昨日、東北新幹線が全線開通した。
昨日、イギリスでウイリアム王子とキャサリン・ミドルトンさんの結婚式が行われた。読売新聞の一面の写真が絵になっている。思わずとっておきたくなるほど。このカップルはいい。お似合いである。普通、皇室の結婚式では、女ばかりが注目されて、偉い方の王子は、添え物のようなきらいがある。が、このカップルは、王子もハンサムである。キャサリンさんだけが大々的に注目されるということもないだろう。キャサリンさんは、華奢で弱そうで、いかにも守ってやりたくなるという男性本能を刺激される。
ゴルフをした。もちろん私はゴルフはド素人である。おおよそ、私はゴルフなんて、中年の管理職の男がやる気障なスポーツだと思ってきた。たいしてやりたいとも思わない。ほとんど汗をかかない。しかし今は、ゴルフは、プロになると金になるので、若い人もやるようになった。大学でもゴルフ部があるところは多い。
なぜやってみるかといったら、バッティングセンターで、打てるようになって、そうなると、野球に興味が出てくるようになったからだ。バッティングセンターのボールは自分のペースで出来ないが、ゴルフは、自分のペースで打てるのがいい。何事にもはまってしまうタチなので、バッティングもゴルフも、本を読んで、動画を見て、研究するようになるかもしれない。しかし本当の理由は小説を書くためである。どうも自分が書いてきた小説を読み返してみると、やはり自分が経験したことをヒントに書いているのが多い。からだ。
しかし石川遼プロが賞金を被災者に寄付すると知って立派な人格の人だと尊敬した。
なぜやってみるかといったら、バッティングセンターで、打てるようになって、そうなると、野球に興味が出てくるようになったからだ。バッティングセンターのボールは自分のペースで出来ないが、ゴルフは、自分のペースで打てるのがいい。何事にもはまってしまうタチなので、バッティングもゴルフも、本を読んで、動画を見て、研究するようになるかもしれない。しかし本当の理由は小説を書くためである。どうも自分が書いてきた小説を読み返してみると、やはり自分が経験したことをヒントに書いているのが多い。からだ。
しかし石川遼プロが賞金を被災者に寄付すると知って立派な人格の人だと尊敬した。
アメリカで、(アメリカでなくても)電気自動車の開発がすすんでいる。150km/hまで出る。電気自動車にするとCO2の削減になっていいが。よく知らないが、150km/hまで出ることは、不思議ではない。車がいったん走り出したら、慣性の法則で、車を、駆動させなくても、車はそのまま走り続ける。ただ加速は悪いだろうと思う。こういう車は、信号機だらけのGO・STOPの日本では難しいのではなかろうか。アメリカの田舎の州のような、信号機がない所ならいいだろうが。あるいは、信号機のない高速道路で運転するには向いている。
とうとうクーラーを使うようになった。生活には室温でいいが、テニスをすると、暑くてクーラーを使う。コーチとシングルスの試合をする。2ゲーム取る。かなり対等に戦える。テニスは、これからはもう、暑くて朝や昼は出来ない。グリップが汗ですべる。
自民党はじめ、野党が民主党を批判しだしだ。こういう極めて困難な難局の問題は誰がやったって、パーフェクトな賛辞を得られる政治が出来るはずがない。自民党が、民主党の代わりにやれば、被災者や国民がパーフェクトに褒めたたえる立派な対応が出来るというのか。どの党がやったって、非難されるに決まっている。それは野党もわかっているはず。難病の患者は、どの医者が治療しても上手く治せない。これは医者の能力に責任があるのではなく病気の重症度に問題があるのだ。それと同じ。
原子力発電を悪く言うけど、では膨大な電力を使う現代社会で原子力いがいのどんなエネルギーを使えば、やっていけるというのか。議席数を増やすために国民受けする現実を見据えない理想論を無責任に吠えているのが野党。
原子力発電を悪く言うけど、では膨大な電力を使う現代社会で原子力いがいのどんなエネルギーを使えば、やっていけるというのか。議席数を増やすために国民受けする現実を見据えない理想論を無責任に吠えているのが野党。
最近、クラシックを好んで聞くようになった。ピアノを演奏してみたいとも思う。ピアノに限らず、ギターとかも。私に作曲の才能があるのか、どうかはわからない。しかし、私は、音楽という、より観念的で、意味のない作曲というものの方が私に向いているようにも思う。しかし、一度、歩み始めてしまった人生である。もう、やり直すことは出来ない。もっともレオナルド・ダ・ビンチのような人もいるが。私は過敏性腸症候群で、そこまで手が回らない。
「人は誰しも劣等感に耐えなくてはならない」
「何でも出来る、は、何にも出来ない、と同じである」
「人は誰しも劣等感に耐えなくてはならない」
「何でも出来る、は、何にも出来ない、と同じである」
今年は、横浜パレードが中止になった。東日本大震災のことを考えて自粛する、とあった。少し前は、大変な官能を感じたのだが、最近は、あまり官能を感じなくなった。たいして見たいとも思わなくなった。山下公園から出て、伊勢崎町の先で終わるのだが、伊勢崎町は、去年、行ったら、景気が悪いせいか、ガラガラだった。
ちなみに横浜パレードの起源は古く、松旭斎天勝という日本の女奇術師が参加していた。松旭斎天勝は、谷崎潤一郎の小説「小僧の夢」のモデルと言われている。世間での、谷崎作品の「小僧の夢」の評価はそんなに高くない。前半が、小僧の独白による、芸術論で、後半が、松旭斎天勝の魔術にかけられる日記、という形式をとっていて、まとまりがない、というのが理由だろうか。しかし私は、「小僧の夢」は、素晴らしい作品だと思っている。思いつくのは簡単だが、小説に仕立ててあげるのは難しい。谷崎の筆の力のなせる技である。
谷崎は、自然主義を、音楽を例にして否定している。音楽は人工の物なのに間違いなく芸術ではないかと。確かにその通りである。谷崎はシェークスピアまで持ち出してシェークスピアの良さがわからないと自分の芸術論を述べている。シェークスピアの価値は、古典、第一創作者としての価値が強い。シェークスピアは外的枷なのに対し、谷崎は内的枷である。シェークスピアの作品は、一般的、普遍的で、他の人でも思いつけるのに対し、谷崎の作品は、谷崎潤一郎にしか書けない。
ちなみに横浜パレードの起源は古く、松旭斎天勝という日本の女奇術師が参加していた。松旭斎天勝は、谷崎潤一郎の小説「小僧の夢」のモデルと言われている。世間での、谷崎作品の「小僧の夢」の評価はそんなに高くない。前半が、小僧の独白による、芸術論で、後半が、松旭斎天勝の魔術にかけられる日記、という形式をとっていて、まとまりがない、というのが理由だろうか。しかし私は、「小僧の夢」は、素晴らしい作品だと思っている。思いつくのは簡単だが、小説に仕立ててあげるのは難しい。谷崎の筆の力のなせる技である。
谷崎は、自然主義を、音楽を例にして否定している。音楽は人工の物なのに間違いなく芸術ではないかと。確かにその通りである。谷崎はシェークスピアまで持ち出してシェークスピアの良さがわからないと自分の芸術論を述べている。シェークスピアの価値は、古典、第一創作者としての価値が強い。シェークスピアは外的枷なのに対し、谷崎は内的枷である。シェークスピアの作品は、一般的、普遍的で、他の人でも思いつけるのに対し、谷崎の作品は、谷崎潤一郎にしか書けない。
私が北杜夫の作品で最初に読んだのは、「奇病連盟」である。絶版になっているが最高に素晴らしい。北杜夫は、「楡家の人々」を三島由紀夫が、そのユーモアと詩情を評価して、「これが小説なのだ」と絶賛した。三島由紀夫も北杜夫も、トーマス・マンの熱烈な愛読者で、そこに共通点がある。三島由紀夫の「鏡子の家」は、日本では、不人気だった。何人もの登場人物が出て、誰が主人公かわからず、登場人物間に関係性もなく、各登場人物が、勝手に行動していて、小説全体としてのストーリーがまとまっていないのが、不人気の理由だろう。しかし、これこそが、トーマス・マンや、北杜夫の「楡家の人々」の小説形式なのである。唯一人、文芸評論家の奥野健男氏は、戦争を経験した世代だから書ける、死がモチーフの小説と絶賛しているが、これは、的外れである。三島由紀夫は、性的倒錯者であり、性的倒錯者でないとあの小説は、変な理解のされ方をされてしまう。
さて、北杜夫の「奇病連盟」で私が感じた、氏の凄さは、氏のナンセンス性である。何というナンセンスさ。三島由紀夫もニヒリスト的な所があった。ナンセンスというと、聞こえが悪いが、つまり、「無」を知っている、ということであり、人生が終局的に、無であるという自覚を持っている人ほど、達観した人はいないと私は思っている。
ちなみに、北杜夫は、今、うつ状態だが、その原因は、内因的なものもあると思うが、氏の腰痛の激痛が原因だと確信している。
ちなみに、氏の娘さんの斉藤由香さんは、若い時は美人だったが、歳をとるにつれて、父親の北杜夫に似てきた。子供の頃は、親に似てないのに、大きくなるにつれ、親に似てくる、というのは、あまり、どころか全然、嫌いである。
さて、北杜夫の「奇病連盟」で私が感じた、氏の凄さは、氏のナンセンス性である。何というナンセンスさ。三島由紀夫もニヒリスト的な所があった。ナンセンスというと、聞こえが悪いが、つまり、「無」を知っている、ということであり、人生が終局的に、無であるという自覚を持っている人ほど、達観した人はいないと私は思っている。
ちなみに、北杜夫は、今、うつ状態だが、その原因は、内因的なものもあると思うが、氏の腰痛の激痛が原因だと確信している。
ちなみに、氏の娘さんの斉藤由香さんは、若い時は美人だったが、歳をとるにつれて、父親の北杜夫に似てきた。子供の頃は、親に似てないのに、大きくなるにつれ、親に似てくる、というのは、あまり、どころか全然、嫌いである。
阿部公房が、日本の芝居は、作り方が悪いから面白くない、と言っている。これは、以前書いた、坂口安吾の小説論と同じで、最初にあらすじを書いてしまうから、面白くないと阿部公房は言っている。少なくとも、阿部公房の小説観では、文学は人間の精神の限界を突破しうる可能性があるから、実用的には何の価値もない文学が、存在しうる価値であると考えている。
民主主義は、もちろん最高の政治形態ではない。最高の政治形態は、コンピューターが発達して、正しい思考力を持つようにまでなったら、コンピューターによる国家の統率が最高の政治形態となるだろう。しかし、それはまず永遠にあり得ないだろう。
私は、最高の政治形態は、独裁政治であると思う。ただし、独裁者は、キリストや釈迦やガンジーのような聖人でなくてはならない。独裁政治というと言葉は悪いが、つまり哲人政治である。しかし、現実にはそういう人は、おらず、どんなにいいように見える人でも権力を持つと、横暴になるから、哲人政治は現実的にはあり得ない。
だからセカンドチョイスである民主主義とするしかないのである。それしかないのなら、セカンドチョイスである民主主義が最高の政治形態である、という言い方をしなくてはならない。しかし、もちろん、民主主義が理想の政治形態であるわけがないのである。民主主義とは、多数決が正しいことになり、標準的人間の道徳感覚が正義となるのである。しかし、正規分布のグラフによる偏差値50の標準的人間の道徳感覚を正義とする事ほど危険なことはない。
「危険思想とは常識を実行に移そうとする思想である」
(芥川龍之介)
イエス・キリストを殺したのは誰か。民主主義ではないか。地動説を主張したジョルダーノ・ブルーノを火あぶりにして殺したのは誰か。民主主義ではないか。民主主義で、さらに怖いのは、マスメディアの発達と共に、ちょうど神輿のように、人々の意識が一挙に雪崩を起こすことである。
私は、最高の政治形態は、独裁政治であると思う。ただし、独裁者は、キリストや釈迦やガンジーのような聖人でなくてはならない。独裁政治というと言葉は悪いが、つまり哲人政治である。しかし、現実にはそういう人は、おらず、どんなにいいように見える人でも権力を持つと、横暴になるから、哲人政治は現実的にはあり得ない。
だからセカンドチョイスである民主主義とするしかないのである。それしかないのなら、セカンドチョイスである民主主義が最高の政治形態である、という言い方をしなくてはならない。しかし、もちろん、民主主義が理想の政治形態であるわけがないのである。民主主義とは、多数決が正しいことになり、標準的人間の道徳感覚が正義となるのである。しかし、正規分布のグラフによる偏差値50の標準的人間の道徳感覚を正義とする事ほど危険なことはない。
「危険思想とは常識を実行に移そうとする思想である」
(芥川龍之介)
イエス・キリストを殺したのは誰か。民主主義ではないか。地動説を主張したジョルダーノ・ブルーノを火あぶりにして殺したのは誰か。民主主義ではないか。民主主義で、さらに怖いのは、マスメディアの発達と共に、ちょうど神輿のように、人々の意識が一挙に雪崩を起こすことである。
村上春樹は、以前、ノルウェイの森を読んで、面白かったが、それ以後、読まなかった。何となれば、読みやすい文体だが、読んだ数日後には、あらすじ、を忘れてしまうので、私は自分の創作の勉強のために小説を読んでいるので、そういう小説は読まない方針にしているからだ。しかし、たまたま、図書館のリサイクル図書で、「神の子どもたちはみな踊る」という短編集を読んで、気に入ってしまった。しかし、他の作品が全て面白いわけでもない。シュールだが、阿部公房よりは、読みやすい。
東北は寒い。関東では、もう葉桜である。春から初夏に移ろうとしている。スーパーで西瓜が売り出されている。女の黒いタイツとか、解放的なルックになってきている。テニスをやると汗をかいて、ポカリスエットを飲まずには出来なくなった。(もっとも、これは自律神経の失調した私だけだが)しかし、秋田や仙台は、まだ寒い。秋田ではまだ雪が残っている。東北の人はかわいそうである。
西岡剛選手が、相手のスライディングで腓骨を折った。どうも相手のメジャーの選手は意図的なような気がする。ジャップをなめるなよ。
腓骨は簡単に折れるものではない。何となれば、ムエタイや空手のローキックでは、意識して相手の足をへし折ろうとしているではないか。ローキックの破壊力は野球のバットをへし折るほどである。また空手家、拳法家は、筋肉を引き締めて、相手に角材で叩かせたりして、体を鍛えているではないか。しかし、腓骨はまず折れないではないか。これは足に対するガードの意識があるからである。しかし、不意打ちで蹴られると、あのように折れることもある。いかに不意打ちが危険であるか。
腓骨は簡単に折れるものではない。何となれば、ムエタイや空手のローキックでは、意識して相手の足をへし折ろうとしているではないか。ローキックの破壊力は野球のバットをへし折るほどである。また空手家、拳法家は、筋肉を引き締めて、相手に角材で叩かせたりして、体を鍛えているではないか。しかし、腓骨はまず折れないではないか。これは足に対するガードの意識があるからである。しかし、不意打ちで蹴られると、あのように折れることもある。いかに不意打ちが危険であるか。