無名作家の一生
大学進学で、僕は、広島大学医学部を選んだ。
僕が、医学部に進学することを選んだのは、将来、医者になって、病める人々を救おう、などという、高邁な理由からでも、さらさらなかった。
高校時代、僕は、将来、自分が、何になりたいのか、どうしても、分からなかった。
それで、医学部に進学することにした。
医学部は、4年間ではなく、6年間である。
6年間のうちには、きっと、自分の、本当にやりたい事が、見つかるだろう、という、モラトリアムの心理からである。
○
さて、医学部に入った、最初の二年間は、教養課程で、教養課程では医学とは、関係のない、様々な、学問を学ぶことになった。
僕は、自分の天職という物を探していたので、教養課程では、そのヒントが、見つかりはしないかと、全ての、授業に出席して、真剣に勉強した。
しかし、それは、講義に出ても、なかなか見つけられず、また、見つけられそうにも感じられなかった。
それで、僕は、色々と、本を読むことにした。
小説とか、文学には、高校の時に読んで、面白くなくて、失望していたので、興味がなく、自分に、興味のある、哲学や、心理学、偉人の自伝、思想書、宗教書などを、読んでみた。
ある心理学の本を、読んでいた時のことである。
その中に、日本や世界の、偉人の、病跡学、という、項目の中で、日本の文豪である、谷崎潤一郎という、作家が、マゾヒストである、と、書かれている一文を見つけた。
僕は、それを、ウソではないかと、疑った。
高校の時、国語の勉強のために、僕は、かなり、文学書を読んだ。
しかし、それらは、全て、「人間は、いかに生きるべきか」という、真面目で、重いテーマの内容ばかりで、それらに、面白さは、感じられなかった。
ただ、国語の受験勉強の中で、谷崎潤一郎という小説家が、日本を代表する、文豪の一人で、耽美派という範疇の小説家であり、代表作は、「刺青」、「痴人の愛」、ということは、読みもしないが、知識として、覚えて、知っていた。
なので、僕は、ある日、その心理学書で、書かれている、谷崎潤一郎が、マゾヒストである、ということが、本当なのか、どうか、確かめるために、近くの書店に行ってみた。
新潮文庫の書棚の、谷崎潤一郎のプレートの所では、「刺青、秘密」、と、「痴人の愛」、の二つがあった。
「痴人の愛」は、一編の長編小説であり、「刺青、秘密」は、初期の頃に書いた、短編集だった。
文学書とは、つまらない物と思っていたので、長編小説は、読む気になれなかったので、短編集である、「刺青、秘密」を買った。
そして、読み出した。
読んでいるうちに、僕は、今まで、経験したことのない、驚き、と、興奮、と、歓喜を、感じた。
美しい文章、読者の官能を刺激せずにはいられない、美しい、マゾヒスティックなエロティシズムのストーリー。が、ページの中に、光り輝く真夏の太陽のように、あふれんばかりに、横溢していた。
僕は、貪るように、一気に、「刺青、秘密」を読んだ。
「刺青」、「少年」、「幇間」、が、特に、エロティックだったが、「刺青、秘密」に収められている、7編、の小説は、全てが、美しいエロティシズムの表現だった。
文学は、真面目な物、堅苦しい物、という、僕の先入観は、この一冊によって、粉々に砕け散った。
僕は、数日後、また、書店に行って、「痴人の愛」、を買った。
そして、読んだ。面白いので、一日で、一気に読めた。
これもまた、谷崎潤一郎という作家の、素晴らしく、美しい、マゾヒスティックな、女の美しさに、かしずく小説だった。
僕は、もっと、もっと、谷崎潤一郎の、小説を読みたくなった。
出来れば、その作品の全てを。
しかし。書店には、「刺青、秘密」、と、「痴人の愛」、の二冊しか、文庫本がなかった。
それで、僕は、書店で、谷崎潤一郎の文庫本で、手に入れられる物を、すべて注文した。市立図書館では、谷崎潤一郎全集は、あるかもしれないが、全集は、大体、本が分厚くて、文字が小さくて、読みにくいし、それに、二週間したら、返却しなくては、ならない。
僕は、本は、文庫本で、そして、自分の物として、いつまでも、死ぬまで、とっておきたかったので、書店に、注文して、谷崎潤一郎の本が、届くのを待つことにした。
待つことには、僕は、それほど、気にはならなかった。
それより、谷崎潤一郎という、小説家を知ったことによって、僕の文学に対する、見方が、180°変わってしまった。
文学には、こんな、自由奔放な、素晴らしい、作家、や、作品もあるのだ。
高校の時、国語の勉強のために、嫌々、読んだ文学書では、不運にも、それに、巡り合えなかった、だけなのだ、と。僕は、知った。
僕は、文学に対する認識を、あらためた。
僕は、谷崎潤一郎の他にも、面白い、作品や、作家は、あるだろう、と思った。
僕は、書店に行って、もっと、もっと、面白い作家は、いないか、探すことにした。
しかし、僕は、文学には、疎いので、作家や、その作品を、ほとんど知らない。
なので、いい作品、面白い作品に、出会うため、片っ端から、読んでみることにした。
三島由紀夫は、ノーベル賞候補に上がった、ことも、あるほどの、作家ということだったので、高校の時、国語の勉強のために、傑作と言われている、「金閣寺」という作品を読んでみていた。
しかし、面白くもなく、また、難解で、よくわからなかったので、三島由紀夫は、面白くない、作家だと思って、「金閣寺」の、つまらなさ、難解さ、から、拒絶反応が起こって、それ以外は、読まなかった。
しかし、新潮文庫の、三島由紀夫のプレートの所を、見ていると、「仮面の告白」という、小説が、目に止まった。
「仮面の告白」、というタイトルから、何となく、面白そうな気がした、からである。
長編小説だが、分厚くなく、むしろ、213ページと、薄い。
それで、最初の数ページを、パラパラッと、読んでみた。
すると、最初のページから、「あのこと」、つまり、セックスのことを、書いた文章に、出くわして、驚いた。
それで、もう一度、三島由紀夫、に挑戦しようと、「仮面の告白」を、買って、その日のうちから、読み始めた。
この作品は、「金閣寺」とは、違って、わかりやすかった。
ひとことで言って、三島由紀夫が、自分の性欲に焦点を当てて、書いた自伝的小説だった。
通常の男と違って、女に関心を持てない、ホモ・セクシャルであり、また、空想では、サディストであって、好きな男を、次々と殺す、夢想を楽しんでいた、ことなど、とんでもない事が、露骨に書かれていた。
谷崎潤一郎の作品と違って、陶酔するような、美しいエロティシズムは、感じなかったが、文学とは、かくも、自由奔放であり、思っていることは、何でも表現していい、素晴らしい、ものである、ということを知って、僕は、ますます、文学に関心を持つようになった。
川端康成の、「伊豆の踊子」には、素直に、感動した。
石川啄木の、短歌は、よくわからなかったが、たまたま、読んでみた小説、「二筋の血」は、啄木が、子供の頃に、一人の、女の子を好きになった体験を小説化した作品だが、それは、谷崎潤一郎の作品に、勝るとも劣らぬ、ほとの、美しく、可愛く、切なく、そして、可哀想な、無邪気な、子供の恋愛小説だった。
○
数日して、書店に注文しておいた、谷崎潤一郎の、文庫本が、10冊ほど、届いた。
すぐに読み始めたが、谷崎潤一郎の、作品は、どれも、マゾヒスティックな、エロティックな、小説で、ほとんど全ての作品で、心地よさを、味わえた。
しかし、僕は、谷崎潤一郎の、作品を読むのと、同時に、他にも、いい作家や、作品は、ないか、探し続けた。
僕の感性に合わない、つまらない作品で失望する小説も、多かったが、僕の感性に合う、面白い作品に出会えることも、あった。
こうして、僕は、どんどん、文学の世界の深みに、はまっていった。
文章の美しさ、文章の味、というものも、わかってきた。
芥川龍之介の文章など、実に美しい。
僕は、だんだん、自分でも小説を書きたいと思うようになっていった。
というか。正確にいうと。
谷崎潤一郎の、初期作品集である、「刺青、秘密」を、読み終えた時に、「これだ。これこそが、自分の心の内に、溢れんばかりにある、思いを、表現できるものは」、と、決定的に思ったのである。ただ、谷崎潤一郎の、作品が、あまりにも、美しく、偉大すぎたので、自分が、ああいう文章を、はたして書けるのか、どうか、ということには自信がなかったのである。
しかし、多くの、素晴らしい文学書を、読んでいくにつれ、自分でも、小説を書きたい、という欲求が、募っていって、もう、その欲求を、押さえることが、出来なくなってしまったのである。
僕の心の中には、表現したい、と思っている、思い、夢想が、無限ともいえるほど、あるのである。
それで、僕は、小説を書き出した。
最初に書いたのは、小学校6年の時のことである。
恥ずかしがり屋で、好きな女の子に、告白できないで、煩悶している、少年と、その少女のことを、ヒントに、恋愛小説に仕立てた。
お話しを書くのは、生まれて、初めてだったので、骨が折れ、とても疲れた。
しかし、多くの文学書を、丁寧に、よく読んでいたことが、文章を書くための、スキルアップにも、利していたのだろう。
それで、何とか、書き上げることが出来た。
書き上げた時の、喜びといったら、それは、言葉では、言い表せないほどのもので、あたかも真夏の太陽に向かって、自分が鳥になって、飛翔していくような、この世離れした、歓喜だった。
タイトルは、「忍とボッコ」とした。
男の名前が、「忍」で、女の子の、あだ名が、「ボッコ」、だったからである。
一作だか、小説を書き上げられると、自分にも、小説を書くことは、出来るんだ、という、自信がついた。
それで、僕は、小説を、どんどん、書いていった。
18歳で自殺した岡田有希子さんの、夭折の人生が、あまりにも美しく、その人生を、僕は、表現したいと思っていたので、彼女の人生を、フィクションも入れて、小説風に書いてみた。
タイトルは、「ある歌手の一生」とした。
次は、女子高に、来た、男子教師が、一人の、女子生徒に恋してしまう、という、架空の小説を書いた。
タイトルは、「高校教師」とした。
こうして、僕は、次々と、小説を書いていった。
ある時。
僕は、食堂の掲示板に、
「文芸部員募集。文集を作るので、作品を募集しています。文芸部員でなくても、構いません」
という、貼り紙を見つけた。
僕は、処女作、「忍とボッコ」を、書き上げた、はじめの頃は、書き上げた、ということだけに、純粋に、嬉しさを感じているだけだった。
しかし、何作も、小説を書いているうちに、だんだん、それを、自分で読むだけの自己満足ではなく、他の人にも、読んでもらいたいと、思うように、なった。
また、自分の書いた小説を、他人が読んだ時、どう感じられるのか、その感想と、そして、作品の文学的評価も知りたく、なっていった。
それは、創作する人間にとっては、至極当然の感情だろう。
ある日、僕は、勇気を出して、文系部の、部室に行った。
自分の書いた、いくつかの作品を持って。
トントン。
僕は、文芸部の、部室のドアをノックした。
「はい。どうぞ」
部屋の中から、大きな声が聞こえてきた。
ガチャリ。
「失礼します」
僕は、ドアノブを回して、戸を開けた。
部屋には、8人くらい、着ける、大きなテーブルがあって、一人の男子生徒が座って、本を開いていた。
壁際の書棚には、ズラリと、本が並んでいた。
「はじめまして。山野哲也といいます」
と、僕は、畏まって、お辞儀をした。
「はは。そんな、堅苦しい挨拶なんて、いらないよ。ここは、教授室じゃないんだから」
彼の気さくな、くだけた、態度に、僕は、精神的に、リラックス出来た。
「ともかく座りなよ」
彼に言われて、僕は、彼と向き合うように、テーブルについた。
「用は何?」
彼が聞いた。
「あ、あの。食堂の掲示板の、貼り紙を見て。小説をいくつか、書いたので、見ていただけないかと思って・・・」
僕は、少し緊張して、どもりどもり言った。
しかし、僕としては、自分の書いた小説を、人に読んでもらうのは、生まれて初めてのことなので、しかも、相手の生徒は、おそらく文芸部員で、文学に詳しいだろうから、気の小さい僕が緊張したのは、無理もないことだ。
僕は、あたかも、出版社に、小説を持ち込む、小説家をめざす、文学青年のような、気持ちだった。
「ほう。君。小説を書くの。すごいね。どれどれ。ぜひ、君の書いた小説を見せてくれない」
すごい、と言われて、僕は、照れくさく、恥ずかしくなった。
僕は、自分の書いた小説は、そんな大層なものではないと、思っていたから。
僕は、ワープロで、印刷した、小説の原稿を、カバンから、取り出して、おどおどと、彼に渡した。
「ほう。結構、書いているんだね」
そう言って、彼は、原稿を、受けとった。
「ちょっと、10分、くらい、待ってて。読むから」
そう言って、彼は、僕の書いた、小説を、読み始めた。
目の動きや、原稿を、めくるスピードが、かなり速い。
僕は、今、まさに、自分の書いた小説が、おそらくは、文学に詳しい人に、読まれている事実に恐縮していた。
顔は、無表情だが、心の中では、幼稚な小説だな、と、嘲笑っているのかも、しれない、という疑心まで起こってきて、顔が赤くなった。
大体、10分、くらいして、彼は、原稿の束を、テーブルの上に置いた。
「読んだよ。全部。なかなか面白いね。いかにも、君が書いた小説って、感じが伝わってくるね」
と、彼は、感想を言ってくれた。
僕は、なかなか面白いね、という言葉が、単純に、嬉しかった。
彼の、単刀直入な言い方から、彼が、心にも無い、お世辞を言う性格には、見えなかったので、僕は、彼の感想を素直に信じた。
「この作品の中で、一番、最初に書いたのは、忍とボッコ、でしょう?」
「うん」
「君。谷崎潤一郎が好きでしょう?」
「うん」
「君。小説を書き出したのは、比較的、最近でしょう」
「うん」
「いつから、小説を書き出したの?」
「大学に入ってから。だから、半年、前くらいから」
彼の、言っていることが、全て当たっているので、僕は、彼の炯眼さに驚いた。
「ところで君は、何学部なの?」
彼が聞いた。
「医学部です」
僕は答えた。
「何年生?」
「一年です」
「そうなの。僕は、文学部。石田誠。二年生。一応、文芸部の主将ということに、なっているけどね」
彼が、文学部だろうとは、一目、見た時から予想していた。
「どうして、一応、なんて、言い方をするんですか?」
彼が、単刀直入で、謙遜するような、性格には、見えなかったので、僕は、疑問に思って、聞いた。
「部員が少ないからさ。僕を入れて、部員は、三人しか、いないんだ。学校が、部員の数が、それだけでは、廃部にする、と言ってきたのを、僕が、必死に頼んで、何とか、学校に、残させてもらっているような状況だからさ」
なるほど、と、僕は思った。
「そうなんですか」
「他の二人の部員は、小説は、よく読んでいるんだけど、自分では、小説を書かなくてね。小説の、感想や、文学論みたいなものばかり、書いているんだ。まあ、それでも、書かないよりは、有難いけれどね。作品が集まらないと、文集を作れないから、君の小説は、文集に載させてもらうよ」
「有難うございます。でも、あの程度の、小説で、いいんでしょうか?」
「全然、構わないよ。君は、大学に入ってから、小説を書き始めた。と、言ったね。そういう人は、やむにやまれぬ思いから、小説を書き出した人が、多いから、本当に、表現したい物を持っている人である、場合が多いんだ。僕は、君の作品を読んで、君が、表現したい、情熱をもっていることを強く感じたよ。むしろ、中学生とか、あまりにも早い時期から、小説を書き出した人には、子供の頃から、小説を読むのが、好きで、趣味で読んでいて、自分も、真似して書いてみよう、という、軽い、遊びの感覚で、小説を書いている場合が、多くて、本当に、表現したい物は、実は、持っていない、という場合が、結構、多いんだ」
僕は、なるほど、そうかもしれないな、と思った。
「先輩も、当然、小説を書くんですよね?」
「うん。書いているよ」
「先輩は、いつから、小説を書き始めたんですか?」
「そうだね。高校生の時からだね。文学書を、読むのは、好きだったから、子供の頃から、よく、読んでいたけどね。高校から、自分でも、書こうと思い出して、書き始めたけれど、なかなか、満足のいくものが、書けなくてね。いくつか、作品は、書いたけれど。本当に、満足できる作品は、まだ、書けていないんだ」
彼の創作意欲は、趣味の、遊び感覚の、ものとは違う、本当の、表現欲求から、来ているのだと、僕は思った。
「先輩は、将来、小説家になろうと思っているんですか。文学部に入ったのも、そのためですか?」
僕は聞いた。
「まあ、そうだけどね。でも、なろうと思って、簡単に、なれるものじゃないからね。でも、自分が、本当に、満足のいく、小説は、書くことを、やめないで、努力して、続けていれば、きっと、いつか、満足のいく作品が書けると思っているんだ。今のところ、僕は、一生、小説を、書き続けようと思っているんだ」
「では、先輩の目から見て、僕は、小説家になれると思いますか?」
「書く、という行為を、すること自体が、もう、作家の資質があるということさ。あとは、その気持ちが、一生、続くか、どうか、だね」
そう言って彼は、紅茶を啜った。
「ところで、君は、文芸部に入ってくれるんだよね?」
先輩が聞いた。
「ええ。入ります」
僕は、躊躇なく答えた。
そのあと、先輩と、色々と、雑談した。
彼は、日本の文学は、あまり読まなくて、外国の文学ばかり、読んでいること、日本の作家では、安部公房や村上春樹が、好きなこと、大学受験では、慶応大学にも受かったけれど、親が国立である、広島大学に進学するよう強制したので、仕方なく、広島大学に入ったこと、などを、語った。
彼は、好きな作家として、外国文学の、ヘルマン・ヘッセ、トーマス・マン、フランツ・カフカ、その他、現代の、作家の名前を、いくつも、あげた。だが、僕には、そのどれも、聞いたことのない、名前ばかりだった。○○○○○○
彼は、高校時代も、文芸部で、高校時代に、出した、文集に、彼の、作品を載せたのが、あるので、それを、僕に、渡してくれた。
それと、部室の書棚にあった、安部公房の小説や、トーマス・マン、の、「魔の山」など、小説を、数冊、渡してくれて、よかったら、読むように、勧めてくれた。○○○○○○
僕は、それらを、受けとって、アパートに帰った。
文学を本気で、志している人と、会えて、また、自分の書いた小説も評価してもらえて、とても、嬉しかった。
彼の言うことは、全て、最もなことのように、思えた。
僕は、彼が、高校時代に出した、文集、の中の、彼の作品を、真っ先に読んでみた。
文章は、上手く、滑らかだが、何を言いたいのか、何となく、漠然と、わかる気もするが、やはり、よく、わからなかった。
ついでに、ヘルマン・ヘッセの、短い、短編小説を、読んでみたが、これも、何を言いたいのか、よくわからなかった。
なので、優れた文学とは、何を言いたいのか、よくわからない作品なのだという、変な理屈を持った。
外国文学は、とても、読む気がしなくなって、安部公房や、村上春樹を、読んでみたが、これも、何を言いたいのか、よくわからない。
しかし、文章は、上手い。
しかし、その程度で、僕には、外国文学は、わからない、とまでは、結論づけなかった。
いつか、わかる日が来るかもしれないと、積ん読、に、とどめることにした。
ちょうど、絵画でいうなら、ピカソの絵は、わけがわからないが、専門家の目から見ると、高尚な芸術であるらしいが、その逆に、一見して、わかってしまう、絵画は、大した価値が無い絵画、というような、理屈と同じだと、思った。
思った、というより、思うことにした、と言った方が正確である。
そもそも欧米人は、歴史的に見ても、物の考え方にしても、スケールが大きい。
それに比べ、日本は、小さな島国で、徳川時代は、260年間も、鎖国をしてきて、源氏物語や、清少納言のように、もののあわれ、や、感情の機微は、知っていても、日本の近代文学には、欧米のような、スケールの大きなものは、ない。
しかし、僕も、日本文学なら、わかる。
谷崎潤一郎だって、ノーベル文学賞候補にあがった、ことがあるほどだから、間違いなく、優れた文学であることには、違いない。
なので僕は、谷崎潤一郎の、作品を読みながら、また日本の面白い、小説を探して読みながら、同時に、自分の書きたい小説を、書いていった。
○
二ヶ月ほどして、文芸部の、文集が出来た。
僕の、作品二作と、石田君の、新しい作品、一作と、あと、文芸評論みたいな、作品が、数作、と、文学部四年生の学生の、卒業論文みたいなもの、が、載っていた。
僕は、五作品、石田君に、預けたのだが、残りの三作は、作品が、なかなか集まらなくて、文集を作れなくるのを、考慮して、次期、作る、文集に載せる、ための、ストックにしておく、と言った。
石田君の、小説は、文章は、上手いが、やはり、何を言いたいのかは、よくわからなかった。
自分の、小説が、活字になって、文集に載っても、僕には、それほど、嬉しくなかった。
文集は、所詮、文集で、発行部数も、たかが、200冊で、たかがしれているからだ。
そうこうしているうちに、僕は、教養課程の二年を終えた。
○
三年からは、基礎医学で、医学一色の勉強になった。
三年、四年、の、基礎医学は、人体の構造や、病気の原理を学ぶ、学問である。
三年では、組織学。解剖学第一。解剖学第二。生理学第一。生理学第二。生化学。
四年では、病理学第一。病理学第二。免疫学。腫瘍病理学。細菌学。薬理学。寄生虫学。衛生学。公衆衛生学。法医学。である。
そもそも、僕は、理数科系が得意といっても、数学や物理などの、ガチガチの論理的科目が、得意で、生物学は、好きではなかったので、基礎医学は、つまらなかった。
毎日、分厚い、医学書を読み、顕微鏡で、極めて薄く切り取られて、ピンク色に染色された、人体の組織を、スケッチする単調な毎日だった。
それでも、理屈がわかれば、面白かった。
僕は、基本的に、何事でも、勉強熱心である。
基礎医学の勉強は、ほとんど、遊びの、教養課程の勉強と違って、覚える量が多く、本格的だった。
なので、小説を書く、ゆとり、が無くなって、小説を、書く、時間は、取りにくくなった。
読書は、好きになっていて、小説を書く参考にもなると思っていたので、書く、より、読む、方に、うつっていった。
しかし、僕の心は、もう、小説を書くことにしか、人生の価値を見いだせず、いつも、小説の、ストーリーのヒントに、なるものは、ないかと、絶えず、それを探すように、なった。
そういう目で、世の中や、自分の身の回りを見るようになっていた。
そして、小説の、インスピレーションが、起こると、すぐに、それをメモした。
やがて、石田君の、卒業が近づいてきた。
石田君は、東京の、大手の、出版社に就職することに決まった。
就職活動では、そんなに、困らなかったという。
石田君は、文学新人賞に、作品を応募して、小説家になる、夢を持ち続けていた。
「小説、書くのをやめたらダメだぞ。オレも、一生、書き続けるからな」
と、石田君は、言った。
石田君は、僕に、どっちが、先に、小説家になれるか、競争しようと、笑って言った。
石田君は、僕の、文学での、良き友人であると、同時に、良きライバルでもあった。
冗談も、半分あるだろうが、本気も、間違いなく、あるだろう。
やがて、石田君は、卒業した。
○
僕は、四年の、基礎医学を終えて、五年の、臨床医学に進んだ。
臨床医学は、無味乾燥な、基礎医学と、違って、面白かった。
臨床医学とは、内科、外科、産婦人科、小児科、眼科、泌尿器科、他、つまり、全ての、医学の科目を、学ぶ学問である。
まず、教科書を選ぶ困難がなかった。
全ての科の勉強は、医師国家試験用の、教科書で勉強することが、出来たからだ。
医学生は、卒業する、約一ヶ月前に、医師国家試験を受ける。
医師国家試験は、大学の、臨床医学と、同じではあるが、大学の、アカデミズムに比べると、レベルは、少し下がり、国家試験用の、教科書は、分厚くなく、わかりやすく、使いやすかった、からである。
皆も、そうだが、臨床医学の授業は、国家試験用の、教科書で勉強していた。
そして、五年の二学期から、臨床実習が、始まった。
臨床実習とは、大学の付属病院で、実際に、患者を診る勉強である。
五人で、一組の班となって、全ての科を回っていくのである。
臨床実習の勉強は。教授回診の見学。手術の見学。大学病院の先生のレクチャー。入院患者や、課題を出されて、そのレポート書き。などである。
レポート書き、は、多少、面倒くさく、見学の方が、楽で、面白かった。
なにせ、生きて、病気と闘っている患者である。
それを、医学という、長い長い、時間の中から、数限りない、学者たちが、築き上げてきた、医学という学問が、何とか、必死で、治そうとしている、壮絶な戦いである。
しかし、臨床実習と、医師国家試験の準備の勉強で、忙しくなって、僕は、ひとまず、医師国家試験に受かるまでは、読書も、小説創作も、おあずけ、にして、勉強に、専念することにした。
それほど、臨床医学は、忙しく、また、やりがいも、あった。
そもそも、小説家になるには、若い時の、人生体験というものが、作家になってから、大きく、ものをいうのであり、若い時に、真剣に生きる、ということが、すなわち、小説を書く、訓練でも、あるのだ。
それで、僕は、臨床実習も、臨床医学の勉強も、国家試験の勉強も、精一杯、やった。
それで、僕は、無事、医学部を卒業し、医師国家試験にも、通った。
僕は、関西は、どうしても、気質が、肌に合わないので、研修は、関東でしたかった。
できれば、神奈川県か、東京都、の医学部で、研修したかった。
それで、前もって、入局願いの、手紙を、東京の、医学部に、たくさん、出していた。
関東や東京には、医学部が、たくさんある。
どうせ、ダメだろうと思っていたのだが、入局者の定員が足りない、ということで、東京大学医学部の、第一内科から、入局を、認める、手紙が、来た。
天下の、東京大学医学部、ということで、僕は、ちょっと、ビビったが、医師国家試験に通ってしまえば、研修医も法的には、立派に医者であり、医者になってしまえば、対等だろうと、僕は、思っていた。
僕は、卒業すると、すぐに東京都内に、アパートを借りて、引っ越した。
卒業してから、入局して研修が始まるまでには、一ヶ月ほど、期間がある。
ほとんどの、医学生は、海外旅行に行く。
もう、一切の受験勉強から、解放されて、僕は、小説を書き始めた。
五年、六年の、臨床医学になってからは、小説は、ほとんど、書いていなかったが、小説の、インスピレーションは、メモしていたので、あとは、それを書くだけだった、からだ。
五、六作品、僕は、一気に、小説を書き上げた。
○
やがて、一ヶ月して、東京大学医学部の第一内科に、入局する日が来た。
医学部に、近づくのにつれ、僕は、だんだん、足が、ガクガク震え出した。
僕も、国立の医学部を出たんだぞ、と、自分に言い聞かせ、無理して、自分に自信を持とうとしたが、相手は、天下の、東大医学生である。東大医学部である、東大理科三類の偏差値は、最低でも、駿台模擬試験で、偏差値80は、超してなければ、入れない。
東大理科三類は、日本で、一番、頭のいい人間の、上から、100人のみが、入れる、所なのである。
僕は、全身をガクガクさせ、滲み出る、冷や汗を、ぬぐいながら、第一内科の医局をノックした。
トントン。
「はい。どうぞ」
中から、声がした。
僕は、手をブルブル震わせながら、ドアノブを回した。
おそるおそる、医局の中を、覗くと、10人くらいの、カジュアルな、服を着た、僕と、同い年くらいの、男達が、タバコを吸いながら、喋っていた。
東大医学部、第一内科の、新入局者たちだろう。
僕は、もちろん、新調した、紺のスーツに、ワイシャツに、ネクタイの正装だった。
皆の目が、サッと、僕に集まった。
皆、スーツの正装で、来ているものだと、思っていたので、自分一人だけ、スーツの正装というのが、とても、ばつが悪かった。
「おめえ。誰だ?」
眼鏡をかけた、鋭い目つきをした、赤シャツを着た、男が聞いた。
「は、はい。今日から、第一内科に、入局することになりました、山野哲也と申します。よろしく、お願い致します」
僕は、コチコチに緊張して、深々と、頭を下げた。
「おい。外部からの、入局者が、いるなんて、聞いてるか?」
赤シャツを着た、男が、皆に向かって聞いた。
「さあ、知らねえな」
「そんなこと、聞いてないぜ」
と、皆は、口々に言った。
その中で、一人、青シャツを着た男が、口を開いた。
「オレ。知ってるぜ。なにか、今年は、入局者が、少ないから、特別に、他の大学から、研修医を、募集するかも、しれないって、中山信弥先生が、言ってたぜ」
中山信弥先生とは、東京大学医学部、第一内科の主任教授で、臨床医であると同時に、日本の再生医療の権威だった。
「ほう。そうか。するってえと、おめえが、外部からの研修医か。大学は、どこだ。京大か。慶応か?」
青シャツを着た男が聞いた。
「は、はい。広島大学医学部です」
僕は、小声で答えた。
「ぎゃーははは。広島大学だとよ」
皆が、腹を抱えて笑った。
「広島大学に医学部なんて、あったか?」
青シャツを着た男が、皆に聞いた。
「さあ。知らねえな」
「医学部といえば、東大か、京大か、慶応、以外は、クズだからな。知らねーな」
皆、本当に、知らないような、感じだった。
広島大学医学部にいた時、友達に、東大医学部は、プライドが高い連中ばかりだから、気をつけろ、と、言われていたが、まさか、ここまで、すさまじいとは、知らなかった。
しかし、駿台模試でも、広島大学医学部は、偏差値58の学力が、必要で、その学力があれば入れるが、東大理科三類は、偏差値80でも、合格の保証はない。
なにせ、日本で、トップの頭脳の人間、100人のみが、入れる大学なのだ。
「ところで、お前、国家試験では、何点とったんだ?」
黄色いシャツを着た男が聞いた。
医師国家試験は、60点合格の資格試験である。
僕の、国家試験の成績は、65点だった。
僕は、正直に、「65点です」、と、言おうかと、思ったが、「低すぎる」と、また、バカにされそうな気がしたので、
「な、75点です」
と、声を震わせて、ウソを答えた。
「ぎゃーはははは。75点だとよ」
東大生たちは、皆、腹を抱えて笑った。
「おい。お前、何点だった?」
赤シャツを着た男が、青シャツを着た男に聞いた。
「そんなこと、聞くまでもないだろう。100点に決まってんじゃねえか」
と、青シャツを着た男が、言った。
「そういう、お前は、何点だったんだ?」
青シャツを着た男が、赤シャツを着た男に、逆に、聞き返した。
「オレだって、もちろん、100点さ」
赤シャツを着た男は、ゆとりの口調で、言った。
「おーい。みんな、何点で、合格した?」
赤シャツを着た男が、皆に聞いた。
「オレも100点」
「オレも100点」
みんな、口々に、言った。
全員が、100点、での合格だった。
僕は、タジタジとした。
「おい。愚図野郎。医師国家試験なんて、あんな簡単な、試験はな。満点とって、当然の試験なんだよ」
そう、赤シャツを着た男が、言った。
「おい。こいつの、頭のレベルを、試してみようぜ」
青シャツを着た男が、言った。
「そうだな」
「賛成」
みな、賛同して、決まった。
「じゃあ。まず、暗算の能力だ。黒シャツ。お前が答えろ」
そう、赤シャツを着た男が、言った。
「オーケー。いつでも、いいぜ」
黒シャツを着た男が、余裕の笑顔で言った。
「では・・・・。7986+4838は?」
赤シャツを着た男が、言った。
(えーと。6に8を足すから14で、1足す8足す3だから・・・)
僕が、そう考えようとする、はるか前、黒シャツを着た男が、質問をした、直後に、黒シャツを着た男は、電光石火の如く、即座に、
「121824」
と、1秒もかからず言った。
僕は、10秒くらい遅れて、
「121824」
と、答えた。
「ぎゃーはははは。こんな暗算に、10秒も、かかりやんの」
「お前。低能といえか、知能に障害のある人か?」
東大生は、みな、腹を抱えて笑った。
「よーし。今度は、博学テストだ。お前が、どれたけ、知識があるか、テストしてやる。紫シャツ。お前が答えろ」
と、赤シャツを着た男が、言った。
「オーケー。いつでも、いいぜ」
紫シャツを着た男が、余裕の笑顔で言った。
「それじゃあ、ランダムに、いくぞ。では。ら行で・・・・」
と、言って、赤シャツを着た男が、電子辞書を取り出して、言った。
「ラーガ、とは何だ?」
赤シャツを着た男が、言った。
僕には、聞いたこともない名前だった。
なので、答えようがない。
「ラーガとは、・・・インド音楽の理論用語で,音楽構成上の主要な要素の一つ。ラーガは,音の動きによって人の心を彩るという言葉に由来する。その用語は8世紀頃現れるが,ラーガの概念はずっと以前からあったといえる」
紫シャツを着た男が、余裕の笑顔で言った。
僕は、急いで、スマートフォンを取り出して、「ラーガ」で、検索してみた。
その通りだった。
僕は吃驚した。
「じゃあ。次。今度は、は行で、・・・・ハボローネ、とは、何だ?」
赤シャツを着た男が、言った。
僕には、聞いたこともない名前だった。
なので、答えようがない。
「ハボローネとは、・・・アフリカ南部、ボツワナ共和国の首都。旧称ガベロネス(ガベローンズ)。同国南東部のリンポポ川上流にある。19世紀末にはトロクワ族の小村だったが、1966年の独立に伴って首都となり、急減に人口が増加。南アフリカ、ジンバブエと鉄道で結ばれ、交通・IT分野のインフラの整備が進んでいる」
紫シャツを着た男が、余裕の笑顔で言った。
僕は、急いで、スマートフォンを取り出して、「ハボローネ」で検索してみた。
その通りだった。
「おい。グズ野郎。わかったか。オレ達の頭の中には、ブリタニカ国際大百科事典、以上の知識が詰まってるんだ。オレ達はな、この世の中の、ありとあらゆる事を知っているんだ」
赤シャツを着た男が、自慢げに言った。
「おい。こんな白痴野郎が、国家試験で、本当に75点も、取れたのか、疑わしいぜ」
青シャツを着た男が、言った。
「そうだな。おい。お前。本当に、国家試験で、本当に75点、取ったのか?調べれば、すぐに、わかるんだぜ」
彼は、僕に、鋭い目を向けて聞いた。
僕は、全身が、ガクガク震えていた。
僕は、正直に答えた方が、身のためだと思った。
「ごめんなさい。75点というのは、ウソです。本当は、65点です」
と、僕は、言った。
「ぎゃーははは。そうだろうと思ったぜ。このウソつきの、イカサマ野郎」
そう、言って、赤シャツを着た男が、僕を、突き飛ばし、倒れた僕の顔を、皮靴で、グリグリと、踏みにじった。
他の、東大医学部生も、全員、寄ってきて、僕の顔をグリグリ、踏みにじり出した。
「おめえ、みたいな、低能人間が、身の程知らずにも、医者になろうとするから、日本の医療は、世界から低く見られるんだ。オレ達にとっちゃ、いい迷惑だぜ」
彼らは、ペッ、ペッと、僕に、唾を吐きかけながら、そんなことを言った。
「ごめんなさい。ごめんなさい」
僕は、泣きながら、謝った。
法的にも、道義的にも、謝る必要など、ないのに、謝らずには、いられなかった。
その時、ガチャリと、医局のドアが開いた。
五分刈りに頭を刈った、額の広い、キリッと、引き締まった顔つきの、年配の、白衣を着た、先生が、入ってきた。
東大医学部、第一内科の、中山信弥教授、だった。
みなは、蜘蛛の子を散らすように、サッと、席にもどった。
僕も、すぐに立ち上がった。
僕は、黙っていた。
「どうしたんだ。何かあったのか?」
中山信弥先生が先生が聞いた。
「いやー。別に、何もありませんよ」
東大生たちは、何食わぬ顔で言った。
中山信弥先生は、僕の肩に、ポンと手を置いた。
「紹介しよう。今年は、第一内科の入局者が、少ないので、入局者を募集して、外部の大学から、来てくれた、山野哲也先生だ。みな、よく面倒をみてやってくれ」
そう、中山信弥先生は、僕を紹介した。
「山野哲也です。よろしくお願い致します」
そう言って、僕は、深く頭を下げた。
「こちらこそ、よろしく」
「よろしく」
東大医学部生たちは、掌をかえしたように、恵比須のような、笑顔で、みな、明るい、挨拶を返した。
(こ、こいつら・・・)
さっきまで、さんざん、人を、コケにしていたのに。
僕は、東大生の、転身の早さに、ただただ、驚いていた。
「じゃあ。今日は、挨拶だけだ。これで、おわりだ。これから、飲みに行こう。オレが、おごってやる」
中山信弥先生が、言った。
「やったー」
「ラッキー」
東大生たちは、みな、ガッツポーズをして、喜んだ。
そして、ゾロゾロと、医局室を出ていった。
医局室は、僕だけになった。
「君は、どうする?」
中山信弥教授が聞いた。
「ぼ、僕は、いいです」
僕は、オドオドと、小さな声で、言った。
「そうか。無理には、誘わないよ。あいつら、ちょっと、プライドが、高くて、オレも、困っているんだ。わからないことがあったら、あいつらにでも、オレにでも、何でも聞いてくれ」
そう、中山信弥教授は、言って、医局室を出ていった。
(あれが、ちょっと、プライドが高い、という程度か)
と、僕は、言いたかったが、僕は、怒りと悲しみを、胸の内に、ぐっと、こらえた。
中山信弥教授の、態度も、何となく、冷たく感じられた。
僕は、憤りと、口惜しさ、で、泣き出したい気持ちを、心の中に、押さえこんで、東京大学医学部付属病院を出て家路についた。
こんな、口惜しい、思いをしたのは、生まれて初めてのことだった。
普通の人だったら、こんな時、酒を飲むのだろうが、僕は、酒が飲めなかった。
僕は、東大理科三類出のヤツラを、みんな、ぶん殴りたい気持ちで一杯だった。
だが、しかし、雲泥の、学力の差は、彼らの、言うように、僕の能力の低さに、問題があって、そして、彼らの、能力が、ズバ抜けて、高い、という、ことは、彼らの、言う通りなのだ。
彼らは、今頃、中山信弥教授と、レストランで、大いに、飲み、そして、食っているだろう。
僕には、中山信弥教授が、東大理科三類出のヤツラと、一緒に、僕を、笑い者にしている、様子が、浮かんできて、それは、いくら、振り払おうとしても、僕の頭から、消えることは無かった。
僕は、まさに、やりきれなさ、に、死にたいほどの、屈辱を感じていた。
アパートに着いた。
僕は、ベッドに、うつ伏せに、飛び乗った。
そして、心の中にある、口惜しさを、全て、吐き出すように、号泣した。
「うわーん。うわーん。うわーん。うわーん」
涙は、とめどなく、ナイアガラの滝のように、溢れ出て、枯渇する、ということがなかった。
体中の、水分が、全て、涙として、流れ出て、脱水状態になって、死にはしないかと、思った。
その時である。
ブー。ブー。
ポケットの中の、スマートフォンの着信音が鳴った。
発信者は、「石田」と、表示されていた。
石田君は、三年前に、卒業して、東京の、大手出版社に、勤めていた。
石田君が、大学を卒業してからも、僕は、しばしば、石田君と、メールや、電話の、遣り取りをしていた。
石田君の、アパートは、僕の、アパートに割と近かった。
「よう。元気か?」
石田君が聞いた。
「・・・・」
僕は、答えられなかった。
元気であるはずがないからである。
「今日から、東大医学部での、研修だろ。初日は、どうだった?」
石田君が聞いてきた。
僕は、答えられなかった。
しかし、石田君の、元気な声からは、石田君が、東京の、出版社で、バリバリ働いている、様子が、ありありと、想像された。
石田君は、外国の、難しい文学ばかり、読んでいて、また、石田君の、書く小説も、僕には、難解で、わからなかった。
その点、僕は、石田君を、文学における能力という点で、石田君を尊敬していた。
僕は、石田君に会ってみたいと思った。
「僕は、元気だよ。ところで、石田君。久しぶりに会わないかい?」
僕は言った。
「ああ。いいよ。いつ。どこで?」
石田君が聞いた。
「今すぐにでも、会いたいんだ。駄目かい?」
「いや。構わないよ。今日は、会社が休みなんだ」
「じゃあ。今から、君のアパートに、行ってもいいかい?」
「ああ。構わないよ」
「じゃあ、すぐ、行くよ」
そう、言って、僕は、スマートフォンを切った。
そして、ワイシャツを脱ぎ、カジュアルな普段着に着替えた。
そして、アパートを出た。
石田君は、世田谷区にあるアパートに住んでいて、電車で、30分で、行けた。
石田君と、メールの遣り取りは、たまに、していたが、石田君の、アパートに、行くのは、初めてだった。
最寄りの駅を、降りると、スマートフォンの、地図アプリを、頼りに、僕は、石田君の、アパートに、着いた。
トントン。
僕は、石田君の、部屋をノックした。
「はーい。ちょっと、待って」
部屋の中から、石田君の、声と、パタパタ走る、足音が、聞こえた。
ガチャリ。
戸が開いた。
「やあ。久しぶり」
石田君は、学生時代と、変わらぬ、笑顔で、僕に挨拶した。
石田君が、広島大学を、卒業してから、一度も会っていないので、三年ぶりの再会だった。
「やあ。久しぶり」
僕は、死にたいほどの、屈辱を胸の中に秘めていたので、とても、笑顔など、作れず、小声で、挨拶を返した。
石田君は、僕の、心の中の、憔悴を、見てとった、ように、僕は、感じた。
「ともかく、入りなよ」
石田君に、言われて、僕は、部屋に入った。
石田君の、部屋は、僕には、名前すら知らない、外国文学の本が、ぎっしり、並んでいた。
「石田君。小説は、書いている?」
僕は、聞いた。
「うん。書いているよ」
「会社の仕事は、忙しくないの?」
「はじめの頃は、忙しかったけれど、もう、慣れちゃったよ。社会で、働くようになって、感じさせられることが、たくさんあって、小説の創作意欲は、大学の時とは、比べものにならないほど、高まっているよ。会社が終わった後と、土日は、すべて、創作しているよ」
石田君は、元気溌剌な口調で言った。
「ところで、君は、小説、書いているかい?」
石田君が、聞き返した。
「うん。書いているよ。君の書く、小説と、比べると、幼稚な小説だけれどね」
僕は答えた。
石田君は、お世辞は、言わない性格なので、黙っていた。
石田君も、僕の、言う通りだと、思っているのだ。
「君の気質は、エンターテイメントの小説を書くのに、向いているだけさ」
石田君は、かろうじて、そう言って、僕をなぐさめてくれた。
「ところで、今日から、研修なんだろう。何か、あったのかい?」
石田君が聞いた。
僕は、黙っていた。
「東大医学部の医局の雰囲気は、どうだった?」
黙っている僕に、石田君は、さらに、聞いた。
今日の、悪夢のような、人間が耐えられる限界を、はるかに超えた、屈辱が、僕の脳裡に、一気によみがえった。
「うわーん。うわーん。うわーん」
僕は、畳に、突っ伏して、号泣した。
石田君は、黙っていた。
僕は、10分、ほど、泣き続けた。
10分もすると、ようやく、僕の涙も枯れ果てて、精神的にも、落ち着いてきた。
僕は、顔を上げた。
僕は、ようやく、今日の、出来事を語れる心境になった。
僕は、東大理科三類出の、研修医たちに、さんざん、バカにされたこと、口惜しいが、彼らの、頭脳は、事実、ブリタニカ国際百科事典を、はるかに越していること、彼らに、低能人間、呼ばわりされたこと、など、今日の、出来事の全てを語った。
「そうか。そんなことがあったのか」
石田君は、しばし、目をつぶって、黙って、腕組みして、黙然と、考え込んでいる様子だった。
しばしした後、石田君は、目を開いて、重たい口を開いた。
「山野君。気にする必要は、ないよ。東大理科三類のヤツラってのは、要するに、先天的に、記憶力と、計算力が、ズバ抜けて、優れている、だけに、過ぎないよ。彼らは、情報処理能力が、優れた、人間コンピューターに、過ぎないよ。そんなの、コンピューターで、代替が出来る。彼らに、創造力は、無いんだ。東大理科三類を出たヤツで、小説家になった人間なんて、いないだろう。人間の、頭の良さ、には、色々な、要素が、あるじゃないか。君は、小説を書けるんだから、創造力という能力では、東大理科三類のヤツラより、君の方が上さ。彼らは、秀才であっても、天才ではないんだ」
僕の感情は石田君のいったことに満幅の賛意を表した。
確かに、石田君の、言う通りなのかもしれない。
しかし、僕は、すぐに、一人の、例外を思いついた。
「でも。森鴎外は、東大医学部出で、しかも、優れた、小説家じゃないか?」
僕は言った。
「森鴎外か。・・・確かに、森鴎外は、優れた小説家だね。森鴎外の小説は、確かに、語彙も豊富だし、文章も上手い。しかし、あれは、秀才の小説さ。森鴎外の小説で、内容的に、海外でも認められている傑作の作品は、あるかい?」
石田君が、即座に、言った。
僕には、思いつかなかった。
「・・・思いつかないな」
僕は、言った。
「そうだろう。東大理科三類出のヤツラなんて、単なる、電子辞書に過ぎないんだよ。人間の、価値は、創造力の能力によって、新しい、価値の、産物を作っていく所にあるんだ。小説は、人間の、創造力によって、創り出された、この世に、二つとない、価値の産物なんだよ。君は、小説を書ける能力がある。だから、君は、東大理科三類出のヤツラより、優れているんだよ」
と、石田君は、言った。
僕は、何だか、自分に自信が出てきた。
「そうだね。彼らは、性能の良いコンピューターだけど、僕は、創造力のある、かけがえのない人間なんだね」
僕は、自分に言い聞かすように言った。
「ああ。そうさ。だから、君は、もっと、自分に自信をもつべきだ。東大理科三類出のヤツラを、心の中で、お前らは、単なるコンピューターだ、と、バカにしてやれ」
石田君は、自信に満ちた強気の口調で言った。
「ありがとう。石田君の、励ましの、おかげで、僕は、自分に、自信がもてたよ」
「そうか。それは、よかったな」
「ところで、研修は、東大医学部でなくても、他の大学でも、できるけれど、僕は、どうすればいいと、君は思う?」
「東大医学部で、研修した方が、いいと思うな。強く生きること、困難に挑戦すること、が、君を小説家として、大きくすると思うよ。そう、僕は、確信している」
石田君は、キッパリと、言い切った。
「わかったよ。僕は、創造力をもった人間として、性能の良いだけの、コンピューターと、戦うよ」
「おお。そうだ。その意気だ」
こうして僕は、東大医学部で、研修を受けることに決めた。
その後、僕と、石田君は、近くの焼肉屋に行った。
「山野君の、入局と、今後の活躍を祝って・・・カンパーイ」
と、僕と、石田君は、グラスを、カチンと、触れ合わせた。
石田君は、ビールだったが、僕は、酒が飲めないので、コーラで、乾杯した。
僕たちは、食べ放題の、焼肉を、腹一杯、食べた。
○
翌日、僕は、胸を張って、堂々と、東大医学部、第一内科の医局に、入った。
東大理科三類出のヤツラが、昨日と同じように、たむろしていた。
「おはようございます」
僕は、元気に、挨拶した。
東大理科三類出のヤツラは、僕を見ると、
「おおっ」
と、一斉に、驚きの声を上げた。
僕が、昨日一日で、やめて、もう来ないと、思っていたのだろう。
「信じられん」
「どういう精神構造なんだ?」
「豚は、バカだから、神経が鈍感なんじゃないか?」
彼らは、口々に、そんなことを、言い合った。
すぐに、眼鏡をかけた、白衣のドクターがやって来た。
医局長の、山田鬼蔵先生だった。
「おい。お前達。担当患者を、割り当てるから、病棟へ行け」
山田鬼蔵先生が、言った。
「はーい」
東大理科三類出の、研修医のヤツラは、みな、ゾロゾロと、医局室を出ていった。
研修医は、一つ年上の、指導医に、ついて、指導医のやることを、そのまま、真似るのである。研修は、徒弟的な面があって、大工の見習いと、似たような所がある。
特に、外科は、手術の技術の伝授なので、徒弟的な面が、強いが、内科でも、同じである。
東大理科三類出の、研修医が、みな、ゾロゾロと、医局室を出ていって、医局室は、僕一人になった。
僕も、最後に、彼らのあとについて、医局室を出ようとした。
その時。
「まて」
医局長の、山田鬼蔵先生が、僕を引き止めた。
「君は、昨日一日で、辞めた、と、昨日、研修医たちから、聞いたんだ。だから、君の、担当患者も、指導医も、決まっていない」
そう、医局長は、言った。
「では、僕は、何をすれば、いいんでしょうか?」
僕は、医局長に聞いた。
「えーと。そうだな・・・君の、担当患者と、指導医が、決まるまで、医局室の、掃除でもしていてくれ」
そう、言って、医局長は、僕に、モップを渡した。
僕は、ムカーと、天地が裂けるような、憤りを感じたが、昨日、石田君と、約束した、「つらくても我慢する」ということを、思い出して、モップを、受けとった。
そして、僕は、誰もいなくなった医局室を、モップで、磨き出した。
医局長といっても、やはり、東大理科三類出は、プライドの塊なんだな、と思いながら。
ぼくは、「ならぬ堪忍するが堪忍」と、自分に、言い聞かせて、一生懸命、医局を掃除した。
午前の診療が終わると、東大理科三類出の、研修医たちは、「あーあ。疲れたな」、と言って、昼休みに、もどってきた。
僕が、医局室を掃除していても、彼らの眼中に僕は、なかった。
まさに、傍若無人である。
「おい。豚野郎。お茶を配るくらいの、気は使え」
医局員の一人が言った。
僕は、ムカーと、頭にきたが、我慢して、皆に、冷たい、お茶を配った。
彼らは、お茶を飲むと、ゾロゾロと、職員食堂に行った。
そして、午後の研修が、終わると、「おい。今日も、飲みに行こうぜ」、と言って、医局室を出ていった。
僕は、彼らが、全員、帰ると、帰り支度をした。
その時。
医局長の、山田鬼蔵が、やって来た。
「山野君。今日は、すまなかったな。明日からは、研修に、参加してくれ」
僕の、憤りは、溶け、喜びに変わった。
「しかし、まだ、君の、受け持ち患者は、決まっていないんだ。すまないが、君の、担当患者を決めるのは、少し、待ってくれないか?」
医局長が言った。
「どのくらいの期間ですか?」
僕は、聞き返した。
「そうだな。二週間。二週間したら、きっと、君の、受け持ち患者を、決めるよ」
医局長が、言った。
「わかりました」
僕は、医局長の言うことを信じることにした。
そして、僕は、アパートに帰った。
その日は、よく眠れた。
○
翌日も、僕は、早起きして、一番で、東大医学部の、第一内科の医局に行った。
「おはようございます」
東大理科三類出の、研修医たちが、「ふあーあ」、と、欠伸をしながら、ゾロゾロと、やって来ると、僕は、元気に、挨拶した。
しばしして、医局長が、やって来た。
「おい。お前たち。注射の練習だ。はやく、病棟へ来い」
医局長は、あわただしい様子で、言った。
僕は、嬉しくなった。
研修医、がやることは、指導医の元で、患者の治療に、あたる、ことだけではない。
医学部を出たての、研修医は、注射も出来ない。
注射や、ナート(傷口の縫合)、気管挿管、マーゲン(経鼻胃管)、など、は、それなりに、技術が要るので、練習しなくては、出来るようには、ならない、のである。
「おい。山野。お前も来い」
医局長が言った。
僕は、嬉しくなった。
やはり、東大医学部だからといって、特別ではないんだ、と僕は思った。
研修医は、静脈注射は、もちろん、皮下注射も、出来ない。
注射の練習から、研修は、始まるのである。
もちろん、医学生の時にも、四年の時の、生理学の授業と、六年の時の、臨床実習の時に、ほんの2、3回、学生同士で、注射をしたことは、あった。
しかし、その程度では、とても、注射の技術をマスターすることなど、出来ない。
注射は、ルート確保という、点で、医者になろうとする者が、必ず、身につけなくてはならない、基本中の基本の、技術である。
僕は、医局長について、病棟に向かった。
東大理科三類出の研修医たちが、ズラリと並んでいた。
それと、なぜか、看護学生たちも、いた。
東大理科三類出の、研修医たちは、僕を見ると、ニヤリと、笑った。
何だか様子が変である。
「よし。じゃあ、注射の練習をするぞ」
医局長が言った。
すぐに、サッと、看護学生たちが、僕の腕をつかんだ。
「な、何をするんですか?」
僕は、あわてて、叫んだが、彼女らは、答えない。
彼女らは、僕のワイシャツを、無理矢理、脱がした。
そして、僕を、ベッドの上に、乗せると、ベッドの鉄柵に、僕の手首を、縛りつけた。
「な、何をするんですか?」
僕は、また、聞いた。
「だから、注射の練習だ」
医局長は、チラッと、看護学生たちの方を見た。
看護学生たちは、僕の口に、ガムテープを貼った。
僕は、声を出すことが、出来なくなった。
「では、注射の練習をする。採決する部位の、少し上を、ゴムで、緊縛して、皮下静脈に、針を入れるんだ。ある程度、しっかり、入れないと、ちゃんと血管に、入らないからな。堂々と、思い切りよくやれ」
医局長は、そう言った。
注射の練習とは、指導医が、入院患者に行って見せて、手本を見せて、研修医が、入院患者にする、ものだと思っていたので、まさか、僕が、その実験台にされるとは、想像もしていなかった。
東大理科三類出の、研修医たちは、荒々しく、僕の、上腕を緊縛すると、僕の、皮下静脈に、注射器の針を刺し始めた。
5、6人が一度に、寄ってたかって。
僕は、恐怖に、おののいて、「やめろー」と、叫ぼうとしたが、口に、ガムテープを貼られているため、声が出せなかった。
僕は、抵抗しようと、手足を、バタバタ激しく、揺すった。
すると。
「バカヤロー。患者が動いたんじゃ、注射が出来ねえだろ」
そう言って、医局長は、僕の顔を、力の限り、ぶん殴った。
僕は、抵抗することを、あきらめた。
東大理科三類出の、研修医たちは、僕の腕で、注射の練習を始めた。
彼らは、頭は、良いが、勉強ばかりして、生きてきたので、運動したことがない。
なので、運動神経は、ゼロで、手先の器用さも、全く無かった。
そのため、なかなか、注射の針が、血管に入らない。
僕は、あまりの痛さに、「ウガー。ウガー」、と、叫び続けたが、口に、ガムテープを貼られているため、声を出せなかった。
結局、東大理科三類出の、研修医たち、全員が、僕を実験台にして、注射の練習をしたが、誰も、満足に、注射針を血管に入れられなかった。
「しょうがないな。お前ら。よし。今度は、マーゲンの練習だ」
医局長が言った。
マーゲンとは、栄養を、経口摂取できない、患者に、鼻から管を入れて、胃に、栄養を流す、もので、これも、医師が身につけねばならない基本の技術である。
東大理科三類出の、研修医たちは、僕の鼻に、チューブを、入れる練習をし出した。
しかし、運動神経ゼロの、東大理科三類出の、研修医たちは、満足に、入れられない。
そもそも、キシロカインゼリーを、チューブに、着けておくべきなのに、それを忘れている。
鼻に、耐えられない、激痛が、走った。
僕は、あまりの痛さに、「ウガー。ウガー」、と、叫び続けたが、口に、ガムテープを貼られているため、声に出せなかった。
「バカヤロー。キシロカインゼリーが、ついてないじゃねえか。キシロカインゼリーを、つけて下さい、と何で言わねえんだ」
そう言って、医局長は、僕の顔をぶん殴った。
口に、ガムテープを貼られているため、声が出せないのに、なんで、僕が、殴られなくては、ならないんだ、と、僕は、東大医学部の、不条理さに、怒り狂っていた。
そもそも、叱られるべきは、キシロカインゼリーを、つけ忘れた、東大理科三類出の研修医たちで、あるべきはずであるのに。
結局、誰も、マーゲンを、入れられなかった。
「よし。今度は、尿道カテーテルの、練習だ」
と、医局長が言った。
僕の顔は、恐怖で、真っ青になった。
医局長は、看護学生に、サッと、目配せした。
看護学生たちは、僕の履いているズボンを、抜きとり、ブリーフも、抜きとった。
下半身、男の性器が、丸出しになった。
東大理科三類出の、研修医たちと、看護学生たちの、前で、下半身を露出して、男の性器を、丸出しに、されていることに、僕は、耐えられない、羞恥を感じた。
特に、看護学生たちの、好奇に満ち満ちた、視線が、耐えられなかった。
「研修医は、ダメだな。よし。看護学生。ひとつ、手本を見せてみろ」
医局長が言った。
看護学生の一人が、尿道カテーテルに、たっぷりと、キシロカインゼリーを、塗ると、僕の、陰茎を、しっかりと握り、亀頭の先端の穴に、尿道カテーテルを入れ出した。
僕は、恥ずかしさで、顔が、真っ赤になった。
いっそ、死んでしまいたいと思うほど。
なので、僕は、膝を閉じようとした。
すると。
「バカヤロー。尿道カテーテルを、入れる時は、股を大きく開かなきゃ、カテーテルを、入れにくいだろ」
と、医局長が、僕の顔を、思い切り、ぶん殴った。
僕は、仕方なく、股を開いた。
「前立腺を、通過させる時に、ちょっとした、コツがあるんだ。わかるか?」
医局長が、尿道カテーテルを、入れている、看護学生に聞いた。
「大丈夫です。わかっています」
看護学生は、目を輝かせて、欣喜雀躍とした口調で言った。
僕は、尿道カテーテルの先が、前立腺を通過して、膀胱の中に入った、のを感じた。
「わあ。入ったわ」
看護学生は、嬉しそうに言った。
そのあと、僕は、ガムテープを、はがされて、胃ファイバースコープを入れられたり、肛門から、大腸ファイバースコープを、入れられたりと、さんざん、研修医と、看護学生の、検査器具の扱い方の、練習台にさせられた。
5時を知らせる、チャイムが鳴った。
「よーし。今日の研修は、これまでだ」
医局長が、言った。
東大理科三類出の、研修医たちは、ゾロゾロと、医局にもどって行った。
「野郎の裸を見ても、面白くねえもんな」
と、言いながら。
あとには、看護学生たちが、のこされた。
看護学生たちは、目を見開いて、食い入るように、僕の、陰部を見ていた。
「ねえ。私たち。もうちょっと、男の人の体を、調べてみましょう」
看護学生の一人が言った。
「賛成」
「そうね。賛成」
こうして、看護学生、全員が残った。
看護学生たちは、尿道カテーテルを、引き抜いた。
そして、大腸ファイバースコープも、引き抜いた。
しかし、胃ファイバースコープは、そのまま、だった。
口に、胃ファイバースコープを入れられているので、僕は、喋ることが、出来なかった。
直腸診の練習をしましょう、と言って、看護学生たちは、指サックをはめて、僕の尻の穴に、指を入れてきた。
「前立腺マッサージって、こうやってやるのよ」
と、看護学生は、肛門に入れた、指を、動かし出した。
それは、気持ちが良かった。
僕の、死にたいほどの屈辱は消えて、いつしか、激しい、マゾヒズムの陶酔の感情が、起こっていた。
僕は、看護学生たちに、見られ、触られる、ことに、激しい被虐の官能を感じていた。
僕の、陰茎は、激しく怒張し、天狗の鼻のように、そそり立った。
「うわー。すごーい。男の人の勃起って、初めて見たわ」
小川彩佳に似た看護学生が言った。
「エッチな動画で、見たことは、あるけれど、実物を、こんなに間近で見るのは、初めてだわ」
背山真理子に似た看護学生が言った。
「どうして、こんな恥ずかしい姿を、見られて、興奮するのかしら?」
杉浦友紀に似た看護学生が言った。
「それは、山野哲也先生がマゾだからよ」
鈴木奈穂子に似た看護学生が言った。
「じゃあ、たっぷり、気持ちよくしてあげましょう」
生野陽子に似た看護学生が言った。
こうして、彼女らは、僕の、陰茎や、金玉や、尻の穴に、キシロカインゼリーを、塗りはじめた。
優しい手つきで。
それは、まるで、オイルマッサージのような感じだった。
そして、みんなで、寄ってたかって、怒張した、マラをしごき出した。
金玉を、揉んだり、尻の穴に、指を入れたり、しながら。
僕は、だんだん、興奮してきた。
(ああー。出るー)
僕は、心の中で、叫んだ。
しかし、胃ファイバースコープを、口の中に、突っ込まれているので、それは、ヴーヴー、という、唸り声にしか、ならなかった。
ピュッ。ピュッ。
溜まりに溜まっていた、精液が、勢いよく放出された。
それは、放物線を描いて、看護学生たちの、顔にかかった。
「うわー。すごーい。男の人の射精って、初めて見たわ」
看護学生の一人が言った。
こうして僕は、体中を、実習という名目で、隈なく、見られ、触られ、もてあそばれた。
○
その日。
僕は、よろめきながら、アパートに、帰った。
その晩は、東大理科三類出の、研修医どもに、された、へたくそな、無数の注射、や、マーゲンを、入れられた、気持ち悪さで、痛くて、なかなか、寝つけなかった。
しかし、看護学生に、弄ばれた、被虐の快感のために、それを思い出しているうちに、極度の、疲れも、加わって、眠りについた。
○
翌日も、僕は、東大医学部の、第一内科の医局に出勤した。
体中、痛かったが、石田君に、どんなに、つらいことがあっても、くじけない、と約束したことを、守り抜こうと、胸に抱きしめて、行った。
「おはようごさいます」
僕は、医局に、たむろしている、東大理科三類出の、研修医たちに、元気よく、挨拶した。
彼らは、僕を見ても、もう、黙ったまま、何も言わなかった。
僕が、どんなに、イビられても、根を上げない、根性を、もっていることを、彼らも、認め始めているようだった。
その日も、僕は、気管挿管や、気管支鏡を飲まされたり、骨髄穿刺されたり、尿道検査、されたり、と、豪気な男でも、泣き叫ぶほどの、検査の実験台にされた。
しかし、僕は、歯を食いしばって、耐えた。
東大理科三類出の、研修医たちは、運動神経ゼロで、手先も、不器用で、しかも検査や治療の手技を、覚えようという、意欲がまるで無かった。
確かに、治療、や、検査の手技は、看護婦の技術の方が上で、医者の役割は、正確な診断と、正確な、治療の指示である。
しかし、医師である以上、検査の手技も身につけていなくては、医師とは、いえない。
しかし彼らは、ひたすら、受け持ち患者の病気の、アメリカでの、最先端の英語の論文を読むだけだった。
彼らは、実際に、患者を診ようとせず、血算や生化、心電図、レントゲン、エコー、脳波、MRI、などを、見るだけだった。
彼らは、頭脳を使うことにだけに、価値があって、検査の手技の、練習は、頭を使わないので、看護婦が、やるものと、見なしているようだった。
しかし、僕は、つらい検査の実験台にされたことによって、つらい検査を受け続ける、患者の、つらさが、わかる研修医になっていた。
そもそも、東大医学部出の医者なんて、自分は、病気をしたこともなく、最先端の、アメリカの、英語の論文を読むだけで、患者の、病気の、つらさ、や、検査の、つらさ、など、まるで、わからない、頭でっかちの医者ばかりなのだ。
それに比べると、僕は、子供の頃から、喘息で、自律神経失調症で、アレルギーで、過敏性腸症候群で、病気の、苦しみを、知っていた。
医学部に進学しようと思ったのも、そのためだった。
その上、研修では、ありとあらゆる、つらい検査を、受けさせられて、検査の、つらさも、実感した。
東大医学部出の医者は、ほとんど全員が、患者を診ずに、病気だけを医学的に診る、人間不在の医者になるが、もしかすると、僕は、患者の苦しみを、わかる人間味のある、医者になれるかもしれないと思った。
僕は、病院の、つらい検査を、ほとんど全部、受けてしまった。
また、たとえば、骨髄穿刺を、受けたことによって、骨髄性白血病の、患者というものを、実感として、理解できるようにも、なった。
骨髄穿刺を受けている時には、医局長が、骨髄性白血病に、ついて、東大理科三類出の研修医に、説明するからだ。
何度も、説明を聞いているうちに、患者の側から、の視点で病気が、わかってきた。
「門前の小僧、習わぬ経を覚える」である。
○
そんなことで、入局して、待ちに待った、二週間が経った。
二週間したら、僕にも、担当患者を与えてくれる、と、医局長の山田鬼蔵先生が、約束してくれたからだ。
そのために、僕は、検査の練習の実験台にされるのも、耐えたのだ。
「医局長。二週間しました。約束です。僕にも、担当患者を、与えて下さい」
僕は、強気の口調で、医局長の山田鬼蔵先生に言った。
僕は、もう、東大医学部と、ケンカ腰だった。
「わかった。お前にも、患者を、受け持たせてやる。お前の、指導医はオレだ」
と、医局長の、山田鬼蔵が言った。
「よし。じゃあ、病棟へ行くぞ」
医局長が言った。
僕は、医局長と、一緒に、病棟に行った。
医局長は、患者の、カルテを取り出した。
「ほら。これが、お前の、受け持ちの、クランケのカルテだ。よく、読んでみろ」
そう言って、医局長は、僕に、カルテを渡した。
見ると、カルテの、すべてが、ドイツ語で書かれていて、しかも、文字が、ひどく崩れていた。
大学進学で、僕は、広島大学医学部を選んだ。
僕が、医学部に進学することを選んだのは、将来、医者になって、病める人々を救おう、などという、高邁な理由からでも、さらさらなかった。
高校時代、僕は、将来、自分が、何になりたいのか、どうしても、分からなかった。
それで、医学部に進学することにした。
医学部は、4年間ではなく、6年間である。
6年間のうちには、きっと、自分の、本当にやりたい事が、見つかるだろう、という、モラトリアムの心理からである。
○
さて、医学部に入った、最初の二年間は、教養課程で、教養課程では医学とは、関係のない、様々な、学問を学ぶことになった。
僕は、自分の天職という物を探していたので、教養課程では、そのヒントが、見つかりはしないかと、全ての、授業に出席して、真剣に勉強した。
しかし、それは、講義に出ても、なかなか見つけられず、また、見つけられそうにも感じられなかった。
それで、僕は、色々と、本を読むことにした。
小説とか、文学には、高校の時に読んで、面白くなくて、失望していたので、興味がなく、自分に、興味のある、哲学や、心理学、偉人の自伝、思想書、宗教書などを、読んでみた。
ある心理学の本を、読んでいた時のことである。
その中に、日本や世界の、偉人の、病跡学、という、項目の中で、日本の文豪である、谷崎潤一郎という、作家が、マゾヒストである、と、書かれている一文を見つけた。
僕は、それを、ウソではないかと、疑った。
高校の時、国語の勉強のために、僕は、かなり、文学書を読んだ。
しかし、それらは、全て、「人間は、いかに生きるべきか」という、真面目で、重いテーマの内容ばかりで、それらに、面白さは、感じられなかった。
ただ、国語の受験勉強の中で、谷崎潤一郎という小説家が、日本を代表する、文豪の一人で、耽美派という範疇の小説家であり、代表作は、「刺青」、「痴人の愛」、ということは、読みもしないが、知識として、覚えて、知っていた。
なので、僕は、ある日、その心理学書で、書かれている、谷崎潤一郎が、マゾヒストである、ということが、本当なのか、どうか、確かめるために、近くの書店に行ってみた。
新潮文庫の書棚の、谷崎潤一郎のプレートの所では、「刺青、秘密」、と、「痴人の愛」、の二つがあった。
「痴人の愛」は、一編の長編小説であり、「刺青、秘密」は、初期の頃に書いた、短編集だった。
文学書とは、つまらない物と思っていたので、長編小説は、読む気になれなかったので、短編集である、「刺青、秘密」を買った。
そして、読み出した。
読んでいるうちに、僕は、今まで、経験したことのない、驚き、と、興奮、と、歓喜を、感じた。
美しい文章、読者の官能を刺激せずにはいられない、美しい、マゾヒスティックなエロティシズムのストーリー。が、ページの中に、光り輝く真夏の太陽のように、あふれんばかりに、横溢していた。
僕は、貪るように、一気に、「刺青、秘密」を読んだ。
「刺青」、「少年」、「幇間」、が、特に、エロティックだったが、「刺青、秘密」に収められている、7編、の小説は、全てが、美しいエロティシズムの表現だった。
文学は、真面目な物、堅苦しい物、という、僕の先入観は、この一冊によって、粉々に砕け散った。
僕は、数日後、また、書店に行って、「痴人の愛」、を買った。
そして、読んだ。面白いので、一日で、一気に読めた。
これもまた、谷崎潤一郎という作家の、素晴らしく、美しい、マゾヒスティックな、女の美しさに、かしずく小説だった。
僕は、もっと、もっと、谷崎潤一郎の、小説を読みたくなった。
出来れば、その作品の全てを。
しかし。書店には、「刺青、秘密」、と、「痴人の愛」、の二冊しか、文庫本がなかった。
それで、僕は、書店で、谷崎潤一郎の文庫本で、手に入れられる物を、すべて注文した。市立図書館では、谷崎潤一郎全集は、あるかもしれないが、全集は、大体、本が分厚くて、文字が小さくて、読みにくいし、それに、二週間したら、返却しなくては、ならない。
僕は、本は、文庫本で、そして、自分の物として、いつまでも、死ぬまで、とっておきたかったので、書店に、注文して、谷崎潤一郎の本が、届くのを待つことにした。
待つことには、僕は、それほど、気にはならなかった。
それより、谷崎潤一郎という、小説家を知ったことによって、僕の文学に対する、見方が、180°変わってしまった。
文学には、こんな、自由奔放な、素晴らしい、作家、や、作品もあるのだ。
高校の時、国語の勉強のために、嫌々、読んだ文学書では、不運にも、それに、巡り合えなかった、だけなのだ、と。僕は、知った。
僕は、文学に対する認識を、あらためた。
僕は、谷崎潤一郎の他にも、面白い、作品や、作家は、あるだろう、と思った。
僕は、書店に行って、もっと、もっと、面白い作家は、いないか、探すことにした。
しかし、僕は、文学には、疎いので、作家や、その作品を、ほとんど知らない。
なので、いい作品、面白い作品に、出会うため、片っ端から、読んでみることにした。
三島由紀夫は、ノーベル賞候補に上がった、ことも、あるほどの、作家ということだったので、高校の時、国語の勉強のために、傑作と言われている、「金閣寺」という作品を読んでみていた。
しかし、面白くもなく、また、難解で、よくわからなかったので、三島由紀夫は、面白くない、作家だと思って、「金閣寺」の、つまらなさ、難解さ、から、拒絶反応が起こって、それ以外は、読まなかった。
しかし、新潮文庫の、三島由紀夫のプレートの所を、見ていると、「仮面の告白」という、小説が、目に止まった。
「仮面の告白」、というタイトルから、何となく、面白そうな気がした、からである。
長編小説だが、分厚くなく、むしろ、213ページと、薄い。
それで、最初の数ページを、パラパラッと、読んでみた。
すると、最初のページから、「あのこと」、つまり、セックスのことを、書いた文章に、出くわして、驚いた。
それで、もう一度、三島由紀夫、に挑戦しようと、「仮面の告白」を、買って、その日のうちから、読み始めた。
この作品は、「金閣寺」とは、違って、わかりやすかった。
ひとことで言って、三島由紀夫が、自分の性欲に焦点を当てて、書いた自伝的小説だった。
通常の男と違って、女に関心を持てない、ホモ・セクシャルであり、また、空想では、サディストであって、好きな男を、次々と殺す、夢想を楽しんでいた、ことなど、とんでもない事が、露骨に書かれていた。
谷崎潤一郎の作品と違って、陶酔するような、美しいエロティシズムは、感じなかったが、文学とは、かくも、自由奔放であり、思っていることは、何でも表現していい、素晴らしい、ものである、ということを知って、僕は、ますます、文学に関心を持つようになった。
川端康成の、「伊豆の踊子」には、素直に、感動した。
石川啄木の、短歌は、よくわからなかったが、たまたま、読んでみた小説、「二筋の血」は、啄木が、子供の頃に、一人の、女の子を好きになった体験を小説化した作品だが、それは、谷崎潤一郎の作品に、勝るとも劣らぬ、ほとの、美しく、可愛く、切なく、そして、可哀想な、無邪気な、子供の恋愛小説だった。
○
数日して、書店に注文しておいた、谷崎潤一郎の、文庫本が、10冊ほど、届いた。
すぐに読み始めたが、谷崎潤一郎の、作品は、どれも、マゾヒスティックな、エロティックな、小説で、ほとんど全ての作品で、心地よさを、味わえた。
しかし、僕は、谷崎潤一郎の、作品を読むのと、同時に、他にも、いい作家や、作品は、ないか、探し続けた。
僕の感性に合わない、つまらない作品で失望する小説も、多かったが、僕の感性に合う、面白い作品に出会えることも、あった。
こうして、僕は、どんどん、文学の世界の深みに、はまっていった。
文章の美しさ、文章の味、というものも、わかってきた。
芥川龍之介の文章など、実に美しい。
僕は、だんだん、自分でも小説を書きたいと思うようになっていった。
というか。正確にいうと。
谷崎潤一郎の、初期作品集である、「刺青、秘密」を、読み終えた時に、「これだ。これこそが、自分の心の内に、溢れんばかりにある、思いを、表現できるものは」、と、決定的に思ったのである。ただ、谷崎潤一郎の、作品が、あまりにも、美しく、偉大すぎたので、自分が、ああいう文章を、はたして書けるのか、どうか、ということには自信がなかったのである。
しかし、多くの、素晴らしい文学書を、読んでいくにつれ、自分でも、小説を書きたい、という欲求が、募っていって、もう、その欲求を、押さえることが、出来なくなってしまったのである。
僕の心の中には、表現したい、と思っている、思い、夢想が、無限ともいえるほど、あるのである。
それで、僕は、小説を書き出した。
最初に書いたのは、小学校6年の時のことである。
恥ずかしがり屋で、好きな女の子に、告白できないで、煩悶している、少年と、その少女のことを、ヒントに、恋愛小説に仕立てた。
お話しを書くのは、生まれて、初めてだったので、骨が折れ、とても疲れた。
しかし、多くの文学書を、丁寧に、よく読んでいたことが、文章を書くための、スキルアップにも、利していたのだろう。
それで、何とか、書き上げることが出来た。
書き上げた時の、喜びといったら、それは、言葉では、言い表せないほどのもので、あたかも真夏の太陽に向かって、自分が鳥になって、飛翔していくような、この世離れした、歓喜だった。
タイトルは、「忍とボッコ」とした。
男の名前が、「忍」で、女の子の、あだ名が、「ボッコ」、だったからである。
一作だか、小説を書き上げられると、自分にも、小説を書くことは、出来るんだ、という、自信がついた。
それで、僕は、小説を、どんどん、書いていった。
18歳で自殺した岡田有希子さんの、夭折の人生が、あまりにも美しく、その人生を、僕は、表現したいと思っていたので、彼女の人生を、フィクションも入れて、小説風に書いてみた。
タイトルは、「ある歌手の一生」とした。
次は、女子高に、来た、男子教師が、一人の、女子生徒に恋してしまう、という、架空の小説を書いた。
タイトルは、「高校教師」とした。
こうして、僕は、次々と、小説を書いていった。
ある時。
僕は、食堂の掲示板に、
「文芸部員募集。文集を作るので、作品を募集しています。文芸部員でなくても、構いません」
という、貼り紙を見つけた。
僕は、処女作、「忍とボッコ」を、書き上げた、はじめの頃は、書き上げた、ということだけに、純粋に、嬉しさを感じているだけだった。
しかし、何作も、小説を書いているうちに、だんだん、それを、自分で読むだけの自己満足ではなく、他の人にも、読んでもらいたいと、思うように、なった。
また、自分の書いた小説を、他人が読んだ時、どう感じられるのか、その感想と、そして、作品の文学的評価も知りたく、なっていった。
それは、創作する人間にとっては、至極当然の感情だろう。
ある日、僕は、勇気を出して、文系部の、部室に行った。
自分の書いた、いくつかの作品を持って。
トントン。
僕は、文芸部の、部室のドアをノックした。
「はい。どうぞ」
部屋の中から、大きな声が聞こえてきた。
ガチャリ。
「失礼します」
僕は、ドアノブを回して、戸を開けた。
部屋には、8人くらい、着ける、大きなテーブルがあって、一人の男子生徒が座って、本を開いていた。
壁際の書棚には、ズラリと、本が並んでいた。
「はじめまして。山野哲也といいます」
と、僕は、畏まって、お辞儀をした。
「はは。そんな、堅苦しい挨拶なんて、いらないよ。ここは、教授室じゃないんだから」
彼の気さくな、くだけた、態度に、僕は、精神的に、リラックス出来た。
「ともかく座りなよ」
彼に言われて、僕は、彼と向き合うように、テーブルについた。
「用は何?」
彼が聞いた。
「あ、あの。食堂の掲示板の、貼り紙を見て。小説をいくつか、書いたので、見ていただけないかと思って・・・」
僕は、少し緊張して、どもりどもり言った。
しかし、僕としては、自分の書いた小説を、人に読んでもらうのは、生まれて初めてのことなので、しかも、相手の生徒は、おそらく文芸部員で、文学に詳しいだろうから、気の小さい僕が緊張したのは、無理もないことだ。
僕は、あたかも、出版社に、小説を持ち込む、小説家をめざす、文学青年のような、気持ちだった。
「ほう。君。小説を書くの。すごいね。どれどれ。ぜひ、君の書いた小説を見せてくれない」
すごい、と言われて、僕は、照れくさく、恥ずかしくなった。
僕は、自分の書いた小説は、そんな大層なものではないと、思っていたから。
僕は、ワープロで、印刷した、小説の原稿を、カバンから、取り出して、おどおどと、彼に渡した。
「ほう。結構、書いているんだね」
そう言って、彼は、原稿を、受けとった。
「ちょっと、10分、くらい、待ってて。読むから」
そう言って、彼は、僕の書いた、小説を、読み始めた。
目の動きや、原稿を、めくるスピードが、かなり速い。
僕は、今、まさに、自分の書いた小説が、おそらくは、文学に詳しい人に、読まれている事実に恐縮していた。
顔は、無表情だが、心の中では、幼稚な小説だな、と、嘲笑っているのかも、しれない、という疑心まで起こってきて、顔が赤くなった。
大体、10分、くらいして、彼は、原稿の束を、テーブルの上に置いた。
「読んだよ。全部。なかなか面白いね。いかにも、君が書いた小説って、感じが伝わってくるね」
と、彼は、感想を言ってくれた。
僕は、なかなか面白いね、という言葉が、単純に、嬉しかった。
彼の、単刀直入な言い方から、彼が、心にも無い、お世辞を言う性格には、見えなかったので、僕は、彼の感想を素直に信じた。
「この作品の中で、一番、最初に書いたのは、忍とボッコ、でしょう?」
「うん」
「君。谷崎潤一郎が好きでしょう?」
「うん」
「君。小説を書き出したのは、比較的、最近でしょう」
「うん」
「いつから、小説を書き出したの?」
「大学に入ってから。だから、半年、前くらいから」
彼の、言っていることが、全て当たっているので、僕は、彼の炯眼さに驚いた。
「ところで君は、何学部なの?」
彼が聞いた。
「医学部です」
僕は答えた。
「何年生?」
「一年です」
「そうなの。僕は、文学部。石田誠。二年生。一応、文芸部の主将ということに、なっているけどね」
彼が、文学部だろうとは、一目、見た時から予想していた。
「どうして、一応、なんて、言い方をするんですか?」
彼が、単刀直入で、謙遜するような、性格には、見えなかったので、僕は、疑問に思って、聞いた。
「部員が少ないからさ。僕を入れて、部員は、三人しか、いないんだ。学校が、部員の数が、それだけでは、廃部にする、と言ってきたのを、僕が、必死に頼んで、何とか、学校に、残させてもらっているような状況だからさ」
なるほど、と、僕は思った。
「そうなんですか」
「他の二人の部員は、小説は、よく読んでいるんだけど、自分では、小説を書かなくてね。小説の、感想や、文学論みたいなものばかり、書いているんだ。まあ、それでも、書かないよりは、有難いけれどね。作品が集まらないと、文集を作れないから、君の小説は、文集に載させてもらうよ」
「有難うございます。でも、あの程度の、小説で、いいんでしょうか?」
「全然、構わないよ。君は、大学に入ってから、小説を書き始めた。と、言ったね。そういう人は、やむにやまれぬ思いから、小説を書き出した人が、多いから、本当に、表現したい物を持っている人である、場合が多いんだ。僕は、君の作品を読んで、君が、表現したい、情熱をもっていることを強く感じたよ。むしろ、中学生とか、あまりにも早い時期から、小説を書き出した人には、子供の頃から、小説を読むのが、好きで、趣味で読んでいて、自分も、真似して書いてみよう、という、軽い、遊びの感覚で、小説を書いている場合が、多くて、本当に、表現したい物は、実は、持っていない、という場合が、結構、多いんだ」
僕は、なるほど、そうかもしれないな、と思った。
「先輩も、当然、小説を書くんですよね?」
「うん。書いているよ」
「先輩は、いつから、小説を書き始めたんですか?」
「そうだね。高校生の時からだね。文学書を、読むのは、好きだったから、子供の頃から、よく、読んでいたけどね。高校から、自分でも、書こうと思い出して、書き始めたけれど、なかなか、満足のいくものが、書けなくてね。いくつか、作品は、書いたけれど。本当に、満足できる作品は、まだ、書けていないんだ」
彼の創作意欲は、趣味の、遊び感覚の、ものとは違う、本当の、表現欲求から、来ているのだと、僕は思った。
「先輩は、将来、小説家になろうと思っているんですか。文学部に入ったのも、そのためですか?」
僕は聞いた。
「まあ、そうだけどね。でも、なろうと思って、簡単に、なれるものじゃないからね。でも、自分が、本当に、満足のいく、小説は、書くことを、やめないで、努力して、続けていれば、きっと、いつか、満足のいく作品が書けると思っているんだ。今のところ、僕は、一生、小説を、書き続けようと思っているんだ」
「では、先輩の目から見て、僕は、小説家になれると思いますか?」
「書く、という行為を、すること自体が、もう、作家の資質があるということさ。あとは、その気持ちが、一生、続くか、どうか、だね」
そう言って彼は、紅茶を啜った。
「ところで、君は、文芸部に入ってくれるんだよね?」
先輩が聞いた。
「ええ。入ります」
僕は、躊躇なく答えた。
そのあと、先輩と、色々と、雑談した。
彼は、日本の文学は、あまり読まなくて、外国の文学ばかり、読んでいること、日本の作家では、安部公房や村上春樹が、好きなこと、大学受験では、慶応大学にも受かったけれど、親が国立である、広島大学に進学するよう強制したので、仕方なく、広島大学に入ったこと、などを、語った。
彼は、好きな作家として、外国文学の、ヘルマン・ヘッセ、トーマス・マン、フランツ・カフカ、その他、現代の、作家の名前を、いくつも、あげた。だが、僕には、そのどれも、聞いたことのない、名前ばかりだった。○○○○○○
彼は、高校時代も、文芸部で、高校時代に、出した、文集に、彼の、作品を載せたのが、あるので、それを、僕に、渡してくれた。
それと、部室の書棚にあった、安部公房の小説や、トーマス・マン、の、「魔の山」など、小説を、数冊、渡してくれて、よかったら、読むように、勧めてくれた。○○○○○○
僕は、それらを、受けとって、アパートに帰った。
文学を本気で、志している人と、会えて、また、自分の書いた小説も評価してもらえて、とても、嬉しかった。
彼の言うことは、全て、最もなことのように、思えた。
僕は、彼が、高校時代に出した、文集、の中の、彼の作品を、真っ先に読んでみた。
文章は、上手く、滑らかだが、何を言いたいのか、何となく、漠然と、わかる気もするが、やはり、よく、わからなかった。
ついでに、ヘルマン・ヘッセの、短い、短編小説を、読んでみたが、これも、何を言いたいのか、よくわからなかった。
なので、優れた文学とは、何を言いたいのか、よくわからない作品なのだという、変な理屈を持った。
外国文学は、とても、読む気がしなくなって、安部公房や、村上春樹を、読んでみたが、これも、何を言いたいのか、よくわからない。
しかし、文章は、上手い。
しかし、その程度で、僕には、外国文学は、わからない、とまでは、結論づけなかった。
いつか、わかる日が来るかもしれないと、積ん読、に、とどめることにした。
ちょうど、絵画でいうなら、ピカソの絵は、わけがわからないが、専門家の目から見ると、高尚な芸術であるらしいが、その逆に、一見して、わかってしまう、絵画は、大した価値が無い絵画、というような、理屈と同じだと、思った。
思った、というより、思うことにした、と言った方が正確である。
そもそも欧米人は、歴史的に見ても、物の考え方にしても、スケールが大きい。
それに比べ、日本は、小さな島国で、徳川時代は、260年間も、鎖国をしてきて、源氏物語や、清少納言のように、もののあわれ、や、感情の機微は、知っていても、日本の近代文学には、欧米のような、スケールの大きなものは、ない。
しかし、僕も、日本文学なら、わかる。
谷崎潤一郎だって、ノーベル文学賞候補にあがった、ことがあるほどだから、間違いなく、優れた文学であることには、違いない。
なので僕は、谷崎潤一郎の、作品を読みながら、また日本の面白い、小説を探して読みながら、同時に、自分の書きたい小説を、書いていった。
○
二ヶ月ほどして、文芸部の、文集が出来た。
僕の、作品二作と、石田君の、新しい作品、一作と、あと、文芸評論みたいな、作品が、数作、と、文学部四年生の学生の、卒業論文みたいなもの、が、載っていた。
僕は、五作品、石田君に、預けたのだが、残りの三作は、作品が、なかなか集まらなくて、文集を作れなくるのを、考慮して、次期、作る、文集に載せる、ための、ストックにしておく、と言った。
石田君の、小説は、文章は、上手いが、やはり、何を言いたいのかは、よくわからなかった。
自分の、小説が、活字になって、文集に載っても、僕には、それほど、嬉しくなかった。
文集は、所詮、文集で、発行部数も、たかが、200冊で、たかがしれているからだ。
そうこうしているうちに、僕は、教養課程の二年を終えた。
○
三年からは、基礎医学で、医学一色の勉強になった。
三年、四年、の、基礎医学は、人体の構造や、病気の原理を学ぶ、学問である。
三年では、組織学。解剖学第一。解剖学第二。生理学第一。生理学第二。生化学。
四年では、病理学第一。病理学第二。免疫学。腫瘍病理学。細菌学。薬理学。寄生虫学。衛生学。公衆衛生学。法医学。である。
そもそも、僕は、理数科系が得意といっても、数学や物理などの、ガチガチの論理的科目が、得意で、生物学は、好きではなかったので、基礎医学は、つまらなかった。
毎日、分厚い、医学書を読み、顕微鏡で、極めて薄く切り取られて、ピンク色に染色された、人体の組織を、スケッチする単調な毎日だった。
それでも、理屈がわかれば、面白かった。
僕は、基本的に、何事でも、勉強熱心である。
基礎医学の勉強は、ほとんど、遊びの、教養課程の勉強と違って、覚える量が多く、本格的だった。
なので、小説を書く、ゆとり、が無くなって、小説を、書く、時間は、取りにくくなった。
読書は、好きになっていて、小説を書く参考にもなると思っていたので、書く、より、読む、方に、うつっていった。
しかし、僕の心は、もう、小説を書くことにしか、人生の価値を見いだせず、いつも、小説の、ストーリーのヒントに、なるものは、ないかと、絶えず、それを探すように、なった。
そういう目で、世の中や、自分の身の回りを見るようになっていた。
そして、小説の、インスピレーションが、起こると、すぐに、それをメモした。
やがて、石田君の、卒業が近づいてきた。
石田君は、東京の、大手の、出版社に就職することに決まった。
就職活動では、そんなに、困らなかったという。
石田君は、文学新人賞に、作品を応募して、小説家になる、夢を持ち続けていた。
「小説、書くのをやめたらダメだぞ。オレも、一生、書き続けるからな」
と、石田君は、言った。
石田君は、僕に、どっちが、先に、小説家になれるか、競争しようと、笑って言った。
石田君は、僕の、文学での、良き友人であると、同時に、良きライバルでもあった。
冗談も、半分あるだろうが、本気も、間違いなく、あるだろう。
やがて、石田君は、卒業した。
○
僕は、四年の、基礎医学を終えて、五年の、臨床医学に進んだ。
臨床医学は、無味乾燥な、基礎医学と、違って、面白かった。
臨床医学とは、内科、外科、産婦人科、小児科、眼科、泌尿器科、他、つまり、全ての、医学の科目を、学ぶ学問である。
まず、教科書を選ぶ困難がなかった。
全ての科の勉強は、医師国家試験用の、教科書で勉強することが、出来たからだ。
医学生は、卒業する、約一ヶ月前に、医師国家試験を受ける。
医師国家試験は、大学の、臨床医学と、同じではあるが、大学の、アカデミズムに比べると、レベルは、少し下がり、国家試験用の、教科書は、分厚くなく、わかりやすく、使いやすかった、からである。
皆も、そうだが、臨床医学の授業は、国家試験用の、教科書で勉強していた。
そして、五年の二学期から、臨床実習が、始まった。
臨床実習とは、大学の付属病院で、実際に、患者を診る勉強である。
五人で、一組の班となって、全ての科を回っていくのである。
臨床実習の勉強は。教授回診の見学。手術の見学。大学病院の先生のレクチャー。入院患者や、課題を出されて、そのレポート書き。などである。
レポート書き、は、多少、面倒くさく、見学の方が、楽で、面白かった。
なにせ、生きて、病気と闘っている患者である。
それを、医学という、長い長い、時間の中から、数限りない、学者たちが、築き上げてきた、医学という学問が、何とか、必死で、治そうとしている、壮絶な戦いである。
しかし、臨床実習と、医師国家試験の準備の勉強で、忙しくなって、僕は、ひとまず、医師国家試験に受かるまでは、読書も、小説創作も、おあずけ、にして、勉強に、専念することにした。
それほど、臨床医学は、忙しく、また、やりがいも、あった。
そもそも、小説家になるには、若い時の、人生体験というものが、作家になってから、大きく、ものをいうのであり、若い時に、真剣に生きる、ということが、すなわち、小説を書く、訓練でも、あるのだ。
それで、僕は、臨床実習も、臨床医学の勉強も、国家試験の勉強も、精一杯、やった。
それで、僕は、無事、医学部を卒業し、医師国家試験にも、通った。
僕は、関西は、どうしても、気質が、肌に合わないので、研修は、関東でしたかった。
できれば、神奈川県か、東京都、の医学部で、研修したかった。
それで、前もって、入局願いの、手紙を、東京の、医学部に、たくさん、出していた。
関東や東京には、医学部が、たくさんある。
どうせ、ダメだろうと思っていたのだが、入局者の定員が足りない、ということで、東京大学医学部の、第一内科から、入局を、認める、手紙が、来た。
天下の、東京大学医学部、ということで、僕は、ちょっと、ビビったが、医師国家試験に通ってしまえば、研修医も法的には、立派に医者であり、医者になってしまえば、対等だろうと、僕は、思っていた。
僕は、卒業すると、すぐに東京都内に、アパートを借りて、引っ越した。
卒業してから、入局して研修が始まるまでには、一ヶ月ほど、期間がある。
ほとんどの、医学生は、海外旅行に行く。
もう、一切の受験勉強から、解放されて、僕は、小説を書き始めた。
五年、六年の、臨床医学になってからは、小説は、ほとんど、書いていなかったが、小説の、インスピレーションは、メモしていたので、あとは、それを書くだけだった、からだ。
五、六作品、僕は、一気に、小説を書き上げた。
○
やがて、一ヶ月して、東京大学医学部の第一内科に、入局する日が来た。
医学部に、近づくのにつれ、僕は、だんだん、足が、ガクガク震え出した。
僕も、国立の医学部を出たんだぞ、と、自分に言い聞かせ、無理して、自分に自信を持とうとしたが、相手は、天下の、東大医学生である。東大医学部である、東大理科三類の偏差値は、最低でも、駿台模擬試験で、偏差値80は、超してなければ、入れない。
東大理科三類は、日本で、一番、頭のいい人間の、上から、100人のみが、入れる、所なのである。
僕は、全身をガクガクさせ、滲み出る、冷や汗を、ぬぐいながら、第一内科の医局をノックした。
トントン。
「はい。どうぞ」
中から、声がした。
僕は、手をブルブル震わせながら、ドアノブを回した。
おそるおそる、医局の中を、覗くと、10人くらいの、カジュアルな、服を着た、僕と、同い年くらいの、男達が、タバコを吸いながら、喋っていた。
東大医学部、第一内科の、新入局者たちだろう。
僕は、もちろん、新調した、紺のスーツに、ワイシャツに、ネクタイの正装だった。
皆の目が、サッと、僕に集まった。
皆、スーツの正装で、来ているものだと、思っていたので、自分一人だけ、スーツの正装というのが、とても、ばつが悪かった。
「おめえ。誰だ?」
眼鏡をかけた、鋭い目つきをした、赤シャツを着た、男が聞いた。
「は、はい。今日から、第一内科に、入局することになりました、山野哲也と申します。よろしく、お願い致します」
僕は、コチコチに緊張して、深々と、頭を下げた。
「おい。外部からの、入局者が、いるなんて、聞いてるか?」
赤シャツを着た、男が、皆に向かって聞いた。
「さあ、知らねえな」
「そんなこと、聞いてないぜ」
と、皆は、口々に言った。
その中で、一人、青シャツを着た男が、口を開いた。
「オレ。知ってるぜ。なにか、今年は、入局者が、少ないから、特別に、他の大学から、研修医を、募集するかも、しれないって、中山信弥先生が、言ってたぜ」
中山信弥先生とは、東京大学医学部、第一内科の主任教授で、臨床医であると同時に、日本の再生医療の権威だった。
「ほう。そうか。するってえと、おめえが、外部からの研修医か。大学は、どこだ。京大か。慶応か?」
青シャツを着た男が聞いた。
「は、はい。広島大学医学部です」
僕は、小声で答えた。
「ぎゃーははは。広島大学だとよ」
皆が、腹を抱えて笑った。
「広島大学に医学部なんて、あったか?」
青シャツを着た男が、皆に聞いた。
「さあ。知らねえな」
「医学部といえば、東大か、京大か、慶応、以外は、クズだからな。知らねーな」
皆、本当に、知らないような、感じだった。
広島大学医学部にいた時、友達に、東大医学部は、プライドが高い連中ばかりだから、気をつけろ、と、言われていたが、まさか、ここまで、すさまじいとは、知らなかった。
しかし、駿台模試でも、広島大学医学部は、偏差値58の学力が、必要で、その学力があれば入れるが、東大理科三類は、偏差値80でも、合格の保証はない。
なにせ、日本で、トップの頭脳の人間、100人のみが、入れる大学なのだ。
「ところで、お前、国家試験では、何点とったんだ?」
黄色いシャツを着た男が聞いた。
医師国家試験は、60点合格の資格試験である。
僕の、国家試験の成績は、65点だった。
僕は、正直に、「65点です」、と、言おうかと、思ったが、「低すぎる」と、また、バカにされそうな気がしたので、
「な、75点です」
と、声を震わせて、ウソを答えた。
「ぎゃーはははは。75点だとよ」
東大生たちは、皆、腹を抱えて笑った。
「おい。お前、何点だった?」
赤シャツを着た男が、青シャツを着た男に聞いた。
「そんなこと、聞くまでもないだろう。100点に決まってんじゃねえか」
と、青シャツを着た男が、言った。
「そういう、お前は、何点だったんだ?」
青シャツを着た男が、赤シャツを着た男に、逆に、聞き返した。
「オレだって、もちろん、100点さ」
赤シャツを着た男は、ゆとりの口調で、言った。
「おーい。みんな、何点で、合格した?」
赤シャツを着た男が、皆に聞いた。
「オレも100点」
「オレも100点」
みんな、口々に、言った。
全員が、100点、での合格だった。
僕は、タジタジとした。
「おい。愚図野郎。医師国家試験なんて、あんな簡単な、試験はな。満点とって、当然の試験なんだよ」
そう、赤シャツを着た男が、言った。
「おい。こいつの、頭のレベルを、試してみようぜ」
青シャツを着た男が、言った。
「そうだな」
「賛成」
みな、賛同して、決まった。
「じゃあ。まず、暗算の能力だ。黒シャツ。お前が答えろ」
そう、赤シャツを着た男が、言った。
「オーケー。いつでも、いいぜ」
黒シャツを着た男が、余裕の笑顔で言った。
「では・・・・。7986+4838は?」
赤シャツを着た男が、言った。
(えーと。6に8を足すから14で、1足す8足す3だから・・・)
僕が、そう考えようとする、はるか前、黒シャツを着た男が、質問をした、直後に、黒シャツを着た男は、電光石火の如く、即座に、
「121824」
と、1秒もかからず言った。
僕は、10秒くらい遅れて、
「121824」
と、答えた。
「ぎゃーはははは。こんな暗算に、10秒も、かかりやんの」
「お前。低能といえか、知能に障害のある人か?」
東大生は、みな、腹を抱えて笑った。
「よーし。今度は、博学テストだ。お前が、どれたけ、知識があるか、テストしてやる。紫シャツ。お前が答えろ」
と、赤シャツを着た男が、言った。
「オーケー。いつでも、いいぜ」
紫シャツを着た男が、余裕の笑顔で言った。
「それじゃあ、ランダムに、いくぞ。では。ら行で・・・・」
と、言って、赤シャツを着た男が、電子辞書を取り出して、言った。
「ラーガ、とは何だ?」
赤シャツを着た男が、言った。
僕には、聞いたこともない名前だった。
なので、答えようがない。
「ラーガとは、・・・インド音楽の理論用語で,音楽構成上の主要な要素の一つ。ラーガは,音の動きによって人の心を彩るという言葉に由来する。その用語は8世紀頃現れるが,ラーガの概念はずっと以前からあったといえる」
紫シャツを着た男が、余裕の笑顔で言った。
僕は、急いで、スマートフォンを取り出して、「ラーガ」で、検索してみた。
その通りだった。
僕は吃驚した。
「じゃあ。次。今度は、は行で、・・・・ハボローネ、とは、何だ?」
赤シャツを着た男が、言った。
僕には、聞いたこともない名前だった。
なので、答えようがない。
「ハボローネとは、・・・アフリカ南部、ボツワナ共和国の首都。旧称ガベロネス(ガベローンズ)。同国南東部のリンポポ川上流にある。19世紀末にはトロクワ族の小村だったが、1966年の独立に伴って首都となり、急減に人口が増加。南アフリカ、ジンバブエと鉄道で結ばれ、交通・IT分野のインフラの整備が進んでいる」
紫シャツを着た男が、余裕の笑顔で言った。
僕は、急いで、スマートフォンを取り出して、「ハボローネ」で検索してみた。
その通りだった。
「おい。グズ野郎。わかったか。オレ達の頭の中には、ブリタニカ国際大百科事典、以上の知識が詰まってるんだ。オレ達はな、この世の中の、ありとあらゆる事を知っているんだ」
赤シャツを着た男が、自慢げに言った。
「おい。こんな白痴野郎が、国家試験で、本当に75点も、取れたのか、疑わしいぜ」
青シャツを着た男が、言った。
「そうだな。おい。お前。本当に、国家試験で、本当に75点、取ったのか?調べれば、すぐに、わかるんだぜ」
彼は、僕に、鋭い目を向けて聞いた。
僕は、全身が、ガクガク震えていた。
僕は、正直に答えた方が、身のためだと思った。
「ごめんなさい。75点というのは、ウソです。本当は、65点です」
と、僕は、言った。
「ぎゃーははは。そうだろうと思ったぜ。このウソつきの、イカサマ野郎」
そう、言って、赤シャツを着た男が、僕を、突き飛ばし、倒れた僕の顔を、皮靴で、グリグリと、踏みにじった。
他の、東大医学部生も、全員、寄ってきて、僕の顔をグリグリ、踏みにじり出した。
「おめえ、みたいな、低能人間が、身の程知らずにも、医者になろうとするから、日本の医療は、世界から低く見られるんだ。オレ達にとっちゃ、いい迷惑だぜ」
彼らは、ペッ、ペッと、僕に、唾を吐きかけながら、そんなことを言った。
「ごめんなさい。ごめんなさい」
僕は、泣きながら、謝った。
法的にも、道義的にも、謝る必要など、ないのに、謝らずには、いられなかった。
その時、ガチャリと、医局のドアが開いた。
五分刈りに頭を刈った、額の広い、キリッと、引き締まった顔つきの、年配の、白衣を着た、先生が、入ってきた。
東大医学部、第一内科の、中山信弥教授、だった。
みなは、蜘蛛の子を散らすように、サッと、席にもどった。
僕も、すぐに立ち上がった。
僕は、黙っていた。
「どうしたんだ。何かあったのか?」
中山信弥先生が先生が聞いた。
「いやー。別に、何もありませんよ」
東大生たちは、何食わぬ顔で言った。
中山信弥先生は、僕の肩に、ポンと手を置いた。
「紹介しよう。今年は、第一内科の入局者が、少ないので、入局者を募集して、外部の大学から、来てくれた、山野哲也先生だ。みな、よく面倒をみてやってくれ」
そう、中山信弥先生は、僕を紹介した。
「山野哲也です。よろしくお願い致します」
そう言って、僕は、深く頭を下げた。
「こちらこそ、よろしく」
「よろしく」
東大医学部生たちは、掌をかえしたように、恵比須のような、笑顔で、みな、明るい、挨拶を返した。
(こ、こいつら・・・)
さっきまで、さんざん、人を、コケにしていたのに。
僕は、東大生の、転身の早さに、ただただ、驚いていた。
「じゃあ。今日は、挨拶だけだ。これで、おわりだ。これから、飲みに行こう。オレが、おごってやる」
中山信弥先生が、言った。
「やったー」
「ラッキー」
東大生たちは、みな、ガッツポーズをして、喜んだ。
そして、ゾロゾロと、医局室を出ていった。
医局室は、僕だけになった。
「君は、どうする?」
中山信弥教授が聞いた。
「ぼ、僕は、いいです」
僕は、オドオドと、小さな声で、言った。
「そうか。無理には、誘わないよ。あいつら、ちょっと、プライドが、高くて、オレも、困っているんだ。わからないことがあったら、あいつらにでも、オレにでも、何でも聞いてくれ」
そう、中山信弥教授は、言って、医局室を出ていった。
(あれが、ちょっと、プライドが高い、という程度か)
と、僕は、言いたかったが、僕は、怒りと悲しみを、胸の内に、ぐっと、こらえた。
中山信弥教授の、態度も、何となく、冷たく感じられた。
僕は、憤りと、口惜しさ、で、泣き出したい気持ちを、心の中に、押さえこんで、東京大学医学部付属病院を出て家路についた。
こんな、口惜しい、思いをしたのは、生まれて初めてのことだった。
普通の人だったら、こんな時、酒を飲むのだろうが、僕は、酒が飲めなかった。
僕は、東大理科三類出のヤツラを、みんな、ぶん殴りたい気持ちで一杯だった。
だが、しかし、雲泥の、学力の差は、彼らの、言うように、僕の能力の低さに、問題があって、そして、彼らの、能力が、ズバ抜けて、高い、という、ことは、彼らの、言う通りなのだ。
彼らは、今頃、中山信弥教授と、レストランで、大いに、飲み、そして、食っているだろう。
僕には、中山信弥教授が、東大理科三類出のヤツラと、一緒に、僕を、笑い者にしている、様子が、浮かんできて、それは、いくら、振り払おうとしても、僕の頭から、消えることは無かった。
僕は、まさに、やりきれなさ、に、死にたいほどの、屈辱を感じていた。
アパートに着いた。
僕は、ベッドに、うつ伏せに、飛び乗った。
そして、心の中にある、口惜しさを、全て、吐き出すように、号泣した。
「うわーん。うわーん。うわーん。うわーん」
涙は、とめどなく、ナイアガラの滝のように、溢れ出て、枯渇する、ということがなかった。
体中の、水分が、全て、涙として、流れ出て、脱水状態になって、死にはしないかと、思った。
その時である。
ブー。ブー。
ポケットの中の、スマートフォンの着信音が鳴った。
発信者は、「石田」と、表示されていた。
石田君は、三年前に、卒業して、東京の、大手出版社に、勤めていた。
石田君が、大学を卒業してからも、僕は、しばしば、石田君と、メールや、電話の、遣り取りをしていた。
石田君の、アパートは、僕の、アパートに割と近かった。
「よう。元気か?」
石田君が聞いた。
「・・・・」
僕は、答えられなかった。
元気であるはずがないからである。
「今日から、東大医学部での、研修だろ。初日は、どうだった?」
石田君が聞いてきた。
僕は、答えられなかった。
しかし、石田君の、元気な声からは、石田君が、東京の、出版社で、バリバリ働いている、様子が、ありありと、想像された。
石田君は、外国の、難しい文学ばかり、読んでいて、また、石田君の、書く小説も、僕には、難解で、わからなかった。
その点、僕は、石田君を、文学における能力という点で、石田君を尊敬していた。
僕は、石田君に会ってみたいと思った。
「僕は、元気だよ。ところで、石田君。久しぶりに会わないかい?」
僕は言った。
「ああ。いいよ。いつ。どこで?」
石田君が聞いた。
「今すぐにでも、会いたいんだ。駄目かい?」
「いや。構わないよ。今日は、会社が休みなんだ」
「じゃあ。今から、君のアパートに、行ってもいいかい?」
「ああ。構わないよ」
「じゃあ、すぐ、行くよ」
そう、言って、僕は、スマートフォンを切った。
そして、ワイシャツを脱ぎ、カジュアルな普段着に着替えた。
そして、アパートを出た。
石田君は、世田谷区にあるアパートに住んでいて、電車で、30分で、行けた。
石田君と、メールの遣り取りは、たまに、していたが、石田君の、アパートに、行くのは、初めてだった。
最寄りの駅を、降りると、スマートフォンの、地図アプリを、頼りに、僕は、石田君の、アパートに、着いた。
トントン。
僕は、石田君の、部屋をノックした。
「はーい。ちょっと、待って」
部屋の中から、石田君の、声と、パタパタ走る、足音が、聞こえた。
ガチャリ。
戸が開いた。
「やあ。久しぶり」
石田君は、学生時代と、変わらぬ、笑顔で、僕に挨拶した。
石田君が、広島大学を、卒業してから、一度も会っていないので、三年ぶりの再会だった。
「やあ。久しぶり」
僕は、死にたいほどの、屈辱を胸の中に秘めていたので、とても、笑顔など、作れず、小声で、挨拶を返した。
石田君は、僕の、心の中の、憔悴を、見てとった、ように、僕は、感じた。
「ともかく、入りなよ」
石田君に、言われて、僕は、部屋に入った。
石田君の、部屋は、僕には、名前すら知らない、外国文学の本が、ぎっしり、並んでいた。
「石田君。小説は、書いている?」
僕は、聞いた。
「うん。書いているよ」
「会社の仕事は、忙しくないの?」
「はじめの頃は、忙しかったけれど、もう、慣れちゃったよ。社会で、働くようになって、感じさせられることが、たくさんあって、小説の創作意欲は、大学の時とは、比べものにならないほど、高まっているよ。会社が終わった後と、土日は、すべて、創作しているよ」
石田君は、元気溌剌な口調で言った。
「ところで、君は、小説、書いているかい?」
石田君が、聞き返した。
「うん。書いているよ。君の書く、小説と、比べると、幼稚な小説だけれどね」
僕は答えた。
石田君は、お世辞は、言わない性格なので、黙っていた。
石田君も、僕の、言う通りだと、思っているのだ。
「君の気質は、エンターテイメントの小説を書くのに、向いているだけさ」
石田君は、かろうじて、そう言って、僕をなぐさめてくれた。
「ところで、今日から、研修なんだろう。何か、あったのかい?」
石田君が聞いた。
僕は、黙っていた。
「東大医学部の医局の雰囲気は、どうだった?」
黙っている僕に、石田君は、さらに、聞いた。
今日の、悪夢のような、人間が耐えられる限界を、はるかに超えた、屈辱が、僕の脳裡に、一気によみがえった。
「うわーん。うわーん。うわーん」
僕は、畳に、突っ伏して、号泣した。
石田君は、黙っていた。
僕は、10分、ほど、泣き続けた。
10分もすると、ようやく、僕の涙も枯れ果てて、精神的にも、落ち着いてきた。
僕は、顔を上げた。
僕は、ようやく、今日の、出来事を語れる心境になった。
僕は、東大理科三類出の、研修医たちに、さんざん、バカにされたこと、口惜しいが、彼らの、頭脳は、事実、ブリタニカ国際百科事典を、はるかに越していること、彼らに、低能人間、呼ばわりされたこと、など、今日の、出来事の全てを語った。
「そうか。そんなことがあったのか」
石田君は、しばし、目をつぶって、黙って、腕組みして、黙然と、考え込んでいる様子だった。
しばしした後、石田君は、目を開いて、重たい口を開いた。
「山野君。気にする必要は、ないよ。東大理科三類のヤツラってのは、要するに、先天的に、記憶力と、計算力が、ズバ抜けて、優れている、だけに、過ぎないよ。彼らは、情報処理能力が、優れた、人間コンピューターに、過ぎないよ。そんなの、コンピューターで、代替が出来る。彼らに、創造力は、無いんだ。東大理科三類を出たヤツで、小説家になった人間なんて、いないだろう。人間の、頭の良さ、には、色々な、要素が、あるじゃないか。君は、小説を書けるんだから、創造力という能力では、東大理科三類のヤツラより、君の方が上さ。彼らは、秀才であっても、天才ではないんだ」
僕の感情は石田君のいったことに満幅の賛意を表した。
確かに、石田君の、言う通りなのかもしれない。
しかし、僕は、すぐに、一人の、例外を思いついた。
「でも。森鴎外は、東大医学部出で、しかも、優れた、小説家じゃないか?」
僕は言った。
「森鴎外か。・・・確かに、森鴎外は、優れた小説家だね。森鴎外の小説は、確かに、語彙も豊富だし、文章も上手い。しかし、あれは、秀才の小説さ。森鴎外の小説で、内容的に、海外でも認められている傑作の作品は、あるかい?」
石田君が、即座に、言った。
僕には、思いつかなかった。
「・・・思いつかないな」
僕は、言った。
「そうだろう。東大理科三類出のヤツラなんて、単なる、電子辞書に過ぎないんだよ。人間の、価値は、創造力の能力によって、新しい、価値の、産物を作っていく所にあるんだ。小説は、人間の、創造力によって、創り出された、この世に、二つとない、価値の産物なんだよ。君は、小説を書ける能力がある。だから、君は、東大理科三類出のヤツラより、優れているんだよ」
と、石田君は、言った。
僕は、何だか、自分に自信が出てきた。
「そうだね。彼らは、性能の良いコンピューターだけど、僕は、創造力のある、かけがえのない人間なんだね」
僕は、自分に言い聞かすように言った。
「ああ。そうさ。だから、君は、もっと、自分に自信をもつべきだ。東大理科三類出のヤツラを、心の中で、お前らは、単なるコンピューターだ、と、バカにしてやれ」
石田君は、自信に満ちた強気の口調で言った。
「ありがとう。石田君の、励ましの、おかげで、僕は、自分に、自信がもてたよ」
「そうか。それは、よかったな」
「ところで、研修は、東大医学部でなくても、他の大学でも、できるけれど、僕は、どうすればいいと、君は思う?」
「東大医学部で、研修した方が、いいと思うな。強く生きること、困難に挑戦すること、が、君を小説家として、大きくすると思うよ。そう、僕は、確信している」
石田君は、キッパリと、言い切った。
「わかったよ。僕は、創造力をもった人間として、性能の良いだけの、コンピューターと、戦うよ」
「おお。そうだ。その意気だ」
こうして僕は、東大医学部で、研修を受けることに決めた。
その後、僕と、石田君は、近くの焼肉屋に行った。
「山野君の、入局と、今後の活躍を祝って・・・カンパーイ」
と、僕と、石田君は、グラスを、カチンと、触れ合わせた。
石田君は、ビールだったが、僕は、酒が飲めないので、コーラで、乾杯した。
僕たちは、食べ放題の、焼肉を、腹一杯、食べた。
○
翌日、僕は、胸を張って、堂々と、東大医学部、第一内科の医局に、入った。
東大理科三類出のヤツラが、昨日と同じように、たむろしていた。
「おはようございます」
僕は、元気に、挨拶した。
東大理科三類出のヤツラは、僕を見ると、
「おおっ」
と、一斉に、驚きの声を上げた。
僕が、昨日一日で、やめて、もう来ないと、思っていたのだろう。
「信じられん」
「どういう精神構造なんだ?」
「豚は、バカだから、神経が鈍感なんじゃないか?」
彼らは、口々に、そんなことを、言い合った。
すぐに、眼鏡をかけた、白衣のドクターがやって来た。
医局長の、山田鬼蔵先生だった。
「おい。お前達。担当患者を、割り当てるから、病棟へ行け」
山田鬼蔵先生が、言った。
「はーい」
東大理科三類出の、研修医のヤツラは、みな、ゾロゾロと、医局室を出ていった。
研修医は、一つ年上の、指導医に、ついて、指導医のやることを、そのまま、真似るのである。研修は、徒弟的な面があって、大工の見習いと、似たような所がある。
特に、外科は、手術の技術の伝授なので、徒弟的な面が、強いが、内科でも、同じである。
東大理科三類出の、研修医が、みな、ゾロゾロと、医局室を出ていって、医局室は、僕一人になった。
僕も、最後に、彼らのあとについて、医局室を出ようとした。
その時。
「まて」
医局長の、山田鬼蔵先生が、僕を引き止めた。
「君は、昨日一日で、辞めた、と、昨日、研修医たちから、聞いたんだ。だから、君の、担当患者も、指導医も、決まっていない」
そう、医局長は、言った。
「では、僕は、何をすれば、いいんでしょうか?」
僕は、医局長に聞いた。
「えーと。そうだな・・・君の、担当患者と、指導医が、決まるまで、医局室の、掃除でもしていてくれ」
そう、言って、医局長は、僕に、モップを渡した。
僕は、ムカーと、天地が裂けるような、憤りを感じたが、昨日、石田君と、約束した、「つらくても我慢する」ということを、思い出して、モップを、受けとった。
そして、僕は、誰もいなくなった医局室を、モップで、磨き出した。
医局長といっても、やはり、東大理科三類出は、プライドの塊なんだな、と思いながら。
ぼくは、「ならぬ堪忍するが堪忍」と、自分に、言い聞かせて、一生懸命、医局を掃除した。
午前の診療が終わると、東大理科三類出の、研修医たちは、「あーあ。疲れたな」、と言って、昼休みに、もどってきた。
僕が、医局室を掃除していても、彼らの眼中に僕は、なかった。
まさに、傍若無人である。
「おい。豚野郎。お茶を配るくらいの、気は使え」
医局員の一人が言った。
僕は、ムカーと、頭にきたが、我慢して、皆に、冷たい、お茶を配った。
彼らは、お茶を飲むと、ゾロゾロと、職員食堂に行った。
そして、午後の研修が、終わると、「おい。今日も、飲みに行こうぜ」、と言って、医局室を出ていった。
僕は、彼らが、全員、帰ると、帰り支度をした。
その時。
医局長の、山田鬼蔵が、やって来た。
「山野君。今日は、すまなかったな。明日からは、研修に、参加してくれ」
僕の、憤りは、溶け、喜びに変わった。
「しかし、まだ、君の、受け持ち患者は、決まっていないんだ。すまないが、君の、担当患者を決めるのは、少し、待ってくれないか?」
医局長が言った。
「どのくらいの期間ですか?」
僕は、聞き返した。
「そうだな。二週間。二週間したら、きっと、君の、受け持ち患者を、決めるよ」
医局長が、言った。
「わかりました」
僕は、医局長の言うことを信じることにした。
そして、僕は、アパートに帰った。
その日は、よく眠れた。
○
翌日も、僕は、早起きして、一番で、東大医学部の、第一内科の医局に行った。
「おはようございます」
東大理科三類出の、研修医たちが、「ふあーあ」、と、欠伸をしながら、ゾロゾロと、やって来ると、僕は、元気に、挨拶した。
しばしして、医局長が、やって来た。
「おい。お前たち。注射の練習だ。はやく、病棟へ来い」
医局長は、あわただしい様子で、言った。
僕は、嬉しくなった。
研修医、がやることは、指導医の元で、患者の治療に、あたる、ことだけではない。
医学部を出たての、研修医は、注射も出来ない。
注射や、ナート(傷口の縫合)、気管挿管、マーゲン(経鼻胃管)、など、は、それなりに、技術が要るので、練習しなくては、出来るようには、ならない、のである。
「おい。山野。お前も来い」
医局長が言った。
僕は、嬉しくなった。
やはり、東大医学部だからといって、特別ではないんだ、と僕は思った。
研修医は、静脈注射は、もちろん、皮下注射も、出来ない。
注射の練習から、研修は、始まるのである。
もちろん、医学生の時にも、四年の時の、生理学の授業と、六年の時の、臨床実習の時に、ほんの2、3回、学生同士で、注射をしたことは、あった。
しかし、その程度では、とても、注射の技術をマスターすることなど、出来ない。
注射は、ルート確保という、点で、医者になろうとする者が、必ず、身につけなくてはならない、基本中の基本の、技術である。
僕は、医局長について、病棟に向かった。
東大理科三類出の研修医たちが、ズラリと並んでいた。
それと、なぜか、看護学生たちも、いた。
東大理科三類出の、研修医たちは、僕を見ると、ニヤリと、笑った。
何だか様子が変である。
「よし。じゃあ、注射の練習をするぞ」
医局長が言った。
すぐに、サッと、看護学生たちが、僕の腕をつかんだ。
「な、何をするんですか?」
僕は、あわてて、叫んだが、彼女らは、答えない。
彼女らは、僕のワイシャツを、無理矢理、脱がした。
そして、僕を、ベッドの上に、乗せると、ベッドの鉄柵に、僕の手首を、縛りつけた。
「な、何をするんですか?」
僕は、また、聞いた。
「だから、注射の練習だ」
医局長は、チラッと、看護学生たちの方を見た。
看護学生たちは、僕の口に、ガムテープを貼った。
僕は、声を出すことが、出来なくなった。
「では、注射の練習をする。採決する部位の、少し上を、ゴムで、緊縛して、皮下静脈に、針を入れるんだ。ある程度、しっかり、入れないと、ちゃんと血管に、入らないからな。堂々と、思い切りよくやれ」
医局長は、そう言った。
注射の練習とは、指導医が、入院患者に行って見せて、手本を見せて、研修医が、入院患者にする、ものだと思っていたので、まさか、僕が、その実験台にされるとは、想像もしていなかった。
東大理科三類出の、研修医たちは、荒々しく、僕の、上腕を緊縛すると、僕の、皮下静脈に、注射器の針を刺し始めた。
5、6人が一度に、寄ってたかって。
僕は、恐怖に、おののいて、「やめろー」と、叫ぼうとしたが、口に、ガムテープを貼られているため、声が出せなかった。
僕は、抵抗しようと、手足を、バタバタ激しく、揺すった。
すると。
「バカヤロー。患者が動いたんじゃ、注射が出来ねえだろ」
そう言って、医局長は、僕の顔を、力の限り、ぶん殴った。
僕は、抵抗することを、あきらめた。
東大理科三類出の、研修医たちは、僕の腕で、注射の練習を始めた。
彼らは、頭は、良いが、勉強ばかりして、生きてきたので、運動したことがない。
なので、運動神経は、ゼロで、手先の器用さも、全く無かった。
そのため、なかなか、注射の針が、血管に入らない。
僕は、あまりの痛さに、「ウガー。ウガー」、と、叫び続けたが、口に、ガムテープを貼られているため、声を出せなかった。
結局、東大理科三類出の、研修医たち、全員が、僕を実験台にして、注射の練習をしたが、誰も、満足に、注射針を血管に入れられなかった。
「しょうがないな。お前ら。よし。今度は、マーゲンの練習だ」
医局長が言った。
マーゲンとは、栄養を、経口摂取できない、患者に、鼻から管を入れて、胃に、栄養を流す、もので、これも、医師が身につけねばならない基本の技術である。
東大理科三類出の、研修医たちは、僕の鼻に、チューブを、入れる練習をし出した。
しかし、運動神経ゼロの、東大理科三類出の、研修医たちは、満足に、入れられない。
そもそも、キシロカインゼリーを、チューブに、着けておくべきなのに、それを忘れている。
鼻に、耐えられない、激痛が、走った。
僕は、あまりの痛さに、「ウガー。ウガー」、と、叫び続けたが、口に、ガムテープを貼られているため、声に出せなかった。
「バカヤロー。キシロカインゼリーが、ついてないじゃねえか。キシロカインゼリーを、つけて下さい、と何で言わねえんだ」
そう言って、医局長は、僕の顔をぶん殴った。
口に、ガムテープを貼られているため、声が出せないのに、なんで、僕が、殴られなくては、ならないんだ、と、僕は、東大医学部の、不条理さに、怒り狂っていた。
そもそも、叱られるべきは、キシロカインゼリーを、つけ忘れた、東大理科三類出の研修医たちで、あるべきはずであるのに。
結局、誰も、マーゲンを、入れられなかった。
「よし。今度は、尿道カテーテルの、練習だ」
と、医局長が言った。
僕の顔は、恐怖で、真っ青になった。
医局長は、看護学生に、サッと、目配せした。
看護学生たちは、僕の履いているズボンを、抜きとり、ブリーフも、抜きとった。
下半身、男の性器が、丸出しになった。
東大理科三類出の、研修医たちと、看護学生たちの、前で、下半身を露出して、男の性器を、丸出しに、されていることに、僕は、耐えられない、羞恥を感じた。
特に、看護学生たちの、好奇に満ち満ちた、視線が、耐えられなかった。
「研修医は、ダメだな。よし。看護学生。ひとつ、手本を見せてみろ」
医局長が言った。
看護学生の一人が、尿道カテーテルに、たっぷりと、キシロカインゼリーを、塗ると、僕の、陰茎を、しっかりと握り、亀頭の先端の穴に、尿道カテーテルを入れ出した。
僕は、恥ずかしさで、顔が、真っ赤になった。
いっそ、死んでしまいたいと思うほど。
なので、僕は、膝を閉じようとした。
すると。
「バカヤロー。尿道カテーテルを、入れる時は、股を大きく開かなきゃ、カテーテルを、入れにくいだろ」
と、医局長が、僕の顔を、思い切り、ぶん殴った。
僕は、仕方なく、股を開いた。
「前立腺を、通過させる時に、ちょっとした、コツがあるんだ。わかるか?」
医局長が、尿道カテーテルを、入れている、看護学生に聞いた。
「大丈夫です。わかっています」
看護学生は、目を輝かせて、欣喜雀躍とした口調で言った。
僕は、尿道カテーテルの先が、前立腺を通過して、膀胱の中に入った、のを感じた。
「わあ。入ったわ」
看護学生は、嬉しそうに言った。
そのあと、僕は、ガムテープを、はがされて、胃ファイバースコープを入れられたり、肛門から、大腸ファイバースコープを、入れられたりと、さんざん、研修医と、看護学生の、検査器具の扱い方の、練習台にさせられた。
5時を知らせる、チャイムが鳴った。
「よーし。今日の研修は、これまでだ」
医局長が、言った。
東大理科三類出の、研修医たちは、ゾロゾロと、医局にもどって行った。
「野郎の裸を見ても、面白くねえもんな」
と、言いながら。
あとには、看護学生たちが、のこされた。
看護学生たちは、目を見開いて、食い入るように、僕の、陰部を見ていた。
「ねえ。私たち。もうちょっと、男の人の体を、調べてみましょう」
看護学生の一人が言った。
「賛成」
「そうね。賛成」
こうして、看護学生、全員が残った。
看護学生たちは、尿道カテーテルを、引き抜いた。
そして、大腸ファイバースコープも、引き抜いた。
しかし、胃ファイバースコープは、そのまま、だった。
口に、胃ファイバースコープを入れられているので、僕は、喋ることが、出来なかった。
直腸診の練習をしましょう、と言って、看護学生たちは、指サックをはめて、僕の尻の穴に、指を入れてきた。
「前立腺マッサージって、こうやってやるのよ」
と、看護学生は、肛門に入れた、指を、動かし出した。
それは、気持ちが良かった。
僕の、死にたいほどの屈辱は消えて、いつしか、激しい、マゾヒズムの陶酔の感情が、起こっていた。
僕は、看護学生たちに、見られ、触られる、ことに、激しい被虐の官能を感じていた。
僕の、陰茎は、激しく怒張し、天狗の鼻のように、そそり立った。
「うわー。すごーい。男の人の勃起って、初めて見たわ」
小川彩佳に似た看護学生が言った。
「エッチな動画で、見たことは、あるけれど、実物を、こんなに間近で見るのは、初めてだわ」
背山真理子に似た看護学生が言った。
「どうして、こんな恥ずかしい姿を、見られて、興奮するのかしら?」
杉浦友紀に似た看護学生が言った。
「それは、山野哲也先生がマゾだからよ」
鈴木奈穂子に似た看護学生が言った。
「じゃあ、たっぷり、気持ちよくしてあげましょう」
生野陽子に似た看護学生が言った。
こうして、彼女らは、僕の、陰茎や、金玉や、尻の穴に、キシロカインゼリーを、塗りはじめた。
優しい手つきで。
それは、まるで、オイルマッサージのような感じだった。
そして、みんなで、寄ってたかって、怒張した、マラをしごき出した。
金玉を、揉んだり、尻の穴に、指を入れたり、しながら。
僕は、だんだん、興奮してきた。
(ああー。出るー)
僕は、心の中で、叫んだ。
しかし、胃ファイバースコープを、口の中に、突っ込まれているので、それは、ヴーヴー、という、唸り声にしか、ならなかった。
ピュッ。ピュッ。
溜まりに溜まっていた、精液が、勢いよく放出された。
それは、放物線を描いて、看護学生たちの、顔にかかった。
「うわー。すごーい。男の人の射精って、初めて見たわ」
看護学生の一人が言った。
こうして僕は、体中を、実習という名目で、隈なく、見られ、触られ、もてあそばれた。
○
その日。
僕は、よろめきながら、アパートに、帰った。
その晩は、東大理科三類出の、研修医どもに、された、へたくそな、無数の注射、や、マーゲンを、入れられた、気持ち悪さで、痛くて、なかなか、寝つけなかった。
しかし、看護学生に、弄ばれた、被虐の快感のために、それを思い出しているうちに、極度の、疲れも、加わって、眠りについた。
○
翌日も、僕は、東大医学部の、第一内科の医局に出勤した。
体中、痛かったが、石田君に、どんなに、つらいことがあっても、くじけない、と約束したことを、守り抜こうと、胸に抱きしめて、行った。
「おはようごさいます」
僕は、医局に、たむろしている、東大理科三類出の、研修医たちに、元気よく、挨拶した。
彼らは、僕を見ても、もう、黙ったまま、何も言わなかった。
僕が、どんなに、イビられても、根を上げない、根性を、もっていることを、彼らも、認め始めているようだった。
その日も、僕は、気管挿管や、気管支鏡を飲まされたり、骨髄穿刺されたり、尿道検査、されたり、と、豪気な男でも、泣き叫ぶほどの、検査の実験台にされた。
しかし、僕は、歯を食いしばって、耐えた。
東大理科三類出の、研修医たちは、運動神経ゼロで、手先も、不器用で、しかも検査や治療の手技を、覚えようという、意欲がまるで無かった。
確かに、治療、や、検査の手技は、看護婦の技術の方が上で、医者の役割は、正確な診断と、正確な、治療の指示である。
しかし、医師である以上、検査の手技も身につけていなくては、医師とは、いえない。
しかし彼らは、ひたすら、受け持ち患者の病気の、アメリカでの、最先端の英語の論文を読むだけだった。
彼らは、実際に、患者を診ようとせず、血算や生化、心電図、レントゲン、エコー、脳波、MRI、などを、見るだけだった。
彼らは、頭脳を使うことにだけに、価値があって、検査の手技の、練習は、頭を使わないので、看護婦が、やるものと、見なしているようだった。
しかし、僕は、つらい検査の実験台にされたことによって、つらい検査を受け続ける、患者の、つらさが、わかる研修医になっていた。
そもそも、東大医学部出の医者なんて、自分は、病気をしたこともなく、最先端の、アメリカの、英語の論文を読むだけで、患者の、病気の、つらさ、や、検査の、つらさ、など、まるで、わからない、頭でっかちの医者ばかりなのだ。
それに比べると、僕は、子供の頃から、喘息で、自律神経失調症で、アレルギーで、過敏性腸症候群で、病気の、苦しみを、知っていた。
医学部に進学しようと思ったのも、そのためだった。
その上、研修では、ありとあらゆる、つらい検査を、受けさせられて、検査の、つらさも、実感した。
東大医学部出の医者は、ほとんど全員が、患者を診ずに、病気だけを医学的に診る、人間不在の医者になるが、もしかすると、僕は、患者の苦しみを、わかる人間味のある、医者になれるかもしれないと思った。
僕は、病院の、つらい検査を、ほとんど全部、受けてしまった。
また、たとえば、骨髄穿刺を、受けたことによって、骨髄性白血病の、患者というものを、実感として、理解できるようにも、なった。
骨髄穿刺を受けている時には、医局長が、骨髄性白血病に、ついて、東大理科三類出の研修医に、説明するからだ。
何度も、説明を聞いているうちに、患者の側から、の視点で病気が、わかってきた。
「門前の小僧、習わぬ経を覚える」である。
○
そんなことで、入局して、待ちに待った、二週間が経った。
二週間したら、僕にも、担当患者を与えてくれる、と、医局長の山田鬼蔵先生が、約束してくれたからだ。
そのために、僕は、検査の練習の実験台にされるのも、耐えたのだ。
「医局長。二週間しました。約束です。僕にも、担当患者を、与えて下さい」
僕は、強気の口調で、医局長の山田鬼蔵先生に言った。
僕は、もう、東大医学部と、ケンカ腰だった。
「わかった。お前にも、患者を、受け持たせてやる。お前の、指導医はオレだ」
と、医局長の、山田鬼蔵が言った。
「よし。じゃあ、病棟へ行くぞ」
医局長が言った。
僕は、医局長と、一緒に、病棟に行った。
医局長は、患者の、カルテを取り出した。
「ほら。これが、お前の、受け持ちの、クランケのカルテだ。よく、読んでみろ」
そう言って、医局長は、僕に、カルテを渡した。
見ると、カルテの、すべてが、ドイツ語で書かれていて、しかも、文字が、ひどく崩れていた。