い歌手なんだろと思ったことも確か。
2曲目のシングル(同年11月10日発売)「朝がくるまえに」も鈴木淳
の手になるものですが、その直後にヒット祈願で二人が訪れたのが鈴木の
故郷(山口県防府市)にある防府天満宮(そこの権宮司は鈴木の兄)。
そして祈願の後、市内のクラブで仲睦まじいデュエット姿を留めたのが
このスナップ写真。
祈願の甲斐あってか、翌45年4月の「四つのお願い」、8月の「X+Y=
LOVE」と立て続けにヒットを飛ばしますが、46年6月の「私という女」
が鈴木との最後の作品になります。
「四つのお願い」(オリコンチャート4位)、「X+Y=LOVE」(同5位)
でしたが、ちあき本人は、“(こんな歌を歌わされて)これで私の歌手人生も
終わりだ”と嘆いたそうです。
そういった不満の声に応えたのだと思うのですが、コミカル路線をがらり
と変えて「別れたあとで」(45年11月)では大人の路線に戻ります。
「私という女」(オリコン24位)までは、その後の売上と比べてもまあ
まあの状態だったのですが…。
それなのに、なぜ突然のコンビ解消に至ったのか。その経緯がなんともはや…。
或る日のこと、スタジオで収録中のちあきに、銀行から金を借りて家を建て
ようとしていた鈴木がその銀行に口座を作ってもらえないだろかと頼んだ。
鈴木は担保なしで銀行から金を借りる条件として、売れっ子のちあきに口座
を開設させることを約束したらしい。
そのちあきを口説く様子がちあきの所属する三芳プロの社長(吉田尚人、ちあき
のマネージャーも兼ねていた)にはどのように映ったのでしょうか。
鈴木の女癖の悪さを知っていたからか、吉田の焼きもちからか、大声で鈴木を
怒鳴った。鈴木も怒鳴り返した。それで一巻の終わり。
その後、ちあきに代わって鈴木が育てたのが八代亜紀。
ちあきと鈴木との間で交わしたコソコソヒソヒソの内緒話(デュエット)は、写真の
デュエットとは全く異なる結果をもたらし、「喝采」(昭和47年9月10日発売)まで、
ちあきは鳴かず飛ばずの状態が続きます。
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