太宰治。奥野健男氏の太宰治文学評論は、何か気どっている所があって、嫌いである。氏によると、太宰治の文学は読む人によって「太宰治の文学は全肯定か全否定のどちらか」だそうだ。その発言からしておかしい。その人の全てが好きな人間というのも滅多にいなければ、その人の全てが嫌いな人間というのも滅多にいない。
私小説でも、「東京八景」などは、見事だと感じるし、「駆け込み訴え」もウーン、すごい、と唸らされた。
だが太宰で嫌いな所もある。彼は、第一回の芥川賞で候補に上がったが、選考委員の川端康成に、陰で、「親兄弟を喜ばすためにも受賞させて下さい」という切々とした手紙を送っている。これは、本当に嫌で卑怯な行為だ。誰だって、命がけで作品を書き、祈るように受賞を願っている。こんなのは文学賞に作品を投稿する人の当然のマナーである。そういうデリカシーのない行為は嫌いである。私は他人の不幸の上につかみとった自分の幸福など、何の価値もないと思っている。し、また、少なくとも私は、他人の幸福と自分の幸福との、限界の最終選択を迫られたら、私は、自分の幸福を捨て他人の幸福の選択をとる。
また太宰に限らず嫌いなのは、男はどんなに辛くても、自殺する時は、殉死者を出してはならない、と思っている。たとえ相手の合意があっても。男は、自殺がどんなに怖くても、死ぬ時は一人で死ぬ勇気と覚悟を持たねばならないと思っている。
私小説でも、「東京八景」などは、見事だと感じるし、「駆け込み訴え」もウーン、すごい、と唸らされた。
だが太宰で嫌いな所もある。彼は、第一回の芥川賞で候補に上がったが、選考委員の川端康成に、陰で、「親兄弟を喜ばすためにも受賞させて下さい」という切々とした手紙を送っている。これは、本当に嫌で卑怯な行為だ。誰だって、命がけで作品を書き、祈るように受賞を願っている。こんなのは文学賞に作品を投稿する人の当然のマナーである。そういうデリカシーのない行為は嫌いである。私は他人の不幸の上につかみとった自分の幸福など、何の価値もないと思っている。し、また、少なくとも私は、他人の幸福と自分の幸福との、限界の最終選択を迫られたら、私は、自分の幸福を捨て他人の幸福の選択をとる。
また太宰に限らず嫌いなのは、男はどんなに辛くても、自殺する時は、殉死者を出してはならない、と思っている。たとえ相手の合意があっても。男は、自殺がどんなに怖くても、死ぬ時は一人で死ぬ勇気と覚悟を持たねばならないと思っている。