2025年度版 渡辺松男研究45(2017年1月実施)
『寒気氾濫』(1997年) 【冬桜】P151~
参加者:泉真帆、M・S、鈴木良明、曽我亮子、
渡部慧子、鹿取未放
レポーター:泉真帆 司会と記録:鹿取未放
371 川向こうへ銀杏しきりに散りぬれどむこうがわとはいかなる時間
(レポート)
銀杏の黄金の葉は川向こうへしきりに散ったけれども、「むこうがわ」に在る、つまり三途の川の向こう側にある、死後の世界の時間とは一体どんなものだろうと作者は思い佇んでいるのだろう。「むこうがわ」とは、もしかすると未生の世界をも含むのかもしれない。またこの一首は、ただ単に思索に耽るという理の歌ではなく、黄金の銀杏の葉が一斉に散りはじめ散り終えてしまった寂寥感や、ひたすらに散る黄金の葉の景や時間を表現し味わいのある一首だと思った。(真帆)
(当日発言)
★川のこちら側に銀杏の木があって向こう岸に葉が散っている。レポートの彼岸、此岸という考えはそこから出てきた。(慧子)
★「散りぬれど」の「ぬれ」は完了の助動詞「ぬ」だから、文法上は継続の意味は無い。だから歌の上では散ってしまっているけれど見せ消ちのように読者には盛んに銀杏の葉が散っている情景が見える。そして作者はその葉の行く末である向こう側の時間を問うている。3句目は、いろは歌の「散りぬるを」を連想させるので、死後の世界を思う解釈もありうるだろう。(鹿取)
★私は向こう側を三途の川、死後の世界とは取らなかった。現実に川のこちらから見る景色とあちらから見る景色は何か時空が違うように全く違うので、そういうことを言っているのかな。(鈴木)
★「向こう側」というのが松男さんのテーマというか、いつも考えていることで、そういう歌をこれまでもたくさん見てきました。この歌の一つ前の「木の向こう側へ側へと影を曳き去りゆくものを若さと呼ばん」も「木の向こう側をうたっていますが、単に物理的な木の向こう側を言っているのではなく若さという時間の行方でした。影の部分、見えない部分も向こう側で、多様な向こう側があります。宇宙的なスケールで言えば時間=空間なので、この歌も向こう側がどんな場所かではなく、葉の散っていった先の時間を問題にしているところが独特と思う。論理だけでやせ細った歌ではなくて、銀杏の散る景色が美しいふくらみのある一首になっている。(鹿取)
(まとめ)
「向こう側」をうたった歌を『寒気氾濫』から1首だけあげておく。(鹿取)
白き兵さえぎるもののなき視野のひかりの向こうがわへ行くなり「からーん」