小説家、反ワク医師、空手家、浅野浩二のブログ

小説家、反ワク医師、空手家の浅野浩二が小説、医療、病気、文学論、日常の雑感について書きます。

植物人間

2008-11-30 01:46:24 | 医学・病気
どうして植物人間をつくってしまうか。

心停止や低血糖では、早く脳にブドウ糖を送らなくては、植物人間をつくってしまうのである。植物人間とは、脳の真ん中にある脳幹という部分だけ、生きてて、他の部分の脳は死んでしまっている状態である。脳の一番、外側(新皮質)はものを考える所であり、その内側(旧皮質)は、喜怒哀楽の感情の部分である。そして、その内側の脳の真ん中が脳幹であって、これは生命を維持する中枢が集まっている所である。当然、高等生物になるほど、外側の考える脳の部分が発達する。そして、脳にブドウ糖が行かなくなると、脳はブドウ糖不足になる。この時、人体の防御反応がやっかいな事を起こすのである。それは、人体は、最悪の事態からは身を守ろうとするのである。そのため、脳にブドウ糖が行かなくなると、脳全体がやられるのではなく、まず初めに外側の考える部分の脳がやられ、次にその内側の感じる部分がやられるのである。最後が脳幹である。脳は人体を生かそうと、何とか、生命維持の中枢である脳幹は生かそうとするのである。それは人間を単なる生物として考えた場合は、人体の反応として正しい。しかし、人間が人間である所以は、ものを感じ、考えるところにある。何も感じず、何も考えないで、動かず、ただ呼吸しているだけの人間など、人間とは呼べない。死んだも同然である。そして、植物人間にしてしまうと栄養補給によって、生かし続けることが出来てしまうのである。こうなっては、やっかいである。いっそのこと、死んでしまった方がどれだけいいことか。
しかし、親としては、たとえ感じなくても、考えなくても、我が子が呼吸して生きている事が、そうなってしまっても死んでしまうより、良いと感じる親もいるのである。これは人によってどう感じるかは異なる。しかし、たとえ植物人間になっても親族の愛情が強ければ強いほど、生かしておいてほしい、呼吸している姿でもいいから見たい、と思うのである。それが植物人間の大きな問題点なのである。

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カンニング論

2008-11-29 08:05:34 | 医学・病気
カンニング論

私は人生において一度もカンニングという事をしたことがない。
大学でも、一度でもカンニングした人は、その人の持っているものは卒業証明書ではなく、詐欺証明書である。私の持っているのは、まぎれもない卒業証明書である。
私はカンニングという行為に、単なる不正という以上の悪質なものがあると思っている。それは、友達に対する裏切り、である。大学の時、二年から三年へ進級する時点で関所をつくり、かなり落として留年生をだしていた。二年も一緒に過ごすと親友になる。特に医学部は、他の学部と違って、実習など全員出席の授業が多く、大学というより中学や高校に近い。実際に私は見ているが。仲のいい関係の同級生が、一人はカンニングして三年に進級したが、一人はカンニングせず落第して、下のクラスに落ちた。そしてカンニングして進級した生徒が何も感じていないことに私はあきれるのである。私は友達に対する裏切りは不正行為より、はるかに悪質だと思っている。落第した生徒というものはみじめなものである。自分がそういう立場になって考える事が出来ないのだ。デリカシーゼロである。こういう事に、罪悪感も何も感じないでのうのうとしている人間が私は嫌いである。莫迦であると思う。大学一年の時の学園祭で、ある精神科医で作家の人が来て講演したのを聴いた。彼は、大学時代にカンニングしたことを、面白おかしく、自慢して話していた。私はそんな人間は莫迦だと思う。カンニングせず、真面目に勉強して留年した目立たない人の事が頭にないのだ。頭は良くても物事の本質が見えない人は多い。

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スネカジリ論

2008-11-28 21:49:47 | 考察文
スネカジリ論

私はスネカジリという言葉があまり好きではない。高校の時、生徒に質問して答えられないと、やたら、親のスネカジリ、と言って怒った英語の先生がいた。私は英語は得意だったが、この先生が、怒った時は嫌気がした。確かに、高校は義務教育ではない。だから高校生は、親のスネカジリという立場である。しかし、その先生は今は英語教師として働いて自立しているが、自分が高校生の時はどうだったのだろう。学費や生活費は全てアルバイトして自活していたのだろうか。そうとも思えない。高校生をスネカジリと批判できる資格のある人は、自分が高校生の時、親に頼らず自活していた人だけである。
それだけでもなく、私は「スネカジリ」という言葉が嫌いである。そもそも五体満足な健康な人間は、大人になれば自立したいと思うようになるものである。鳥だって動物の全ては、おおきくなれば、親から離れて自分で行動したいと思うようになるものである。人間だって、その本能はある。大人になっても、一生、親のスネをかじって楽に生きていたいと思う人は、よほど覇気のない、やる気のない人間である。
きれい事かもしれないが。
私は親は、あんまり子供に、スネカジリだの、早く自立しろ、だのと急かさない方が良いと思う。そういう親は大抵、頑固で石頭である。「北風と太陽」のたとえじゃないけど、包容力のある思いやりのある親だと、子供は嫌でも、親にいつまでも迷惑をかけていてはいけない、と自覚して自立しようとすると思う。愛情関係がしっかりしている家庭では、急かさなくても、うまくいくのである。逆に愛情関係が、おかしな家庭だと、いつまでも自立できない子供をつくってしまうのである。
私は、高校生を、スネカジリの一言でかたずける大人に魅力を感じない。

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いじめられた時ほど勇気を示せる時

2008-11-27 14:07:21 | 考察文
いじめられた時ほど、勇気を示す時

いじめは誰だって死ぬほどつらい。私も何回もいじめられた。私のいじめに対するバイブルは、「ドラゴンへの道」のラストのチャック・ノリスである。手と足をへし折られ、勝ち目が無くても、戦い抜く不屈の精神である。他にも、色々ある。特攻精神は日本だけのもではない。民族とは関係がない。どの国にも特攻精神をもった男はいる。
宮本武蔵も書いているが、戦いにおいては、敵の目から自分を見てみる、ことが大切である。戦いにおいては自分から敵を見れば、敵は怖い。しかし敵から見れば自分は怖い存在なのである。
いじめられた時は、相手の視点で自分を見てみればいい。自分の視点だけで見ると、いじめは地獄である。しかし、いじめてる人間の方から見れば、いじめてる人間は、楽しいのである。そして、どうでもいいことなのである。私はいじめられている時は、人に楽しい思いをさせてやっているのだと考えている。
そもそも、いじめてるやつらには何の度胸も無いくだらない人間である。しかし、いじめに耐えている人間。これほど勇気のある気高い崇高な存在はない。いじめに耐えると自分が勇気と度胸のある気高い人間になれるのである。こんな、いい機会はない。
私は中学から自分のクラスでも他人のクラスでも、言語を絶するいじめを見ている。助けたかったが、助けようとすると自分もいじめられるかもしれないので、怖くて出来なかった。それは私の一生の罪として背負っていく。そして一年下のクラスでクラス全員にいじめられても何とも思ってない豪気な生徒がいた。私は、彼をすごいヤツだと仰ぎ見た。そもそも母校は莫迦の集まりだった。クラスの人間があまりにも莫迦なので、我慢できないほどだった。そもそも高校3年で、listenを、「リステン」と言っている生徒がいる位なのである。


高校の時、一度チキンゲームみたいなのが、流行った。教師が黒板に向いている時、ふざけるのである。チキンゲームはジェームス・ディーンの「理由なき反抗」で知った人が多いだろう。勇気をしめす面白い遊び、と思ったのだろう。

しかし私に言わせれば、そんなのは、あまったるい限りのみっともない偽チキンゲームである。本当のチキンゲームとは、命をかけなくてはならない。このゲームは命の惜しいヤツには出来ないのである。ゲームが終わった後は、二人のうち一人がチキン(腰抜け)になるか、一人が死ぬか、の確実な結果が決められるのである。

チキンゲームとは神聖なゲームなのである。あまったるいルールで神聖なゲームを汚すな。

ちなみに、こういう遊びは命の惜しい人は、くれぐれもしないように。

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ロリータ

2008-11-26 10:09:28 | 小説
「ロリータ」

という小説を書きました。

ホームページ、「浅野浩二のHPの目次(1)」

http://www5f.biglobe.ne.jp/~asanokouji/mokuji.htm

に、アップしましたので、よろしかったら、ご覧ください。

(原稿用紙換算136枚)

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風呂

2008-11-25 15:15:16 | 医学・病気
とうとうシャワーでは寒く風呂に入った。
今日が曇り空で寒いこともあるが。
公園の紅葉が美しかったのは、昨日感じたことで今日は曇り空なのでさびしかった。

秋から冬に変わって、また自律神経のバランスを崩した。
明け方、喘息が起こる。
だがサルタノール(β2刺激薬)2回で、おさまる。

クリスマスツリーが駅にも出来た。

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守、破、離

2008-11-24 21:37:23 | 武道・スポーツ
守、破、離

今日は日曜だと思って、テレビをつけたら、月曜だった。
ある番組で、おわらいの芸人が、多くの学者達と、学問と独創性について討論していた。彼は学問は覚えるだけで独創性とは関係がなく、価値が無いような主張だった。

私の見解。

まず、確かに学問、というより勉強は、他人が作ってくれたものを覚えるだけである。独創性などない。しかしその味気ない勉強にも独創性を発揮する余地は、十分すぎるほどある。どういう勉強の仕方をしたら成績を上げられるか、どう工夫したら、膨大な量の知識を暗記できるか、その方法までは先生は教えてくれない。というより、人によって特性や性格、長所、短所、が違うから、一律に教える事は出来ないのである。自分にとって最も合理的な勉強法は自分で考えて工夫しなくてはならい。それは独創性いがいの何物でもない。学力を単なる先天的な能力と考えるべきではない。

確かに学問は無味乾燥である。特に理系の学問はそうである。誰が最初に発見するか時間の問題に過ぎない。では学者はどう考えているだろうか。自分の名前や名誉のためにだけ、無理して嫌なものをやっているのだろうか。それは違う。本当の学者は、研究することが面白くて面白くて仕方がないから、研究しているのである。それは物事の理屈がわかるから面白いのである。

勉強や知識は確かに、独創性とは関係のないものである。しかし独創性のある人でも知識がなければ、せっかく持ってる独創性を大きな事に生かすことが出来ないのである。知識とは、独創性をより有意義に生かすための道具なのである。
どんなに優れた大工でも鑿と鉋がなければ家は建てられない。

どんな芸事にも、守、破、離、というものがある。守、は多くある流派のうち、一つを決め、その流派を完全にマスターすることである。破は、他流派を広く研究することである。離、とは、それらをした後、自分独自のものをつくりあげる事である。

では、守、には独創性がないかといえば、そんな事はない。習い事で基本が身につかなかった人はいる。どうしたら基本を身につけられるか、考えなくてならない。それに創意工夫や独創性が必要なのだ。

そして、守、破、離、とは完全に分かれた別のものではない。

小さな完成にも、守、破、離というものが要求されるのである。

スポーツにおいてたとえれば一つの技術を身につけるにしても、守(先生の教えを理解する)破(他の人の運動をよく見て考える)離(それらをもとに自分で工夫して技術を身につける)なのである。

さらに敷衍すれば人生は何事においても、守、破、離、のプロセスの要素がある。

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会社のいじめ

2008-11-24 20:05:08 | 医学・病気
会社のいじめ

大人だが、会社での、いじめを苦にして、病院に来ている患者がいた。パソコンを持っておらず、使えず、そのため、パソコンを使える年下の社員に、「先生」と言われて、からかわれている人だった。その人は、真面目な性格で特に内気というわけではないが、少し内気で、ごく普通の人だった。ただ、おとなしく、からかわれても、言い返さないため、年下の社員達にからかわれていたのである。会社で大人でも、こんな低レベルの、いじめがあるのかと、あきれた。なら、中学や高校のいじめは、もっと、ひどいだろう。まさか、私がパソコンの使い方を、一から教えるわけにもいかない。その人は、ワープロは、出来る人だった。ワープロが出来れば、もうパソコンは、わけもなく出来る。ので、私は、ネットカフェに行って、お店の人に、パソコンの使い方を、教えてもうらよう、アドバイスした。パソコンは終了の仕方が、「スタート」ボタンを押すところに、ちょっと不自然さがある。それと、パソコン教室に一回でも出てみるようにとアドバイスした。パソコンは、使ってる人にとっては、簡単なものだ。小学生でも使える。しかし、パソコンを使った事が無い人には、簡単とはいえない。どの操作が安全で、どの操作が危ないかの区別がわからないからだ。ワードを開いて、「いいえ」で、終了したら、データが消えてしまって、大変なことになる。パソコンを買えばいいのだが、パソコンを使う必要を感じない人には、たいして使う事がないのに、わざわざパソコンを買う気には、なれない人もいるだろう。

自慢じゃないが、私なんか、かな入力を一日で覚えた。

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女プロ野球選手

2008-11-23 20:56:40 | 武道・スポーツ
運動のため、時々、バッティングセンターに行く。

今日、行ったら、ユニフォームを着た中学生くらいの女の子が打っていた。かわいい。だが打率は低い。フォームも良くない。どういうことだろう。ソフトボールをしてるが、ソフトボール用のバッティングセンターは無い。それで、硬式野球のバッティングセンターで打つ練習をしていたのだろうか。あるいは、硬式野球だが、バッティングセンターのボールは速いので打てない、ということだろうか。

最近、女子高校生が初めてプロ野球でドラフト一位で指名された。

彼女はプロで通用するだろうか。もしかすると通用するかもしれない。

彼女の得意ポール。必殺悩殺ボール。

投げる前に、バッターにウインクして、あっは~ん、と喘いで腰をくねらせてから投げる。

必殺悩殺打法。

ピッチャーがワインドアップをはじめたらウインクして、あっは~ん、と喘いで腰をくねらせる。女に弱い男に対してなら心理的効果が期待できる。

これは冗談ではない。

酔拳の八仙人の一人、何仙姑は女である。彼女は、腰を振り相手を悩殺する女酒仙、である。

また忍術家の初見良昭氏は、くの一の技として、悩殺の術というのを書いている。

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ブルース・リー語録

2008-11-23 19:15:19 | 武道・スポーツ
何ものかに条件付けられた精神は、決して自由な精神ではない。

(ブルース・リー)

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ランニング

2008-11-23 19:10:59 | 武道・スポーツ
はじめてランニングをした。

私は運動を全くしてない人より持久力がない。

もしかすると心室中隔に欠損があるのかもしれない。

心室中隔欠損があっても、一生、気づかず、無事に過ごした人は、けっこういる。

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バレーボール

2008-11-23 19:03:16 | 武道・スポーツ
体育館に行ったら中学生がバレーボールをしていた。

うまい。かわいい。

男子の組と女子の組がやっていた。男は女に負けたら恥だぞ。

バレーボールのサービスは、手がラケットになったテニスのサービスと似ている。

十分、バレーボールの運動の基本は出来ている。

運動は何もオリンピック選手の運動を見なくても、基本の要素が少しでも身につきかかっている人の動きを見れば、学べる事は十分ある。

このバレーボールのコーチが極真空手の元総裁の大山倍達だったら大変な事になる。彼は男子生徒を座らせて訓示する。
「男は女に負けてはなりません。もし負けたら男は全員、腹を切るという悲壮な覚悟をもって戦わなければなりません」

たかがスポーツの試合に負けたからといって腹切ってたら、腹がいくつあっても足りんぜよ。

切腹における私の見解

「男はやすっぽいことで腹を切るな」

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水泳上達法3

2008-11-22 00:54:02 | 武道・スポーツ
水泳上達法3

さて、水泳上達法の3回目

クロール上達法について述べたい。泳ぎ方の中でも、クロールは難しい。多くの人は平泳ぎでゆっくり泳ぐことは出来ても、クロールは出来ない。それはなぜか。それはクロールが難しいからである。では、なぜ、平泳ぎは出来てもクロールは出来ないか。それはクロールより平泳ぎの方が簡単だからである。その理由はなぜか。それは、平泳ぎが手の動きにしろ、足の動きにしろ、左右対称だからである。それに較べ、クロールは片手で交互に水をかき、左右対称の動きではないからである。これがクロールが難しい理由である。
ここでは、息継ぎが出来て、水もキャッチできる中級者から、さらに効率よく泳げる上級者への上達法を述べたい。
私は今まで中級者だったが、上級者になりかけている。
私は自分の例を述べる事によって一般論を述べたい。
私は今まで、水のキャッチは出来ていたが、ひとかきで進む距離は短く、効率はよくなかった。いままで練習しても上達しない理由がわからなかった。それがわかったのである。私は、体を水に浮かせる事を重視して、頭を深く水の中に入れて泳いでいた。頭が水の上に出ている量が多いほど重力がかかり、体が沈むと思っていたからである。しかし、それが誤りだったのである。水泳上達法2でも述べたが、クロールは、ある程度、速く泳ぐものなのである。速ければ速いほど、体にかかる水の抵抗も増える。一番、抵抗がかかるのは顔である。この時、頭を伸ばしていると、水には浮きやすが、水の抵抗が大きくなるのである。今までは、真下を見て泳いでいた。しかし、少し顔を上向きにした方がいいのである。それはなぜか。それは、そうした方が、水の抵抗が減るからである。板を垂直に水に入れて後ろから押すと、大きな水の抵抗が出来る。が、板を斜めにして押すと水の抵抗が減り、さらに板が上にあがる。これは誰でもわかる。ボートや船の形を考えてみればいい。ボートや船は目的や使う速さに一番合った形に設計されているのである。いい例として、モーターボートと佐渡のたらい船を比較してみたい。モーターボートでは、水の抵抗を極力、減らすため、底が丸くなっている。カヌーでもそうだが、船はみな、そうである。豪華客船でも、そうである。それは、船はすべて、水の抵抗を少なくして速く進む必要があるからである。一方、佐渡のたらい船の目的は、速く進むことではなく、転覆しないよう安定させることが目的である。だから、底を丸くしたら不安定になり、危険なのである。モーターボートのように底の先端が丸いと、スピードを出すと、抵抗が減る。もう、ほとんど水の上を走っているほどてある。クロールでは、顔を斜め上向きにすべきなのである。そうすると、速く泳ぐと、船の底の先の丸みと同じ効果が出るのである。確かに、頭は少し水から出て浮きの効果が少し減る。しかし、それより、はるかに水の抵抗が減るメリットが出るのである。つまり、顔を上げることによって、体が船のような形になるのである。しかし、中級者が、ただ顔を少し上向きにしただけでは、すぐには上手くはならない。これは、クロールの運動の独特の体の筋肉の締め方が出来るようになる、という技術的なものなのである。頭で考えてすぐに出来るようになるものではなく、練習によって身につく技術なのである。一言でいえば、首の筋肉の固定が練習によって身につく、ということなのである。
極端に言うと、クロールは首の筋肉の正しい固定が身につくようになることである。と言ってもいいほどである。

クロールにおけるバタ足の意味。
クロールは手の力だけで泳ぐものである。一般の人で、クロールは、手のかきと、バタ足の両方が推進力と思っている人がいる。しかし、それは違うのである。では、バタ足は何のためか。それは、クロールの運動のバランスをとるためと、足を浮かすためである。人間が歩く時を考えればわかる。人間は片足ずつ前に出して歩く。そういった点、交互の運動であり、クロールと同じである。人は歩く時、手をどうしているだろうか。足の動きと反対に振っている。これは、体のバランスを保つためである。歩いている時、ランニングしている時、全速力で走っている時、と速くなるにつれて、手の動きも速くなって、速度に合った手の振り方になっている。しかし手は何の推進力も生み出していない。クロールのバタ足もそれと同じなのである。推進力は手の力だけであり、バタ足は単に体のバランスをとっているだけに過ぎないのである。そして、クロールでは頭を上げることによって足が沈みやすくなるから、バタ足によって、下半身を浮かせているのである。バタ足は、水を後ろと下に蹴っているが、クロールで泳いでいる時には、バタ足は足を浮かせるため下に蹴っているのである。クロールの2ビートなどをみれば、それがわかる。2ビートでは、足は少しも推進力を生み出していない。つまり、クロールのバタ足は、体のバランスをとるため、と、足を浮かせる、という二つの目的のための運動なのである。

速く泳ぐほどバタ足は少なくてすむ。
人間の体の比重は、トータルで1.03である。つまり水とほとんど同じである。しかし息を吸い込めば比重はさがり、またクロールでは頭の一部と、リカバリーしている手は水から出ていて浮力がなく、重力となっている。
水よりもう少し比重の重い板を水の中に入れた時をイメージしてみるとわかりやすい。当然、板は垂直になる。しかし、その板の上を引っ張ったらどうなるだろう。引っ張る速さが増すにつれ、水が当たる力が強くなり、だんだん持ち上がってくる。人体もそれと同じなのである。人体は水と同じ比重の板のようなものである。速く泳ぐほど、これと同様の効果がでてきて、体が水平になってくれるのである。なのでバタ足によって足を浮かす必要も少なくなってくるのである。

体がぶれないようにする。
クロールでは水中のラインの上を真っ直ぐ泳いだ方がいいのである。
なぜかというと、クロールで気をつけなくてはならない事は、体をぶれさせない事なのである。体はまっすぐなのがいいのである。水中のラインを見ると、それが目印になって、体を真っ直ぐにしやすいのである。クロールでは、絶えず、片方の手に力を入れて水を押している。そのため片方の肩だけに力がかかる。人間の体は剛体ではなく柔らかい。片側だけに力がかかると当然、体が揺れそうになる。初心者でも中級者でも、泳いでいる時には、無意識に体がぶれないようにしているのである。体がぶれると水の抵抗が一気に激しくなる。そして、ぶれないようにと思っているうちは、まだ達人ではない。実は体のぶれも、頭で考えてする事ではなく、正しい筋肉の締めという技術であって、練習によって上達するものなのである。水泳選手ほどの達人になると、体をぶれさせないように、などと意識していない。達人は何も考えなくても、体がぶれない技術が身についてしまっているのである。

クロールの形は人によって違う。
クロールの形は人によって違うし、また違わなくてはならないのである。誰一人、同じ体型の人はいない。これは筋力や柔軟性、持久力、などでも言えて、誰一人、同じ人はいない。一人の人でも年齢によって、それらは変わっていく。さらに泳ぐ目的もちがう。オリンピックの100メートル競走なのか、ゆっくりした楽しみの遠泳なのか、では、泳ぎ方は違ってくる。クロールでは頭を上げるべきだと言ったが、当然、その度合いは、泳ぎの速さによって、最も合うように変えなくてはならない。速く泳ぐ時は、顔を上げるべきであり、ゆっくり泳ぐ時には、水の抵抗も減り、体を浮かすため顔を上げる度合いも少なくすべきなのである。
また何のために泳ぐか、という目的も人によって違う。
選手になって試合に勝つためか。健康のためか。筋力をつけるためか。持久力をつけるためか。エアロビクスとして痩せるためか。目的によって違うし、また違わせなくてはならないのである。

泳ぐ速さと、水の抵抗というものが、クロールにおいていかに重要かは容易にわかる。ジャンボジェット機ほど重たい物体が空から落ちずに、すごい速さで飛べるのは、空気の抵抗と推進力のためである。空気に較べると水の抵抗は、比べものにならないくらい大きい。オリンピックの選手は、水の中を泳いでいるというより、モーターボートのように水の上を泳いでいるように見える。体が船になっているからである。

しかし、クロールにおいて、さみしいことが一つある。
飛行機は速く飛び続けていないと、空かにおっこちてしまう。
それと同じように、クロールも泳ぎ続けなければ、水の上に浮いていることが出来ず、沈んでしまうのである。

なお、水泳に関しては、ブログでは、8月27日と9月22日にも書いてあります。ホームページでは、「武道・スポーツ上達法」にも書いてあります。よろしければ御覧下さい。





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患者は我が師なり

2008-11-21 17:59:16 | Weblog
「患者は我が師なり」

これは母校の大学の整形外科の医局にかかっていた銘である。

私の時の整形外科の教授は非常な人格者の先生だった。私は先生を尊敬していた。

そして、この銘は私の信条である。

そして、この態度は医学医療だけではなく、全ての事に対する私の態度である。

第一生理学(神経生理学)の教授が、「患者は研究の宝庫」と言ったが、同じ意味である。

私は母校の自由学園の思想は基本的に嫌いだが、全て嫌いなわけではなく、なかにはいい思想もある。自由学園の思想語録に「先生はどこにでも」というのがあるが、それも同じ意味である。

あるいは「葉隠れ」の「一世帯構えるがわろきなり」も同じ意味である。



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鳥居みゆき3

2008-11-20 08:22:35 | Weblog
鳥居みゆき、の歯石除去

鳥居みゆきは特技として、歯石除去で男を勃たすことが出来るそうだ。
これは、私はわかる。というのは、私がそういう事をされた経験があるからである。大学生の時、虫歯の治療に近くの歯医者に通ったことがある。歯科治療は何回かに、わけて受けたが、何か、治療室に入ると歯科助手がやけに嬉しそうに、「こんにちはー」と挨拶するのである。治療後の接着剤の除去は歯科助手がやった。治療の時、私は目をつぶっていた。そして神にまで祈った。やはりイエス・キリストに祈った。
「どうか痛くありませんように」
日頃、無神論を主張しているのに、虫歯になると私は敬虔な信仰者になるのである。この効果は、三日くらいは持続する。しかし、三日を過ぎる頃から、また無神論者になり、そして一週間後の治療の時になって、治療椅子に座るとまた、敬虔な信仰者になって、治療が痛くないよう神に祈った。
やっと治療が終わって、型をとって、接着剤でかぶせる銀をつけた。あとは、歯科助手がはみ出た接着剤を探針でとることになった。私は、ほっとして目をつぶって口を開けた。待ってたら、何か柔らかいものが、いきなり頬に触れた。感触でそれが女の髪だとわかった。私はびっくりした。ドキドキ緊張してきた。歯科助手は探針で接着剤をとりだした。しかし、そのとり方が、わざとゆっくりしてて、私の口の中を玩んでるような感じなのだ。しかも指先で私の唇をそっとおさえながら。私は興奮して鼻息が荒くなりそうになるのを、必死で我慢した。だが興奮して勃起しだした。私は勃起を気づかれないよう、膝を上げて隠そうとした。しかし、口の中の唾液が粘々しだした。(性交時には、副交感神経が優位になり、唾液が粘稠になる)彼女が探針を口から出すと、粘稠な唾液が探針の先について蜘蛛の糸のようになった。目をつぶっていても、雰囲気から彼女が何をしているかはわかる。彼女は、糸状になった唾液が切れないように、そっと伸ばした。そして、伸びた唾液の糸を紙でとって、また、私の口を探針でゆっくり弄びだした。隠そうにも、彼女は、もう私が興奮していることを知っている。余った接着剤をとるのに、時間が長すぎるので、院長が、やってきて、「何してんの」と言った。院長が私の口の中を見て、「ん?。ちゃんととれてるじゃない」と言って、治療はおわった。
鳥居みゆき、がしたのも、こういう事だろう。
私は童貞でウブだったので、女というものが全く解らなかった。
こういう事も、するんだな、と気づかされた。
これは、私以外の人にも、男なら見境なくしているのか、どうかはわからない。
あけすけな男だったら、他の人に言って、彼女や医院の評判が上がるのか、下がるのか、わからないが、下がる可能性もあるから危険な事はしないだろう。
私は見た目から無口そうで人に言わないだろうと思ったから、そんな悪戯したんだろう。
まあ、女を求めていた私としては、とても興奮した。
嫌か、良かったか、と言えば、もちろん極楽の快感だった。
だが、私がさりげなく、彼女の手や体を触ったりしたら、彼女はすぐにやめただろう。
私が興奮しつつも、自制して苦しんでいるのが、彼女にとって面白かったのだろう。
ともかく、私はこの時、初めて、女はつつましくしててもかなりエッチなんだな、とわかった。

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