小説家、精神科医、空手家、浅野浩二のブログ

小説家、精神科医、空手家の浅野浩二が小説、医療、病気、文学論、日常の雑感について書きます。

パスカルの祈り

2008-10-31 23:47:03 | 考察文
病気の哲学者パスカル

「主よ。今からあなたのご用のためにあなたと共に、またあなたにおいて役立てる以外には、私が健康や長寿をいたずらに願うことがありませんように。 あなたお一人が私にとって、何が最善であるかをご存知です。ですからあなたがご覧になって最も良いと思われることをなさってください。私の意思をあなたのご意思に従わせてください。そして、へりくだった全き従順の思いをもって清らかな信仰を保ち続け、あなたの永遠の摂理によるご命令を受け取ることができますように。そしてまたあなたから与えられる全てのものを賛美することができますように」
(パスカルの祈り)

パスカルの病気を歯痛だけと思っている人が多いのではないか、と思うが、実際のパスカルの人生はまさに生き地獄だったのである。

耐えられないほどの頭痛、歯痛、腹痛、発熱、便秘、めまい、痙攣、冷え性、など、それは想像を絶する業苦だった。

それは、この、パスカルの祈り、から十分、想像される。

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若くして死んだ人の解釈

2008-10-30 01:43:17 | Weblog
若くして死んだ者の解釈

私は、若くして死んだ人が世間が思うほど悲惨な人生だとは思わない。特に、中学生、高校生で死んだ人は、まだ人生を経験せずに死んだように思っている大人もいる。しかし私は全くそうは思わない。そもそも、そう言う大人は、人生の定義を自分流に決めてしまっている。彼らにとっては、人生とは、学生というスネカジリの立ち場から卒業し、社会人として一人前に自立し、家庭を持って子を産み育て、定年までしっかり働いて、産んだ子を一人前に育て、定年で退職して安らかな老後を送る事が人生の定義だと思っているらしい。そう定義してしまうと中学生で死んだ人は無意味な人生ということになってしまう。しかし、私は全くそうは思わない。そもそも人生に定義などない。中学生で死んだ子も、友達と笑い合い、喧嘩し、異性を愛し、悩み、苦しみ、喜び、泣いた。私は、それが生きるという事であると思う。し、それらの濃度が大人のその濃度より低いとは、さらさら思わない。若くして死んだ子だって精一杯、生きたのである。

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自由学園

2008-10-28 17:22:00 | 考察文
自由学園

母校について考えてみたい。基本的に私は母校が嫌いだった。今でも嫌いである。創立者の思想も、現状も嫌いである。母校の自由学園はジャーナリストで思想家の羽仁もと子、羽仁吉一夫婦がつくった学校だが、人間を自分の思想のような人間に教育してつくりたいなんて傲慢な考えだ。人間を自分の思想の鋳型にはめるなんて僭越きわまりない考えだ。たとえそれがどんなにいい思想であっても。共産主義とはそういう思想である。実際、学校は共産主義的である。
創立者には偏見も多い。創立者はサッカーは皆で協力してやるチームワークのスポーツだからいいが、野球は個人プレーがあり、チームワークのスポーツではないからという理由で禁止した。実際、そういう理由で、中学、高校には野球部もないし、体育で野球の授業もない。皆で協力してやることが大切で、個人プレーはいけないらしい。私は野球は興味は無いが、ルールは知っている。子供の頃は、少しやった。創立者がどこまで、野球というものを知っていたかは知らないが、私はろくに知らないで、偏見でしか見れてなかったのだと思うが、野球はチームワークのスポーツ以外の何物なのだ。個人プレーで目立つ選手をつくっちゃいけない、なとど言っている。それでサッカーは推奨しているが、サッカーだって、センターフォワードなら目立つし、そもそも、どんなチームワークのスポーツだって技術の上手い人と下手な人は出来てしまうものだ。そして技術の上手い選手は目立ってしまうものだ。
生徒に対し、「あなた達は自由学園を良くするために入ったのです」というのが創始者の思想の一つであるが、これもおかしい。学園に入る生徒は中学からがほとんどである。確かに、生徒の意志で入ったのには違いない。しかし、小学校6年生に、そこまでの思想的自己責任を要求するのは酷というものである。そもそも学園の思想は、教師でさえ、完全に理解できる人は少ない。小学校6年生に、その学校の思想を完全に理解して入ったと解釈するのは、無茶である。そんなに頭のいい少年、少女だったら、そもそも学校に入って勉強する必要もなかろう。受験勉強は自分だけの欲望のためのエゴだとして否定し、人間教育とやらを謳っているが、それもおかしい。完全な共産主義思想である。結果、当然の事、生徒は勉強せず、怠けて遊んでいる。遊びとスポーツとファッションと音楽鑑賞にふけっている。

ただこれは男子部のことである。男子部では失敗なのである。

そもそも学園は、女子校として出来たのである。男子部は、あとからつくられたのである。
そして、当時でも現在でも女子部は成功しているのである。女子の特性として、与えられたものに、あまり考えたり、疑問を持ったりせず、順応しやすいのである。そのため、女子部の生徒は、真面目で、今時の女子高生とは比べものにならない。少なくとも私の時はそうだった。真面目に勉強し、協力し合い、勉強し、共同生活していた。お嬢様学校である。
しかし、後からつくった男子部は失敗である。男の気質は女とは違う。男は女のように素直に順応しない。戦闘的であり、反抗的であり、自分の主義主張を持つ。そういう男の気質を考えないで安易に男子部をつくると失敗するのである。目的や競争、報酬があれば、男は戦い、勝とうとするが、それがなく、入学したら付属大学卒業までが、怠けていても保障されているから、結果、怠けるのである。私は、6年間、寮生活をしたが、あそこはソドムの市だった。下級生に対する暴力、サボリ、退廃の吹き溜まりだった。
もちろん、全ての生徒がそうではない。高校三年の後、付属の大学に行く生徒と、やめて他の大学に行く生徒にわかれるのである。もちろん、付属の大学に行く生徒の方が圧倒的に多い。そもそも創立者の思想として、一貫教育を主張しているのである。学園の教育は大学部を卒業することによって身につく、という思想なのである。その思想が徹底しているため、中学や高校では卒業式をやらないのである。やる卒業式は大学部だけである。
ちなみに大学部は文部省の認める正規の大学ではない。法的に言えば各種学校である。ただ教える内容は普通の大学と同じである。卒業論文もある。なぜ正規の大学でないかというと、大学を受験できるのが、高等科を卒業した人だけに限っているからである。他の高校から入学したいと思っても入学できないのである。こういう閉鎖的な条件があると、何をしているか他からはわからず、レベルが低くもなりうるし、そもそもオウム真理教じゃないけど、何をしているかわからない集団ということになってしまう。これでは文部省も大学と認めるわけにはいかない。
生徒は6年の時、選択をせまられる。付属大学に行くか、他大学にいくか、である。
学校の建て前では、付属大学へ行く事が、学園の教育を学ぼうとする者であり、よい生徒であり、他の大学に行くものは、学園の教育を途中放棄した悪い生徒という事になっている。しかし、実際は、将来に対する目的が無く、怠けたいと思っている生徒が付属大学に行くのであり、何か目的を持った生徒は、やめて他大学をめざすのである。そもそも大学部の試験は形だけあるだけで、0点でも入れ、合格率は100%である。落ちて、浪人する人など一人もいない。学校の本音では大学の経営もある。生徒が少なくては、経営が成り立たない。本音と建て前がやたら違う学校なのである。
しかし世間では、学園の生徒を、人間教育とやらを受けて人間性がしっかりしている真面目な、協調性のある生徒と見ているので、大学卒業者と見ていて、就職も大学卒業した者と見ているのである。最も、法的には正規の大学ではないが、内容的には、まあ、正規の大学と同じと言ってもいい。そして、高校ではワルでも大学生になると、さすがに真面目になる人が多いのである。就職も、他大学と同じように、大学卒業者として無事にしている。
ただ、大学部に入ってから、人生の目的を見出す人も割りといるので、大学部を卒業してから、他大学に入りなおす人も結構、いるのである。そう出来るのは、やはり、学園の生徒が金持ちの息子が多いからである。しかし、そんなの時間の無駄である。私は高校の時にこの学校に見切りをつけた。こんな大学には絶対、行くまいと決めた。
人間の人格を自分流に教育しよう、というのは僭越きわまりない考えである。戦前の国家のためだけに命を捨てろと洗脳教育を受けた人が、おかしな思想の人間になったであろうか。高度経済成長をもたらしたのは彼らではないか。

私自信をかえりみて考えると自由学園に入って良かったものがあるか、というと何一つない。

ある人類学者の研究によると、ある虐待されて育った部族の子供達と、うんと愛されて育った部族の子供達とが大人になった時、統計的に人格に有意の差は無かったという事実がわかった。

慶応義塾の創立者の福沢諭吉は、素晴らしい事を言っている。
「時代が進んだら私の思想で、そぐわないものが出てくるだろう。だから時代が変わったら私の今の思想に拘泥するな」

これは素晴らしい思想である。自分の思想に憲法改正を盛り込んでいるといえる。そういう素晴らしい人間や思想であれば、時代が変わっても、嫌がうえでも創立者に敬意を払いたくなるだろう。

一方、自由学園の創立者には、残念ながらそういう発言はない。思想に憲法改正が盛り込まれていないのである。だから時代が変わっても、創立者に敬意を払うため、教師も明治時代につくられた創立者の思想を阿呆のように後生大事に守っているのである。







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グラビアのビキニの女

2008-10-27 21:17:07 | Weblog
私は週間マンガはたまに、グラビアの水着の女性だけのためにで買う。しかし、一時の熱にうかされても、半年もすると、魅力を感じなくなってしまう。自分か軽率な人間だとつくづく思う。買った時は、確かに私は恋した。雑誌を捨てる時、グラビアの女性が語りかけてくるのである。
「あなたって軽率な人ね。私の事を愛してる、好きだ、と100回も言ったじゃないの。あれは何だったの」
返す言葉が無い。私はつくづく自分の軽率な人格に恥じる。もっとも、その時は魅力を感じなくても後になって魅力を感じ出すようになる事もよくある。さらに積年の風月に耐える女性もいる。

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湘南台ファンタジア(二日目)

2008-10-26 12:50:00 | Weblog
今日は湘南台ファンタジア二日目だった。

ステージはたいして面白くなかった。
金魚すいくをやってみた。
一網で20匹以上とれた。
意外と簡単である。
何回か、二匹まとめて取った。
一匹ずつ、捕らなければならないという決まりはない。

ステージもパレードもあまり面白くなかった。
サンバも規模が小さい。
欧米人もいたが、彼女らには全然、魅力を感じない。
彼女らは恥の感覚がないのだ。
体型も大きくて好きではない。
やはり私は日本人の女にしか魅力を感じない。
日本の女には、まだ恥じらいがある、ように感じる。
みんなでやればこわくない、の感覚があるように感じる。
そもそも、日本の女にしか魅力を感じられないのは、生物の雄はすべて同種の雌にしか、発情しないのと同じような原理が働いているように思う。
少なくとも私はそうである。







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湘南台ファンタジア(一日目)

2008-10-25 18:40:20 | Weblog
今日は湘南台ファンタジア一日目だった。

ので、見に行った。
が、たいして面白くなかった。
屋台で焼き玉蜀黍を買って食べた。
ほどよく焼けて焦げがついて醤油をつけたのはコンビニでは売ってないのである。
たいして面白くないのでアパートに帰った。
が、焼き玉蜀黍を食べたくなって、また行った。
ステージは面白くないので、屋台を見て廻った。
夜の屋台は夏祭りのようで風情がある。
学校から帰りの女子高生が金魚すくいをしていた。
どのくらい取れるのか、見ていた。
うまい。
金魚をどんどんすくっていく。
紙が半分近く破けても、まだすくっている。
神業である。
椀が金魚でどんどん一杯になっていく。
はじめは、手先が器用なんだな、と思った。
しかし、うますぎる。
学校に金魚すくいクラブとかいうのでもあるのだろうか、と思った。
が、よく考えたら、単に子供の頃から夜店では、金魚すくいが好きで、何度もやってるうちに技術がうまくなったのだろう。
金魚すくいの技術も練習によってうまくなるのは当然である。
椀が金魚で一杯になった。
「115匹とれた」
と言って、記念に携帯のカメラで撮って、金魚を逃がした。
115匹も飼えるはずもなかろう。
もし、取った分だけ、持ち帰れたら金魚屋も商売あがったり、である。
こういう敵に対して、金魚屋も制限をつけていた。
「明日もまた来ます。明日は125匹をめざします」
と彼女は言って帰っていった。

彼女は、履歴書の特技に、「金魚すくす」と書くのだろうか。

一つ疑問に思った事があった。それは、彼女の友達が後ろで見てるのに全然、「うまい」とも「すごい」とも言わず、無感動に退屈そうに見ていたことである。

これは、おそらく以前、夜店で彼女が金魚すくい、するのを見ていて彼女の技術を知っているからだろう。




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秋から冬へ

2008-10-24 05:11:44 | Weblog
10月

10月も下旬になってくると、朝と夜が少し寒くなってくる。
9月は十分、夏で、10月でも、たまに暑い日があると蝉が泣く時があり、もののあわれ、がある。日中の気温は、18度~24度。車は昼、クーラーをつけて走る事の方が多い。まだ夏の格好でサンダルを履いて過ごせる。巨峰カルピスと梨のジュースがうまい。もはや家や図書館では半袖では過ごせない。まだ、夏のパジャマで寝てるが、電気毛布をつけないと寒い日もある。三寒四温である。畑で里芋の大きな葉や野菜を見ると気持ちがいい。デパートでクリスマスケーキや年賀状の宣伝を見かけた。

明日と明後日は湘南台ファンタジアがある。
10月の初めに高田馬場のサンバパレードを以前、二度、見た事がある。
5月の横浜パレードには、行く事にしている。が、今年は行かなかった。
何もサンバでなくても、外に出る事の少ない私には、人間の生の姿に官能を感じる。

だが、海やプールでビキニ姿の女性を見てから、サンバには、あまり官能を感じなくなった。意図があるとエロティシズムは無くなるのである。エロティシズムは単なる物理的な露出量の問題ではなく、精神的なものである。

警察官は、サンバのセクシーな女性をどう見ているのだろう。

公然わいせつ罪
刑法第174条
公然とわいせつな行為をした者は、6ヶ月以下の懲役若しくは30万円以下の罰金又は拘留若しくは科料に処する。
とある。

注意しないから、公然わいせつ罪ではないのだろう。




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哲学

2008-10-22 22:51:09 | 考察文
哲学

ほとんどの人が、これは絶対、自分の物だと信じて疑わない、自由意志、を疑えるかどうかが哲学の入り口である。この世が二元論ではなく、一元論、つまり、一つの原理によって動いていると考えられるか。

ちなみに私は国民的に人気のある「男はつらいよ」が大嫌いである。

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エロティシズム

2008-10-21 13:38:05 | 考察文
エロティシズム

エロティシズムとはバタイユを持ち出すまでもなく秩序破壊である。アダルトビデオは、それ自体すでにエロティシズムを失ってしまっている面がある。というのは、アダルトビデオは、その中でエロティシズムを表現することが約束されているからである。アダルトビデオのエロティシズムは、すでに秩序の中に納まっているエロティシズムであり、どんなにエロティシズムを表現しても危険なエロティシズム性は、そもそも、はじめから無いことが保障されていると言ってもいい。アダルトビデオではない普通のビデオの中でエロティシズム的な物がちょっとでもあると、それには、すごいエロティシズムを感じる。それは、あるべきではないものの中の異端物であり、内容に関係なく、その状態こそがエロティシズムだからである。

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柔道

2008-10-20 20:49:56 | 武道・スポーツ
柔道。

柔道を動画で見ると、つい柔道を学びたくなる。それは、柔道が立った姿勢で組み合った人間の崩し方を、かくも見事に合理的に研究し、完成させているなと感心してしまうからである。それに較べると空手の戦いは理論が無く、はるかに落ちると感じてしまう。もっともこれは当然の事で、柔道の元の柔術は武士の戦場での戦いとして考え出されたものであるのに対し、空手は戦いというより、人体の武器化として考え出されたものだからである。

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空手

2008-10-19 03:30:26 | 武道・スポーツ
空手

人間は生まれつき物を殴ったり、蹴ったりする事は出来る。しかし、人間は生まれつき、空気を殴ったり、蹴ったりする能力は備わっていない。空手とは、空気を殴ったり蹴ったりする能力を身につけることである。そして、その能力を身につけるには相当な期間の訓練が必要である。そして、空手とは、そういう空気を蹴る蹴り方で敵を蹴る、ということである。

そして一度、空手が身についてしまったら、空手の殴り方、蹴り方でしか敵を殴れなくなる。

それは、ちょうど、どんなスポーツでも一度、上達してしまったら、出来なかった元の状態にもどせないのと同じである。

私は空手は、上達するのに有利な運動だと思っている。それは空手が一人で練習できるからだ。

空手の初心者が一番、意識すべき事は、「空気を殴ったり、蹴ったり出来るようになる」事だと思う。

そういう点からして、サンドバッグなど物体を早くから殴ったり、蹴ったりしてはいけないのである。

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漫画家の方が小説家よりえらい

2008-10-18 21:08:36 | 考察文
漫画家の方が小説家より偉い。

と私は思っている。
何やら文学は高尚だが漫画は活字より低いもののように思われている。
しかし私は逆だと思っている。
そもそも小説は書こうと思えば誰でも書ける。
文章を書けない人はいない。
小説を書く人も人によって違う。
文章を書く訓練をしなければ書けない人もいるが、文章の訓練などせず、いきなり小説を書ける人もいる。
しかし漫画は違う。
漫画を描く訓練をしないで、いきなり漫画を描く事は出来ない。
漫画を描けるようになるには相当な訓練期間が必要なのだ。
また登場人物だけではなく背景もしっかり描かなければならない。
特に劇画はそうである。
アシスタントがいる漫画家もいるだろうが、いない漫画家だっている。
見開き1ページの絵を描くのに丸一日、かけなくてはならない時もあるだろう。
しかし読者は、それを一秒もかけずに読み飛ばす。
そういう読み方は少し思いやりがない。

だが少なくとも私は違う。
見開き1ページの絵を見ると、
「これ描くの大変だったろうなー。ご苦労さま」
と言いながら、その絵は十分な時間をかけて見ている。

だが、もちろん私は小説より漫画の方があらゆる点で上だなどととも、さらさら思っていない。
ただ漫画を描けるようになるまでの訓練や仕事の大変さ、という点では漫画の方が小説より上だと思っている。





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教師より生徒の方がえらい

2008-10-17 23:18:57 | 考察文
教師より生徒の方がえらい。

と私は思っている。
なぜなら、教師は、英語教師なら英語だけ教えていればいいからである。
教師は自分の専門の科目だけを教えてればいいのである。
しかも、教師は自分の教える科目は、全てわかっているのだから、頭を使う必要はない。
しかし生徒は全ての科目、苦手な科目も、勉強しなくてはならない。
しかも生徒は絶えず、解らない事を解るようになるよに頭を使わなくてはならないのである。
教師は何の頭を使う必要も無く、わかってる事を喋ってりゃいいのだが生徒は絶えず、知らない事、解らない事を解るように頭を酷使しているのである。
当然、頭脳労働という点では教師より生徒の方がはるかに上である。

中学生や高校生が歩いているのを見ると、偉いなーとつくづく思う。

もちろん私も高校の時は、生徒の方が教師より偉いと思っていた。




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体験作家

2008-10-16 10:04:56 | 考察文
体験作家

戦争の事ばかり書く作家がいる。もちろん戦争の悪を主張したいためである。しかし、そういう作家は戦争を経験しなかったら作品は書けなかったわけで、そういう作家は戦争のおかげで作家として名をなし、地位を得、収入を得ている。そういう作家は自分に矛盾を感じないのだろうか。

私だったら、そういう事に自己矛盾を感じる。
岡田有希子さんをモデルにした「ある歌手の一生」を書いた時、私はそういう矛盾を感じた。

私は体験などせずとも小説は書ける。
私が表現したいものは私の先天的な感性だからである。

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秋は収穫の季節である

2008-10-15 17:43:44 | Weblog
秋は収穫の季節である。

コンバインで稲刈りをしている所をたまたま車で通りかかった。
ので、車から降りて稲刈りを気持ちよく見ていた。
私もやってみたくなったので、じいさんに声をかけた。
「おじいさん。僕にもやらせてくれませんか」
「だめじゃ。うぬらはわしらの作った米を食うだけで汗水たらして作る苦労はせん。うまいとこだけ味わおうなんて虫が良すぎるわい」
じいさんは、あっかんべー、と舌を出した。
じいさんは、うわっはははは、楽しいわ、と言いながらコンバインで稲を刈っていった。
その時、後ろできれいな女性もその風景を見ていた。
「どうしたんじゃね。お嬢さん」
「あ、あの。おじいさん。私もやってみたいと思っていたんです。確かに虫が良すぎますわね。ごめんなさい」
「おお。お嬢さん。遠慮しないで、どうぞどうぞ。やってみてくだされ」
「ありがうとございます」
彼女は、失礼します、と言ってコンバインに乗った。
稲がどんどんコンバインによって刈りとられていく。
「うわー。楽しいー」
「そうじゃろ。これが米を作る者にとって一番、楽しいんじゃ。うんといい思い出になされ」
「て、てめえ。じじい。てめえの言う事は矛盾してるぞ」
「うっせ。うっせ。この人は心の清い人なんじゃ」
「おれは心が清くないのか」
「そうじゃ」
「何でそんなことがわかるんだ」
「人は一目見れば、人格が解るわい」
じいさんは、そっと彼女の太腿に手を置いた。
そして、その手を太腿の付け根の方へ這わせていった。
「あん。おじいさん。いやっ。やめてっ」
彼女はくすぐったそうに笑いながら言った。
「てめえ。じじい。おれもてめえの人格がわかったぜ」
「じじい。もう米なんか食わねえからな」
「おう。お前一人なんかが米を食わなくても、何の影響も無いわい」
もう私はパン食にしようと思った。

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