三浦璃来(りく)さん。美しい。
ペアフィギィアスケーター。
男でも女でも単なるフィギアスケートは美しいとは思わない。
十年一日の同じ事、やってて、何が面白いのか?
見る方も。
さっぱりわからん。
しかし、ペアフィギィアは美しい。
しかし、あれは、スポーツであって、芸術ではない。
さて、ここで僕の芸術の定義。
芸術とは。
「再現性、保存性があることが必要で、芸術の表現者が、人間の喜怒哀楽の精神、心に訴えたいという衝動をもって作られた創作物」
と僕は定義できると思う。
だから、人間がいない、風景画も立派な芸術である。
単に、美しいものを芸術と定義してしまうと、美人や美人を撮った写真は全て芸術となってしまう。
これは、おかしい。
音楽、絵画、彫刻、小説、マンガ、写真、すべて芸術である。
では、お芝居は?ダンスは?舞踏は?
完全に同じ、芝居を再現することは出来ない。
しかし、芝居には脚本、があり、これは、再現性、保存性がある。
ダンスにしてもそう。
音楽にしても、楽譜は、完全な再現性、保存性がある。
では、ペアフィギィアは?
そもそも、演技者は美しくミスなく演じようと思っていても、自分たちを芸術の表現者とは思っていない。
人間の心(喜怒哀楽)に訴えたいとも思っていない。
観客にしても、喜怒哀楽は感じない。
それゆえ、ペアフィギィアはスポーツであって、芸術ではない。
芸術とは、芸術の創作者が、鑑賞者の心をゆすってやろうと意図して作った創作物である。
その意識がなく、結果として美しく見える物を芸術と定義してしまうと、街を歩いている美人や、それを撮った写真が全部、芸術となってしまう。
そもそも、わかりきったことだけれど、芸術とは、人間の喜怒哀楽に訴える創作物なのであるから、美しい物だけが芸術なのではなく、とことん醜い物、とことん汚い物、とことん悲しい物、吐き気を催す物、でも芸術作品なのである。
ペアフィギィアスケーター。
男でも女でも単なるフィギアスケートは美しいとは思わない。
十年一日の同じ事、やってて、何が面白いのか?
見る方も。
さっぱりわからん。
しかし、ペアフィギィアは美しい。
しかし、あれは、スポーツであって、芸術ではない。
さて、ここで僕の芸術の定義。
芸術とは。
「再現性、保存性があることが必要で、芸術の表現者が、人間の喜怒哀楽の精神、心に訴えたいという衝動をもって作られた創作物」
と僕は定義できると思う。
だから、人間がいない、風景画も立派な芸術である。
単に、美しいものを芸術と定義してしまうと、美人や美人を撮った写真は全て芸術となってしまう。
これは、おかしい。
音楽、絵画、彫刻、小説、マンガ、写真、すべて芸術である。
では、お芝居は?ダンスは?舞踏は?
完全に同じ、芝居を再現することは出来ない。
しかし、芝居には脚本、があり、これは、再現性、保存性がある。
ダンスにしてもそう。
音楽にしても、楽譜は、完全な再現性、保存性がある。
では、ペアフィギィアは?
そもそも、演技者は美しくミスなく演じようと思っていても、自分たちを芸術の表現者とは思っていない。
人間の心(喜怒哀楽)に訴えたいとも思っていない。
観客にしても、喜怒哀楽は感じない。
それゆえ、ペアフィギィアはスポーツであって、芸術ではない。
芸術とは、芸術の創作者が、鑑賞者の心をゆすってやろうと意図して作った創作物である。
その意識がなく、結果として美しく見える物を芸術と定義してしまうと、街を歩いている美人や、それを撮った写真が全部、芸術となってしまう。
そもそも、わかりきったことだけれど、芸術とは、人間の喜怒哀楽に訴える創作物なのであるから、美しい物だけが芸術なのではなく、とことん醜い物、とことん汚い物、とことん悲しい物、吐き気を催す物、でも芸術作品なのである。