植草一秀。植草先生は、私は国策捜査ではない、と思っていたし、今でも、かなり、そう思っている。しかし2004年4月の時は。ただ防犯カメラがあるのに、それを裁判で使わないというのは、確かにおかしい。国策捜査では権力者が狙われる。しかし。経済学者や評論家というものは、みんな政権に対して批判的なものである。別に小泉政権に批判的だったのは植草先生だけではない。慶応の金子勝先生は、植草氏よりもっと、ひどく小泉政権をボロクソに批判していた。総理大臣の発言で株価は変動するが、経済学者の政府に対する批判の発言では株価までは変動しない。私が惜しいと思うのは。植草先生の経済学的な見解に共感しているからではない。もっとも私の経済の知識なんて植草先生の千分の一もない。し、そもそも経済学者の予測なんてはずれるものである。というより、世の中は、絶えず変わっていっており、また、いつ、どんな経済に影響を及ぼす不測の事態が起こるか分からないから、予想が当たることは、そもそもあり得ない。それより、植草先生ほどの深い博識と、鋭い見解の経済学者がいれば、他の反対意見の経済学者や評論家と議論が出来る。この議論が出来るということが貴重なことだと思う。まさに弁証法の「正、反、合」でより本質を知る事が出来ると思うからだ。しかし、もし私が植草先生の立場だったら、まず植草先生と同じように国策捜査だと思っただろう。あれだけテレビに多く出て、政府に対し批判的な発言をしていれば、政府に狙われた思うのは本人にとっては当然、起こる感情だと思う。2006年9月の二回目は、尾行がついていた、とウィキペディアに書いてあったが、もし本当なら、こうなると国策捜査っぽくなる。しかし、一回目の事件の後、警察官が検察の命令で、植草先生が外出している時は、ずっと尾行をつけていたというのか。それも、不自然に思う。これは。私は、植草先生が、一回目の事件の後、やっと、ほとぼりが冷めだして2006年6月に名古屋商科大学の客員教授に就任して、好転に向かおうとしてたのを、おとしめてやろうという悪意を持った人間の悪質な悪戯のように思える。それは、一回目の事件で、植草氏が世間に幅広く知られるようになってしまったから、一回目の事件の後は電車の中では、顔を見られるようになってしまっただろう。誰がやったかといえば、検察とか、政治的意図を持った人間というより、一般人の性悪な人間の仕業のように私には思える。
さて二回目の事件では、飲酒痴漢ということになっている。一回目は、さておくとして、二回目は絶対、冤罪だと思っている。車内での位置関係がどうだったの、繊維鑑定の結果がどうだったの、という物理的なことではなく、精神面的な観点から考えてみたい。植草氏は、一回目の事件で、全てを失ってしまった。早稲田大学の教授の職も、いくつも出ていたテレビコメンテーターも。そしてマスコミでさんざん書かれ、ブログでさんざん悪口を書かれた。氏にとっては、死にたいほどの苦痛だっただろう。だから、一回目の事件の後では、氏は、痴漢行為など、考えただけでも嫌な気持ちになってしまっただろう。インポテンツになってしまった可能性もあると思う。だから、一回目の事件の後では、もう一生、痴漢行為などするはずがない。ただここで問題になるのは、氏が紹興酒をたくさん飲んでいた後で、酩酊状態だったということだ。私は酒というものを飲んだことがないので、酒を大量に飲んだ時、どういう気分になるのかは、わからない。酩酊状態で意識が混濁していたために、触ってしまったということは、あり得ることだ。しかし、もしそうだったとしても、それは過失であり、故意ではない。痴漢というものの悪質性は、ひとえに故意であるということにかかっている。故意だから、女性も不快に思うのである。しかし、故意ではなく、本人の意志ではない過失だとしたら、女性も、そんなに不快には思わないだろう。し、咎めないだろう。だから二回目は、仮に、誤って触ってしまった事が事実だとしても、(法律的にはともかく)実質的、精神面的には植草氏には、全く罪は無いと私は思う。
さらに、一回目の事件で、非常に、むかつくことがある。それは、取調べにあたった警察官である。警察官は、「ともかく認めれば、一切、公表しない」と高圧的に氏にせまった。しかし、結果は世間に知られてしまって、氏は、職をすべて失ってしまった。人生を台無しにされた。警察官は約束を守らなかったではないか。そして、人の人生を台無しにしたではないか。その責任はないのか。法的には責任は無いんだ、他人の人生が台無しになろうと、どうでもかまやしないと居直っている警察官の態度にむかつくのである。確かに、法的には責任はないのかもしれない。しかし、人道的には、ウソをついて人の人生を台無しにして、ふんぞりかえっている警察の態度にむかつくのである。ほんまに警察はむかつくわ。一体、誰が食わせてやっているというんだ。
また手鏡に関しては、氏はテレビコメンテーターとして全国に顔が出るのだから、身だしなみや髪が乱れていないよう持つ方が当然であり、持っていない人の方が少ないだろう。
また、一回目の事件で、警察官は、「ともかく認めれば、一切、公表しない」と植草氏にせまった。氏のおとなしそうな性格からして、警察官に高圧的に迫られたら、やっていなくても、毅然と戦うより、認めてしまったという可能性は十分、あり得ることだ。
植草氏は、自分の場合は、政治的意図の国策捜査にはまったと思っているようだが、それは違うと思う。検察は政界とは全くつながりがない。検察は政治的に盲目である。検察は権力者=あやしい、と思って無作為に疑惑を持つだけで、検察は日本の政治を混乱させている。
さて二回目の事件では、飲酒痴漢ということになっている。一回目は、さておくとして、二回目は絶対、冤罪だと思っている。車内での位置関係がどうだったの、繊維鑑定の結果がどうだったの、という物理的なことではなく、精神面的な観点から考えてみたい。植草氏は、一回目の事件で、全てを失ってしまった。早稲田大学の教授の職も、いくつも出ていたテレビコメンテーターも。そしてマスコミでさんざん書かれ、ブログでさんざん悪口を書かれた。氏にとっては、死にたいほどの苦痛だっただろう。だから、一回目の事件の後では、氏は、痴漢行為など、考えただけでも嫌な気持ちになってしまっただろう。インポテンツになってしまった可能性もあると思う。だから、一回目の事件の後では、もう一生、痴漢行為などするはずがない。ただここで問題になるのは、氏が紹興酒をたくさん飲んでいた後で、酩酊状態だったということだ。私は酒というものを飲んだことがないので、酒を大量に飲んだ時、どういう気分になるのかは、わからない。酩酊状態で意識が混濁していたために、触ってしまったということは、あり得ることだ。しかし、もしそうだったとしても、それは過失であり、故意ではない。痴漢というものの悪質性は、ひとえに故意であるということにかかっている。故意だから、女性も不快に思うのである。しかし、故意ではなく、本人の意志ではない過失だとしたら、女性も、そんなに不快には思わないだろう。し、咎めないだろう。だから二回目は、仮に、誤って触ってしまった事が事実だとしても、(法律的にはともかく)実質的、精神面的には植草氏には、全く罪は無いと私は思う。
さらに、一回目の事件で、非常に、むかつくことがある。それは、取調べにあたった警察官である。警察官は、「ともかく認めれば、一切、公表しない」と高圧的に氏にせまった。しかし、結果は世間に知られてしまって、氏は、職をすべて失ってしまった。人生を台無しにされた。警察官は約束を守らなかったではないか。そして、人の人生を台無しにしたではないか。その責任はないのか。法的には責任は無いんだ、他人の人生が台無しになろうと、どうでもかまやしないと居直っている警察官の態度にむかつくのである。確かに、法的には責任はないのかもしれない。しかし、人道的には、ウソをついて人の人生を台無しにして、ふんぞりかえっている警察の態度にむかつくのである。ほんまに警察はむかつくわ。一体、誰が食わせてやっているというんだ。
また手鏡に関しては、氏はテレビコメンテーターとして全国に顔が出るのだから、身だしなみや髪が乱れていないよう持つ方が当然であり、持っていない人の方が少ないだろう。
また、一回目の事件で、警察官は、「ともかく認めれば、一切、公表しない」と植草氏にせまった。氏のおとなしそうな性格からして、警察官に高圧的に迫られたら、やっていなくても、毅然と戦うより、認めてしまったという可能性は十分、あり得ることだ。
植草氏は、自分の場合は、政治的意図の国策捜査にはまったと思っているようだが、それは違うと思う。検察は政界とは全くつながりがない。検察は政治的に盲目である。検察は権力者=あやしい、と思って無作為に疑惑を持つだけで、検察は日本の政治を混乱させている。