テニスコーチのバカさ加減。テニスコーチは、生徒とラリーした後、二言、三言、技術のアドバイス、というか、注意をする。これは、バカの極北である。この世の中、すべて「生兵法は怪我のもと」であり、徹底的に、運動の理論を研究した人か、直観力が優れていて、物事の本質的なことが、わかる人なら、アドバイスしても、よかろう。しかし、やる気がなく、ろくに運動の上達理論を学びもしない人のアドバイスというか注意は、百害あって一利なし、なのである。バカなコーチの注意は無視することが大切なのである。そもそも、出来上がってしまった技の、モデルチェンジというのは、南郷継正氏によれば、「不可能」なのである。(私は、南郷氏の、モデルチェンジ不可能論には異議を持っているが)健康やアンチエイジングのため、運動している人にとっては、毎回、毎回、同じことを注意されたら、嫌になってしまうだろう。(運動は健康にいいのである。し、私は、個人的には、運動とは、生活、人生を充実させるための肉体の手入れという手段だと思っているのだが)健康や美容、アンチエイジングのためにテニスをしている人も多いだろうが、毎回、毎回、同じ技術的なことを注意され、それで、やめていく人も多い。これは、バカなコーチが、何か、生徒に、アドバイスしなけば、自分がコーチではないような気分になるから、しているのである。
それと、生徒が他の生徒に、ボールを当ててしまった時や怪我をさせてしまった時、コーチは、「謝って下さい」とデカい面で平気で言う。これも、全くおかしい。練習や試合中に、不可抗力のアクシデントが起こるのは、スポーツでは、当たり前のことである。そういうアクシデントは、誰の責任かというと、そこは、スクールが、入会の時、文章にせす、あやふやにしているが、入会金と月謝をとっているのだから、「レッスン中の怪我はスクールの責任」と、解釈するのが、妥当である。だから、レッスン中に、怪我が起ったら、生徒ではなく、スクールが、「申し訳ありません」と謝罪すべき、なのである。生徒は入会金を払っていて怪我やアクシデントの責任は、入会金によって担保されているのである。入会金は、怪我やアクシデントの保険料なのである。こんなことも、バカなコーチどもは、わからないのである。コーチには、テニスを指導する責任と、怪我やアクシデントが起こらないように、監督する責任の両方があるのである。しかしバカなコーチどもは、前者だけしか頭になく、後者は、頭にないのである。しかし本当に大切なのは、後者の責任の方なのである。小学校や中学校のスポーツ部の部長は、練習の時、生徒を監督、指導しているが、怪我が起らないように、ということを一番に考えている。それは、万一、怪我が起った時、監督義務を怠ったとして、生徒の親に訴えられるからである。技術の指導は二の次である。コーチの役割は、それで良く、また、それで、あるべきなのである。テニススクールでは、ここら辺がいい加減で、テニススクールの生徒は、学校の部活と違って、自分の意志で金を払って入って来たのだから、生徒に怪我やアクシデントの責任がある、というような感覚に陥ってしまっているのである。
球出しの練習も全く無意味であり、コーチの権威志向のもったいづけ、でしかない。球出しのボールは死んだボールであるから、それを打っても全く技術は向上しない。
ある二人が、二時間、レンタルコートを借りたら、何をするであろうか。それを考えてみれば、すぐわかる。二人でロングラリーをするか、試合をするか、である。二時間、金を払って、コートを借りて、球出しの練習をする人など、いやしない。そういう人がいたら教えて欲しい。ものである。
コーチは教える人間、先生であり、生徒は、先生に教わらなくては、技術が上達しない、とバカなコーチどもは思っているのであるが。コーチに教わらなくてトップアスリートになったスポーツ選手は無限にいる。かく言う私も、空手も水泳も誰にも教わっていない独学だが、技術のレベルはともに達人である。
コーチは技術至上主義で、人間として視野が狭くなっており、自分がテニスを出来るだけの、バカばかりである。
極真カラテでは、「練習中の怪我は全て自己責任であり、道場に対して一切の、不服申し立てをしません」、というような内容の文書にサインさせている。極めて、つめたいようだが、責任の所在を明確にしている、という点で、良いことである。しかし感情的には、冷たさを感じるのは当然である。テニススクールや他のスポーツクラブでは、無意識の感情論に落ちてしまっていて、そこら辺をいい加減にしているのである。人間として直視すべきものを直視していないのである。空手は、格闘スポーツであり、怪我が起りやすく、テニスは、格闘スポーツではないから、怪我は、起こりにくい、などというのは、全く理屈になっていない。どんなスポーツでも、怪我は起こりうるものである。こういう風に、物事をいい加減にする連中は何事も、いい加減なのである。テニスコーチは全て、いい加減人間なのである。
ある事を教える場合、たとえ、それが正しい事であっても、生徒の上達発展段階のある時点で、それを強要することによって、生徒が消化不良を起こすことは、よくあることであり、それを強要することは間違った教えなのである。
わかりやすく言えば・・・たとえば数学に於いて。相対性理論は真理である。しかし、小学生に相対性理論を教えることは間違った行為なのである。小学生には、足し算、引き算、掛け算、割り算、という概念から、教えなくてはならないのである。
それと、生徒が他の生徒に、ボールを当ててしまった時や怪我をさせてしまった時、コーチは、「謝って下さい」とデカい面で平気で言う。これも、全くおかしい。練習や試合中に、不可抗力のアクシデントが起こるのは、スポーツでは、当たり前のことである。そういうアクシデントは、誰の責任かというと、そこは、スクールが、入会の時、文章にせす、あやふやにしているが、入会金と月謝をとっているのだから、「レッスン中の怪我はスクールの責任」と、解釈するのが、妥当である。だから、レッスン中に、怪我が起ったら、生徒ではなく、スクールが、「申し訳ありません」と謝罪すべき、なのである。生徒は入会金を払っていて怪我やアクシデントの責任は、入会金によって担保されているのである。入会金は、怪我やアクシデントの保険料なのである。こんなことも、バカなコーチどもは、わからないのである。コーチには、テニスを指導する責任と、怪我やアクシデントが起こらないように、監督する責任の両方があるのである。しかしバカなコーチどもは、前者だけしか頭になく、後者は、頭にないのである。しかし本当に大切なのは、後者の責任の方なのである。小学校や中学校のスポーツ部の部長は、練習の時、生徒を監督、指導しているが、怪我が起らないように、ということを一番に考えている。それは、万一、怪我が起った時、監督義務を怠ったとして、生徒の親に訴えられるからである。技術の指導は二の次である。コーチの役割は、それで良く、また、それで、あるべきなのである。テニススクールでは、ここら辺がいい加減で、テニススクールの生徒は、学校の部活と違って、自分の意志で金を払って入って来たのだから、生徒に怪我やアクシデントの責任がある、というような感覚に陥ってしまっているのである。
球出しの練習も全く無意味であり、コーチの権威志向のもったいづけ、でしかない。球出しのボールは死んだボールであるから、それを打っても全く技術は向上しない。
ある二人が、二時間、レンタルコートを借りたら、何をするであろうか。それを考えてみれば、すぐわかる。二人でロングラリーをするか、試合をするか、である。二時間、金を払って、コートを借りて、球出しの練習をする人など、いやしない。そういう人がいたら教えて欲しい。ものである。
コーチは教える人間、先生であり、生徒は、先生に教わらなくては、技術が上達しない、とバカなコーチどもは思っているのであるが。コーチに教わらなくてトップアスリートになったスポーツ選手は無限にいる。かく言う私も、空手も水泳も誰にも教わっていない独学だが、技術のレベルはともに達人である。
コーチは技術至上主義で、人間として視野が狭くなっており、自分がテニスを出来るだけの、バカばかりである。
極真カラテでは、「練習中の怪我は全て自己責任であり、道場に対して一切の、不服申し立てをしません」、というような内容の文書にサインさせている。極めて、つめたいようだが、責任の所在を明確にしている、という点で、良いことである。しかし感情的には、冷たさを感じるのは当然である。テニススクールや他のスポーツクラブでは、無意識の感情論に落ちてしまっていて、そこら辺をいい加減にしているのである。人間として直視すべきものを直視していないのである。空手は、格闘スポーツであり、怪我が起りやすく、テニスは、格闘スポーツではないから、怪我は、起こりにくい、などというのは、全く理屈になっていない。どんなスポーツでも、怪我は起こりうるものである。こういう風に、物事をいい加減にする連中は何事も、いい加減なのである。テニスコーチは全て、いい加減人間なのである。
ある事を教える場合、たとえ、それが正しい事であっても、生徒の上達発展段階のある時点で、それを強要することによって、生徒が消化不良を起こすことは、よくあることであり、それを強要することは間違った教えなのである。
わかりやすく言えば・・・たとえば数学に於いて。相対性理論は真理である。しかし、小学生に相対性理論を教えることは間違った行為なのである。小学生には、足し算、引き算、掛け算、割り算、という概念から、教えなくてはならないのである。