小説家、精神科医、空手家、浅野浩二のブログ

小説家、精神科医、空手家の浅野浩二が小説、医療、病気、文学論、日常の雑感について書きます。

スキー上達法3

2009-02-21 04:03:08 | 武道・スポーツ
さてスキーについて何か書こうと思うが、私はすでに本に書かれてある事は書きたくない。それは私でなくても代替可能だからだ。なので、あまり本に書かれていない本質的な事を書きたい。上級者と中級者の違い。それは、中級者ではエッジを切り替えた後のターンの前半(山回り)スキーを回す動作が出来ていなく、そのため、スピードの制御が出来ず、そのため、ターンの後半(谷回り)でブレーキをかけてしまっているという滑り方になっているのである。山回りの局面や、山回りの時間が短く、谷回りの時間が多い。中級者ではブレーキの谷回りの連続で滑っていると言える。自分が滑った後のシュプールを見てみればわかる。中級者ではスピードを利用してターンしているので、ある程度の傾斜のある斜面の方が滑りやすいのである。しかしスキーは、ほんの僅かな傾斜があれば十分、滑れる。中級者の場合、平面に近い緩斜面の方が、滑っててあまり気持ちよくないだろう。ごくゆるい緩斜面を滑らすと技術の差がはっきりと出る。上級者なら一定の速度でスピードを自在に調節して、滑れるが、中級者では、それが出来ないのである。つまり中級者のスキーはスピードを利用してそれに頼って滑っているのである。それに対し、上級者はスピードがなくても、スキーを回す運動技術によって、どんな斜面でも、どんなスピードでも調節して滑る事が出来るのである。つまり中級者はスピードを利用して受動的に滑っているのに対し、上級者はスピートを利用しているが、高度な運動技術によって能動的に滑っているのである。では、どう練習すれば上達できるか。まずスキーで一番の要はエッジの切り替えである。上級者ではエッジの切り替えなど、一瞬で簡単にやっているように見えるが、これこそがスキーの運動の要なのである。上級者では、谷回りでの強いエッジングの反動を利用したり、ストックによるきっかけを利用したり、スキー板にかける荷重の増減のコントロールによって、エッジの切り替えの時は、スキーに体重がかかっていない状態をつくり、それで上半身は動かさず、スキーを動かす事によって、エッジを切り替えているのである。ジャンプターンなどが、わかりやすい例である。スキーが全く初めての人はスキースクールのメダカの学校を受けるのが無難だろう。だが、ある程度、滑れるようになった人には、スクールより独学の方が効率がいいように思う。認識の受け渡しは困難であるし、そもそも認識とは自分が内面の感覚として実感としてつかみとるものである。それは感動をもともなう。ある程度、滑れるようになった人には、自分独自の欠点、課題、というものが出てくる。これはスクールの一律の指導では開眼しにくいものである。まず、私はスキーの本、ビデオなどをあらかじめよく見ることによって、考える事が必要だと思う。金の節約にもなる。「畳水練」をあなどる人もいるが、「畳水練」は必要なのである。「畳水練」は、それによって、即、泳げるようにならないだけのことであって、運動の原理は頭で理解しておかなくてはならないのである。
さて私は、スキーの運動の上達として、一、あせらないこと、二、遠くを見ること、三、あらかじめイメージトレーニングをすること、四、1、2、など滑る時のリズムをあらかじめしっかり頭に入れておく、事が大切だと思う。遠くを見ること。これはターンにおいて近くを見てしまうと、ターンの運動の全体像を体で感じる事が出来なくなるからである。悪い意識は頭から消す、という事は全ての運動で言えることである。滑る前に、あらかじめイメージトレーニングやリズムの練習を十分しておく事が大切である。全くの初心者は別として、ある程度、滑った人なら雪面の感覚はわかるものである。さて、イメージトレーニングによって、滑る前にはイメージだけでは気持ちよく滑れる状態になってしまう。しかし、実際、滑ってみると予想と全く違った事態が出てくる。ここで焦らない事が大切である。予想と違う事態が起こった時、すぐに頭を切り替える柔軟性が必要なのである。そのため、イメージトレーニングでは、いくつかの練習メニューを用意しておく事が大切である。予想が外れて、イメージトレーニングを無意味と思ってしまわない事が大切である。特に中級者は、滑れるので、予想が外れるとやけになって、上達しなくてもいいから、今日一日バンバン滑ってやろう、という方に考えがかわってしまいやすい。スキー場について、滑り始めることによって、はじめて「畳水練」でない滑る実感がわかる。そこで、予想が外れた時、さて、何をしてみようかと、スキー場についてから、ちょっとリラックスして、どんな練習をするかを考え直してみるのである。
またパラレルで滑れる人もパラレルにこだわらず、シュテムターンで回る練習をしてみる事も大切である。シュテムターンは、けっしてパラレルを身につけるための一段下のターンではない。山回りのスキーを回す運動はパラレルでもシュテムでも同じである。エッジの切り替えの運動がなくてすむため、かえってスキーを回す運動の練習には有利なのである。

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女教師

2009-02-18 16:47:08 | 小説
「女教師」

という小説を書きました。

ホームページ、「浅野浩二のHPの目次(1)」

http://www5f.biglobe.ne.jp/~asanokouji/mokuji.htm

に、アップしましたので、よろしかったら、ご覧ください。

(原稿用紙換算72枚)

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田中角栄

2009-02-15 04:06:57 | Weblog
You-Tubuで、お笑いの爆笑問題が早稲田大学に乗り込んだのがあった。田原総一郎も出た。田原は魅力ある政治家として田中角栄を上げた。爆笑問題は田中角栄を悪い政治家とみて批判したため、田原が「金権政治がなぜ悪い」と言い返した。まあ、私の考えを述べておこう。田中角栄は清濁合わせ持った政治家といっていいと思うが、私は「濁」とはっきり言い切る事にも少し抵抗を感じる。日本の政治で権力をとるには、派閥をつくって、自分の見方をつくらなくてはならないのである。それには金で面倒を見る事が必要になってくる。政治と金の関係は、政治のシステムとなってしまっているので、このシステムの中で権力をとろうと思ったら、そうするしかないのである。田中角栄がそのシステムをつくったパイオニアでもない。金集めがいかに大変な事か。銀行でも担保がなければ金は貸さない。何か事業を始めようと思っても、必要なのは資金である。では与党政治家になら、誰にでも便宜を計ってもらいたいと思って、企業は政治献金や賄賂をするだろうか。そんな事はないのである。企業は政治家の能力、実力、人格、などをしっかり見て、実力があると思った政治家にしか金は出さない。そこは企業もしっかり政治家を見ている。政治家の実力とは、行動力、決断力、なによりクソ度胸、肝が据わっていること、頭の良さ、などである。東大出の官僚出身のエリート議員は、頭がよく、政策で口先だけ理論的な批判は出来ても、批判を吠えるだけで何も出来やしない。政治家の実力とは度胸なのである。田中角栄は大物だった。クソ度胸があった。頭もいい。隙もない。だから企業も彼に献金すれば、自社の便宜を計ってもらえると計算するから金を出すのである。そして実際、彼は約束した事は守る男だった。面倒見のいい親分気質なのである。人に金で恩を売ったのである。彼はクソ度胸と頭の良さで日本を買い取った男である。それは田中角栄の権力欲による恫喝だけではなく、企業の田中角栄に対する信頼、依存の両方で出来上がったものである。だから田中角栄だけが権力欲にとりつかれた悪い人間とはいえないし、実際、田中角栄は打算のない面倒見のいい男なのである。鈴木宗男も田中角栄と同じである。クソ度胸があり、頭が良く、隙もない。与党議員でも、頭が良くても、度胸も行動力もないヘナヘナ議員には政治献金などしっこない。まあ、悪いのは日本の政治のシステムである。そのシステムを壊そうとした小泉純一郎のような人間は、これもまた田中角栄以上に力と正義感のある政治家である。麻生太郎のようなパフォーマンスだけの首相が支持率が落ちる事は目に見えていた。彼は保守派で、構造改革など望みようもない。彼の頭には権力欲しかない。あんなの早く小沢につぶされればいいと思う。まあ、選挙において、民主党も、「国民がバガだ」とはいえない所がつらいところである。政治家のモラルは、国家の利益と自分の利益の最終的な選択に迫られた時、国家の利益を優先させる事を選べる人間である。そういう点、私は石破さんのような議員は尊敬している。
そもそも田中角栄は、「自分が死んだら骨は太平洋に流してくれ」と言った。彼の大物さはそういう発言からも感銘を受ける。

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スキー上達法2

2009-02-13 07:36:27 | 武道・スポーツ
スキーは大学の一年、二年の時、少しやった。大抵の緩斜面、中斜面はパラレルで滑れる。SAJのスキー検定を受けたら、3級か2級だろう。だが1級は通らないだろう。もう10年以上やっていないから、滑ったらどうなるかはわからない。冬に一度くらいはスキーに行こうと思いつつも、時間が勿体なので行っていない。それに、スキーの技術は頭打ちになって、上達する気がしないから、つまんないから行く気がしないのである。2級のレベルでもそうである。ずっと以前、テレビのスキー教室で、かなり上手い中級者のレッスンの番組があった。生徒の中で、女の人でパラレルでかなり上手い人(2級は通るだろう)がいたが、なんだかさびしそうだった。スキーは2級ほど上手くなれても、1級(達人)になれず、上達がとまってしまうと2級ほど上手くなれても、つまらなくなって、やめてしまう人は理想の高い人なら、ありうるだろう。どうすれば1級になれるか、わからなかった。SAJに限らず、スキー教本では、加重だとか、足の裏の感覚だとか、ターンにおける体の伸びとか曲げとかが、さかんに書いてある。デモンストレーターなら、当然、その感覚はわかる。しかし、2級の人では、何の事だかさっぱりわからないだろう。2級のレベルの人では、山回りの、踵の捻り押し出しが出来ないからである。一見したところ、初級者には2級の人の滑りは問題なく上手いように見えるだろう。しかし、見かけは上手く見えても、2級の人のターンは、スキーのターンにおける重要な運動要素が身についてないのである。だから、スキー教本を読んでも、意味が解らないのである。ただ2級ほどのレベルの人は、どんな斜面でもパラレルで滑ることは出来る。さて、私はスキーの上達はゲレンデ選び、と書いたが、たまたまYou-Tubeを見て面白い事に気づいた。
そして、私自身、試してみたくなった。それは、内スキーターンである。これは、上級者が、余裕綽々の特技として披露するものだと思っていた。また実際、そうしている場合が多いだろう。そもそも内スキーターンというのは、変則的である。スキーは山回りにせよ、谷回りにせよ、強い遠心力に耐えるため外スキーで回るものである。ターンにおいて内スキーなど、いらないといってもいい。実際、強いエッジングが必要な谷回りでは、内スキーが浮いている写真は、よく駅でも見かける。私は2級の人が考えずにバンバン滑っても、上手くならない可能性が高いと思っている。それほどスキーのエッジの切り替えには、難しい運動要素があるからだ。そこでYou-Tubeをたまたま見て、いいと思ったのは、その運動要素を身につけるのに、内スキーターンを練習してみる事を提案したい。内スキーターンでは、エッジの切り替えの時、もろにエッジの切り替えの運動要素が要求されるのである。2級の技術の人では、内スキーターンは出来ない。いつも何となく、無考えに外スキーで滑っているからである。そのため下半身だけジャンプして横にずらす、難しい内スキーターンの練習は有効だと思う。それに、谷回りはスピードを抑えるブレーキなので、外スキーだけでも、一向にかまわないが、山回りはスキーのコントロール、スキーを回していくという運動局面なので、ターンのコントロールを外スキーだけでせず、内スキーへの加重を増やす事によって調節するということも、上級者ではしているのである。
2級くらいの人では、エッジの切り替えの時、自転車やオートバイのように何となく、体を回転の内側に倒す事によって、滑っている人が多いだろう。しかし、スキーのターンの運動はそうではない。自転車の回転では、硬いアスファルトにタイヤがくっついているから、それでいいし、また、それが正しい運動である。しかし、その感覚をそのままスキーに持ち込んで、ターンしてはダメである。スキーのターンは腰から上の上半身を動かさず、固定したまま、下半身をずらして自在に動かすのが、スキーの運動だからである。それはデモンストレーターの滑りを見ればわかる。上級者の、急斜面やコブ斜面のウェーデルンは上半身が石仏というか、ロボットのように固まって、下半身だけが激しく動いている。

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女体盛り温泉旅行

2009-02-11 00:54:42 | 小説
「女体盛り温泉旅行」

という小説を書きました。

ホームページ、「浅野浩二のHPの目次(1)」

http://www5f.biglobe.ne.jp/~asanokouji/mokuji.htm

に、アップしましたので、よろしかったら、ご覧ください。

(原稿用紙換算93枚)

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バク転失敗

2009-02-10 23:32:11 | Weblog
バク転失敗

バク転をやって失敗して頚椎を捻挫してしまった。バク転をやったのは、ひさしぶりだったが、自信があったのでやってしまった。それでも安全のため、マットを敷いてやった。マットを使わずにやろうかとも思ったが、やはり安全のため、マットを敷いた。それがよかった。もしマットを敷かなかったら、首の骨を折って、今頃、車椅子になっていたかもしれない。まあ、整形外科でレントゲンをとったが、異常はなく、良かった。だが私はどうしてもバク転に未練がある。バク宙もそうである。これは、やはり空を飛びたい願望が強いからだろう。まあ、車椅子にはなりたくないから、バク転は諦めようかとも思ったりもする。私は側宙は出来る。側宙が出来るんだから、これで満足すべきと思うべきなのだろうが。やはり、バク転には未練がある。美しいスピーディーな連続バク転を出来るようになりたいものである。が、首の骨を折ったら小説が書けなくなるから、バク転は諦めるとしようか、とも思ったりする。側宙が出来るという事で満足しよう。イカルスのように欲を出すと落っこちる。

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人の好き嫌い

2009-02-07 21:25:05 | 考察文
さて、私は人の好き嫌いが激しい。世間の人には、やさしい性格なのに、性格の悪い人と何の抵抗も無く付き合える人が多い。私は、そういう光景を見ると非常に首を傾げる。私には、とても出来ない。さて、そういう手前はどうなのか、と言われると、私も人から好き嫌いされる事が激しい。私に非常に好意を持ってくれる人がいる一方、私を非常に嫌う人も、だいたい同じくらいの数いるのである。もちろん、中立の人もいるが。私の人の好き嫌いが激しいように、私も激しく、人に好き嫌いされているのである。

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車嫌い

2009-02-06 10:23:19 | Weblog
私は中学生くらいの時から車が嫌いだった。しかし、オートバイは好きだった。それは単なる好みの問題ではなく、私の思想的なものも関係している。車は一つの完全な居心地のいい空間、何でも出来る便利な移動できる空間だからである。一言でいって私はマイホーム主義が嫌いだからである。完全に窓ガラスで遮断され、いくら運転しても疲れず、ラジオにクーラー、最近ではカーナビでテレビやビデオまで、しかもリクライニングシートを倒し彼女といゃつく事まで出来る。車の中で寝ることも出来る。つまり、小さな家みたいなもんである。これがマイホーム主義の象徴いがいの何であろう。車を大事にする愛車精神は悪くはないが、小さな傷にもカリカリするのはみっともない。所詮、他人のつくってくれた物じゃないか。私はこういう、みみっちい、ちっぽけなマイホーム主義が生理的に嫌いである。その点、オートバイは、それら全てが車と違う。オートバイは運転するための実用の機械である。風を切って走るから疲れるし、カーブも失敗すれば転倒する。ラジオもカーナビもクーラーも無い。女といちゃつく事も出来ない。そういう点が男らしい、マイホーム主義でない、格好よさを感じるのである。そして、それ以上に私はオートバイの構造美が好きなのである。正面のヘッドライト、真横に伸びたハンドル、流線型の燃料タンク、露出したキャブレターとエンジン。流れるようなマフラー。それらが一体となって完璧な構造美をつくりだしている。私は人の乗っているバイクより、バイクそのものに完璧な美しさを感じる。

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誇り高いのら猫

2009-02-05 21:10:57 | Weblog
今朝、仕事に行く時、コンビニの前でビニール袋のゴミをあさっている、のら猫をみた。なんとも、その仕草がかわいい。のら猫には眉間に三日月形の傷があった。まるで、「愛と誠」の太賀誠の眉間の傷のようで、どうしたんだろうと思った。
「のら猫も大変だな。職が無く、毎日の餌をああして、探さなきゃならないんだから」
私は可愛そうに思い、コンビニで買った鰹のおにぎりを、ちぎって、のら猫の前に放り投げた。
「ほら。食べな」
だが、のら猫は私をじっと見てから、さっと身を引いた。
「どうした。鰹のおにぎりだぞ。なぜ食べない」
私は疑問に思って言った。かわいくないやつだ、と少々、不愉快になった。
私はさらに、もっと鮭のおにぎりを投げてやった。だが、のら猫は食べようとしない。
「おい。どうして食わないんだ。理由を言え」
私は、イライラして、怒鳴りつけた。
その時、のら猫は、ニヤリと笑って喋り出した。
「ふふ。言わせてえか。無理もねえ。それはおめえの無くしちまったもんだからな」
「俺のなくしたものだと?」
「そうよ。子供の時は、あるいは、おめえもオレと同じだったかもしれねえ。しかし大学に入った時、おめえは誇りを捨てた」
「ば、はかな。お前の言う事は、さかさま、じゃねえか。俺は公立の医学部に入った時、誇りを手に入れたんだ。親戚も友人も俺を見直したんだ」
「さかさまはおめえよ。その時、おめえは誇りを捨てちまった。おめえは学費と生活費を親に出してもらった。食い物も、住処も何不自由ない豚になっちまった。与えられた金で肥え太った」
のら猫はニヤリと笑ってつづけた。
「少なくともオレは一匹のら猫よ。理由のねえ借りをつくったり何かの力に一度でも無理じいに頭を下げてしまったが最期、オレみてえな、のら猫はオシマイだからよ」
ああ。私は、胸を打たれたような衝撃を受けた。私は、これほど誇り高い、のら猫の言葉を生涯、聞く事はないだろう、と大地が裂けるような熱い衝撃に打ちのめされた。
のら猫は餌と棲家がないもの。
ましてや人間はのら猫撲滅のため餌を与えないようにしているもの。
それすら、この、のら猫は拒否した。
私は、恥じ入って急いでその場を去った。

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飯島愛2

2009-02-04 00:23:30 | Weblog
飯島愛

ホームページにかなり前に、「プラトニック・セックス」と題して、エッセイを書いた。ホームページに、はじめの少しの部分だけ書いてある。しかし途中で書く気がなくなってしまった。それは、Wikipediaで調べたら、あれを書いたのはゴースト・ライターだと知ったからである。私はてっきり飯島愛が書いたんだと思っていた。私の感覚では、「プラトニック・セックス」を書いたのはゴースト・ライターであって、飯島愛ではない、と思っているからである。やはりゴースト・ライターの手柄だと思う。よくぞ化けおおしたな、と書いたライターに感心した。家出するまでの最初の文章は特にうまく、あれは文章のお手本として教科書にのせてもいいと思う。俳優は忙しいから、ライターが代わりに書く事は仕方がない場合もあると思う。しかし、事情は知らないが、飯島愛なら、そんな超多忙でもなく、書く時間くらいあっただろう。また、彼女は頭もいいから、しっかりした文章も書けたと思う。ミリオンセラーになるほどの本を自分で書かなかったのは、非常に勿体ない事である。だが、「プラトニック・セックス」がミリオンセラーになったのは、十分ありうる事だと思っていた。
私がはじめて飯島愛を知ったのは、「ギルガメッシュ・ナイト」である。
私は彼女を初めて見た時から、何か、もどかしいものを感じていた。
「ギルガメッシュ・ナイト」はわりとエロティックで面白かった。見えそうで見られないもどかしさがエロティックなのである。ちょうどキリストの最後の晩餐のように、横長の机の真ん中に飯島愛がいて、その両側に女の子が何人かいた。彼女が司会をやっていた。番組の内容に似合わず、何か、利発そうな、しかし垢抜けている子だな、と思った。スレッカラシと言いたいが、単純に一言でそう言えない、もどかしさ、とでも言おうか。それにしてはテレビカメラにTバックの尻を突き出す品の無さに、何とも言えない子だな、と思った。一言でいうと、正体がつかめない、もどかしさ、である。私は女を見ると、その人は私を、「ネクラ」の一言でかたづけるか、どうかと想像するクセがある。「ネクラ」の一言でかたずけるように思える女には魅力を感じない。彼女の場合、どうかと言うと、彼女は、垢抜けていて、スレッカラシと言えるような感じもするのだが、何か利発で、考え方に柔軟性があるように見え、私をどう言うだろうか、わからない所に、彼女の正体がわからない、もどかしさ、を感じていた。一体、彼女は何物なのだ、と疑問に思った。
「プラトニック・セックス」を読んで、なるほどと彼女の正体がつかめた。
しかし彼女の感性は面白い。
彼女のブログ、「ポルノ・ホスピタル」にあったが、人形を見て、「もっとエッチなパンツ履かせたい」などと書いてある。何とも可笑しい。そういう見方で人形を見る人も極めて少ないのではないだろうか。もっと女の子らしく、「まあ。かわいい人形」と言えないものかと思う反面、そういう変わった感じ方をする人というのも、何とも、変わってて、驚かされる、というか、普通の人が思いつかないような感じ方をする人だなと感心もさせられる気もする。

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節分

2009-02-03 00:36:49 | Weblog
今日は「節分」である。
「鬼は外。福は内」と言って豆をまく。
しかし、これは高校の時、聞いた話なのだが、本当は逆らしい。つまり、
「鬼は内。福は外」なのだそうだ。その意味は、家の内には鬼(一年の悪い心)がある。しかし春が来て、福がやってきた。だから、家の内の鬼は外に出て行け、やってきた福は外にいるから、どうか内に入ってくれ、と祈願して豆を撒いたらしい。

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飯島愛

2009-02-02 12:26:24 | Weblog
You-Tubeでクイズ・ミリオネアで、みのもんたが司会をつとめ、飯島愛が出た時があった。今は消されて無くなっている。飯島愛は加賀まりこを味方として連れてきた。
そしてこんな会話がなされた。
みのもんた「愛ちゃんは美容整形を楽しんでやってるって聞いたけど本当なの?」
飯島愛  「みのさんは私のこと、嫌ってるの?私はそんなこと言われても動揺しないよ」
みのもんた「(笑って)嫌ってません」
飯島愛  「普通、女優さんに、整形してる、なんて聞く?」
みのもんた「(加賀まりこに向かい)ねえ。加賀さん。愛ちゃんは美容整形たのしんでやってるって聞いたけど本当なの?」
加賀まりこ「(笑いながら)だったら、もっときれいになってるでしょ」
みのもんた「(得意げに)そーら。やられた」
飯島愛  「(まよって)どっちが味方だか、わかんない」
この会話を解説しておこう。一言でいって、みのもんたが、いわば裸の王様なのである。彼は何もわかっていないのである。みのもんたは、その外見から飯島愛をスレッカラされた軽卒女と見ているから、何を言っても傷つきゃしない感性だと思っているから、テレビで、公然と、飯島愛の美容整形のことを口にしたのである。確かに、飯島愛は、外見は菊池桃子のような清純派ではなく、スレッカラされた軽卒女とも見える。しかし、彼女もデリカシーもプライドもある、一人の女なのである。ましてや彼女は女優で女優としてのプライドも持っている。つまり完全に、みのもんた、の認識がずれていて、彼は外見で飯島愛をアバズレ女と見て、本人も何を言われても傷つきゃしない性格だろうと思っているから、平気でこういう発言をしてしまうのである。しかし飯島愛は、外見は清純派ではないが、女としての傷つきやすいデリケートさも持っていたのである。加賀まりこが、「だったらもっときれいになってるでしょ」と言ったのは、飯島愛をからかうためではなく、鈍感なみのもんた、に対して嘲笑を込めて、また観客を笑わせるために言っているのである。みのもんた、はそれでもわかわず、加賀まりこの発言を、飯島愛をからかう発言だととらえて、得意げに、「そーら。やられた」などと言っている。結局、彼のような荒削りの単細胞には、さいごまで何もわからないのである。だが見てた人でも、わからなかった人は多いだろう。バカの魅力は、かわいらしさ、がある事であるが、みのもんた、のような救いようのないバカには可愛らしさが無い。

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背泳ぎ

2009-02-01 18:29:24 | 武道・スポーツ
背泳ぎ
背泳ぎが出来るようになった。バタフライも出来るから、これで個人メドレー四つが出来るようになった。背泳ぎは、今まで上手く出来なかった。そもそも背泳ぎに魅力を感じていなかった。しかしやってみたら出来た。これはクロールで首の固定が身についた結果だと感じる。背泳ぎも、出来るようになると、なかなか面白い気持ちいい泳ぎ方である。何がいいかといって、息継ぎ、呼吸を止めることをしなくてもいい所にある。他の泳法、では息継ぎで呼吸を止めなくてはならないが、背泳ぎには、それがなく、呼吸が自由に出来る泳法である。なので、疲れにくにのである。

背泳ぎは、水の上に寝たような感じなので、つかれず、気持ちがいい。

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