2022年度版 渡辺松男研究2の15(2018年9月実施)
【〈ぼく〉】『泡宇宙の蛙』(1999年)P75~
参加者:泉真帆、岡東和子、A・K、T・S、曽我亮子、
渡部慧子、鹿取未放
レポーター:渡部慧子 司会と記録:鹿取未放
108 どうしてママ歯をみがくときさみしいの昼寝に覚めた三時の気分
(レポート)
暮らしの中に生の根源的なさみしさを感じるのは唐突だったり、またそのきっかけは各々異なっているのかもしれない。歯みがきのときに感じた寂しさを上句「どうしてママ歯をみがくときさみしいの」と問うているのは幼い者のようである。幼い者がそう感じ、また言葉にしている。小さな者に澄んだ感受性が与えられている。一首の構成として比較的経験されやすい昼寝のあとの茫漠としたむなしさを下句に置き、上句の内容をより深くしていよう。(慧子)
(当日意見)
★私は下句が時間としてものすごくよく分かったのです。存在していることの根源的なさび
しさ、虚無感かもしれませんが、下句はこれ大人の感覚ですよね。上句は子どもの感覚で
下句は大人の感覚、一首の中でこれがどう結びつくのか?上の句は母親に聞いているとも
取れるが自分自身に聞いているとも取れる。幼児期の記憶と大人の今が作者の中に同居し
ているのか。(A・K)
★そうなんですか、私は下句を子どもの気持ちだと思って読みました。子ども時代、夏の座
敷でみんなでお昼寝しましたが、目覚めの空しい感じとか、何かあてどない不安感とかも
のすごく感じたので。昼寝の後は家族でスイカや真桑なんかを食べるので、しばらくする
とそのさみしさは忘れるんだけど。それを言葉にすればA・Kさんが言われたように「存
在していることの根源的なさびしさ」なんでしょうね。歯を磨いているのは朝か夜か分か
らないですが、歯を磨いていると昼寝から覚めたときと同じようなさびしい気分になる。
それをお母さんに呼びかける形で言っているところに、お母さんと男の子の関係のあまや
かさとかエロスも覗く気がする。(鹿取)
★話は少しそれますが、ここ2か月ほど岩田正の歌集や評論を集中して読んでいたのです
が、ちょっとこの歌に似通った歌が何首もありました。眠っている時の孤独感ですけど、
朝目が覚めてもしばらくは茫漠として虚無感のようなところを漂っているんだけど、はっ
と妻が横に寝ていることに気づいて安堵するみたいな歌もありました。(※後ろに歌を
引用)でも大部分は寂しさで歌が終わっているんです。眠りとうつつの間みたいなところ
でひとりぼっちの怖さとか寂しさとか
感じるのは割と共通しているのかなあと。(鹿取)
★それから幼児ことばの話ですけど、穂村弘さんの歌集『空中翼船炎上中』を読みましたけ
ど、穂村さんの使う幼児語とか女性言葉というものがいかに戦略的に使われているかとい
うことがよく分かりました。松男さんの幼児語とか女性言葉とは全然質の違うものだって
思います。(鹿取)
★渡辺松男の言う〈わたくし〉と短歌の私というものは全く違うものなので、男とか女とか
子どもとかいうのとは全く違いますね。この前鹿取さんがくれたプリントで、坂井修一氏
が鎧わずに松男さんの歌を読みたいと書いていらして全くその通りだと思いました。こち
らが世間的な通俗的な尺度で読んでいたのでは渡辺さんの歌は全く理解できない。高度に
知的な人だけど、高度に純粋なところがありますよね。ジェンダーも権利と結びつくのは
嫌で単なる差違だと思うんです。(A・K)
★ところで、さっき鹿取さんが下句も幼子の気分っておっしゃったけど、幼子だったら三時
って時間の感覚を持つかなあ。それで私はここは大人の感覚で、子ども時代の歯を磨くと
の寂しさと 共通するなあと思ったのかと。(A・K)
★三時というのはお八つの時間として小さい頃からインプットされていたので、幼児でも三
時というのはわりと自然かなあと思います。(岡東)
(後日意見)
※引用は、鹿取。
朝さめてひとりと思ひしばしして妻に気づけりかかる朝いい
岩田正『視野よぎる』
【〈ぼく〉】『泡宇宙の蛙』(1999年)P75~
参加者:泉真帆、岡東和子、A・K、T・S、曽我亮子、
渡部慧子、鹿取未放
レポーター:渡部慧子 司会と記録:鹿取未放
108 どうしてママ歯をみがくときさみしいの昼寝に覚めた三時の気分
(レポート)
暮らしの中に生の根源的なさみしさを感じるのは唐突だったり、またそのきっかけは各々異なっているのかもしれない。歯みがきのときに感じた寂しさを上句「どうしてママ歯をみがくときさみしいの」と問うているのは幼い者のようである。幼い者がそう感じ、また言葉にしている。小さな者に澄んだ感受性が与えられている。一首の構成として比較的経験されやすい昼寝のあとの茫漠としたむなしさを下句に置き、上句の内容をより深くしていよう。(慧子)
(当日意見)
★私は下句が時間としてものすごくよく分かったのです。存在していることの根源的なさび
しさ、虚無感かもしれませんが、下句はこれ大人の感覚ですよね。上句は子どもの感覚で
下句は大人の感覚、一首の中でこれがどう結びつくのか?上の句は母親に聞いているとも
取れるが自分自身に聞いているとも取れる。幼児期の記憶と大人の今が作者の中に同居し
ているのか。(A・K)
★そうなんですか、私は下句を子どもの気持ちだと思って読みました。子ども時代、夏の座
敷でみんなでお昼寝しましたが、目覚めの空しい感じとか、何かあてどない不安感とかも
のすごく感じたので。昼寝の後は家族でスイカや真桑なんかを食べるので、しばらくする
とそのさみしさは忘れるんだけど。それを言葉にすればA・Kさんが言われたように「存
在していることの根源的なさびしさ」なんでしょうね。歯を磨いているのは朝か夜か分か
らないですが、歯を磨いていると昼寝から覚めたときと同じようなさびしい気分になる。
それをお母さんに呼びかける形で言っているところに、お母さんと男の子の関係のあまや
かさとかエロスも覗く気がする。(鹿取)
★話は少しそれますが、ここ2か月ほど岩田正の歌集や評論を集中して読んでいたのです
が、ちょっとこの歌に似通った歌が何首もありました。眠っている時の孤独感ですけど、
朝目が覚めてもしばらくは茫漠として虚無感のようなところを漂っているんだけど、はっ
と妻が横に寝ていることに気づいて安堵するみたいな歌もありました。(※後ろに歌を
引用)でも大部分は寂しさで歌が終わっているんです。眠りとうつつの間みたいなところ
でひとりぼっちの怖さとか寂しさとか
感じるのは割と共通しているのかなあと。(鹿取)
★それから幼児ことばの話ですけど、穂村弘さんの歌集『空中翼船炎上中』を読みましたけ
ど、穂村さんの使う幼児語とか女性言葉というものがいかに戦略的に使われているかとい
うことがよく分かりました。松男さんの幼児語とか女性言葉とは全然質の違うものだって
思います。(鹿取)
★渡辺松男の言う〈わたくし〉と短歌の私というものは全く違うものなので、男とか女とか
子どもとかいうのとは全く違いますね。この前鹿取さんがくれたプリントで、坂井修一氏
が鎧わずに松男さんの歌を読みたいと書いていらして全くその通りだと思いました。こち
らが世間的な通俗的な尺度で読んでいたのでは渡辺さんの歌は全く理解できない。高度に
知的な人だけど、高度に純粋なところがありますよね。ジェンダーも権利と結びつくのは
嫌で単なる差違だと思うんです。(A・K)
★ところで、さっき鹿取さんが下句も幼子の気分っておっしゃったけど、幼子だったら三時
って時間の感覚を持つかなあ。それで私はここは大人の感覚で、子ども時代の歯を磨くと
の寂しさと 共通するなあと思ったのかと。(A・K)
★三時というのはお八つの時間として小さい頃からインプットされていたので、幼児でも三
時というのはわりと自然かなあと思います。(岡東)
(後日意見)
※引用は、鹿取。
朝さめてひとりと思ひしばしして妻に気づけりかかる朝いい
岩田正『視野よぎる』