ブログ版 渡辺松男研究 16 二〇一四年六月
【Ⅱ 宙宇のきのこ】『寒気氾濫』(1997年)60頁~
参加者:曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放、鈴木良明(紙上参加)
レポーター:曽我 亮子 司会と記録:鹿取 未放
134 この木ときどきたいくつそうにうつむきてぬるぬるの根を地中から出す
(紙上意見)
樹ではなく、「この木たいくつそうに」といっているところから、路からよくみかける木なのだろう。さらに「うつむきて」とあるので、低木のそれなりに年数を経た木が、地表へ根をはりだしているのだろう。たぶん雨に濡れて根がぬるぬると湿っているのだろうが、タコの足のように生き生きしている。(鈴木)
(発言)
★上がり根というか土から浮いている根っこのことだと思います。退屈だから根が地中から遊びに
出てきた。(慧子)
★ガジュマルなんかは地中から出てるけど、ぬるぬるではないわね。それにこの歌では時々根っこ
を出すというのだから常時出ているガジュマルの根っこなどとは違うと思います。私はこのぬる
ぬるは情念というか存在の根っ子つまり生の根源的なものをさしているように思います。この木
って言ってますけど、木でもあり、〈われ〉でもある野でしょう。存在の退屈とか、生きてる根
拠のむなしさとか、それでも何か探りたいとか、この根はそういう哲学的なものだと思います。
サルトルの「嘔吐」とか朔太郎の詩とかいろんな関連を考えました。ただ、そういう重い主題を
余裕を持ってうたっているところが面白いと思います。ユーモアというか、よい意味での幼児性
というか。(鹿取)
(まとめ)
この歌からサルトルの「嘔吐」を連想したり存在の根源を問題にしていると考えるのは、あながち飛躍しすぎではないと思う。「宙宇のきのこ」一連には神の存在を問う歌があり、「サルトルも遠き過去となりたり」や「存在をむきだしにせよ」のフレーズをもつ歌などがあるからである。
もちろん「サルトルも遠き過去となりたり」とあるように時代は実存主義をはるかに忘れ去ったし、作者自身も通り過ぎた思想をそのまま歌に詠み込むことはないだろう。だから「嘔吐」のロカンタンがマロニエの木の根っこを見て感じたような、存在を根底から覆されるような転換はこの歌にはない。もう転換は経験ずみだからだ。でも、主人公ロカンタンが意識の転換後に書く「そして怪物染みた軟かい無秩序の塊が――恐ろしい淫猥な裸形の塊だけが残った。」(白井浩司訳「嘔吐」)と「ぬるぬるの根」にはいくらか共通項があるように思われる。「嘔吐」から離れても、この「ぬるぬるの根」は、人間の内臓のようでもあり、どろどろした魂の核のようでもある。
また、朔太郎との関連もありそうな気がする。去年かりんで「アンチ朔太郎」という渡辺松男論を書いたら、当の渡辺さんから「朔太郎は好きではないが、アンチというほど嫌いではないです」というメールが届いた。もちろんアンチは言葉の綾で朔太郎に対する渡辺さんの距離はそういう感じだろうとは思っていた。その後、朔太郎のどんな詩が好きかお互いのやりとりがあったが、渡辺さんは朔太郎をよく読みこまれていることが分かった。サルトルの哲学的な考察と朔太郎の自意識は次元が違うが、別の階層にしろ作者の精神生活のいずれかに、どちらも奥深く仕舞われているのかもしれない。
萩原朔太郎の詩二編を次にあげる。
光る地面に竹が生え、/青竹が生え、/地下には竹の根が生え、/根がしだいにほそらみ、/ 根の先より繊毛が生え、/かすかにけぶる繊毛が生え、/かすかにふるえ。 「竹」
冬至のころの、/さびしい病気の地面から、/ほそい青竹の根が生えそめ、/生えそめ、/そ れがじつにあはれふかくみえ、/けぶれるごとくに視え、/じつにじつにあはれぶかげに視え。
地面の底のくらやみに、/さみしい病人の顔があらはれ。
「竹とその哀傷―月に吠える―」
作者の樹木に対する親しみは、もちろん朔太郎を識る以前からのものだろう。だから根っこがうたわれようが朔太郎の直接影響では全くないが、それこそ遠く離れた地下茎のようなものでかすかに繋がっているようにも思える。朔太郎の根は繊細で病的な暗い自意識そのもののようだが、渡辺の根っこはぬるぬるしていながら明るい。少しぼーとした木が自分のぬるぬるの根っこを眺めている図は想像するだけで楽しい。渡辺の歌は朔太郎よりずっとダイナミックで、ユーモアもあり、何よりも世界にむかって開かれているようだ。(鹿取)
【Ⅱ 宙宇のきのこ】『寒気氾濫』(1997年)60頁~
参加者:曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放、鈴木良明(紙上参加)
レポーター:曽我 亮子 司会と記録:鹿取 未放
134 この木ときどきたいくつそうにうつむきてぬるぬるの根を地中から出す
(紙上意見)
樹ではなく、「この木たいくつそうに」といっているところから、路からよくみかける木なのだろう。さらに「うつむきて」とあるので、低木のそれなりに年数を経た木が、地表へ根をはりだしているのだろう。たぶん雨に濡れて根がぬるぬると湿っているのだろうが、タコの足のように生き生きしている。(鈴木)
(発言)
★上がり根というか土から浮いている根っこのことだと思います。退屈だから根が地中から遊びに
出てきた。(慧子)
★ガジュマルなんかは地中から出てるけど、ぬるぬるではないわね。それにこの歌では時々根っこ
を出すというのだから常時出ているガジュマルの根っこなどとは違うと思います。私はこのぬる
ぬるは情念というか存在の根っ子つまり生の根源的なものをさしているように思います。この木
って言ってますけど、木でもあり、〈われ〉でもある野でしょう。存在の退屈とか、生きてる根
拠のむなしさとか、それでも何か探りたいとか、この根はそういう哲学的なものだと思います。
サルトルの「嘔吐」とか朔太郎の詩とかいろんな関連を考えました。ただ、そういう重い主題を
余裕を持ってうたっているところが面白いと思います。ユーモアというか、よい意味での幼児性
というか。(鹿取)
(まとめ)
この歌からサルトルの「嘔吐」を連想したり存在の根源を問題にしていると考えるのは、あながち飛躍しすぎではないと思う。「宙宇のきのこ」一連には神の存在を問う歌があり、「サルトルも遠き過去となりたり」や「存在をむきだしにせよ」のフレーズをもつ歌などがあるからである。
もちろん「サルトルも遠き過去となりたり」とあるように時代は実存主義をはるかに忘れ去ったし、作者自身も通り過ぎた思想をそのまま歌に詠み込むことはないだろう。だから「嘔吐」のロカンタンがマロニエの木の根っこを見て感じたような、存在を根底から覆されるような転換はこの歌にはない。もう転換は経験ずみだからだ。でも、主人公ロカンタンが意識の転換後に書く「そして怪物染みた軟かい無秩序の塊が――恐ろしい淫猥な裸形の塊だけが残った。」(白井浩司訳「嘔吐」)と「ぬるぬるの根」にはいくらか共通項があるように思われる。「嘔吐」から離れても、この「ぬるぬるの根」は、人間の内臓のようでもあり、どろどろした魂の核のようでもある。
また、朔太郎との関連もありそうな気がする。去年かりんで「アンチ朔太郎」という渡辺松男論を書いたら、当の渡辺さんから「朔太郎は好きではないが、アンチというほど嫌いではないです」というメールが届いた。もちろんアンチは言葉の綾で朔太郎に対する渡辺さんの距離はそういう感じだろうとは思っていた。その後、朔太郎のどんな詩が好きかお互いのやりとりがあったが、渡辺さんは朔太郎をよく読みこまれていることが分かった。サルトルの哲学的な考察と朔太郎の自意識は次元が違うが、別の階層にしろ作者の精神生活のいずれかに、どちらも奥深く仕舞われているのかもしれない。
萩原朔太郎の詩二編を次にあげる。
光る地面に竹が生え、/青竹が生え、/地下には竹の根が生え、/根がしだいにほそらみ、/ 根の先より繊毛が生え、/かすかにけぶる繊毛が生え、/かすかにふるえ。 「竹」
冬至のころの、/さびしい病気の地面から、/ほそい青竹の根が生えそめ、/生えそめ、/そ れがじつにあはれふかくみえ、/けぶれるごとくに視え、/じつにじつにあはれぶかげに視え。
地面の底のくらやみに、/さみしい病人の顔があらはれ。
「竹とその哀傷―月に吠える―」
作者の樹木に対する親しみは、もちろん朔太郎を識る以前からのものだろう。だから根っこがうたわれようが朔太郎の直接影響では全くないが、それこそ遠く離れた地下茎のようなものでかすかに繋がっているようにも思える。朔太郎の根は繊細で病的な暗い自意識そのもののようだが、渡辺の根っこはぬるぬるしていながら明るい。少しぼーとした木が自分のぬるぬるの根っこを眺めている図は想像するだけで楽しい。渡辺の歌は朔太郎よりずっとダイナミックで、ユーモアもあり、何よりも世界にむかって開かれているようだ。(鹿取)