【霊告月記】第五十回 君は絶世の美女を見たか?
劇作家:唐十郎 流山児★事務所の「新スター」:山丸莉菜
撮影:横田敦史
★序幕★ 君は絶世の美女を見たか?
我:君は絶世の美女を見たか?
汝:絶世の美女を見たかって? 美女なら見たことあるけど絶世の美女はまだないなあ。上 ☝ の写真はなんですか。絶世の美女となんか関係あるの?
我:関係おおありです。玄宗皇帝と楊貴妃の2ショットです。拡大してしらべてごらん。写真を右クリックすると拡大できます。
汝:玄宗皇帝と楊貴妃か。妖しい物言いだね。なるほど、そう言われてみればそのように見えなくもない。いつもながら君のレトリックには感心するよ。
我:レトリックなんかじゃない。真言ですよ。幻想肯定と陽気碑。ところで「やわはだの熱きこころも知らずして悲しからずや道を説く君」と云う歌があるよね。
汝:与謝野晶子の歌だね。知っている。僕はね「道」はまだ知らないけれど「やわはだの熱きこころ」なら知っているよ。普通の男でも女性を愛すればやわはだの熱きこころは知ることができるんじゃないかな。よほどの男尊女卑の信条の持ち主でなければね。そう思うよ。
我:なるほど。君は美女を見たことがある。そして、道はまだ知らないがやわはだの熱き心は知っている。ではもう一度聞く。君は絶世の美女を見たか?
汝:ない。絶世の美女はまだない。絶世の美女はどこにいるのだ? 知っているなら教えてほしい。
我:分かった。教えよう。以下の文章を読みたまえ。さすれば君は絶世の美女に出会う秘訣を会得できるだろう。
★第一幕★ 『少女都市からの呼び声』劇評
日本劇団協議会主催新進演劇人育成公演 『少女都市からの呼び声』@Space早稲田 2019年12月6日(金)~18日(水) 唐十郎:作、小林七緒:演出、流山児祥:プロデューサー
私はこの公演を12月12日に観ました。アフタートークがある日だったので12日に予約をかけました。
唐作品はいままで本家状況劇場以外にも何作品も観ていますが、今回の上演は唐十郎の劇世界の真の奥底を覗かせてくれるような特別の舞台だと思いました。唐十郎の戯曲は既に古典になったとまで感じた。なぜそう感じたのか簡単に説明してみます。
唐作品は古典になったという言い方をしましたが、古典になったという意味は、古くなったということではなくてまったく逆です。ギリシャ悲劇やシェイクスピアがそうであるように、新解釈・新演出によってたえず刷新され新しい劇として再生する。そういう意味合いの演劇的潜勢力を持った作品として唐作品が確認された。これは「事件」として見ていい事態ではないかと思います。
もう一つ発見したことがあります。それは何かと言いますと状況劇場では女優が育たないという評価があったと思います。それは仕方がない事情があって、李礼仙という圧倒的な存在感を持つ女優がいて、その女優と張り合うことによって男優は育った。主演女優は一人しかいず、一人だけいれば充分だった。新進女優の育つ余地は狭かった。
しかし唐十郎は自身の劇団の戯曲を書くだけではなく、外部の劇団にも戯曲を提供しています。その場合、主演女優は唐十郎の劇団の外部から選ばれることになる。
話が長くなりそうなので結論を急ぎます。私は今回の上演を観て主演女優の山丸莉菜さんの演技に圧倒的な感銘を受けました。アフタートークでも大久保鷹さんは山丸莉菜さんの演技を絶賛されていました。アフタートークの時に観察したうえで言うのですが、山丸莉菜さんは相当の美女です。ところが役を演じている時の彼女は、文字通り掛け値なしの「絶世の美女」でした。
唐戯曲とは実は「絶世の美女」が潜むユートピアである。唐作品は女優が育たないどころではない。女優が絶世の美女として君臨できるのが唐作品であるということを証明してみせた。そういう意味で今回の舞台は「事件」であった。そういう感想を抱きました。
簡単ですが感想を述べさせて頂きました。今後続々と唐作品がいろいろな劇団によって上演されることを期待しています。
★第二幕★ 『少女都市からの呼び声』劇評:舞台裏
『少女都市からの呼び声』劇評が、この劇のプロデューサー流山児祥氏のフェイスブックに<これも素敵な「劇評」です。「新解釈・新演出によってたえず刷新され新しい劇として再生される古典となった唐演劇」BY 川端秀夫>とのコメント付きで転載されています。そこで更に続きを書きました。
《流山児さま、劇評の転載ありがとうございました。私の拙い劇評がおかげさまで多くの方に読んでもらえたようでうれしいかぎりです。
マルクスの「経済学批判要綱 序説」を再読していましたら、次のような一節にぶつかりまして、その瞬間インスピレーションが湧いて、「そうだ、唐十郎作品の再演について何か書いてみよう」と思いつきました。革命家マルクスの書の再読と演劇の革命家唐十郎の作品の再演。この「再読」と「再演」の暗合が私が得たインスピレーションのきっかけとしてありました。
私がぶつかったマルクスの一節とは以下の箇所です。
「芸術作品は――他のどんな生産物も同様だが――、芸術を理解して審美鑑賞する能力をもつ公衆をつくりだす」。
(カール・マルクス「経済学批判要綱 序説」『資本論草稿集①』大月書店38P)
マルクスはここで生産と消費の関係について論じているのですが、その関係を芸術の生産(例えば演劇の上演)とその消費(演劇の鑑賞)に置き換えて説明しています。優れた演劇作品の上演が優れた演劇鑑賞者をつくりだす。逆も然り。優れた芸術を求める鑑賞者がいて初めて優れた芸術を生産しようと望む演劇人を作り出す。マルクスが言っているのは結局そういうことなのだろうと思います。
流山児事務所の今後のますますの活躍と発展を祈っています。川端拝 》
この感想に対して流山児氏からファエスブック上で「有難うございます。これからもよろしく」とのコメントを頂戴した。私の劇評は流山児氏のブログにも転載されている。
☛ http://ryuzanji.stablo.jp/article/472728384.html
なお流山児★事務所では2021年2月に同じキャスト・スタッフで唐作品に挑戦とのことである。期待して待っていよう。早く来い来い、来年の2月♫。
★劇評への返歌★
うつむきて化粧をなほすたをやめの横顔をそとぬすむ幕あひ 九鬼周造
★ ★ ★
】 九鬼周造の霊告 【 私は端唄や小唄を聞くと全人格を根柢から震撼するとでもいうような迫力を感じることが多い。自分に属して価値あるように思われていたあれだのこれだのを悉(ことごと)く失ってもいささかも惜しくないという気持になる。
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