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小説家、精神科医、空手家、浅野浩二のブログ

小説家、精神科医、空手家の浅野浩二が小説、医療、病気、文学論、日常の雑感について書きます。

合気道

2016-11-29 23:51:09 | 武道・スポーツ
以前、僕が、空手のサークルで、合気道を少し、習った人に、投げてもらった時、僕が、「わー」、と、声を出して、派手に投げられるのを見て、回りの人は、笑っていた。

僕が、ふざけていると、思ったのか、合気道を習った人に、見事に投げられていると思ったのか、そのどっちか、だろうと思う。

しかし、その、どちらでもない。

合気道で、相手に、しっかりと、こちらの手をとられたら、素直に、投げられないと、関節の靭帯を痛めるのだ。

無理に、頑張って、踏ん張ると、相手が本気になると、こっちの関節の靭帯を痛めてしまうのだ。

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共産主義はなぜ悪いか

2016-11-28 00:47:46 | 政治
You-Tube で、三島由紀夫が、文化防衛論、と、題した、のがあるが。

早稲田大学の学生と話し合っているが。

「共産主義はなぜ悪いか」

ということを、早稲田の学生と話し合っているが。

こんな簡単なことは、討論するまでもない。

ソ連も、中国も、共産主義国家が、出来た当時は、政治体制は、プロレタリア独裁で、経済体制は、私有財産を認めない、国家の計画経済だった。

他人は、どうか知らないが、僕の考え。

それは。

「人間は、自分の考えを、統制されるよりは、野垂れ死にした方がマシ」

だから、である。

人間は、究極の選択で、それを、(少なくとも僕は)、選ぶ。

三島由紀夫も、そう考えていると思う。

共産主義国家の、私有財産を認めない、国家の計画経済は、自由主義経済と違って、不況に対して強い。

自由主義、資本主義経済では、好景気、不景気、の、波が出来てしまうのは、宿命である。

そこを、何とか、日銀が公定歩合を調節したりして、景気の波が起こらないようにしているが。

共産主義的思想も、決して、悪い思想ではない。

僕の母校の、自由学園は、共産主義的だったが、女子部では、昔は、それで、成功していた。

要するに、自分の意志で、共産主義思想に共感して、そういう人のみが集まって、共産主義国家を作る分には、問題はないのである。

むしろ、そういう国家は、自由主義、民主主義、国家より、成功する、可能性だってある。

ただ、少なくとも、マルクスの失敗の原因の一つは。

共産主義国家でも、子供が生まれる。

孫も生まれる。

共産主義国家を、ユートピアと考えて、作った、親たちは、(自分の考えが、一生、変わらなければ)、ユートピア国家と成り得る。

しかし、その親から、生まれてくる、子供や、孫は、決して、共産主義に共感する人間が生まれてくる、という保証などない、ということだ。

たとえ、どんなに、洗脳的教育をしたとしても。

なので、子や、孫からは、共産主義に対する反逆児が生まれてくるのだ。

これが、マルクスの失敗の原因の一つである。

そして、これも、僕個人の考えだが。

「人間の尊厳とは、自分で考えること」

が、全てだと思う。

自分で考えない、あるいは、他人と全く同じことを考える、人間、など、ロボットみたいで気持ち悪い。

そんな人間には、「人間の尊厳」など、ないと、僕は思う。

ただ、単に、食って、生活が保障されて、何も考えない、人間など、犬や猫と、変わりがない。



産業革命によって、資本家と資本を持たない、人間に分かれたが。

イギリスの少年が、炭鉱の中で、一日、15時間、労働をしている絵は、多くの人が知っていると思うが。

あの絵を見れば、資本主義が、悪く、プロレタリア革命が、起こるのは、必然と、考えやすいが。

あの当時は、労働に関する、法がなかった。



ただ、日本の政党としての、日本共産党は、どう考えているのか、わからない。

名前が、「共産党」、であっても、何、考えているのか、わからない。

というより、「軍備縮小、福祉充実」、な、だけである。

というより、日本共産党は、(現実的でない理想論ばかり主張しているから)政権、絶対、とれないと、わかっているから、「こういう国家にしたい」、というマニフェストなど、作る意欲が、極めて起こりにくいのだ。

しかし、政党としては、信用できるのは、日本共産党しかない。

民進党など、たいしたイデオロギーなど、もっていない、と僕は思っている。

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ピコ太郎はトニー谷的な感じ

2016-11-24 13:30:34 | Weblog
「ピコ太郎に大物作曲家が苦言「腹立つ」「大嫌い!」
「浪花のモーツァルト」こと作曲家のキダ・タロー氏(85)が、23日放送の、日本テレビ系「情報ライブ ミヤネ屋」に出演。謎のシンガー・ソングライター、ピコ太郎の世界的ブレークの要因を分析した。・・・・(中略)・・・・
その後は真面目に大ヒットした楽曲「ペンパイナッポーアッポーペン(PPAP)」に関して「わらべ歌的なラップ。言葉遊びですね」と評し「これは難しい。あまりメロディーが発生しないから、歌が面白くなければついてこない」「言葉とリズムとセンスが組み合わさって、非常にセンスをお持ちですね」と解説した。
ただ「見てくれが嫌いやねん、俺」と、ピコ太郎のヒョウ柄服やパンチパーマなどのルックスはダメ出し。「あんなオッチャン、道歩いとったら、ほんま腹立つ。大嫌い」とキダ節が吹き荒れていた。」

(デイリースポーツ 11/23(水) 17:44配信)


ピコ太郎はトニー谷的な感じがする。

本人も、それを意識しているのでは、ないだろうか?

トニー谷、とは、戦後の一時期、一世を風靡した、ボードビリアンである。

トニー谷は、赤塚不二夫の、「イヤミ」、の、モデルである。


トニー谷にせよ、ピコ太郎にせよ、他人を傷つけるユーモアではなく、自分を道化にするユーモアだから、嫌いではない。まあ、ピコ太郎は好きでもないが。

コロッケの、岩崎宏美のモノマネは、岩崎弘美を傷つけるモノマネだから、最初から、大嫌いだった。

あれを見て、腹を抱えて笑っている芸能人たちは、あのモノマネが、岩崎弘美を傷つけているモノマネだと、わかっていないとは、僕は絶対、思っていない。

そこまで、芸能人たちは、バカではないと思う。

鈍感を装った、他人の貶め、を、楽しんでいる行為(1)だと確信している。

芸能界とは、そういう世界である。

というか。その場の雰囲気、空気、を乱さないために、鈍感を装っている(2)、という方が正解だろう。

というか。(1)と(2)、の両方の要素をあわせ持っている、というのが、正解だろう。

内向的人間は、他人の品評会、陰口に参加したくないから、集団に属せないのである。

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東京で初雪 11月の観測は54年ぶり

2016-11-24 09:35:42 | Weblog
「東京で初雪 11月の観測は54年ぶり」

(ウェザーマップ 11/24(木) 6:26配信)

はい。これで、地球温暖化は、でっちあげのウソであることが、科学的、統計学的、天文学的、形而上学的、文学的、歴史的、宗教的、民俗学的、経済学的、に完全に証明されました。

めでたし。めでたし。

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短編小説と長編小説の違いの定義がない

2016-11-23 18:34:43 | 考察文
村田沙耶香さんの、「コンビニ人間」は、短編小説ということになっている。

小説、「コンビニ人間」、を、原稿用紙の換算枚数で考えると。

「コンビニ人間」、は、1ページ、16行で、一行が39文字である。なので、1ページは、16×39=624文字である。

原稿用紙一枚は、20行で、一行、20文字なので、400文字である。

なので、「コンビニ人間」の1ページは、原稿用紙に換算すると、624÷400=1.56枚である。

「コンビニ人間」は、151ページなので、原稿用紙に換算すると、1.56×151=235枚である。

原稿用紙235枚の作品を、短編小説と言うか、長編小説と言うか、判断が難しいところだと思う。

内容や、ストーリーからすると、短編小説と言うより、長編小説と言う方が、ふさわしいように思うのだが。

そもそも、日本には、短編小説と長編小説の違い、の定義がない、のである。

原稿用紙で、何枚以上が長編小説で、何枚以下が、短編小説なのか、という定義がないのである。

小説「コンビニ人間」は、中編小説、とでも、言うべきだと思うが。

日本には、中編小説、という言葉がないのである。

まあ、しかし。原稿用紙300枚以上を、長編小説、原稿用紙300枚以下を短編小説と定義してしまうと、原稿用紙301枚の、小説は、長編小説で、原稿用紙299枚の小説は、短編小説となってしまうので、これでは、おかしくなってしまうので、そもそも、長編、短編、というものを、定義することは、出来にくいのである。

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なぜ女はスカートを履くんだ?

2016-11-22 22:36:15 | 考察文
なぜ女はスカートを履くんだ?

女が、スカートを履く必然性は、何なのだ?

また、その逆に、男が、スカートを履かない理由は何なのだ?

武士の袴は、ロングスカートのようなものだ。

あと、40年後くらいには、男も、スカートを履くようになる時代になるような気もする。

まあ、現代でも、剣道や合気道をする時には、男も袴を履いているが。



この問題を考えていて、答えが、わかった。

バカなことも、考えるものだ。

女の、スリーサイズは、測るべきものなのに、男のスリーサイズは、なぜ、測らないのか、という、という疑問も、起こってきた。からだ。

それで、わかった。

20代、や、30代の、女の体は、曲線美があって、ウェストが、キュッと締まっていて、美しい人が多いのだ。

なので、タイトスカートなどは、女の体の美しさを表現できる服装だからだ。

そして、女は、太腿から足までの、曲線美も美しいし、男のように、脛毛がない。

たとえば、ニュースウォッチ9、の、鈴木奈穂子さん、のスカート姿は美しい。

しかし、キャスターの河野憲治さんが、スカートを履いたとしたら、美しくない。

これは、決して、慣習に洗脳されてしまったことではない。

しかし、女子高生は、太腿だけ、ぶっとくて、女子高生の、ミニスカート姿に、僕は、あまり美しさを感じない。

なので、スカートの本来の目的は、20代、や、30代の、曲線美の美しい女性が、肉体の美しさをアピールするために、考案された物なのだ。



I think why woman wears a skirt, therefore I am.

(自分を含めた世界の全てが虚偽だとしても、なぜ女がスカートを履くのか、疑っている自分自身の存在だけは否定できない)

「方法序説」

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僕の小説は読みやすい

2016-11-21 23:57:58 | Weblog
僕は、大学三年の時から小説を書き出した。

僕のアパートには、度々、エホバの証人の人が来た。

僕もキリスト教には、関心があるので、彼とは、話した。

僕が、最初に、文学賞に投稿したのは、後に、自費出版した「女生徒、カチカチ山と十六の短編」、の中にある、「高校教師」、である。

医学部5年の時に投稿した。

文学賞の字数の規定が、80枚以上、だったので、遊びをつけ、内容を膨らませ、82枚にして、投稿した。

落ちた。

しかし、他人がどう、思うか、感想が、聞きたくて、大学の校舎の中にいた、付属の看護学校の生徒に読んでもらった。

「あの。小説、読んでもらえないでしょうか?」

彼女は、読んでくれた。

読みながら、彼女は、笑い出した。

エホバの証人の人の人にも、読んでもらった。

ワープロではなく、原稿用紙だった。

彼は、小説なんか、読まない人だった。

しかし、読みだすと、だんだん、読む速さが、速くなっていって、原稿用紙、一枚を、一秒以内で、サッ、サッ、と、めくって読みだすようになった。

彼にとっては、もう、速読、α波の世界である。

ついでに、「砂浜の足跡」、と「忍とボッコ」、を読んでもらったが、これは、どちらも、5秒以内で、読んだ。

出版社に、「高校教師」を、他の小説と、投稿する時には、82枚から、無駄を削いで、52枚にした。



文芸社の感想

「平成12年9月27日。(株)文芸社。

本稿は、18編の掌編・短編と、5編のエッセイで構成されている。どの作品も手堅く、まとめられており、作者のレベルの高さを感じた。内容的には、掌編といっても短編に匹敵するような大きく重いテーマのものがあり、短編でも、もっとよく短く刈り込んだ方が仕上がりの良くなるものもあるが、総じて、どの作品も、よく計算された上で書かれていることがわかる。文学作品として平均的なレベルをクリアしていると言えるだろう。

掌編では、「スニーカー」、「少年」など、実に達者な語り口で書かれており、短編も無駄なく構成され、展開もスムーズである。作者は、かなり修練を積み、筆力を蓄えられた方だと推察する。作者の持ち味の一つに、職業経験を生かした心理的な描写、人間を解剖し分析する文章力がある。分析も細部にこだわりすぎて説明的になると、かえってくどくなり、作品をぶちこわす結果になるが、本稿では程好く味付けされているため、作品の質感を高めることに成功している。

エッセイは、「ちゃんと小説を書きたく、こんな雑文形式の文はいやなのだが・・・」(P82;婦長さん)とあるが、病院の日常をさりげなく描いたエッセイには、小説に劣らぬ魅力を感じるという意見もあった。なかでも、「おたっしゃナース」、「婦長さん」は、作者の独断場の世界でもあり高い評価がされた。また、鈴木様の作品の一つの方向として、「少年」や「春琴抄」にみられるように、被虐の世界に徹底されていることも興味深い。精神分析、心理解剖の知識と経験が十分に生かされている。

ただし、作品としての全体の構成を見た場合、どのような意図で編まれたものなのか判断が難しいところである。安定した筆致で書かれた個々の作品は、それぞれ完成度が高いのだが、小説にしても、エッセイについても、どのような読者を想定してあるのかが曖昧である。その流れを明確にした方が、作品の密度を高め、読者に、より強いインパクトを与えることが出来るだろう。

なお、各作品にはタイトルが付けられているものの、本稿のタイトルともなるべき総合タイトルが付されていない。ぜひ、浅野様ご自身で納得のいくタイトルを考えていただきたい。

などが挙げられました。

いかがでしたでしょうか。浅野様の作品は、弊社に毎月800点以上、送られてくる作品の中でも印象深い作品であることに間違いなく、好評を得たもののひとつでした。」

この感想に、僕は、「おだて」、を感じない。

かなり、正確な評価だと思っている。

人生は、限られた人との出会いである。

今年、直木賞をとった、萩原浩さんは、知っていた。

それは、以前、図書館で、リサイクル図書で、「押入れのちよ」、という、のがあって、それを、持って帰って読んでみたからである。

面白かった。

僕は、リサイクル図書は、どうしても、たくさん、持って帰りたくなる。

小説に限らず。

ゲーテのファウストではないが、僕は、この世の全てのことに興味がある。

それで、萩原浩さんの、小説をもっと、読んでみたくなって、ブックオフに行った。

そしたら、プレートがあって、ものすごい、量を書いている作家だと知った。

長編が多い。

僕は、短編こそが、作家の実力を知れる、と思っていたので、「家族写真」という、短編集を買った。



僕自身も、小説は、読みやすいように、ということを心がけている。

というより、小説の文章は、文体の問題なので、「心がけ」ようが、「心がけ」なかろうが、読みやすい文体(絶対文感)を、気質的に持っている人の文は読みやすいのである。

普通の文章、つまり、手紙とか、こういうブログは、誰でも書ける。それに、(絶対文感)の問題はない。ただ、いざ小説を書こうとなると、(絶対文感)というものが、もろに、現れてくるのである。

では、文体(絶対文感)とは何か。

小説で、ある一文を書く。すると、次に書く文章には、前の文章に対して責任が生じるのである。小説の文章というものは、書いてきた文章に対して、「責任」というものの意識をともなって、書かれるべきなのである。

この、文章の、なめらかな連続性、という、「責任」を放棄してしまって、暴力的に、書きたい文を、次々と書いていく人(書いていける人)が、(絶対文感)というものを、持っていない人なのである。

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厚生省も精神保健指定医のケースレポートの不正は知っていたのである

2016-11-20 19:56:25 | 医学・病気
厚生省も精神保健指定医のケースレポートの不正は知っていたのである。

精神保健指定医の、ケースレポートの条件を、国が、変なふうに、最初に、決めてしまったのが、間違いなのである。

なので、厚生省も、ケースレポートの不正が、行われていることは、うすうす、どころか、十分、知っていたのである。

ただ、去年の四月の、聖マリアンナの、不正は、ひどすぎたので、これを、見逃すのは、さすがに、出来ないので、バレたのである。

また、相模原の殺傷事件も、それに、追い打ちをかけた。

国は、間違ったことが、行われていると知っていても、なまじかのことでは、動こうとはしないのである。

それは、官僚が、怠け者ばかりだからである。

働きたくないからである。

それだけでなく、国は、何事においても、後手後手なのである。

何か、大きな事件が起こって、やっと、重たい腰をあげる、というのが、日本の官僚政治なのである。



まあ、僕としては、ケースレポートの不正は、ある、どうしても、やむを得ない場合は、一症例くらい、不正を認めてもいいと、思っている。

それは、どういう時か、というと。

日本は、何事も、都市と地方の格差が大き過ぎる。

みな、不便な、地方には、行きたがらない。

しかし、精神医療は、地方でも、必要なのである。のは、言うまでもない。

僻地の精神医療をするためには、指定医の資格が、どうしても、必要なのである。

たとえば、東日本大震災とかで、東北の精神医療が、十分でない、場合、「何とか、東北の人の役に立ちたい」、と、崇高な志を持っている医師(自分の利益のためではなく、他人のことを心配する、偉い人)になら、ケースレポートの、一症例くらい、不正をしても、いいと思っている。

自分の利益追及のためではなく、他人のことを心配する、偉い人なのだから。

まあ。例えれば。かけがえのない自分の娘が、病気で危篤と、知らされたら、一刻も早く、急いで病院に行くために、車で、スピードオーバーも許される、と僕は思う。

それと、同じようなことである。



しかし。聖マリアンナ、とか、今回、不正が見つかった、89人、の指定医は、てめえが、楽して、精神保健指定医の資格を取りたい、という、己の私利私欲のためであり、怠けきったクズ医者ばかりであり、あんな連中は、医者の風上にも置けない、存在である。

指定医のケースレポートの不正は、厚生省が、調べようと思えば、簡単に調べられるのである。

簡単に、バレる不正を堂々とする、頭の悪さにあきれるばかりである。

聖マリアンナのクズ医者どもは、頭も悪けりゃ、怠慢で、性格も悪い。

こういうクズ医者どもは、処置なしである。




ケースレポートや指定医の問題に関しては。

一言でいって、8症例の、ケースレポートの提出など、不要なのである。

3年間の精神病院での、常勤の経験があれば、それで指定医を認めて、十分なのである。

たとえば。

ある医師が、内科医(内科でも、眼科でも、耳鼻科でも、何でもいい)として、病院に常勤で勤務したとする。

すると、病院としては、雇った医師には、高い給料を払うのだから、医師には、働いてもらわねばならないのである。

働く、ということは、仕事をする、ということである。

働かなかったら、病院としては、契約不履行だから、医師は、病院に解雇されてしまう。

なので、勤務した、ということは、働いた、ということである。

そして、働いているうちに、何百症例もの、精神科の患者の、治療をしているから、精神科医療の知識は、身についているのである。

これは、結果論だが、病院は、給料と、同時に、精神科医の経験、能力というものも、勤務医に与えているのである。

もっとも、初めて、精神科で働く医師にはベテランの医師が、最初のうちは、精神医療の、やり方、を教えるが。

なので、3年の、精神科の勤務経験があれば、もう、十分なのである。

これは、あらゆる仕事でいえる。

コンビニ店員でも、牛丼屋でも、ウェイトレスでも、雇用の契約を結んで、働く、ということは、被雇用者は、労働を、雇用者に提供する、対価として、給料をもらうが、同時に、その仕事の、スキルも、身につく、というか、雇用者から、もらえるのである。

全く、コンビニ店員の仕事をしていない人に、いきなり、働け、と言っても、無理だが、1週間くらいの、研修をした後では、もう、コンビニ店員のスキルも、身についているのである。

医師の仕事も、それと同じなのである。

スポーツ教室とか、ピアノとか、そういう趣味とか、習い事では、そうは、いかない。

スポーツだったら、運動神経とか、体力とか、本人のやる気、とかが、なければ、何年、やっても、上手くならない、ということも、起こりうる。

労働の、ギブ&テーク、とは違うのである。

ある組織(スクール)は、生徒が上達しなくても、(スキルが身につかなくても)、解雇する、ということはない。

組織の会員(生徒)は、上達しなくても、(スキルが身につかなくても)、スクールに、居続けられる。

だから、そういう、趣味や、習い事では、スキルが身についているか、どうかは、チェックする必要はある。

しかし、仕事として、働いた人間には、スキルが身についている、か、どうか、テストする必要など、全くないのである。

スキルなど、身についているのに、決まっているのである。

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村田沙耶香さんとChara(シンガーソングライター)との対話

2016-11-20 18:49:18 | 考察文
昨日、テレビで、たまたま、村田沙耶香さんとCharaさん(シンガーソングライター)との対話の番組をやっているのを見つけた。

僕は、テレビは、ニュースしか見ない。

テレビばかり、見ていると、バカになるぞ。

僕としては、芸術の分野では、作曲家の方が、小説家より、上だと思っているのだが。

僕は、Charaさんを、昨日まで、知らなかった。

村田沙耶香さんは、人が良すぎる。

彼女の、怒った顔が想像できない。

彼女は、「きれいなシワの作り方」、なんて、タイトルの、エッセイも出している。

もちろん、買って読んだが。

なんちゅータイトルをつけてるんだ?

「絶対、シワを作らない方法」

とでも、すべきだと思うのだが。

彼女は、自分を、「おばさん」、と言い、「おばさんの、パンツを人に見せては、相手の人に、不快感を与えるので、申し訳ない」なんて、言っている。

あれほど、クレオパトラや、楊貴妃、以上の、きれいな顔で、それは、絶対、違う。

村田沙耶香さんの、パンティーなら、7万円、出しても、買って、神棚に祀っておくぞ。

「人は、自分を、おばさん、と、言った時から、おばさんになる」

のである。

彼女は、腹筋が一回も出来ないらしい。

しかし、泳ぐことは出来るらしい。

と、エッセイで、書いてあった。

僕は、水泳と筋トレで、鍛えているから、腹筋、1000回、出来るぞ。

水泳は、新陳代謝が、良くなるから、泳いだ後は、爪が伸び、髭が伸び、顔のハリも、出てくる。

股割り、の、ストレッチもしているので、空手も、ハイキックが出来る。

体格も体重も、20歳の時を、キープしているので、老けないのである。

こう書いていて、彼女は、ストレッチをしたら、いいかもしれない、と思った。

一日、10分の、ストレッチ、を、するか、しないか、では、健康に大違いなのである。

彼女は、編集者と作家は、協力関係にある、と言っていたが、それは、彼女のような、プロ作家、に限ったことだけである。

新人の場合、作家は、編集者の、完全な奴隷、なのである。

それが、つらくて、漫画家の、山田花子さんは、自殺してしまったほどなのである。

新人の作家は、編集者に、徹底的な、書き直し、を、要求されるのである。

そして、小説を書く人間、にとっては、書いている時は、楽しいが、書き直し、は、地獄の苦痛そのもの、なのである。

なので、そういう編集者の、完全な奴隷なんかに、なりたくないので、僕は、プロ作家には、(仮に、なれたとしても)なる気が、しない面があるのである。

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福島から横浜に転校した子への、いじめ

2016-11-19 00:48:41 | 考察文
福島から横浜に転校した子への、いじめ、のニュースが、続いている。

彼、一人ではなく、そういう、いじめ、を受けている子供は、かなりいるらしい。

僕は、そんな、いじめなんか、ないと思っていた。



僕の、いじめ観。

いじめ、は、子供に限らず、大学生でも、社会人でも、行われている。

僕も、大学四年の冬に、病気で、医学部を休学して、下のクラスに復学した。

下のクラスは、低能で、下等なヤツラばかりだった。

五年の秋から、大学付属病院での、臨床実習(ポリクリ)が、六年の秋まで、一年間、あった。

僕の、ポリクリの班は、僕と、男三人と、女一人、の五人だった。

女の子は、可愛くて、性格も良かった。僕に親切にしてくれた。

男の一人は、僕に親切にしてくれた。

しかし、もう二人の、男は、やたらと、僕に、イヤミを言ったり、ネチネチ、いじめようするクズ野郎だった。

ある時、僕は、皆の前で、椅子を、力の限り、蹴って、「宣戦布告」 した。

ガッシャーン。

それ以来、ネチネチとイヤミを言ってるヤツの、イヤミは、ピタッと、止まった。

いじめられたら、ビクビクして、いじめている下等なヤツの言うことを、聞いていると、いじめてる下等なクズどもは、ますます、つけあがるだけなのである。

いじめられたら、「宣戦布告」 あるのみ、である。

ナイフを隠し持っていて、いじめられそうになったら、ナイフを振り回してもいいとも思うけど、やはり、バットか、鉄パイプか、鉄の棒で、相手を、思い切り、ぶっ叩くのが一番、いいだろう。



「目には目を。歯には歯を」

(旧約聖書・ハンムラビ法典の教え)

「右の頬を打たれれば、左の頬をも差し出せ」

(イエス・キリストの教え)

「一発、殴られたら、100発、殴り返せ」

(僕の教え)

「いじめられたら、スコップで相手を黙らせろ」

(村田沙耶香さんの教え)

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地球温暖化はでっちあげのウソ

2016-11-18 19:32:56 | Weblog
地球温暖化はでっちあげのウソ、である。

(断言はしないし、できないが、ウソの可能性の方が圧倒的に高い)

武田邦彦先生や、丸山茂徳先生、の言うように、科学者の、90%以上は、地球が温暖化はしていないと思っている。

国連の、IPCC(気候変動に関する政府間パネル)は、そもそも、CO2によって、地球が温暖化している、という、科学的根拠のない、信念にもとづいて、作られた組織である。

こんなバカげたことはない。

はじめに結論ありき、で、議論して、何の意味があるんだというんだ。

確かに、科学文明の進歩によって、公害が起こったのは、事実だ。

だから。

科学文明の進歩=公害。地滅ぼす。

と、人間は短絡的に考えやすい。

また、「科学文明の行き過ぎが、地球を滅ぼす」

という、フレーズは、非常に、聞き心地がいい。

しかし。科学のことは、科学の専門家の意見の方が、圧倒的に、信用できるのは、当たり前のことだ。

アメリカのトランプ氏は、アメリカの石炭産業、化石燃料、を復活させるために、「地球温暖化はでっちあげである」、と主張している。

何を根拠にそういう発言をしているか、といえば、それは、当然、科学者たちの発言を根拠に言っている以外に考えられない。

トランプ氏の、主張のうち、この主張だけは、非常に評価できる。

科学者から見ると、「京都議定書」、は、全く無意味なこと、なのである。

そして、今度は、「パリ協定」か。

科学者の基礎研究の費用の配分は、政府が牛耳っている。

だから、研究費用が必要な、科学者は、政府を非難できにくいのだ。

日本政府は、証明されていない、地球温暖化防止とやらに、国民の血税、1兆円以上という膨大な金を無駄に使っている。

そんなウソがまかり通っているのは、「地球温暖化」、が、日本社会のシステムとして、定着してしまったからだ。

政府は、今さら、あれは間違いでした、とは、政府の面子、体裁から言えないのだ。

今、真実、と言われていることが、将来、間違い、と、ひっくり返ることなど、日本でも世界も、いくらでもある。

そんな過去の事例など、いくらでもある。

原発安全だって、従軍慰安婦問題にしたって、村木厚子事件にしたって、鈴木宗男事件にしたって、・・・そんなことは、数限りなくある。

田中角栄のロッキード事件にしたって、今では、あれは、冤罪と思っている日本人の方が多いだろう。

基礎研究が進み、真実が証明された、最悪の事態になって、やっと、政府は、地球温暖化、は、間違いでした、と、言うことになる。

企業の不祥事にしても、政府の不祥事にしても、間違いだとわかっても、徹底的に隠そうとする。

そして、隠しきれなくったと判断した最悪の時に、やっと、自分の誤りを認めることとなるのである。

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日米同盟なんて、いらねーよ

2016-11-17 22:07:29 | 政治
日米同盟なんて、いらねーよ。

「思いやり予算。なんて、鬼畜米国に、払う必要なんてねーよ」

アメリカ、デカイつらすんな。

デブの白豚ども。

むかつくんだよ。

原子爆弾に、竹やり、で、向かっていった、あの度胸は、どこへ行った?

日本人は、いつから、腰抜けになったのだ?

国民の血税を、湯水のような感覚で使うんじゃねーよ。

ウジ虫、自民党議員は、全員、死ね。

何で、アメリカの奴隷になって、アメリカに、ヘコヘコして、日本を守ってもらおう、と、思ってるヤツが、タカ派(強いヤツ)、と呼ばれるんだ?

そういう腰抜けは、ハト派(臆病者)と呼ぶべきだろうが。

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高橋まつり

2016-11-17 21:03:04 | Weblog
電通で、過労死した、高橋まつりさん。

かわいい。


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KKK(黒人差別、白人至上主義団体)はまだあった

2016-11-16 23:38:06 | 考察文
KKK(黒人差別、白人至上主義団体)はまだあった。

KKKなんて、モハメド・アリ、や、キング牧師の活躍した、1960年代のことで、もう、とっくになくなっていると思っていた。

しかし、考えてみれば、日本でも、同和問題(問題)、は、まだあるし、なくならないだろうから、アメリカで、KKK、が、あっても、おかしくはない。

世界史では、アメリカ史、というものも、勉強したら、面白そうに思う。

モハメド・アリは、テレビの、デービット・フロスト・ショーで、銃とか、爆弾とかを、作ったのは、白人だ。と言って、白人を非難していたが、これは、おかしい。

映画「シェーン」、で、シェーンが言うように、銃は、単なる道具に過ぎない。

使い方次第である。

ノーベル賞を、作ったのは、ダイナマイトを発明した、アルフレッド・ノーベルである。

ダイナマイトは、トンネル工事とか、砕石現場とか、老朽化したビルの解体爆破に、使うと便利であるが、テロにも使うことが出来る。

それは、使う人の、心によって、良くもなり、悪くもなる。

銃だって、国家の治安のために、警察官が持っていて、使う分には、問題ない。

というより、銃がなければ、国家の治安は守れない。

強盗の、現行犯を見つけたら、まず、空か地面を打つ、威嚇射撃をすればいい。

それでも、逃げるのなら、心臓や、頭などの、急所をはずした、足を狙えばいい。

しかし、モハメド・アリ、の白人嫌いは、徹底しているから、映画「シェーン」は、白人が主人公という理由で、モハメド・アリは、嫌うだろう。

なので、アリを納得させるためには、黒人版「シェーン」の映画を作らなくてはならない。

モハメド・アリが、抜き打ちの達人という設定で、主人公にする。

ある町の一家に、黒人をいじめている白人の集団がいる。

モハメド・アリは、白人の、抜き打ちの達人の、殺し屋と一対一の決闘をする。

そして、勝つ。

黒人の男の子が、「アリー。カムバック」、と、叫ぶ中を、モハメド・アリは、去っていく。

という映画を作らなくては、モハメド・アリは、納得しないだろう。

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もしあの時・・・僕の人生は変わっていたかもしれない

2016-11-15 00:34:48 | 考察文
僕は、小学校の2年の初夏から、3年の終わりまで、親と離れて、神奈川県の小児喘息の施設である、国立小児病院の二ノ宮分院で過ごした。

これは今はなくなった。

僕が勉強に、打ち込むようになったのは、小学校5年の時からである。(これも、喘息の施設である静岡県の伊東市にある川奈臨海学校である)

小学校2年の時は、女の先生が、担任教師となった。

この時は、僕は、勉強に打ち込む気はなかったので、(それでも真面目なので、勉強は、ほどほどにやっていた)成績は、「普通」だった。

この女の先生は、自分が、音楽が専門なので、先生が、オルガンを弾いて、やたらめったら、毎日、歌を歌わされた。

僕は、歌を歌うのは、好きじゃないので、全然、つまらなかった。

ある時、この先生は、国語の授業で、教科書にある「力太郎(だったか?)」、の、続き話しを、書いてみなさい、という、課題を出した。(授業中に)

僕は、書き出した。

書いているうちに、面白くなって、(心の中で)笑いながら、ユーモラスに書いていった。

そして、授業が終わるまでに、続き話し、を、書ききって完成させて提出した。

とても、満足のいくものだった。

僕は、それ以来、次の国語の授業が、楽しみになった。

僕の書いた、「力太郎(だったか?)」、の、続き話し、に対して、先生が、どんな感想を書いてくれるかが、待ち遠しくて、ワクワクしていた。

別に、褒めてもらわなくても、先生が、どんな感想を書いてくれるのかが、楽しみだった。

しかし、次の国語の授業に、なっても、先生は、作文を生徒に渡さなかった。

僕は、先生は、忙しくて、間に合わず、次の国語の授業の時に、作文の感想を書いたのを、渡してくれるのだろうと、思った。

しかし、いつまで経っても、作文は、返却されなかった。

結局、最後まで、作文の感想は、渡されなかった。

僕は、ガッカリした。

先生は、自分の専門である、音楽にしか、興味がなく、それ以外のことには、興味を持っていなかった、のである。

もしも、あの時、先生が、作文に対する感想を、書いてくれて、作文を生徒に、渡してくれれば、僕は、創作の喜びに目覚め、小学校から、小説を書くようになったかも、しれないと、強く思っている。

そうしたら、僕は、今頃、とっくにプロの小説家になっていたかも、しれない。

いや。かなりの確率で、そうなっただろう。

こういう、自分の好きな、ことだけを、生徒に押しつけることしか能のない先生、というのは、子供の持っている、無限の可能性を、潰すだけの、無能な先生である。

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