小説家、精神科医、空手家、浅野浩二のブログ

小説家、精神科医、空手家の浅野浩二が小説、医療、病気、文学論、日常の雑感について書きます。

小児科医 (上)(小説)

2020-03-15 22:41:49 | 小説
「小児科医」
という小説を書きました。
ホームページ、浅野浩二のHP目次その2
に、アップしましたので、よろしかったら、ご覧ください。
(原稿用紙換算147枚)
小児科医
岡田由美子さんの父親は、大阪市内で、内科医院を開業している。
彼女は、江戸時代から、代々、続いている、医者の家系である。
岡田さんは、物心ついた時から、岡田医院に来る患者を診て、そして白衣姿で、患者を診療する父親を見て、育った。
「由美子は、将来、何になりたい?」
と、小学校に入った時、父親に、聞かれたが、由美子は、即座に、
「私。お父さんと、同じ、お医者さん、になりたい」
と、苺ケーキを、頬張りながら答えた。
由美子は、性格が素直、で、優しかった。
そして、優しく、医者の仕事に、熱心な父親を尊敬していた。
なので、由美子が、そう思うのは、無理もないことだった。
小学校の時の、国語の授業で、「将来の夢」、と、題する作文を、書かされた時も、由美子は、「私は、将来、父と同じように、医者になりたいです」と、書いた。
由美子の父親も、将来は、由美子に、医者になって、岡田医院を継いで欲しいと思っていたので、父親にとっても、嬉しかった。
子供の時の、由美子の目には、医者、以外の、歌手とか、女優とか、スチュワーデスとか、は、全く、関心がなかった。
優しい父親で、親身に、病人を診療している、父親の姿を、身近に見れば、医者とは、素晴らしい仕事、と思うのは、無理もないかもしれない。
優しい、温かい、両親に、見守られて、由美子は、すくすくと、育っていった。
親に勧められて、塾にも通った。
医学部は偏差値が高く、医学部に入るには、しっかり、勉強しなれば、入れない。
なので、由美子は、真面目な性格から、精一杯、勉強した。
由美子は、記憶力が、並外れた、超秀才、というわけではなかったが、性格が真面目だったので、親に言われずとも、勉強し、成績は、クラスの中でも、上位だった。
しかし。
由美子は、ガリ便なだけではなく、明るく、友達も多く、友達とも、よく遊んだ。
こうして、由美子は、すくすくと、健全に育っていった。
由美子には、反抗期というものが、起こらなかった。
父親が、趣味で、テニスをしていたので、由美子も、幼い時から、父親と同じ、テニススクールに入って、テニスを、やった。
休日には、テニススクールの、コートを借りて、父親と、テニスをした。
学校でも、部活では、テニス部に入った。
県の大会でも、シングルスで、上位に入った。
母親と、ヨーロッパに海外旅行にも行った。
由美子は、ドイツの伝統的な家並みの美しさ、や、地中海の、美しさが、一目で、好きになった。
そうして、由美子は、小学校、中学校、と、上位の成績で、過ごした。
高校は、北野高校に入った。
北野高校は、関西では、進学校で、偏差値が高い。
由美子は、そこでも、成績優秀だった。
高校も、三年になると、由美子も、大学受験を意識して、本格的に、受験勉強に打ち込んだ。
駿台予備校の模擬試験の成績から、由美子は、十分、国立の医学部に、入れる偏差値に入っていた。
由美子は、大阪大学医学部を、第一志望として、頑張って勉強した。
由美子の父親が大阪大学医学部出だったからである。
由美子の父親も、由美子が、阪大医学部に入ってくれることを、希望していた。
父親は娘に、それを直接に言ったわけではないが、由美子は、父の希望を、感じとっていた。
大阪大学の医学部なら、家から、通うことも出来る。
それで、夜遅くまで、一生懸命に勉強した。
一日、13時間、は勉強した。
そして、由美子は、大学受験で、大阪大学医学部を受験した。
由美子は、両親が、好きだったので、自分のプライドの、ため、というより、父親の喜ぶ顔を見たいため、大阪大学の医学部、を受験したのである。
手ごたえはあった。
しかし、残念なことに、合格者の掲示板に、由美子の受験番号は、なかった。
駿台予備校の模擬試験での成績も、大阪大学医学部は、ギリギリ、合格の可能性アリ、の判定だった。
賭けだった。
それで、仕方なく、第二志望で、合格した、奈良県立医科大学に入学した。
そもそも、受験生は、浪人して、もう一度、第一志望の大学を受験したからといって、入学できる保証は、ないのである。
大体、受験勉強というものは、現役の時に、学力が、ピークに達して、もう一年間、浪人して、勉強したからといって、学力は、ほとんど、上がらないのである。
ましてや、由美子は、真面目なので、阪大医学部に入るため、毎日、夜遅くまで、精一杯、頑張って、勉強した、ので、自分の、学力の限界を感じていた。
奈良県立医科大学は、阪大医学部に比べると、偏差値的に、楽勝だった。
そもそも、日本の国立医学部では、東大医学部、京大医学部、阪大医学部、の順で、日本で、三番目の難関校である。
奈良県立医科大学は、公立大学である。
公立の医学部というのは、県の税金で、運営されているので、国立とは、ちょっと違う所がある。
大学としては、卒業したら、当然、奈良県内にある、大学の関連病院で、働いて欲しいと思っている。
大学の関連病院は、何も、奈良県の中だけに、あるのではなく、近畿地方、や、中国地方にもある。
これは、公立医学部に限らず、どこの大学医学部でも、そうであり、自分の大学医学部の、縄張り、というか、テリトリー、というか、勢力を広げたい、と思っているのである。
なので、公立医学部は、入試においても、住所が奈良県だと、住所が別の県の受験生より、有利であると、本にも、書かれてあり、医者同士の会話でも、そういう会話がなされていて、これは、半ば常識のように、思われている。
大学としては、そういう差は、決して、つけてはいない、とは、言っているものの、はたして、実際のところは、どうなのかは、わからない。
奈良県立医科大学の入試は、センター試験と、二次試験の、二つの、合計点で、決める。
面接や小論文は無い。
なので、得点が、ほとんど、同じ受験生なら、やはり、大学としては、住所が奈良県の受験生の方を、合格させたい、という感情が、働きかねないだろう。
誰しも、地元、故郷愛というものは、あるものであり、卒業したら、地元で、働きたい、という思いはあるものである。
公立大学医学部は、県の税金で成り立っているので、大学としては、その県に住所のある受験生が、有利と言われている。
そのため、どうしても、ある公立大学医学部に入りたい、と思っている受験生は、受験前に、住所をその県に移して、受験する人も、いるのである。
そして、その県に住所を移して、受験したら、合格した、という、ケースもあるのである。
しかし、由美子は、大阪大学医学部に、入れるほどの、学力があったので、奈良県立医科大学は、余裕で合格できた。
大学としては、優秀な人材が欲しいから、圧倒的に、学力の差が上であれば、住所が何処、などということは、意味がないのである。
ともかく、奈良県立医科大学に合格できたので、お祝い、というか、残念会、というかで、親子三人で、高級フランス・レストランに行った。
「由美子。阪大医学部に入れなくて残念だったな」
と、父親が言った。
「お父さん。ごめんなさい。阪大医学部に入れなくて」
と、由美子が言った。
「いや。試験は、水物だからな。オレだって、余裕で、阪大医学部に入れたわけじゃないんだ」
と、父親が言った。
「奈良県立医科大学を卒業したら、阪大医学部の医局に、入れば、いいじゃないの」
と、母親が言った。
「はい。そうしようと思います」
と、由美子は、小さく言った。
大学を卒業したら、その大学医学部の、医局に入らなくてはならない、という義務はないのである。
別の大学医学部の医局に入局することは、本人の自由なのである。
出身校と、医局が違う医者は、結構、いるものなのである。
出身校が、ダメと、引きとどめる権限はないし、入局を希望している、大学の医局、や教授が、認めれば、医局は、別の大学医学部に入っても構わないのである。
母校でない、別の大学医学部の医局に、入局を申し込んでも、まず、入れる。
断る理由がない。
どの科でも、入局者が、少なかったら、医局としても、困るので、他の大学からの、入局希望者は、大歓迎なのである。
「ともかく、阪大医学部に入れなかったから、といって、くさっちゃ駄目だぞ」
と、父親が言った。
「はい」
と、由美子は、返事したが、これは、不要な忠告だった。
由美子は、真面目で、どんな集団に入っても、一生懸命、精一杯、努力する性格だったからである。
こうして、由美子は、奈良県立医科大学のある近くにある、橿原市内の、マンションに引っ越すことになった。
家賃5万の、わりと広いマンションだった。
親と離れて、一人暮らし出来る、という点は、さびしくもあったが、初めて経験する一人暮らしの喜びもあった。
由美子は、今まで、一度も、一人暮らし、を、したことがなかった。
しかし、アパートの窓から、外を見ても、田んぼ、ばかりで、大阪のような、賑やかさはなく、少しさびしかった。
奈良県立医科大学は、終戦の昭和20年の4月に、軍医速成のために、奈良医専として設立された。
大学は、略して、奈良医大と呼ばれる。
近鉄八木駅を最寄駅とし、奈良盆地の南東部に位置し、畝傍山・天香具山・耳成山の大和三山に囲まれていて、藤原氏、蘇我氏、聖徳太子、などの活躍した、古の飛鳥時代の歴史の町である。
しかし、歴史の散策のため、観光として行くのなら、いいが、盆地特有の内陸性の気候であり、夏は暑く、冬は寒い。
ともかく、さびしい所である。
由美子は、入学式の前に、大学に行ってみた。
単科大学であるために、キャンパスもなく、大学の建物も、隣接する、附属病院も、大阪大学に比べると、規模が小さく、旧くて、さびしそうだった。
入学式の日になった。
父親も母親も、仕事が忙しく、入学式には、来なかった。
由美子は、初めて、グレーのスーツを着て、出席した。
今まで、学校の制服で、スーツなんて、着たことがなかったので、何だか、急に、大人になった、ような気がした。
講堂で、国歌を斉唱し、新入生の名前が、一人ずつ、読み上げられ、学長による式辞が行われ、あらかじめ配られたパンフレットを見ながら、校歌を斉唱した。
新入生は、100人で、女子は、30人だった。
その後、新入生は、二台のバスに乗って、石舞台古墳と、飛鳥寺を見てから、大きな広間で、昼食となった。
昼食の時、一人ずつ、名前が呼ばれて、簡単な自己紹介をした。
由美子は、
「岡田由美子と言います。北野高校から来ました」
とだけ、挨拶した。
大体、みんな、名前と、出身校を言うくらいだった。
奈良県の進学校である、東大寺学園とか、畝傍高校出身の生徒が多かった。
あとは、大阪の、進学校出身者が多かった。
北野高校出身は、由美子一人だけだった。
昼食と、自己紹介が終わると、また、バスに乗って、大学にもどった。
そして、学生・職員食堂に、一列に並んで、座らされた。
食堂には、100人くらい、上級生たちが、ズラリと並んでいた。
目の前には、食べ放題の、御馳走が並んでいた。
現役は、18歳だから、まだ、酒は、法的に、飲めないはずなのに、酒も用意されていた。
ここでも、また、一人一人、皆の前で、自己紹介をさせられた。
ただ、司会の上級生の、「入りたい部活を言って下さい」、というのが、つけ加わった。
昼間の時の、自己紹介と、同じように、みな、名前と、出身高校と、そして、入りたい部活、を述べた。
「入りたい部活」を、述べると、先輩たちが、「おおー」と、大きな声を出した。
要するに、部活への、勧誘だった。
由美子は、
「部活は、何に入るかは、まだ決めていません」
と、穏当な発言をした。
由美子の前に、そういう発言をする生徒も、少なからず、いたからである。
「高校の時はテニス部でした」、などと、安易に、言ってしまうと、その後、テニス部の、先輩たちから、モルモン教への入信勧誘、以上の、しつこさで、勧誘される、というか、つきまとわれる、からである。
まあ、しかし、それも無理はない、といえば無理はない。
大学は、総合大学ではなく、単科大学で、医学部しかなく、一クラス、100人である。
その割には、クラブの数が多い。
体育会系では。
野球部。サッカー部。ラグビー部。硬式テニス部。軟式テニス部。スキー部。水泳部。相撲部。バスケットボール部。バレーボール部。卓球部。柔道部。剣道部。弓道部。空手部。合気道部。自動車部。バトミントン部。ヨット部。陸上部。ゴルフ部。二輪部。ハンドボール部。
文科系のクラブでは。
軽音楽部。アンサンブル部。ギター部。写真部。社会医学研究部。茶道部。聖書研究会。文学部。
である。
大学の部活の予算は限られている。
部員が少ないと、人数の少ない部活の、予算配分も、少なくなる。
たとえば、野球部で、部員が、一人になってしまったら、たった、一人の部員のために、ユニフォーム、から、グローブ、ボール、バット、まで、用意するわけには、いかない。
そもそも、一人では、野球の練習も試合も、出来ない。
部内で、試合をするためには、最低18人は、いてくれなくてはならない。
剣道部だったら、剣道の、面から、防具、袴、竹刀、を、用意しなければならない。
しかし、剣道は、部員が、二人いれば、二人で、練習も、試合も、出来る。
そこが、野球部と、違う所である。
ともかく、部活の入部者が、一人もいなくなったら、当然のこちながら、廃部となってしまう。
なので、部活の勧誘は、部活の死活問題なのである。
そういうことを、総合的に判断して、限られた予算が配分されるのである。
なので、ともかく、どの、クラブも、部員の獲得に必死なのである。
新入生は、受験勉強で、頭を酷使しつづけてきているので、そうなると、体を動かしたくなるのである。
また、医学部の勉強は、膨大な医学の知識の、詰め込み勉強なので、上級生も、やはり、体を動かしたくなり、体育会系の、クラブの方が、人数的に、圧倒的に多いのである。
部員が一人もいなくなってしまったら、廃部となってしまう運命となる。
そんなことで、上級生の、部活の勧誘は、すさまじいのである。
由美子は、いささか、騒々しさに、ついていけず、途中で、退席して、アパートに帰った。
そんなことで、入学式の一日は、終わった。
由美子は、いささか、疲れて、ベッドに、ゴロンと横になった。
教養課程の、授業が始まった。
大きな教室の中で、当然のごとく、男は、男で、まとまり、女は、女で、まとまって座った。
教養課程の、1年の授業は。
哲学。統計学。物理学。化学。生物学。数学。英語。ドイツ語。体育。人類学。美学。法学。心理学。歴史学。
だった。
大学の授業は、高校の授業と違って、アカデミッシェ・フィアテル、と言って、教授、や、講師、は、時間通りには、来なくても、よく、始業時間より、15分、遅れて来てもいいのらしい。
このことの、何が、アカデミック、なのか、由美子は、さっぱり、わからなかったが、日本は、明治維新で、ドイツから、文化、を、そっくり、そのまま、輸入して、真似したので、単に、ドイツの大学が、そうしていた、というだけのことである。
医学部の、一学年は、大体、100人で、教室は、100人、入れる、大きな教室だった。
日本人は、シャイなので、ほっておくと、男子は、男子同士、女子は、女子同士、と、まとまった。
大学は、高校と違って、自分の席というのが無い。
どこへ、座っても、いいのである。
しかし、教授から、質問されるのを、おそれてか、あるいは、内職をするためにか、あるいは、友達とお喋りするためか、で、生徒は、あまり、前には、座りたがらない。
しかし、英語、の授業、では、あいうえお順に、教室の、左前から、指定の席に、座らされた。
なぜか、大学は、英語に力を入れていて、あいうえお順に、4人が、1グループとなって、英語の、リーダーを、翻訳してきて、発表する、という、授業形態をとっていた。
しかし、大学生は、中学校3年間、と、高校3年間、合計、6年間、英語を勉強してきているので、英語の授業は、新鮮なものでは、なかった。
それに、大学の、英語の、リーダー、は、大学受験の、英文解釈の英文と、くらべて、より難解な文、というわけでは、全くなかった。
なので、退屈な授業だった。
どこの医学部でも、最初の、2年間の教養課程は、医学と関係の無い、学問である。
医師として、医学知識だけではなく、幅広い教養を身につけて、人間性を涵養する、という建て前、では、あるが、そもそも、多くの、科目の授業は、教授、や、講師、が、早口で、まくしたてるだけで、つまらないもの、が多かった。
4人の、英語の授業の、グループ、で、岡田由美子は、岡本恵子、という、女生徒と一緒になった。
彼女は、由美子に、聞いてきた。
「ねえ。岡田由美子さん。あなたは、どのクラブに入るの?」
「まだ、決まっていません」
「ふーん。そうなの。でも、どこかの部活には、入っておいた方が、絶対、いいわよ」
「それは、どうしてですか?」
「大学の試験なんて、教授は、毎年、同じ問題しか、出さないからよ。過去問題と、その答え、が、ないと、どんなに、勉強しても、授業にちゃんと出ても、単位は、取れないわよ。クラブに入っておけば、先輩から、過去問題を、もらえるし、進級に関する、色々な情報が、聞けるから、すごく、有利なのよ」
「そうなんですか」
「ええ。そうよ。私。テニス部に入ったの。あなたも、よかったら、入らない?」
由美子は、瞬時に、この人は、上級生から、頼まれて、部活の勧誘をしているのだと、思った。
その日の、放課後、由美子は、岡本恵子に誘われて、テニス部の部室に行った。
テニス部員は、男10人、女10人、くらいだった。
「こんにちはー」
由美子が、挨拶した。
「君。テニス部に入ってくれるの?」
上級生の部員が聞いた。
「い、いえ。まだ、決めていなくて」
由美子は、言葉を濁した。
「なんだ。岡田由美子じゃないか。何を迷う必要がある?」
一人が、言った。
彼は、二年生で、今宮高校卒で、五十嵐健二、といい、高校時代、県の高校のテニス対抗試合で、北野高校のテニス部で活躍していた、岡田由美子の試合を、何回か、見て、知っていた。
彼は、二年生だが、テニス部の主将だった。
もちろん、五十嵐健二、も、今宮高校の、テニス部員で、相当な腕前だった。
「由美子は、県の、高校テニス大会で、優勝したこともあるよ」
と、五十嵐健二、が言った。
「ええー。そうなの?」
みなが、驚いた。
「じゃあ、ちょっと、打ち合い、してみない?一度、君とテニスをしてみたかったんだ」
と、五十嵐健二、が誘った。
由美子は、「嫌です」、とは、言えず、仕方なく、コートに行った。
「じゃあ、いくよー」
と、言って、五十嵐健二、は、由美子と、ラリーを始めた。
初めは、ゆっくり、遊びの感覚だったが、由美子は、フォームが、きれいで、基本が、しっかり出来ているので、五十嵐健二の打つボールは、すべて、返した。
五十嵐健二は、だんだん、本気になっていって、全力で、速い、ショットを打つように、なっていった。
しかし、由美子は、それを、全て、返した。
由美子も、だんだん、本気になっていって、全力で、速い、ショットを打つように、なっていった。
五十嵐健二も、由美子も、強いドライブ回転が、かかっているので、ボールが、ワンバウンドした後、グーン、と、伸びるのである。
由美子は、両手打ち、の、バックハンド、だったが、五十嵐健二は、片手打ちの、バックハンドだった。
五十嵐健二と、由美子の、テニスの実力は、ほとんど、同じくらいだった。
ともに、上級者のレベルだった。
「由美子さん。すごーい。上手いね」
と、みなが、驚いた。
「い、いえ・・・」
とは、言いつつも、由美子は、褒められて、恥ずかしがっていた。
「西医体の時は、由美子に出てもらおう。今年は、結構、優勝できるかもしれない」
と、テニス部主将の五十嵐健二、が言った。
西医体、とは、医学部だけの、リーグ戦で、西日本の、医学部の運動部の部活、が、リーグ戦で、戦う、試合である。
関東では、東医体、と言って、東日本の、医学部の、部活、が、リーグ戦で、戦う、試合である。
由美子としては、テニスが、好きだったので、大学に入っても、テニスをしようとは、思っていた。
しかし、由美子は、色々と、拘束のある、大学のテニス部、ではなく、テニススクールに入って、やりたい、と、思っていたのである。
しかし、ともかく、こうなってしまった以上、由美子は、テニス部に、入らざるを得なくなってしまった。
その日、テニス部員、が、ファミリーレストラン、で、由美子の、入部歓迎会を行った。
歓迎会が終わって、帰りは、五十嵐健二が、車で、由美子を、家まで、送った。
「テニス部、に、強引に誘ってしまって、ゴメンね」
と、五十嵐健二が謝った。
「い、いえ」
と、由美子は、手を振った。
五十嵐健二は、ちゃんと、由美子の気持ち、を、わかっている、思いやりのある人だと、思った。
そんな、五十嵐健二に、由美子は、好感を持った。
「由美子さん。よろしかったら、つきあって頂けないでしょうか?」
五十嵐健二、は、真剣な口調で言った。
「ええ」
由美子は、頬を赤くして、答えた。
そういうわけで、五十嵐健二、と、由美子は、単に、同じ、テニス部の、部員、というだけでなく、時々、一緒に、喫茶店で、話したり、食事を一緒にするように、なった。
3回目の、デートの時。
「由美子さん。もしも、よろしかったら、将来、僕と結婚していただけないでしょうか?」
と、五十嵐健二、は、由美子に、告白した。
「え、ええ。でも、私たち、まだ、学生ですし、卒業して、医者になってから、にしませんか?」
と、由美子は、言った。
実を言うと、由美子も、将来は、五十嵐健二、との、結婚を考えていたのである。
「ええ。構いませんよ」
と、五十嵐健二、は、言った。
「では、それまでは、恋人、ということで、時たま、会ってくれませんか?」
と、五十嵐健二、は、言った。
「ええ」
それ依頼、二人は、セックスレスの、清潔な、付き合い、を、学業に、差し障り、が、ない程度に、ほどほどに、した。
教養課程の授業は、概して、つまらなかった。
英語なんて、大学受験のために、勉強した、原仙作の、「英標」より、レベルが低かった。
1年で学ぶ科目は。
哲学。統計学。物理学。化学。生物学。数学。英語。ドイツ語。体育。人類学。美学。法学。心理学。歴史学。
である。
物理学。化学。数学。人類学。法学。統計学、などは、短い二年間で、大学というアカデミズムの権威の、もったいづけ、のために、レベルが高く、難解で、しかも、講師が、学生の理解など、どこ吹く風と、早口でまくしたてるだけで、さっぱり、わからなかった。
しかし、部活の友達から聞いた、過去問題の解答を、わからないまま、そのまま、書けばいいとのことなので、そうすることにした。
物理学。化学。数学、は、高校の、それの延長ではなかった。
高校の勉強は、中学の勉強の延長であり、中学の勉強は、小学校の勉強の延長である。
しかし、大学は、いやしくも、「学問」、なので、高校の勉強の延長ではなく、レベルが高かった。
わかって、面白いものといえば、ドイツ語、と、哲学、くらいだった。
中学生から、英語しか外国語を学んでいないので、新しく学ぶ、第二外国語は面白かった。
哲学は、カントとか、ヘーゲルとかの、いわゆる、西洋の、難解な、体系的哲学ではなく、奈良医大の哲学教授の書いた、「医の哲学」、という、本が教科書で、医学、医療に関する、様々な、考察であって、読んで、かなり、わかるもので、面白かった。
医学に対して真面目な、由美子にとっては、とても勉強になった。
初めの頃は、授業に出ていた、学生たちも、過去問題を丸暗記すれば、通って、単位が取れる、と、わかると、どんどん、授業に出なくなっていった。
授業に出席する人数は、最初は、100人だったのが、50人、から、20人、そして、ついに10人へと、どんどん、減っていった。
そこは、一般の大学と同じで、大学生は、授業に出ないで、アルバイトや部活の友達とのお喋りに励み、単位は、友達から借りたノートと、過去問題の、一夜漬けの勉強で、通る、という構造が、医学部でも、教養課程では、同じだった。
そして、みんな、自動車教習所に通って、運転免許を取得していった。
由美子は、本当に授業に出なくても、大丈夫なのだろうかと、思って、五十嵐健二、に聞いてみたが、五十嵐健二、は、「ははは」、と笑って、
「教授の心理を考えてみなよ。教授としては、生徒に、絶対に、理解しておいて欲しい、要点というものが、あるから、結局、それしか、出さないのさ。重要でない、枝葉末節な、ことを、試験問題として、出題する気にはなれないものさ」
と、軽くいなされた。
由美子は、そんなものか、と、思うと同時に、「なるほど」、とも、思った。
しかし、由美子は、真面目だったので、全ての授業に出た。
そして、由美子は、優しかったので、出席する生徒が、数人しかいなくて、教室が、ガランとしていると、講義している講師が、可哀想に思えて、そういう理由でも、出席した。
教養課程で一番、重要な科目は、生物学で、これを落としたら、基礎医学の三年に進級できない、らしかった。
医学部で、生物学が重要なのは、言われずとも、わかる。
あと、レベルは、低くて、つまらなかったが、英語も、学校側では、重要と考えているらしかった。
そういう、重要な科目や、出席を厳しくとる科目では、全員が出席した。
一年生から二年生へは、どんなに成績が悪くても、全員、進級できる。
一年の夏休みが、終わった後の、中間試験と、冬の期末試験は、あるが、一年の時、単位を落としても、二年の、中間試験と、冬の期末試験で、追試験をやるので、その時、単位を取れれば、三年には進級できるのである。
一年の時の、生物学の、中間試験は、TCA回路を、完璧に書いて説明する、というのが、教授が毎年、出している、問題で、今年もやはり、その通りの問題が出た。
「TCA回路について説明せよ」
という、問題だった。
なので、由美子は、過去問題の解答をそのまま、書いた。
数日後に、生物学の、成績が教室に貼り出された。
由美子は、100点だった。
なので、由美子は、テストは、過去問題と、その解答を、覚えれば、単位は取れる、ということを確信した。
教授が、定年退官して、別の教授に変われば、新しい教授は、自分の問題を作るから、過去問題では、通用しなくなる。
しかし、過去問題は、その科目の、重要な要点、の問題であることには、変わりはないので、過去問題を持っていると、何かと有利なのである。
いきなり、分厚い、医学書を、最初のページから、読んで、全部、覚えようとすると、大変な労力がかかってしまう。
そういう点、過去問題は、重要な要点なので、過去問題は、教授が、代わっても、持っていた方がいいのである。
由美子は、入学した時から、女子の中で、友達が出来ず、一人ぼっちでいる生徒を、前から気にかけていた。
彼女は、授業には、出ているけれど、クラブには、入っていない生徒だった。
いつも、教室で、ポツンと、人と離れて座っている、おとなしい生徒だった。
彼女は、生物学、や、その他の科目の単位を落としていた。
「こんにちは。私。岡田由美子っていうの。よろしくね」
「あっ。よろしく。私は、黒田輝子っていいます」
「地元は、どこですか?」
「和歌山県です」
「兄弟はいますか?」
「いえ。一人っ子です」
「お父さんは、お医者さんですか?」
「いえ。サラリーマンです」
「サラリーマンですか。どうして、医学部に入ろうと思ったのですか。よろしかったら、その理由を、教えて貰えないでしょうか?」
「はい。私は、本当は、医学部は、気乗りしなかったんです。私。性格が、おとなし過ぎて。医者って、精神的にも、肉体的にも、元気満々の人でないと、勤まらないと思うんです。でも、奈良医大に、入る学力があったもので、高校の進路指導の先生にも、また、両親にも強く勧められて、受験したんです」
「人の勧めを、断れないというのも、おとなしそうな性格の、あなたらしいですね」
「え、ええ」
「では、あなたは、本当は、どんな、学部に入りたかったんですか?」
「文学部です」
「そうですか。何となく、あなたらしいですね」
「文学部志望というと、文学書を読むのが好きなんですね?」
「ええ。クライですよね」
「そんなこと、ありませんわ。すごく、知的な人という感じがします」
「あのー。あんまり、立ち入ったことを聞くのは、失礼になるのじゃないかと、思うんですが、趣味は、どんなことでしょうか?」
「読書です。それと、少し、小説も書きます」
「小説を書くのですか。すごいですね。私にとっては、小説って、読む物であって、自分が、書こうなどと思ったことは、今までに、一度もありません」
「あっ。このことは、人には、言わないで下さいね。たいした小説じゃないので・・・」
「ええ。言いません。じゃあ、黒田輝子さんは、将来は、小説家志望なんですか?」
「小説家って、そんなに、簡単になれるものじゃないので。でも、出来たら、小説家になりたいと思っています。夢ですけれど・・・」
「では、どうして、文学部ではなく、医学部に入ったのですか?」
「それは。文学部を卒業したからって、小説家になれるわけではないし。その点、ともかく、医学部を卒業して、医師免許を取っておけば、収入には、困らないからって、言われたからなんです。私も、それには、同感しているんです。だから、医学部を受験しました」
「黒田輝子さん。よかったら、私と、お友達になってくれない?あなたとなら、相性が合いそうな気がするの」
「嬉しいわ。私も、岡田さんと、お友達になりたいわ」
「私なんか、親が医者だから、子供の頃から、自分が医者になって、父の後を継ぐ、ことが、私の人生だと、それ以外のことは、考えたことがないの。だから、あなたのように、夢を持って、自分で、考えて、生きている人って、すごく魅力的に見えるわ。自分にない、ものを持っている人だから、だと思うの。色々と、教えてね」
「ところで、あなた。クラブは?」
「入っていません」
「どうしてですか?」
「文芸部に入りたかったんですが、部員が一人もいなくなってしまって、廃部になってしまったので・・・・」
「クラブには、入っておいた方が、絶対、いいわよ。クラブに入っていないと、過去問題が手に入らないから、単位、取れないわよ」
「そうなんですか?」
「そうよ。あなた。よかったら、テニス部に入らない?」
「入れていただけるのですか?」
「もちろんよ」
「でも、私。運動、苦手だから・・・」
「部活なんて、全然、疲れないわよ。名目で、部活に入っているだけで、いいのよ。部活なんて、部活の活動なんて、しないで、お喋りしているだけの人も、いるわよ。よかったら、私が、テニスを教えてあげるわ」
「じゃあ、入れていただけますか?」
「ええ。大歓迎よ」
こうして、黒田輝子は、テニス部に入ることとなった。
由美子は、面倒見がいいのである。
二年になった。
二年の一学期は、生物学、化学、物理学、の実習、が、あった。
当然、実習には、全員が出席した。
化学や、物理学の実習は、はたして、これが、医学に、関係があるのか、と疑問を持つような、ものであったが、生物学の実習は、違った。
生物学の実習では、フナ(魚類)、カエル(両生類)、ネズミ(哺乳類)、の、解剖をした。
麻酔をかけて、それらを、解剖する。
そして、内臓を剖出する。
そして、それを、スケッチして提出する、というものだった。
医学生は、全員で、100人だったが、医学部の勉強というのは、実習が多く、すべて、名前の、あいうえお順に、並ばされ、4人、か、5人づつ、一つの班になって、勉強することになる。
なので、実習は、大学というより、ほとんど、小学校の、授業みたいなものである。
岡田さんの、前と、後ろ、は、男だった。
なので、これからの、実習は、すべて、彼らと、一緒にすることになる。
岡田さんの前後の男子生徒が、
「うわー。これから、卒業まで、クラス一の美女の、岡田由美子さんと、一緒に勉強、出来るなんて、最高に幸せだな」
と、言った。
後ろの、男も、
「オレもだよ」
と言った。
由美子は、照れて、顔を赤くした。
恥ずかしかったが、由美子は、そんなに、気にもしなかった。
しかし。
「由美子さん。ポーズをとってくれませんか?写真を撮りたいので」
と言われた時は、さすがに、恥ずかしかった。
「あんまり見ないでね」
と言って、由美子は、彼らの要求に応じて、ポーズをとって、被写体となった。
しかし、実習で、一緒の、机で、勉強するので、前後の生徒は、一生の友達になることもある。
こうして、由美子は、2年の単位を、追試を、一度も受けることなく、全部、取った。
由美子は、3年に進級した。
3年からは、教養課程の校舎から、少し離れた、基礎医学の校舎に移った。
3年は、解剖学と、生化学と、生理学、の、三つの授業だった。
生化学と、生理学は、講義だけだったが、解剖学は、講義と、実習があった。
いよいよ、本格的に、医学の勉強、となった。
生化学は、人間の体は、一時たりとも、休むことなく、化学反応を起こしていて、その学問だが、それ以外にも、遺伝子やら、何やらで、量が多かった。
生理学は、生理学Ⅰと、生理学Ⅱ、の二つがあって、生理学Ⅰは、神経生理学で、生理学Ⅱは、赤血球は、どうだの、呼吸の原理は、どうだの、と、いう学問だった。
生理学Ⅱは、ともかく、やたら、覚える量が多かった。
解剖学は、系統解剖学と、部分解剖学と、に、別れていて、系統解剖学は、骨、血管、神経、などの、学問で、部分解剖学は、内臓の臓器、の学問だった。
それと、解剖学の中に、組織学、というのが、あって、これは、人体の各臓器を、1mm以下の薄さに、切り取って、染色して、プレパラートに固定されているものだった。
人体のほとんどの、臓器は、HE染色、といって、ピンク色に染められている。細胞の、核だけが、紫色に染まる。神経細胞は、鍍銀染色といって、特殊な染色液を使うのだが、ほとんどは、HE染色である。
実習は、まず、組織学と、骨学、から始まった。
組織学では、人体の、臓器のプレパラート、を顕微鏡で、見ながら、スケッチした。
骨学では、死んだ人の、骨を、見て、これを、全部、スケッチするものだった。
骨の、色々な名称は、ラテン語で、書いて覚えなくてはならなかった。
日本語の名称もあって、日本語の名称を書いても、いいのだが、ラテン語での、名称も書かなければ、ならない、ところが、アカデミックな感じだった。
骨学では、何と、人間の体が、無駄なく、合理的に、出来ているものだと、由美子は、感心させられた。
三年の二学期からは、解剖実習が始まった。
午前中は、基礎医学の講義だが、午後は、全て、解剖実習だった。
解剖実習の手引書、があって、それに従って、解剖していった。
人体の全ての、神経、血管、筋肉、内臓の臓器を、半年かけて、剖出していく。
由美子の班の、遺体は、おばあさんで、幸いなことに、痩せていて、神経や、血管が、出しやすかった。
太っている遺体だと、脂肪をとるのに、一苦労なのである。
ある班の遺体は、内臓逆転症の遺体だった。
「症」といっても、病気ではない。
内臓が、全て、正反対になっている人である。
1000人に一人もいない。
つまり、完全な、鏡面構造で、心臓が右にあり、肝臓が、左にあり、内臓が全て逆転しているのである。
教授は、
「極めて珍しい症例だ」
と言って、喜んでいたが、生徒にとっては、迷惑な話である。
通常の人体の構造と、逆なのだから。
解剖実習というと、死体を解剖するのだから、怖い、と、一般の人は、思っているのかも、しれないが、ホルマリン漬けにされて、カラカラに乾いていて、死んだ直後の人間とは、全く違う。
ミイラのような、感じなので、全然、怖さなどはない。
ただ、解剖実習は、結構、疲れた。
どこの班でも、頭のいい、ブレーンの生徒がいて、その生徒が、一人で、テキパキと、やってくれるので、残りの、生徒は、見学的な学習となる。
由美子の班の、ブレーンは、もちろん、由美子だった。
「いやー。岡田さんが、いるから助かるよ」
と、由美子の班の、男子生徒は言った。
由美子としては、解剖学は、しっかり、勉強しておけ、と、父親に言われていたので、また、由美子も、解剖学は、大切だと思っていたので、解剖実習の手引書を、前の日に、しっかり読んでいた。
腕、足、内臓、と、剖出していって、人体の、ほとんどの、主要な、血管、神経、筋肉、臓器、などを、剖出していった。
最期に、頭蓋骨を開けた。
脳は、硬い頭蓋骨に覆われているので、内臓と違って、非常に、きれいな、形をとどめていた。
その、脳の中も、詳しく、解剖していった。
こうして、半年の、解剖実習も、無事、終わった。
三年では、組織学、骨学、血管、生理学Ⅰ、生理学Ⅱ、生化学の、単位の試験があったが、岡田さんは、追試を受けることなく、最初の試験で、みな、通った。
「いいなあ。岡田さんは、頭よくて」
と、何度も追試を受けても、通らない、生徒たちから、うらやましがられた。
4年になった。
3年も、忙しかったが、4年は、もっと、忙しくなった。
4年では、基礎医学、で、さらに、病理学、細菌学、薬理学、免疫学、寄生虫学、公衆衛生学、などの講義が加わり、それらの実習も、加わった。
3年では、人体の構造を学ぶ、といっても、人体の正常な構造を学んだが、4年では、異常、つまり、病気の原理を学ぶこととなった。
また、生化学や、生理学の、実習も、やらなくては、ならなかった。
病理学では、講義と並行して、病理組織を顕微鏡で見て、それをスケッチした。
薬理学では、実験用の犬を仰向けに固定して、頸静脈から、色々な薬物を入れて、血圧の変動を観察したりした。
実験に使われた犬は、実験が終わった後は、殺されて、心優しい岡田さんは、犬を可哀想に思った。
細菌学では、アイスクリームや、市販の生の肉、などの、大腸菌を調べたりした。
生理学の実習も、忙しく、脳波を調べたり、神経の伝導速度を調べたり、人間の感覚、触覚、や、嗅覚、などの、実習をした。
実習は、しっぱなしで、いいものではなく、当然、実習のレポートを書かされた。
4年では、講義を聞いて、理解して、覚える勉強と、実習での、レポートの提出とで、ものすごく忙しかった。
しかし、岡田さんは、四年の、期末試験でも、単位を全部、無事にとった。
こうして、岡田さんは、5年に進級した。
5年からは、臨床医学である。
教室も、臨床の教室に変わった。
臨床医学とは、まさに、病気の患者の診断、や、治療を学ぶ学問だった。
由美子は、やっと、病人を診る医学を勉強できるようになった、ことを実感した。
医学部に入ってから、教養課程、基礎医学、と、長い四年間だったと、感じた。
臨床医学は、医学の、全科目を学ぶ。
内科学第一(心臓・腎臓)。内科学第二(呼吸器)。内科学第三(内分泌疾患・代謝性疾患)。神経内科学。外科学第一(消化器)。外科学第二(脳外科)。外科学第三(心臓)、整形外科学。産婦人科学。眼科学。小児科学。精神医学。皮膚科学。泌尿器科学。耳鼻咽頭科学。放射線医学。麻酔科学。病態検査学。口腔外科学。腫瘍放射線学。救急医学。
である。
それと、法医学、である。
科目は、多いが、臨床医学は、勉強しやすかった。
それは、基礎医学では、分厚い医学書を、買って、それを教科書として、勉強しなければならなかったが、臨床医学では、卒業前に、医師国家試験があり、医師国家試験のための、教科書や、問題集で、勉強できたからだ。
医師国家試験は、大きく、内科、外科、産婦人科、小児科、公衆衛生、が、主要科目と呼ばれていて、あとの、整形外科学。眼科学。精神科学。皮膚科学。泌尿器科学。耳鼻咽頭科学。口腔外科学、などは、マイナー科目、と、呼ばれていた。
内科と、外科は、イヤーノート、という、一冊の、分厚いが、小さく、持ち運びできる、コンパクトな、教科書で、勉強する、ということを、由美子は、先輩から聞いていた。
別に、イヤーノート、以外の教科書で、勉強してもよく、イヤーノート、で、勉強しなければならない義務は、ないのだが、イヤーノート、が、一番、よく、まとまっており、医学生は、全員、イヤーノート、で、臨床医学を勉強した。
ただ、イヤーノートだけ、読んでいても、理解できるものではなく、医師国家試験の、過去問題集を、解きながら、白血病なら、イヤーノートの、白血病、の項目を見て、イヤーノートに、印をつけていく、というのが、医師国家試験の勉強方法だった。
イヤーノートは、いわば、内科、外科、の、要点を、まとめた、ものだった。
由美子は、5年になるなり、すぐに、イヤーノートを教科書にして、医師国家試験の過去問題をやり、医師国家試験対策の勉強を始めた。
5年の1学期は、臨床医学の講義を聞くだけの授業で、割と楽だった。
5年からは、臨床医学の勉強だが、医学部の教授が、教える臨床医学は、医師国家試験の勉強とは、違うのである。
医学部の教授は、たとえば、眼科学なら、眼科学の、最先端の事を教える。
そして、教授の、教えたい事を教える。
しかし、医師国家試験の勉強は、イヤーノート、という教科書を使って、過去問題を解く、というものであり、医学の基本、を理解する、という勉強なのである。
なので、大学で、臨床医学の講義を聞いて、勉強していても、医師国家試験には、通らない。
医師国家試験に通るには、医師国家試験対策の勉強をしなくては、ならない。
なので、大学の、臨床医学の講義を、サボって、医師国家試験の勉強をする生徒も出てくる。
それは、ちょうど、法学部に入れば、法学というものを、学んで、法学を理解していくが、それだけでは、決して、司法試験には、通れない、のと同じである。
司法試験に、通るには、司法試験対策の勉強をしなくては、通れない。
それと、同じようなものである。
5年の1学期が、終わって、2学期になった。
2学期から、大学病院での、臨床実習が始まった。
臨床実習は、ポリクリ、とも、言われている。
あいうえお順、に、5人ずつ、1グループとなって、内科、外科、産婦人科、など、全ての、診療科を、大学病院で勉強するのである。
一つの科を、二週間やる。
二週間、つづけて、やる科もあるが、一週間やって、のちに、もう、一度、一週間、やって、合計で、2週間やる、という科もある。
これを、6年の、2学期まで、1年間、やるのである。
臨床実習で、やる勉強は。
入院患者、と、外来患者の、教授回診の見学。
手術見学。
ミニレクチャー。
そして、大体、どの科も、入院患者の一人、を、あてがわれて、その患者の、レポートを書いて、提出するのである。
これを、朝9時から、午後5時までやる。
その後は、皆、医師国家試験の勉強、である。
5人1グループなので、グループの中に、女生徒がいると、男子生徒は、喜んだ。
しかも、その女生徒が、可愛ければ、なおさら、である。
女生徒がいなくて、男だけの、グループは、さびしいものである。
しかし、グループの中に、女生徒が、2人、いると、少し、困るのである。
なぜかと言うと、1つのグループに、女生徒が、2人、いると、2人は、女同士で、くっついてしまうからである。
1つのグループに、女生徒が、一人の、紅一点、だと、女生徒は、嫌でも、グループの、の男子生徒と、話さなくてはならない、からである。
臨床実習では、大学病院は、個人クリニックでは、対応できない、難治性疾患を、クリニックの院長が、大学病院に紹介するため、個人医院では、医者が一生、お目にかかれないような、1万人の一人、の、難治性疾患が、多く入院していた。
大体、みな、臨床実習を半年くらい、やった頃に、自分が、何科の医者になるか、を、決めるようになる。
岡田さんは、小児科医に、なろうと思った。
彼女は、一人っ子で、弟が欲しい、と、子供の頃から、思っていたからである。
なので、小児科を回った時、可愛い子供たちの、患者を、見て、即、小児科医になろうと、決めたのである。
子供が可愛い、という、単純な理由で、小児科を選ぶ、女子医学生は、結構、多いのである。
だが、内科系の科は、診断が、難しく、勉強が好きで、なければ、ならない。
それに対して、外科系の科は、内科系の科と、比べて、診断は、そう難しくない。
頭を使うより、手術を、たくさん、こなして、手術の腕を上げることの方が、重要なのである。
しかし、岡田さんは、勉強が好きだったので、小児科を選ぶ、ことに、何の抵抗も感じなかった。
しかし、男の医者よりも、女医の方が、メリットもあるのである。
というのは、小児科、特に、幼い、まだ、言葉を話せない幼児は、大人の患者のように、患者から、症状を聞くことが出来ない。
なので、言葉が話せない、幼児の場合、母親から、子供の症状を聞くことになる。
小児科では、子供の体を診察し、母親から病状を聞いて、診断しなければ、ならない。
幼児は、痛い注射は、もちろん、体を、色々、調べられる、病院という所や、大人の医者の診察を、こわがって、泣く子供も多い。
この時。
男は、武骨なので、子供を、あやすことが、苦手だが、女は、子供と一体になって、子供と遊ぶことが出来るので、子供に、優しい言葉をかけて、子供をあやしながら、診察することが出来るのである。
子供にしても、不愛想な男の医者より、女の医者の方が、良いだろう。
やがて、6年も、秋になって、1年間の、臨床実習も、終わった。
あとは、医師国家試験の勉強だけである。
岡田さんは、医師国家試験の模擬試験の結果から、十分、ゆとりで、合格の判定が、出ていた。
なので、医師国家試験に、おびえることは、なかった。
それでも、一日、13時間は、医師国家試験の勉強をした。
やがて、冬になり、期末試験が、行われた。
岡田さんは、全科目で、上位の成績で、最初のテストで、全科目、通った。
追試を、受けることは、なかった。
やがて、年が明けた。
皆、医師国家試験の勉強の、ラストスパートをかけていた。
やがて、2月となり、医師国家試験が、行われた。

この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 小児科医 (下)(小説) | トップ | 絶対、儲かる方法 »

小説」カテゴリの最新記事