小説家、精神科医、空手家、浅野浩二のブログ

小説家、精神科医、空手家の浅野浩二が小説、医療、病気、文学論、日常の雑感について書きます。

三浦璃来(りく)美しい

2021-12-31 06:10:46 | 武道・スポーツ
三浦璃来(りく)さん。美しい。

ペアフィギィアスケーター。

男でも女でも単なるフィギアスケートは美しいとは思わない。

十年一日の同じ事、やってて、何が面白いのか?

見る方も。

さっぱりわからん。

しかし、ペアフィギィアは美しい。

しかし、あれは、スポーツであって、芸術ではない。

さて、ここで僕の芸術の定義。

芸術とは。

「再現性、保存性があることが必要で、芸術の表現者が、人間の喜怒哀楽の精神、心に訴えたいという衝動をもって作られた創作物」

と僕は定義できると思う。

だから、人間がいない、風景画も立派な芸術である。

単に、美しいものを芸術と定義してしまうと、美人や美人を撮った写真は全て芸術となってしまう。

これは、おかしい。

音楽、絵画、彫刻、小説、マンガ、写真、すべて芸術である。

では、お芝居は?ダンスは?舞踏は?

完全に同じ、芝居を再現することは出来ない。

しかし、芝居には脚本、があり、これは、再現性、保存性がある。

ダンスにしてもそう。

音楽にしても、楽譜は、完全な再現性、保存性がある。

では、ペアフィギィアは?

そもそも、演技者は美しくミスなく演じようと思っていても、自分たちを芸術の表現者とは思っていない。

人間の心(喜怒哀楽)に訴えたいとも思っていない。

観客にしても、喜怒哀楽は感じない。

それゆえ、ペアフィギィアはスポーツであって、芸術ではない。

芸術とは、芸術の創作者が、鑑賞者の心をゆすってやろうと意図して作った創作物である。

その意識がなく、結果として美しく見える物を芸術と定義してしまうと、街を歩いている美人や、それを撮った写真が全部、芸術となってしまう。

そもそも、わかりきったことだけれど、芸術とは、人間の喜怒哀楽に訴える創作物なのであるから、美しい物だけが芸術なのではなく、とことん醜い物、とことん汚い物、とことん悲しい物、吐き気を催す物、でも芸術作品なのである。

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