小説家、精神科医、空手家、浅野浩二のブログ

小説家、精神科医、空手家の浅野浩二が小説、医療、病気、文学論、日常の雑感について書きます。

真夏の死・他10編 (小説)

2020-07-19 22:44:36 | 小説
真夏の死

「夏の豪華な真盛りの間には、われらはより深く死に動かされる」

(シャルル・ボードレール)

そこのビーチには、毎夏、老人がビーチに来てじっと座って、海水浴客を眺めていた。老人はいつも一人だった。
京子は海が好きで、夏は休日には毎回、そのビーチに行った。前回、来た時もそうだったが、今日も老人は一人で寂しそうに座っていた。ビーチにはサザンの曲がはでに流れていた。京子がチラと老人の方を見ると、老人はあわてて顔をそらした。自分を見ていたのだな、と思うと京子の心に朗らかな笑顔が起こった。京子はビキニの胸を揺らして老人の所に行った。
「あの。おじいさん。となりに座ってもいいでしょうか」
京子が笑顔で聞くと、老人は少し顔をそむけて顔を下に向けた。それは肯定の意味に見えた。京子は老人のとなりにチョコンと座った。相手がナンパ男なら、そんな話しかける勇気は持てなかった。だが老人という存在は安全だった。それが京子に行動を起こさせる勇気を与えたのである。京子は、老人は、妻に先立たれて、若い時、この海で二人で戯れた昔を懐かしんでいるのだと思った。京子は老人から、そんなロマンチックな思い出話を聞きたく思った。
「おじいさん。少しお話しませんか」
京子は老人に話しかけた。だが老人は黙っている。
「おじいさん。この海、昔と今とどうですか」
京子は黙っている老人に遠慮なく話しかけた。だが老人は黙っている。
「おじいさんの奥さんて、すごくきれいな人だっんでしょう」
「いや」
老人はサッと首を振った。老人が、はじめて答えたので京子は嬉しくなった。京子は、「いや」の意味が解らなかった。きれい、だと聞いたから、そうではないと謙遜か本当か否定したのだと思った。京子はつづけて聞いた。
「お孫さんはおいくつですか」
「いや。わしには誰もいない。わし一人きりだ」
「ごめんなさい。おじいさん。失礼なこと聞いちゃって」
京子はペコペコ頭を下げた。
「いいんじゃよ。気になさらんでくれ」
老人は手を振った。京子は老人がどういう境遇なのか知りたく思った。だが、あまり、知られたくない事があるに違いなく、根掘り葉掘り聞くのは失礼だと思って黙っていた。その京子の思いを察したかのように老人は口を開いた。
「恥ずかしいが、私の話を聞いてくださるかの」
老人の方から京子に話しかけたので、京子は嬉しくなって元気に、
「はい」
と答えた。老人は話し出した。
「わしは、結婚はおろか、恋人も一人も出来なかった。わしは生まれてからずっと孤独で、この海を見ていた。わしは、年甲斐もなく、あんたのような若いきれいな女の人を、見に来ているんじゃよ」
京子は、聞いて嬉しくなった。
「私に話しかけてくれたのは、あんたがはじめてじゃ。あんたのような、きれいな人に話しかけてもらって、わしはすごく嬉しいんじゃよ」
京子は、きれいと言われて一層、嬉しくなった。
「でも、あんたも、素敵な彼氏がいるんじゃろ」
老人は少し恨めしそうな口調で言った。
「ううん。いないわ」
京子は元気に答えた。
「おじいさん。私でよろしかったら、今日、付き合って下さいませんか」
京子は笑顔で老人に言った。
「ありがとう。あんたのような、きれいな人と夏の海を一緒に出来るなんて、わしゃ、幸せじゃよ」
老人は涙を浮かべていた。
「あん。おじいさん。泣かないで」
そう言って京子は老人の皺の寄った瞼の涙を瑞々しい手で拭った。
「おじいさん。何か、買ってくるわね」
京子は、海の家に走った。京子は焼き蕎麦、二包みとオレンジジュースを胸の前にかかえて、小走りに戻ってきた。
「焼き蕎麦にしちゃったけれど、よかったかしら」
「ああ。ありがとう。わしは引っ込み思案で、内気で、とても、一人で海の家に入る事なんか出来んよ」
「どうして」
「夏の海は若者のものじゃから、わしは余所者なんじゃよ」
「そんなことないわ。ともかく、冷めないうちに食べましょう」
そう言って京子は焼き蕎麦とオレンジジュースを老人に渡した。二人は焼き蕎麦を食べだした。
「ああ。わしは最高に幸せじゃよ。こんなきれいな人と一緒に夏の一時をすごせるなんて」
京子は、食べながら微笑した。食べおわると、京子は空になったパックと空き缶を持って行ってゴミ箱に捨てた。そしてすぐに戻ってきた。
「おじいさん。私のビーチシートに来てくださる?」
「ああ。ありがとう」
二人は立ち上がった。京子は老人の手を曳いてビーチシートへ行った。
京子はシートの上にペタンと座った。
「おじいさんも座って」
言われて老人も京子の横に座った。
「私、少し体、焼きたいんだけどいいかしら」
「ああ。いいとも。夏はうんと体を焼いて体を丈夫にしなされ」
老人に言われて京子はニコッと微笑してビーチシートの上にうつ伏せに寝た。
柔らかて弾力のある大きく盛り上った尻がピチピチのビキニでかろうじて覆われているだけで、しかも小さなビキニは尻にピッタリくっついているだけで、ほとんど裸同然だった。京子の体は美しかった。
スラリと伸びたしなやかな脚。細い華奢なつくりの腕と肩。細くくびれたウェスト。それとは対照的に太腿から尻には余剰と思われるほどたっぷりついている弾力のある柔らかい尻の肉。それらが全体として美しい女の肉体の稜線を形づくっていた。京子は、あたかも自分の肉体を自慢して、老人を挑発しているかのように、顔を反対側に向け気持ちよさそうに目を瞑っている。老人は間近に若い弾力のある瑞々しい肉体を見て思わずゴクリと唾を呑み込んだ。
「おじいさん。オイルを塗って下さらない」
京子が言った。ビーチシートの上には日焼け用オイルがあった。老人は遠慮しがちにそれをとった。
老人の目の前には華奢な背中とビキニに包まれた大きな尻とスラリと伸びた脚が横たわっている。
老人は興奮した。京子は無防備に目をつぶって裸同然の体を無防備に晒している。老人はゴクリと唾を呑んで美しい女の体の脚線美をしげしげと眺めた。
「い、いいのかね」
老人は緊張した口調で声を震わせて念を押すように聞いた。
「いいわ。好きなようにして」
「で、では。塗らせてもらうよ」
老人は京子の華奢な背中にオイルをたらし、ぬった。
京子は気持ちよさそうに老人に体を任せて目をつぶっている。
老人の手は興奮と緊張のためブルブル震えていた。
老人が背中にオイルをぬりおわった頃、京子は目をつぶって、うつむいたまま言った。
「おじいさん」
「な、なんじゃね」
「下もお願いします」
「い、いいのかね」
老人は念を押すように言った。
「いいわ。お願い。ぬって」
京子はねだるように言った。
老人は手を震わせながら京子の脹脛にオイルをぬった。
ぬりおわった頃、京子はまた、うつむいたまま言った。
「おじいさん」
「な、なんじゃね」
「あの。太腿とお尻もお願いします」
「い、いいのかね」
「いいの。お願い」
京子は、ねだるように言った。
老人は京子の太腿にオイルを垂らし、太腿にオイルをぬった。
柔らかい太腿が蒟蒻のように揺れて、老人の頭は興奮と酩酊で混乱していた。
ぬる度に、太腿の上のセクシーなビキニにつつまれた尻が蒟蒻のように揺れる。小さなビキニからは尻が半分、露出している。
老人がどのあたりまで塗るか迷っていると、京子が、もどかしそうに言った。
「おじいさん。中途半端じゃなく、くまなく塗って」
老人はドキンとした。隈なく、ということは、肌の出ている所は全部という事だ。老人はもう、混乱した頭で無我夢中で京子の太腿にオイルを塗った。オイルを塗る度に柔らかい太腿が揺れた。老人は、激しく興奮した。
太腿を塗りおえて老人は、半分近く露出している尻にも無我夢中でオイルを塗った。
柔らかく弾力のある大きな尻が揺れて、老人の興奮は絶頂に達した。
「ああ。柔らかい。温かい。若いってことは素晴らしく羨ましいことじゃな」
老人はとうとう本心を告白した。
京子は目をつぶったまま微笑した。
京子は何か、若さの優越感を感じて嬉しくなった。
京子は気持ちよさそうな顔つきで目をつぶっている。
老人はオイルを塗りおえて京子の体から手を離した。
「ありがとう。おじいさん」
京子はごく淡白な口調で言った。
「い、いや。わしの方こそ、礼を言わにゃならん。ありがとう。お嬢さん」
京子は、しばしうつむいたまま、背中を妬いた。
「おじいさん。今度は仰向けになるわ」
そう言って京子はクルリと体を反転させ仰向けになった。目はつぶったままである。京子の体はわずかなビキニで包まれただけで、裸同然である。女の部分はビキニがピッタリ貼り付いて、ビキニの弾力のため、そこは形よく整い、悩ましいふくらみが出来ている。その布一枚下には女の、見せてはならないものがある。それを思うと老人は狂おしい苦悩に悩まされた。胸はあたかも柔らかい果実を包んでいるかのようであった。京子は気持ちよさそうに太陽に身を任せている。
空には雲一つなく、青空の中で激しく照りつける真夏の太陽は京子の体をみるみる焼いた。
老人は京子が目をつぶっているのをいい事に、京子の体を網膜にしっかり焼きつけるように見つめた。
しばしして京子がムクッと起き上がった。
「あー。気持ちよかった」
京子は眠りから覚めたようにムクッと起き上がって大きく伸びをした。
「おじいさん。来週の日曜もまたここへ来る?」
「ああ。来るよ」
「私も来るわ。じゃあ、来週、また会いましょうね」
そう言って京子は老人と別れた。

  ☆  ☆  ☆

翌週の日曜になった。
老人がビーチに座っていると約束通りビキニ姿の京子が手を振りながら満面の笑顔でやってきた。
「お嬢さん。わしはモーターボートの免許があるんじゃが、よかったら、モーターボートに乗らんかね」
「わー。楽しそう。ぜひ、乗りたいわ」
老人はタクシーをひろって近くのマリーナに行った。そしてモーターボートを借りた。真夏の海をきって走るモーターボートは爽快だった。沖に出て、海の真っ只中で、一休みと言って、老人は止めた。
「わあー。きれいな海」
京子はわざと老人を挑発するように、小さなビキニに包まれた大きな尻をことさら突き出した。老人に、襲いかかられて、「あっ。いやっ」と、軽い抵抗をして、老人に襲われる事を期待していた。だが、どうも老人が襲いかかる気配は無い。突然、京子は両手を掴まれて、背中に捻り上げられた。
「あん。いやん」
京子は、老人が、京子が抵抗しないように縛るのだと思った。老人には女を襲う腕力がない。あるいは老人にはSM趣味もあるのかもしれない、と思った。縛られて裸に近いビキニ姿を見られ、触られる事を想像して、京子は激しく興奮した。可哀想な自分にナルシズムに浸れると思った。演技して涙を少し流そうかと思った。京子は、ああん、と軽い抵抗をして、後ろ手に手首を縛られた。老人は京子の体をひっくり返して自分に向けた。老人は京子の豊満な体を寂しそうに眺めている。触ろうともしない。京子は疑問に思って老人に聞いた。
「おじいさん。どうしたの」
だが老人は黙っている。
「私を触りたいために縛ったんでしょう?」
老人はそう言われても黙っている。
「ちがう」
老人ははじめて口を開いた。
「わしがあんたを縛ったのは、あんたを殺すためじゃ」
そう言って老人は縄を出した。
「わしはこれであんたを、絞め殺すんじゃ」
そう言って老人は京子の首に縄をまいた。
「なぜ。どうして私を殺すの」
京子は少しの恐れもない口調で言った。
「私を驚かそうというんでしょ」
「そう思うじゃろ。しかしわしは本気なんじゃ」
老人の口調には真実味があった。
「どうして私を殺すの。その理由を教えて」
「当然のことだが、わしはあんたより先に死ぬ。あんたは、わしが死んだ後も何十年も生きつづける。わしは人生で何の楽しい事も無かった。わしには、わしが生きたと自慢できる物が何も無い。何も無い人生を送ったことが、わしは口惜しい。わしは若者に嫉妬しているんじゃ。それなりに満足した人生を送った者ならば、安らかに死ねるだろう。しかし、それがわしにはない。わしの死んだ後も、花が咲き、日が昇り、人々が楽しく生き、地球が存在しつづける事が、とてつもなく口惜しいんじゃ。これでわかったじゃろ。だから、あんたを殺すんじゃ。そうすれば、わしは人生で少しは幸せになれる。あんたを殺した後、わしも死ぬ」
老人は厳かに語った。京子はじっと老人の顔を見つめた。そして、少し思案した後、意を決したように口を開いた。
「わかったわ。私を殺して」
そう言って京子は首を突き出した。
「わしは本当にあんたを殺すよ」
「いいわ」
「どうしてじゃね。命が、青春が惜しくはないのかね?」
京子は、ふふふ、と笑った。
「『夏に人は最も死に魅せられる』確か、ボードレールの言葉だったと思うけど、そんなのがあったわ。確かに夏を最も充実させるのは、死ぬことね。私も、老いていくより、今、若い時、今年の夏に死ぬのも、いいわ。どうせ日本経済はよくならないし、年金は保障されてないし、私は何の取り柄も無いフリーターだし、北朝鮮はノドンより性能のいい核ミサイルを開発して、それを日本に打ち込むだろうし、それに被爆して病院に入院する人生より、おじいさんに今、殺される方がロマンチックだわ」
「わしは本当に殺すよ」
老人は目を光らせて言った。
「いいわ。それより待って。携帯を持ってきて。私の意志で死ぬんだから、今の私の言葉を録音しておいて。もし万一、おじいさんが疑われて警察に捕まった時、罪が軽くなるでしょ」
その時だった。
老人は堰を切ったように涙をポロポロ流し出した。
「ごめんよ。すまんね。こんな優しい子をどうして殺せよう」
そう言いながら老人は京子を後ろ向きにして、手首の縄を解いた。老人はモーターボートを運転してマリーナに戻った。
「さあ。お嬢さん。わしを警察に突き出してくれ」
老人は後ろめたそうな顔つきで京子を見た。
「ふふふ。おじいさん。とてもスリリングで楽しかったわ。今年は私にとって最高の夏だわ」
老人の目には涙が浮かんでいた。
「わしにとっても最高の夏じゃった。気持ちの悪い思いをさせてしまって、すまなかったね。しかしわしは、この夏、精神的に確かにあんたと精神的に心中した。生きていて、本当に良かった。素晴らしい思い出をありがとう」
老人はさびしく踵を返そうとした。
「待って」
京子が呼び止めた。
「なんじゃね」
「また会って下さいますか」
老人はじっと京子のつぶらな瞳を見つめた。
「ありがとう。生きてて、わしゃ、本当によかったよ」
そう言って老人は京子の足元にひれ伏して泣いた。

  ☆  ☆  ☆

翌週の日曜日。
老人は、少しおどおどしながら、いつものようにビーチに座っていた。
その時。
「おじいさーん」
と満面の笑顔で京子が、ビキニの胸を揺らしながら老人の所に走ってきた。

平成21年4月24日(金)擱筆




祈りの日記

父と母は私が小学生の頃、離婚して、母は、離婚するや、すぐに、ある男の人と結婚しました。その男の人と母は、以前から付き合っていたのが離婚の理由の一つらしいのです。それ以外にも、色々な理由があるらしいのですが、私には分かりません。私は母親に引き取られました。
小学二年生の時、つらい事が起こりました。ある日の放課後、同級生の男の子達が、掃除当番で残っていた私をつかまえて、「服を脱げ」と言ってきたのです。私は、彼らが怖くて、逆らったら、いじめられそうに思って、仕方なく服を脱ぎました。下着も脱いで裸になった時には怖くて泣いてしまいました。男の子達は泣いている私の裸をしげしげと眺めました。「先生に言ったら仕返しするからな」と言って、男の子達は去って行きました。
元々、内気な性格のため、友達が出来なく、私はいつも一人でした。義父は、初め、私に優しくしてくれました。内気な私もだんだん、義父に心を開けるようになって、本当の、お義父さん、と思えるようになりました。私は義父を、「お父さん」と呼ぶようになりました。しかし二度目の悲しい事が、私が中学一年生の時に起こりました。ある晩、布団の中で、何かが私の体を触っているのに気づいて、私は目を覚ましました。布団の中で私を弄んでいる手に気づいて、私は目を覚ましました。義父だったのです。私は、「やめて」と言えない内気な性格で、また、その後、義父との仲が悪くなるのを怖れて、悲しい思いで黙っていました。義父は私の体をしばし弄んでから、そっと部屋を出て行きました。翌朝、義父は、私が気づいていないものだと思ったのでしょう、何ともない明るい表情で話しかけてきました。私はそれまで部屋に鍵をかけていませんでしたが、その日から、部屋に鍵をかけるようになりました。
・・・・・・・・・・
私は、人間、とくに男の人、というものが怖くなってしまいました。街を歩いていても男の人が不潔に見えて耐えられないほどになりました。どうにも人間の世界が怖くなって、ある時、私は教会に行ってみました。牧師先生は優しい性格の人でした。
礼拝の後、牧師先生に、私の悩みを話すと、牧師先生は私の話を黙って聞いて下さり、温かい言葉をかけてくれました。聖書が私の心の支えになりました。
・・・・・・・・・・
それ以来、私は日曜日には、かかさず教会に行くようになりました。私は毎晩、聖書を枕元に置いて寝るようになりました。
元々、友達との付き合いが苦手で、趣味もなく、やること、といえば勉強だけでした。テストでいい点をとると先生に誉められます。それが嬉しくて私は一心に勉強しました。そのため、成績は、どんどん上がっていきました。模擬試験では県下で一番の進学校に入れるほどの成績になりました。私も、今の学校で、生きる目的も見出せず、漫然と勉強しているより、というより、勉強しか取柄のない私ですから、本格的に勉強してみようと思い、高校は県下で一番の進学校を受験しました。そして無事、入ることが出来ました。幸い義父は私が高校へ入った年に、大阪に転勤になりました。
こうして高校での新しい学校生活が始まりました。最初のクラスの時間。入学した時の成績が一番の岡田弓男さんという人がクラス委員長になりました。
「岡田弓男君。君が入学試験で一番の成績だ。だから君がクラス委員長になってはどうかね」
先生が言うと、
「はい。わかりました」
と弓男さんは立ち上がって答えました。
私は弓男さんの優しそうな澄んだ瞳を見た時、思わず胸の高鳴りをおぼえました。こんな気持ちは生まれて初めてでした。なにか、弓男さんのような頼れる人が、お兄さんだったら、どんなに幸せだろうか、などと私は思いました。
上級生達に、さかんに色々なクラブの勧誘されました。でも私は、運動も苦手で、趣味もなく、中学でも部活には入っていませんでした。弓男さんは文芸部に入りました。文芸部には誰も入っていなかったため、弓男さんが一年生で文芸部の主将になりました。私は弓男さんと何かつながりを持ちたくて、文芸部に入りたいと思いましたが、恥ずかしくて、とても言えませんでした。
夜、寝巻きに着替えて床についてスタンドの明かりでしばし物思いに耽るのが子供の頃からの習慣でした。そして繰り返し読んだ好きな小説を読む事が程よい眠りへの誘いでした。しかし、この頃の私はそうではなくなりました。スタンドの明かりを消すと、徐々に、やがてくっきりとある輪郭がはっきりと現れてきます。それは優しくて、頼りがいのある弓男さんの笑顔です。
ある数学の授業の時です。先生が黒板に問題を書いて、今まで解けた者はいない難問と言って、誰か解る者はいないか、と言いましたが、誰も手を上げません。
「今までの知識の応用で、ちょっと考えれば解るぞ」
「弓男。どうだ。お前もわからないか」
先生に言われても弓男さんは黒板の前に行き、しばし考え込んでいました。
弓男さんは、ある解法で問題を解いていこうとしましたが、だめでした。その時です。弓男さんが途中まで書いた解法がヒントになって、きれいな正解をくっきりと、私は見つけました。私は知らぬうちに挙手していました。控えめで、問題が分かっていても挙手しない私ですが、そうしないではいられない、強い衝動に私は突き動かされていました。弓男さんにもわからない問題。それを自分だけがわかっている。それをそのままにしてしまう事が、どうしても出来ませんでした。
「ほほう」
と、先生の驚きのまなざしの中、私はつかつかと黒板の前へ行き、無言で解答を書き、何もなかったかのように机に戻りました。
「うん。正解だ」
先生は感心したように言いました。
・・・・・・・
文芸部では、いつも部室を開けて、貸し出しノートに記入すれば誰でも本を借りていいことになっていました。
ある時、私は弓男さんがいない時に、そっと文芸部の部室に行ってみました。本がたくさん書棚に収まっています。私は書棚のある本を一冊とってみました。つい文章がぐいぐいと私を引っ張って、私は夢中で項をめくっていました。のめりこむと言うのはこういうのを言うのでしょう。その時、急にドアが勢いよく開きました。弓男さんでした。私は文芸部員でもないのに部屋にいることに後ろめたさを感じ、そっと本を閉じました。彼は屈託のない表情で、私を一瞥しました。
「はは。君か。この前の数学は、驚いたよ。天狗の鼻をへし折られたよ」
私は真っ赤になって俯きました。弓男さんは椅子に座ると屈託の無いで言いました。
「君。部は」
「いえ。まだどこにも・・・」
「よかったら文芸部に入らない」
「で、でも・・・」
「でも、何だい」
「わ、私、小説なんて書けません」
私は文芸部に入ったら、小説のような作品を書かなくてはならず、私にはその才能が無い為、入りたくても入れないと思っていました。
「ははは。そんな固く考える事なんかないよ。エッセイでも評論でもいい。日記でもいい。自分の思っている事でいいんだ。部誌を作ろうと思うんだが、なかなか原稿が集まらなくてね。部に入るのがイヤなら、それでもいいけど、なんか書いてくれたら助かるよ」
困惑している私に彼は語を次ぎました。
「君。本を読むのは好き?」
「ええ」
「じゃあ、好きな作品の感想文でもいいよ。まあ、固く考えないで」
弓男さんは優しく言ってくれました。
「僕も今、作品を書こうと思っているんだけど、なかなか着想がわかなくてね」
そう言って彼は照れ笑いしました。
「はい。合鍵。部室には自由に入っていいから。読みたい本は自由に持ち出して読んで」
彼は私に部室の合鍵を渡してくれました。弓男さんの好意に甘えて、私は、読みかけの本を借りて部室を出ました。
・・・・・・・・・
私はだんだん足繁く文芸部の部室に通うようになりました。本を返しに行く時、私の心はもしかすると弓男さんに会えるかもしれない期待に踊っていました。
本を読んでいるうちに私も何か作品を書いてみたいと思うようになりました。私は、日曜の教会の風景を素直に書いてみました。書いているうちに気分が乗ってきて、ちょっと小説風の作品にして何度も手直ししてみました。自分でも満足できる小品が出来ました。弓男さんに見せると彼はそれを大変誉めてくれました。
・・・・・・・・・・
ある時、部室へ行くと、作品もそろったので、弓男さんが部誌作りをしているところでした。私は部誌のつくり方は全くわかりません。弓男さんは中学の時から文芸部で、本の編集や、本つくりの事を知っています。弓男さんは私を見ると、
「ちょうどよかった。手伝って」
と言って、私にやり方を教えてくれました。両面コピーされた原稿を二つに折って、端を糊つけしていきます。目次を見ると、私の作品が、最初にあります。私を立ててくれようという弓男さんの心使いが、嬉しくもありましたが、恥ずかしくもありました。こうして弓男さんと協力して一つのものを作っているということが言いようもなく嬉しく、次回も文集を作るときは、自分の作品が書けなくても、本つくりをぜひ手伝おうと思いました。
「君。日曜日には毎週、教会に行っているの?」
弓男さんが聞きました。
「ええ」
私は、小声で答えました。
「じゃあ、今週の日曜日に君の行っている教会に僕も行ってみよう」
私は何だか、恥ずかしくなって俯きました。
・・・・・・・
日曜日になりました。教会へ行くと弓男さんが来ていました。弓男さんは私の隣に座りました。なにか私が弓男さんを無理矢理、教会に誘ったような気がして、恥ずかしくて緊張しっぱなしでした。礼拝がおわると二人で近くの公園を少し歩きました。ベンチに座ると私は、何を話していいのかわからず緊張しました。私は迷いましたが、思い切って弓男さんに、つらい経験を話しました。弓男さんは黙って聞いてくれました。
それ以来、弓男さんは日曜日には教会に来るようになりました。
・・・・・・・・
ある日曜日の礼拝の後、弓男さんは私の手を引いて先導してくれました。路傍に咲く花を一輪とって私の髪を掻き揚げて、耳に挿してくれました。照れくさくて私は真っ赤になりました。私達は公園のベンチに腰掛けました。
「あの。サンドイッチを作って持ってきました」
私は、カバンからサンドイッチを取り出しました。
「ありがとう」
彼は微笑しました。
私はベンチの上にサンドイッチを置きました。彼はチーズとトマトのサンドイッチを取りました。私は極度に恥かしがり屋なため、食べるところを見られのが恥ずかしくて、自分の作ったサンドイッチを一つ、掴んだままどうする事も出来ずにしばしもてあましていました。それを察するかのように彼が二つ目のサンドイッチを取ったので、私は俯いて蚕のようにモソモソと食べました。サンドイッチを食べおわると彼は黙って私の手をとって芝に連れて行きました。公園には誰もいませんでした。
彼は私をそっと草の上に倒しました。私の心臓は激しくドキドキしてきました。彼はそっと私を抱擁しました。私はつとめて人形のようにされるがままに身を任せていました。彼は私の髪を優しく撫でながら、無言の微笑で私をじっと見詰めています。私は恥ずかしくて頬を赤らめて目を瞑りました。しばし、鼻腔に入ってくる草いきれだけの時間がたちました。そっと口唇に柔らかいものが触れているのを感じました。それはあまりにもかすかな接触でした。彼はそっと私の手をとって体を起こしました。そして軽く背中についた芝を払い落としてくれました。私は恥ずかしくて膝をキチンとそろえ正座しました。彼は片手で私の手をとって片手でそっと私の肩を引き寄せてくれました。私は、甘えるように彼にもたれかかれました。

平成22年11月17日(水)擱筆


浦島太郎

うらしまたろう・・・その物語、とくにタマテバコの解釈に多くの人が頭を悩ませている。しかし事実はこうなのである。この話は、決してザンコクな悲劇ではない。うらしま・・・が開けたタマテバコは「人生の意味」・・・と言ってよかろう。うらしまは、もちろん自分の人生を悔いた。
一般に語り伝えられている、この話では、あたかも、その後、うらしまが虚無的に静かに一生を終えたかのごときに人はイメージしてしまう。しかし、うらしまは、「人生の意味」の箱・・・を開けた後、もちろん自分の人生のセンタクを悔いに悔いた。数日、彼は自分の人生が何だったのか沈思黙考した後、意を決し、自分の人生を私小説に書き始めたのである。自分の失敗談から同じあやまちをしないでほしい・・・との老婆心から。それだけではない。彼は懐かしさから竜宮城や、そこで過ごした、楽しかった日々を当時の心にもどってコクメイに美しく描いた。そしてハキョクのおとずれた時の自分の苦悩をも・・・ツルゲーネフの「初恋」以上の迫真力で。彼の書いた小説が今伝わっている「うらしまさん」・・・である。うらしまは、書いているうちに涙が出てきた。いつの間にか、もうそこには、書いている自分の存在さえなかった。手だけが勝手に動いていた。しかし、書いているうちにうらしまの心の内には、なんと言おうか・・・そう、悲壮たるこうこつさ・・・とでもいうような感情が生まれはじめていた。彼はものに憑かれたかのごとく書いた。最後のほうでは、多量のビタミン剤を飲み、喀血しながら山崎という女性に助けられながら書いた。その一遍の小説を書き終えた時、彼は、「できた」と言って絶命したのである。その話は多くの教訓を含んでいた。
少年易老学難成。
一寸の光陰かろんずべからず。
明日におしえを聞かば、ゆうべに死すとも可なり。
人生は一行のボードレールにしかない。
男子たるもの女の甘言には決然とこれを断れ・・・等である。
乙姫は、実はうらしま・・・のような男と何度も楽しい時を過ごしているのである。彼うらしまは多くのに男の一人にすぎない。乙姫は、うらしまがタマテバコを開けることによって年をとらないのだが、彼女はそれで幸せなのか・・・といったらそうではない。乙姫がこのような奇矯なざれごとをしているのは実は海の神の命令なのである。はたして彼女は幸せか? ちがう。本当は彼女は一人、かけがえなく愛し合える男と一回の実人生を送りたい・・・と思っているのである。タマテバコをうらしまが三日あけなけば彼女の命は逆に絶たれてしまうのである。「あけないでくださいね」という彼女の目には切実な悲しみがこめられている。
ちなみにカメはどうしたか。カメも海の神の命令で演じている一匹の役者にすぎない。もちろんカメはイスカリオテのユダのように首をつったりしない。なぜ海の神がこのようなことをさせているのか。それはもちろんわからない。ただ聖書にはこう書いてある。
「主なる神を試みてはならない」





サルでもわかるパソコン

さてここで私はあることを説明しておかなくてはならない。それは、サルでもわかるパソコン・・・という表現である。もちろん、これはサルを見下した表現である。サルが頭が悪いものだと決め付けている。もちろんサルでもわかる、というくらいだからサルはパソコンがわかるのである。こうしてサル社会でもパソコンが普及して、ほとんどのサルはパソコンを使えるようになった。そうなるとパソコンを使えないサルは無能だとみなされるような風潮ができあがる。そこで数少ない、落ちこぼれサルのために、パソコンに詳しいサルが、イヌでもわかるパソコンという本を書き、これがベストセラーになる。そしてイヌでもわかる、というくらいだからイヌはパソコンがわかる。そしてイヌ社会で、落ちこぼれのイヌのためにネコでもわかるパソコンがベストセラーになり、ニワトリが人間にフライドチキンにされないようインターネットで情報交換しているのは言うまでもないだろう。最近よく言われるコンピューターウイルスというのは、もう言わなくてもわかるだろう。ネコが人間のいない間、目を光らせパソコンに向かい、静かなる革命を企てているのである。



織田信長

 わたくしがのぶながさまのことをかきたいと思いましたのは、のぶながさまの人生があまりにも一点のにごりもない美しい武士の生きざまだったからでございます。おおくのひとは、のぶながさまをきしょうのはげしい短気なひとだけたと思っているのではないでしょうか。天下をとろうとした多くの武将が、いかにねちっこく人をだまし人をしばり、みじめに生にしがみついた人であったのに対し、のぶながさまは、覚悟と知性をもたれた武士の中の武士でございました。のぶながさまは生死をわける出陣にさいし、人生五十年と敦盛の舞をまわれましたが、いったい戦の前に舞をまえるものがございましょうか。しかものぶながさまは四十九歳でなくなられたのですからまさに敦盛のことば通りの生涯をのぶながさまはおくられたのです。のぶながさまは何かにたよろうとしたことはなく、あのかたのうまれつきそなわった天賦のすぐれたご気質なのでございます。死に対するおそれをまぎらわそうとして舞ったのではなく、敦盛のことば通りのご気質がのぶながさまそのものなのでございます。おおくのひとはのぶなが様を、ころしてしまえほととぎす、などといいおとしめておりますが、はたしてそうでございましょうか。人を殺すということは自分が人殺しとなることでございます。こしぬけさむらいでは、人を殺しては、殺された者のうらみの声にうなされて、ねむれるものではございません。また多くの武将が、ねちねちと弱いものを支配し、くるしまぎれの口実をさがしては自分の敵を殺し、己をあくまでいつわりの正義のたちばにおこうとしたのに対し、あのかたはご自分をいつわらぬ竹をわったようなご気性なのでございます。多くの武将が、人は殺しても己の死をおそれるこしぬけざむらいであったのに対し、のぶなが様は自分の死をおそれぬ剛の方でございました。将軍、足利義昭さまの密勅により、全国の武将を敵にまわし、八方ふさがりになったおりも少しもおくする心がございませんでした。
今川との戦いでは、十倍の敵にいどむ、おそれを知らぬ勇気と知性と決断があったのでございます。そのように己の命を惜しまず、また増長満にもならないおかただったのでございます。のぶながさまはお生まれの時より、りりしい美しいお顔だちであられ、いかなることにも涙せぬ強い気性がございました。十五歳で元服なされた折も、すでに大人の武将に引けをとらぬ気骨がございました。美濃の斎藤道三との同盟関係をつくるためにご結婚なされた道三の娘さまの濃姫さまと、十五の時ご結婚なされましたが濃姫さまはのぶながさまにふさわしい美しくきりりとしたご気性のお方でございました。まさにのぶなが様の奥方になられるのにふさわしいお方で、お二人のおすがたはまさに美しい男女の図でございました。のぶなが様は生まれつきの硬派で、女にでれでれするようなお方ではなく、色事など毛頭もなく、頭にはいくさと天下のことしかございませんでした。そんなご気性に濃姫さまも、芯の強いお方で、男にあまえ、ほれることなどなさらない、プライドの強いお方でございましたから、そういうのぶながさまのごきしょうを言わず好いておられたのでございましょう。お二人は、あまえあい、でれでれしあう間柄ではなく、きびしく強いあいだがらとでもいいましょうか。のぶなが様がご出陣のとき、濃姫様につづみをうたせ、ご自分は敦盛を舞う図は実にうつくしい戦国の武将とその妻の図でございました。
のぶながさまは本能寺で明智光秀どのに討たれましたが濃姫様は光秀さまとは、いとこで、おさななじみであったのでございますので、存命を光秀さまになされば、生きれたでございましょうに、のぶながさまと命をともにしたのでございます。
父君がなくなられた折、のぶながさまが焼香の灰を位牌になげつけたことは有名でございますが、けっしてうつけなどではなく、のぶながさまの人生観とでももうしましょうか、死んでいったものをめそめそかなしもうとする感傷的なふんいきに嫌悪をお感じなされ、過去はふりかえらず、人間というものは、死ぬのはあたりまえのことであり、生きているあいだにせいいっぱい全力をつくして前向きに自分の人生を生きるべきだ、というお考えがそうさせたのでございましょう。父上の死をおかなしみにならないはずはございません。死後まで生にしがみつき、自分の子孫の繁栄を、考える武将のおおいのに対し、のぶながさまは、みれんがましさというものをもたなかったおかたでございます。のぶながさま自身、人々にみまもられ、おしまれ、かなしまれながら死にたいなどとお考えになされる気性では毛頭ございません。親鸞聖人は自分が死んだら、葬式はせず、骨は川に流せ、といいましたが、のぶながさまも同じお考えでございましょう。人間の死というものが何であるかを誰よりも真剣に考えたのはのぶながさまでございます。
多くの武将が自分が天下をとりたいという我執にしがみついているのに対し、のぶながさまは乱世を治め、天下を統一するのが自分がこの世でなすべきこととお考えなされたお方でございます。関所をとりのぞき、楽市をひらき、古いしきたりを廃し、たえず新しいすぐれたものに目を向けておられました。むしろ我にたいする執着がなく、いつわりの善をきらい、自分を特別視せず、死ぬべきときには死ぬ覚悟をもっておられたお方でした。
のぶながさまのため数知れぬ無辜の血がながされたことはまちがいございません。しかし思いますに、ずるがしこく、残酷な人間というものを不信になって、嫌悪していたところがあるように思われます。わたくしがもし殺された人々のひとりでありましたのなら、それによって国がおさまるものならば、いつわりのないない心のかたに殺されるのであれば、さほど惜しい命ではございません。しかし、ひとをいじめ殺すことをたのしみ、ことばたくみに人をだまし、己を義とする、いつわりの心の者に殺されることは、うらみのきもちは死んでもはてることなくつづくでございましょう。ちょうど人がヘビを嫌悪するように、のぶながさまは人の心のヘビをきらっていたともいえましょう。ヘビに生まれたのならば殺されるのが宿命と思いきれます。これはわたくし個人の感じ方でありますので、それをもって人が人をあやめてもいいなどという道理はけっしてありません。同盟関係にあった美濃の斎藤道三が危機におちいいったとき、なんの打算もなく、救おうと兵を出し、人間不信に凝り固まっていた孤独な道三に人の情に涙させたのはのぶなが様ただひとりでございましょう。のぶながさまはなにか人であって人でないような近寄りがたい、澄んだ心のお方でした。あの方は恥知らずなことはしなかったお方でした。多くの人を殺しましたが、自分の命もおしまぬ、のぶながさまの一生は筋がとおっております。男らしく、弱さというものをもたぬ、休むことを知らぬ、いつも前向きに全力で、一瞬、一瞬を生ききった、すい星のように、こつぜんとあらわれ、若いガキ大将のような心のまま、人の生きることのなんたるかをするどくみつめ、語らずその手本となり、敦盛のことば通り、この世を幻の世と見ながら、幻の世を現実にせいいっぱい生き、幻のごとくこの世から去っていった不思議なお方でした。さわやかないちじんの風、つかのまのしずくのしたたりの輝きにふと気づいたときなど、わたくしには戦場でいさましく馬を馳せていたのぶなが様の勇壮なお姿が一瞬ありありと思い起こされるのでございます。のぶなが様の思い出は尽きることがありませんが、今回はこのくらいにして、またの機会にお話いたしましょう。



ネクラ

 ある小学校のことです。もちろんそこは元気な子供達でいっぱいです。図画の時間に先生が、「今週と来週は、いじめをなくそう、というテーマでみんな自分の思うところをポスターにしなさい」とおっしゃられました。そしてみんなの作品を来週、発表します、とつけ加えました。みんなはよろこんで画用紙にそれぞれの思いを込めて絵をかきました。
 さて、いっきょに二週間がたって、(小説家というずるい人間は時計の針の先に手をかけてクルクルクルッと時間を早まわししてしまうのです)ポスターが署名入りではりだされました。みんなが手をつないで笑っている絵、中には地球のまわりに、肌の色の違う子供達が手をつないでほほえんでいる絵もありました。そしてその標語には「みんな、なかよく」「差別だめ!!」・・・と明るく、そしてキビシくかいてありました。みんな絵のうまい作品をかいた子をうらやましがったり、ほめたりしていました。
 しかし、彼らの視線が、とある一つのポスターに集中した時、それまでつづいていた笑い声がピタリととまりました。そして、それと入れかわるように、険悪な感情が教室をみたしました。そのポスターはなんと、みんなで一人の弱い子をいじめている絵でした。そしてその標語に「暗いやつをいじめよう」と書かれてあります。色調も暗いもらでした。そして、その署名をみた時、彼らはいっせいにふり返り、にくしみをもった目で一人の子をみました。その子(久男、といいます)は無口でクラスになじめず、いっつもポツンと一人ぼっちでいるのでした。他の子は彼の心がわからず、今までは、はれもののように、さわらずにいました。しかし、それからがたいへんでした。その子がしずかにカバンをもって教室を出ると、とたんにディスカッションがはじまりました。
「とんでもないやつだ」
「何考えてるか、わかんないやつで、あわれんでやってたが、やっぱり悪いこと考えてるやつだったんだ」
その時、教室のうしろの戸がガラリと開いて×××という元気な子が入ってきました。その子が「何があったの」ときくと、みんながポスターのことを話しました。その子はポスターをみると「うへっ。なんでこんなこと書くの?」と、すっとんきょうな声をはりあげました。
 それからというものがたいへんでした。みんなは彼を公然といじめるようになりました。そのいじめ方は筆舌につくせぬものであり、またそれを全部書いていては、この物語はとてもおわりそうにありません。
 ある空気の澄んだ秋の日のことです。授業が終わって久男がとぼとぼと一人で歩いていると同じクラスの易という子が近づいてきました。彼は頭がよく、また、本を読んだり、作文を書いたりするのが好きでした。彼の瞳には他の子とちがった子供に不似合いな輝きがありました。易は聞きました。
「ねえ。君。何であんなことかいたの?」
その口調には、わからないものに対する無垢な好奇心がこもっていました。久男は伏せていた目を上げ、あたたかい調子で言いました。
「みんながどう反応するか知りたくてさ」
易はおもわず深い嘆息をもらしまいた。
「すごいな。君は。でも教えてくれ。君の予想はあたったのかい?」
久男の顔には、あかるさ、があらわれだしました。
「うん。予想通りだ」
易はまた深いうなずきの声をだしました。
「でも、そんなことしたら、君、生きにくくなるじゃないか」
久男は空をみあげて、はれがましい調子で言いました。
「わかってるさ。でも僕はもう命があんまりないんだ。それに・・・」
 と言って易の方にふりむきました。
「それに・・・ぼくは、将来、君が僕のことを小説に書いてくれることを確信しているんだ。なにものこらないで死ぬより、君の小説の中で生きていたい。ぼくの考えは、ずるいかい?」
易はあきれた顔で久男をみました。
「まいったな。君には。書かないわけにはいかないじゃないか」
久男はすぐに言葉を返しました。
「でも印税は君に入るじゃないか」
易はおもわず歯をこぼして笑いました。校門をでて、二人は別れました。易は快活にあいさつの言葉を言いました。久男はそれに無言の会釈で答えました。
 易は数歩あるいた後、ピタリと足をとめ、いけない、と思いながらも西部劇の決闘のようにふり返りました。罪悪感が一瞬、易の脳裏をかすめましたが、より大きな使命感、義務感、がその行為を是認しました。でも久男はふり返っていませんでした。トボトボと夕日の方へ歩いていました。でもそのかげの中には、さびしさのうちに小さな幸せがあるようにみえました。

   ☆   ☆   ☆

 翌日、みんながいつものように学校に元気にきました。でも、久男はいませんでした。でも、それに気づいた生徒はいませんでした。先生が教室に入ってきたので、みんな元気に立ち上がりました。その時、急に強い風をともなった雨が降ってきて、それは教室のうしろの開いていた窓に入ってきました。その雨粒は窓側に貼ってあった最優秀のポスターの絵にはりつきました。それがちょうど絵の中の笑顔の子供の目についたので、その笑顔はまるで泣いているようにも見えました。


信心深い銀行強盗

ある所に、信心深い、銀行強盗、が、いました。
男は、キリスト教を信仰していましたが、非常に信仰心が強く、若い頃、洗礼を受け、クリスチャンとなっていました。
大人になっても、男は、強い信仰心を持ち続け、日曜日には、かかさず、教会に行っていました。
そして、三度の食事の前には、必ず、「主の祈り」、をしていました。
男の信仰心は、それはそれは、強く、聖書を完全に暗記していました。
男の仕事は銀行強盗でした。
明日は、犯行の決行の日でした。
男は、手を組み、神に祈りました。
「神さま。どうか、明日の銀行強盗が成功しますように。アーメン」
翌日の銀行強盗は、成功しました。
幸運なことに、その日、ちょうと、隣りの街で、別の銀行強盗が起こって、犯人は犯行に成功して、逃亡して、警察官が、ほとんど駆り出されていたので、警察官の人数が、手薄、になっていたので、逃亡に成功したのです。
それでも、一台、パトカーが、逃亡する、彼の車を追いかけてきました。
男は、猛スピードで逃げました。
ちょうど、先に踏み切り、が、見えてきました。
電車が、近づいてきて、カンカンカン、と、音が鳴り、踏切りの、遮断機が、降り始めました。
男は、猛スピードで、降り始めている、遮断機を、突破しました。
しかし、追跡していたパトカーが、踏切り、の手前に来た時には、遮断機は、完全に降りてしまっていたので、パトカーの警察官は、「チッ」、と、舌打ちしましたが、止まるしかありませんでした。
こうして、男は、パトカーを振り切って、逃亡することに、成功しました。
男は、その夜、祈りました。
「神さま。銀行強盗を成功させて下さりまして、有難うございます。アーメン」
しかし、銀行員の証言から、そして、防犯カメラの映像から、彼の容貌が、犯人に似ている、と、警察に通報されました。
それで、男は、参考人として、警察に呼ばれました。
男は、前の晩、神に祈りました。
「神さま。どうか、私をお守りください。アーメン」
翌日、男は、警察官の取り調べ、を、受けました。
警察官は、眉を寄せながら、男を見ました。
「あなたは、どういう人が、ということを、近所の人に聞きました。みな、あなたは、礼儀正しく、日曜には、かかさず、教会に行く、と言って、とても、銀行強盗をするような、人間ではない、との発言ばかりだ」
そして警察官は続けて言いました。
「しかし、人が良くて、教会に行っているからといって、犯罪を犯さない、とは、言いきれない。教会に行くことによって、周りの人に、善人を装っている、可能性もあるからな。そこでだ。お前が、本当に、クリスチャンだというのなら、聖書を暗唱してみろ」
警察官は、聖書を開いて、聖書のあらゆるヵ所を、ランダムに、男に聞きました。
「マタイ伝3章24節を言ってみろ」
「ヨハネ伝4章21節を言ってみろ」
「コロサイ書3章11節を言ってみろ」
「イザヤ書5章31節を言ってみろ」
男は、それに、全て、正確に答えました。
警察官は、うーん、と唸りました。
「嫌疑不十分」
ということで、男は、釈放されました。
その晩、男は神に祈りました。
「神さま。私を守って下さって、有難うございます。アーメン」
こうして男は、銀行強盗を続けました。
犯行は、はれずに、男は、80歳まで、長生きし、家族に見守られながら、安らかに死んでいきました。

平成30年5月3日(木)擱筆


真剣士H

 あるキビしい試験前だったから、私はほとんど新聞もテレビもみる、読む、時間がなかったので、H名人という存在も七冠王という、こともピンとこなかった。私は将棋はルールを知ってて、ヘボ将棋で負けることくらいならできる。小学校の頃は少し、ヘボ将棋を友達と楽しんだ。そして橋本首相から総理大臣賞、だったかな、をうけとり、橋本首相と握手して、今総理は、住専問題でクタクタである。H名人に、何かいい手はないかね。ときいて、H名人が、将棋のことならわかりますが、政治のことはわかりません。と言った、と新聞にのってて、いかにも世人をよろこばせそうな答えであり、又、世間も彼の答えにこの上ない、安心感を、感じるのだが、あれは本心ではなかろう。彼ほどの電光石火のような思考力の人間なら、誰よりも深く世間もよめるはずだ。能ある鷹は爪を隠しているだけにすぎない。将棋小説の、真剣士、小池重明が大ヒットしたが、私には真剣士よりもプロの高段者の方がもっと真剣勝負を生きているように見える。というのはアウトローである真剣士は負けても恥にも黒星にもならなく、強気で勝負できるが、プロの高段者にとっては負けは命とりで、プロ棋士というのは耐えず命のかかった極度の緊張の綱渡りをしているように門外漢の私には見えるからだ。彼は若いのに、羽織袴に扇子をもった姿がファシネイティング。
彼がきれいな女優さんと結婚することになった。とても有名な人らしい。私はテレビをあんまりみないから、よく知らない。でも、その結婚を妨害するような電話が多くあったらしい。彼女のファンかな。よく知らない。私はこれで小説がつくれると思った。
 披露宴がおわった後、H名人は言う。
「僕、将棋のことしかわからないんです。」
彼女は、微笑んで、
「私、ドラマの演技のことしかわからないんです。」
H名人、子供っぽく笑う。
彼女、「でも私たちって、とても相性があうような気がします。」
芸能人は世俗の垢にまみれて生きてきた分、社会を知っている。役者が一枚上である。
彼女、いたずらっけがおこって、
「あなたが王座からおちたら、私、浮気しちゃおうかなー。」
と独り言のように言う。この時、H名人は、「エエーそんなー。」とはいわないのである。彼はコチコチに緊張してしまって、
「ハ、ハイ。いつまでも王座でいられるよう、ガンバリます。」
と言う。彼女はくすくす笑って、
「ジョーダンよ。ジョーダン。ジョーダンもわからないんだから。しかたない人ね。まったく先が思いやられる…・。」
「えっ。先が思いやられるってどういうことなんです?」
「いや、いいのよ。何でもないのよ。一人言よ。一人言。深よみは将棋だけにしといて。」
そう言えば、H名人は、橋本首相に、泰然自若と書いた色紙をあげたというように記憶している。人は自分のもっていないものを銘とするから、泰然自若を銘とする人は、気がちいさい。
H名人、「あんまり、いじわるいわないでください。」
という。面持ちに影がさす。いれかわるように、彼女はうれしくなる。彼女は聞いた。
「あなたは将棋について、どう思っているのですか。強い人がでてくるのがこわいのですか。あなたの将棋観を教えて下さい。」
「僕はつよい人と勝負することが好きなんです。そして、勝負している時は、もう負けたくない、とか、何としてでも勝たねば、なんて感情はありません。もう自分というものがなくなってしまってるんです。ただただ、相手の指した一手に対し、それに対する最も有効な手は何か、ということが、意志と無関係に瞬時に頭に入ってきます。一手一手が無限の勝負です。だから勝ってもそれほどうれしくないです。気がついたらいつのまにか七冠王になっていたんです。」
「あなたは絶対だれにもまけないわ。あなたなら一生日本一だわ。」
彼女は語気を強めて言った。
「どうしてそんなことがわかるんですか。強い人はこれからもでてくるでしょう。」
彼女はそれには答えず、少しさびしそうに、うつむいて、
「くやしいけど、私も勝てないわ。」
と、つけ加えた。






野田イクゼ

駅のポスターに医歯薬系の予備校「野田イクゼ」のポスターを時々見かける。その予備校出身者で国立の医学部に入り、今は某科の医者になっている30半ばの白衣のドクター姿の写真がある。何人か別の人の写真があったが、みな何か元気がなさそう。彼らがむなしさを感じるのはきわめて当然のことである。
医者なんて、なんら知性的な仕事ではなく毎日、毎日、おんなじことの繰り返し。封建制の医局の中から死ぬまで抜け出せない農奴である。領主は主任教授である。夜逃げでもしたら死罪である。毎日、ヘトヘトに疲れて、帰りに焼き鳥屋のおやじにあたる。
「おう。おやじ。医者なんてのはなー。これほど惨めな職業はねーんだぞ。わかるか。わかるめえ。息子を医者にしようなんて間違っても思うなよ」
と言うと、焼き鳥屋のおやじは首をかしげつつ、
「そんなもんですかねえ。私には大先生様に見えますが・・・。でも先生がそう言うんですからきっとそうなんでしょう」
「おう。おやじ。わかってくれたか。」
と言って野田先生はビールをがぶ飲みし、焼き鳥をやけ食いするのであった。するとおやじは、
「先生。あんまり飲みすぎるとよくないんじゃないんでしょうか」
と忠告するが、
「べらんめえ。そんなセリフはオレが毎日言っていることだ。この程度じゃアルコール性肝障害にゃあならん。オレはもう焼き鳥食って鳥にでもなっちまいたいくらいだぜ」
と、おやじにあたり、勘定を払って、千鳥足で家路に向かうのであった。
彼の家は二駅離れのところにあるマンションだった。彼は同期で麻酔科の医局に入った女医と卒後二年で結婚した。彼女は当然のことながら専業主婦になった。
ドンドンドン。
「おう。帰ったぞ。」
「お帰りなさい。あなた。また飲んできたのね。あんまり飲むと体に・・・」
彼女の忠告をよそに野田先生は、またビールを飲んだ。
「お前は侵奇で子供もできないし。生きてても教授のいいようにされるだけだし・・・生きてても酒飲むことくらいしか楽しみなんかねーじゃねえか」
野田先生は彼女に訴えるように言う。彼女もしょんぼりしている。
「お前は何のために生きているんだ」
と捨て鉢に聞くが、彼女は答えない。彼はつづけて言った。
「おう。野田イクゼのポスター、みんなから評判悪いぜ。疲れた表情してるって。オレんとこへポスターの依頼があった時、お前が勧めるもんだから、出たが、体裁悪いじゃんか。イクゼの入学希望者も減っちまうぞ。何だってオレを勧めたんだ」
と言って、グオーとそのまま寝てしまった。

   ☆   ☆   ☆

翌日になった。日曜だった。彼は昼ごろ、目をこすりながら起きてきた。食卓に着くと、そこには彼女のつくった目玉焼きとトーストと温かいミルクがあった。二人は向き合って黙って食べた。野田先生は彼女をチラと見た。そして心の中で、彼女が何のために生きているのか、また、疑問に思った。食べ終わると彼女は彼に言った。
「野田イクゼのポスターね。私の生きがいね」
と言って彼女は立ち上がり、窓に手をかけた。その口調には信仰者の持つ晴れがましさがこもっていた。
「私、思うの。きっとあのポスターをみて、私たちのことを小さな小説にしてくれる人がいると思うの。もしそうなったら、私たち、その小説の中で永遠に生きられると思うの」
彼女の頬は上気し、目は美しく輝いていた。新緑の風が少しばかり彼女の髪を乱していた。






夏の一日

 智子は男勝りな女の子である。クラスメートに青木という男の子がいた。内気で弱々しい子だった。いつも何かにおびえているような弱々しい目をしていた。智子はよく青木にいろいろな難クセをつけ、からかい、いじめた。気持ちがスッとするのである。
 もうすぐ夏休みになるというある日曜日のこと、智子は縁側に出て日向ぼっこをしていた。するとヒラヒラと一羽のきれいなアゲハ蝶がやってきて智子の目の前の芝生にとまった。智子はそっとそれに近づいてアゲハを捕まえた。アゲハはジタバタしながら必死になってもがいている。それを見て智子の心にちょっと意地悪な気持ちがおこって智子は笑った。智子はアゲハを庭の木に張ってあった大きなクモの巣にくっつけた。アゲハはジタバタさかんにもがいている。もがけばもがくほど羽は糸にからみついた。
「ふふふ」
智子はそれを見て笑った。
(早くクモが出てこないかしら)
智子はしばらくの間、もがくアゲハを、ちょうど古代ローマの暴帝のような気持ちで眺めていた。だけどクモがなかなか出てこないので智子はつまらなくなって家に入った。
 自分の部屋に入った智子は本箱からコミックを数冊とりだしてパラパラッとめくった。
 夏の日差しが強い午後だった。
 智子はいつしか、うとうととまどろみかけていた。

   ☆   ☆   ☆

 どのくらいの時間が経ったことであろう。胸の息苦しさで智子は目覚めさせられた。
「あつい!」
智子は下を見下ろした。足は宙に浮いている。そして、その下では積み上げられた薪につけられた火が激しく燃えさかっている。炎はメラメラと火の粉を上げて智子の足を焼かんばかりに燃えさかっている。
 智子は上を見上げた。太い木の枝につながれた一本の太い縄が智子の背後に向かって垂れ下がっている。智子は自分が後ろ手に縛られて宙吊りにされていることに気がついた。
「あつい!」
智子は泣いて叫んだ。
まわりを見ると一面の樹林である。その向こうにはエメラルドグリーンの海があり、その水平線のあたりは日の光を反射して美しく光り輝いている。どうやらここは南海の孤島らしい。自分は火あぶりにされているのだ。智子はそれに気がついた。智子は再び下を見下ろした。すると火のまわりではイースター島のモアイのような顔をしたこの島の原住民と思われる者達が何やら叫びながら輪になって踊っている。いけにえの儀式らしい。
 そして彼らの輪の外に一人、腕を組んで薄ら笑いを浮かべている男の子がいた。よく見るとそれはいつもいじめていた青木だった。どうやら青木が彼らに命令しているらしい。
「ああ、青木君。あついわ。やめて。火を消して」
だが青木は智子の言葉など聞く様子も泣くニヤニヤ笑ってじっと智子をながめている。
「どうしてこんなことをするの?」
智子は熱さに身を捩りながら言った。
「どうしてだって。ふふふ。そんなこと自分の胸に聞いてみろ」
「私があなたをいじめたから、その仕返しなのね。あやまるわ。ゴメンなさい」
だが青木は黙ったまま智子をじっと見つめているだけだった。
「ゴメンなさい。ゴメンなさい」
智子の目からは大粒の涙がとめどなく流れつづけた。
空には雲一つなく、その中で一点、南国の太陽だけが火のように照りつけた。

   ☆   ☆   ☆

「わあー」
智子は目を覚ました。全身が汗ぐっしょりだった。大きく呼吸を整えているうちに、だんだん心も落ち着いてきた。
 智子はさっきのアゲハ蝶のことが気になって庭に出た。クモは昼寝しているのかアゲハはまだ無事だった。アゲハはもがきつくして、もう観念したのか、ぐったりとうなだれていた。
智子はクモの巣を壊してアゲハをとり、庭においた。
智子は自分がとても悪いことをしてしまったことを後悔した。
明日、青木に会ったらあやまろうと思った。




転校生

 ある学校のことです。その学校に一人の転校生が来ました。壇上で先生が、皆に彼女を紹介すると、彼女は小さな声で、「香取美奈子です。よろしく」と挨拶しました。彼女の瞳には不可思議な神秘的な輝きがありました。彼女の体からは、何か見えない光が放たれているかと思われるほど、彼女には何か強い存在感がありました。彼女はおとなしそうに席につきました。彼女は時々、教室の窓から空を見ていました。彼女は自分からは友達をつくろうとしないので、いつも一人でいました。彼女は控え目な性格でしたが、先生が難しい質問を出して誰も答えられないと、美奈子がそっと手を上げて正解を答えました。どの科のどんなに難しい質問でも彼女は正解を答えられました。
彼女の隣の席の生徒が彼女に、わからないところを質問しました。
「どうしてそんなに勉強がわかるの?」
美奈子は微笑して、
「私は魔法使いだから」
と言いました。それがクラスにひろがって、彼女は魔法使い、とうわさされるようになりました。中間テストで彼女は学校で一番の成績でした。でも昼休みも彼女は空をじっと見ているだけで、ガリ勉、というのでもありません。それまで、学内ではいつもトップだった秀才の田代よりずっと高い成績でした。田代は生まれついての秀才の自負によって、勉強だけは誰にも負けない自信がありました。彼は口惜しくって仕方がありません。田代は家でも学校でも、誰にも負けないくらい一生懸命勉強していましたし、結果として事実、彼は学内で一番でした。田代は香取がどうも気になりだしました。もちろん、それまで学科の成績ではクラス一、だという自負が、彼女に負けたことの口惜しさ、ではありましたが、もう一つ、どうして彼女は勉強しないのに自分よりよく出来るのか、という疑問からです。彼女が自分のことを魔法使いだ、などという事を、はじめは笑っていましたが、事実、彼女はろくに勉強している様子もないのに、学内で一番の成績なのです。ある時、田代は彼女に、
「放課後、話したいことがあるから、のこっててくれ」
と言いました。さて、その日の放課後のことです。もうみんな帰ってしまって誰もいない教室に田代が行くと、彼女が一人、ポツンと自分の席に座っています。彼女は田代に黙って顔を向けて、静かな微笑で田代を見ました。
「なあに。田代君。用って?」
何か霊波のようなものを発しているような感覚を田代は彼女から感じました。田代は宇宙人だの、魔法使いだのといったものは毛嫌いして毛頭信じていなかったので、彼女が自分のことを魔法使いだ、などということが許せませんでした。田代は彼女の前に座ると、彼女に怒鳴るように、
「やい。おまえは自分のことを魔法使いだ、などと言うが、それなら本当に魔法を見せてみろ」
と言いました。すると彼女は微笑んで、
「なら私の魔法を見せましょう。でも私の魔法をみるためには少し、私の指示に従ってくれなくては出来ません」
田代は彼女の言う魔法のインチキさを証明したくて仕様がなかったので、何でも指示に従う、と言いました。すると彼女は微笑んで、立ち上がって田代の前に立ちました。彼女は田代に正しい姿勢で座るように言いました。田代がそうすると、彼女は満足したように、今度は目をつぶって、体を動かさないでじっとしているように言いました。田代は目をつぶりました。彼女は田代に、
「あなたを鳥でも魚でも何でも好きなものにしてみせましょう。何になりたいですか?」
と聞きました。田代はつくづくばかばかしいと思ったので、
「何でも君の好きなものにしてくれ」
と言いました。目をつぶってじっとしていると彼女が肩に手をかけてきました。触れているだけなのに、だんだんとその力が強くなっていくような気がしてきました。そしてついに全身が強い力で押さえつけられているような感覚になってしまいました。気づくと田代は、「右手がひざから離れなくなる」という彼女の声だけが聞こえました。彼女は何度もその言葉を繰り返します。すると田代は、自分の右手がだんだんと、そしてついに石のように重く硬くなってしまっているのを感じました。離そうとしても、どうしても離れません。彼女は同様に左手にも同じようなことを言いました。すると、左手も同じように動かなくなってしまいました。そしてついに、「体が石になる」という彼女の暗示の言葉で、彼は自分の体がまったく動かせない状態になってしまいました。いくらあせっても、体がまったく動きません。
彼女は、夜、寝床に入る時とか、春の昼、うつらうつらと居眠りしている時、というように具体的な状況を言います。すると本当にその場面が見えてきます。それから彼女は、哀しい場面やうれしい場面・・・などと言うと彼は、その場面を見て、心から感じて本当に哀しくなって泣いたり、うれしくなって笑ったりしました。彼女が田代に鳥になって大空を上昇気流に乗って飛んでいることを彼に言うと、彼は、鳥になって上昇気流に乗って飛んでいる自分に気づきました。校庭でひとり鳥となって飛んでいるのを彼女がじっと見ているのです。
「ああ。彼女がいつもじっと空を見ていたのはこうなった俺を見ていたのだ」
クラスではみんなが授業を受けています。でも自分はもう鳥となって空を舞うしかないのです。
「こんなのはいやだ。僕は人間に戻りたい」
でも彼女は田代を微笑んでじっと見ているのです。田代は教室の窓から鳥となって空を舞っている自分を見ている彼女に心から、人間に戻れるよう哀願しました。すると彼女は、
「一、二、三」
と言って手を強く打ちました。誰もいない教室に彼女が前でひとり微笑んでいます。田代はくたくたに疲れていました。ただ自分が人間に戻れたことに何より安心を感じました。
「どう。鳥になれたでしょ」
「やっぱり君は魔法使いだ」
田代は逃げるように教室を去りました。それからも彼女は相変わらず、物静かな生徒で、時々、教室の窓から空を見ています。田代は彼女に頭が上がらなくなりました。彼女は本当に魔法使いなのかもしれません。

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