2024年度版 馬場あき子の外国詠14(2009年3月)改訂版
【西班牙 4 葡萄牙まで】『青い夜のことば』(1999年刊)P68~
参加者:N・I、T・K、藤本満須子、T・H、渡部慧子、鹿取未放
レポーター:T・K まとめ:鹿取未放
※この一連のまとめは、『戦国乱世から太平の世へ』(シリーズ日本近世史①藤井譲治) のほか、『支倉常長』(大泉光一)・講談社『日本全史』等を参照した。
120 慶長使節の支倉は老いて秘むれども夢に大西洋かがやけり一生
(レポート)
1571年 支倉常長生まれる
1613年42歳 イスパニア(スペイン)との交易を望む藩主(伊達政宗)の命により
宣教師 ルイスソテロに伴われ石巻(月浦港)を発ちメキシコアカプ
ルコに着く
1614年43歳 スペイン・マドリッドに着く。藩主正宗の書翰を呈したが日本のキリ
スト教禁止令がすでに伝わっており通商には反対が多かった。支倉は
この地で洗礼を受けキリスト教徒になる
1615年44歳 ローマに入りフェリペ三世に謁見したが藩主正宗が教徒でないため非
公式謁 見であった。ローマ市は支倉に「公民権」を贈る。書状は白い
羊皮 紙に金泥のラ テン語で記され日付は「1615年12月12日」
とあ る。この時教主と支倉常 長の肖像画をフランス人画家に描かせ
贈る。(伊 達家に伝わっている)。日本では徳川家康キリスト教禁止
令(直轄地)を出す
1620年49歳 支倉常長帰国
1622年51歳 支倉常長死亡
支倉の生涯を想うとき「夢に大西洋かがやけり一生」が胸に沁みる。(T・K)
(発言)
★ 八・五・八・九・八とやはり字余りである。(鹿取)
(まとめ)(2015年12月改訂)
天正使節が帰国したのが1590年で、支倉が慶長使節として石巻の月の浦を出航したのはそれから23年後、江戸幕府がキリスト教禁止令を出した翌年の1613年10月のことである。(つまり先の歌の伊東満所の死の1年後である。天正使節の伊東は13歳で出国したが、支倉の出国は42歳、支倉はずいぶん後世の人のように思っていたが実は伊東満所より2歳の年下に過ぎない。)
ところで、『戦国乱世から太平の世へ』(シリーズ日本近世史①・藤井譲治)を読んでいると戦国大名が乱世の中でどんな権謀術数の渦中にいたかがよく分かる。大名達は乱世を生き抜き、のし上がるために戦さの資金が必要であり、海外貿易はその資金を得る最も有効な手段だった。だから秀吉も家康もキリスト教と貿易のはざまで危うい綱渡りをしてきたし、徳川家と姻戚関係にあった仙台藩主伊達政宗も例外ではなかった。政宗は重臣ではない支倉を遣欧使節に任じ、幕府からお咎めを受けそうな時はいつでも切り捨てられるよう備えたというのが、大方の研究者の説くところである。政宗が遣欧使節を派遣した目的は、同行した宣教師ソテロに陸奥への宣教師派遣を許す見返りにスペイン領国への通商に、法王の尽力を願うところにあったと言われている。しかし国が禁教に舵をきって久しく、信者が処刑されている当時の時代状況を考えると、政宗が宣教師派遣を真剣に考えていたとはとても思えない。また、支倉の通商交渉が成就しなかったのは日本でのキリスト教弾圧が現地に知れ渡っていた為といわれている。帰国した支倉は、己を派遣した政宗にも厭われ、失意のうちに二年後五十一歳で病没した。しかし彼はキリスト教を棄てなかったらしい(棄教したという説をとる研究者もいる)。遠藤周作の小説「侍」によると、ローマ法王に会うため支倉はソテロによって便宜上洗礼させられたことになっているが、藩主の命令で己の内心に背いて洗礼を受けたのなら、弾圧や処刑から身を守るために改宗するはずである。改宗しなかったとしたら、例えはじめは偽りの洗礼であっても長い歳月を経て支倉が心底キリスト教徒になっていた証しだろう。
遣欧使に任ぜられた支倉は大西洋を渡るのに六ヶ月以上を要している。当時の船旅はいつ沈むか分からない日々命がけの旅だが、使命に燃えて来る日も来る日も眺めていたであろう大西洋を、失意の晩年、支倉は夢に見続けた、しかも夢の大西洋はかがやいていたと馬場はいう。昂揚して越えた大西洋の輝きを、失意の晩年、せめて夢の中で見せてやりたかったのだろう。(鹿取)
【西班牙 4 葡萄牙まで】『青い夜のことば』(1999年刊)P68~
参加者:N・I、T・K、藤本満須子、T・H、渡部慧子、鹿取未放
レポーター:T・K まとめ:鹿取未放
※この一連のまとめは、『戦国乱世から太平の世へ』(シリーズ日本近世史①藤井譲治) のほか、『支倉常長』(大泉光一)・講談社『日本全史』等を参照した。
120 慶長使節の支倉は老いて秘むれども夢に大西洋かがやけり一生
(レポート)
1571年 支倉常長生まれる
1613年42歳 イスパニア(スペイン)との交易を望む藩主(伊達政宗)の命により
宣教師 ルイスソテロに伴われ石巻(月浦港)を発ちメキシコアカプ
ルコに着く
1614年43歳 スペイン・マドリッドに着く。藩主正宗の書翰を呈したが日本のキリ
スト教禁止令がすでに伝わっており通商には反対が多かった。支倉は
この地で洗礼を受けキリスト教徒になる
1615年44歳 ローマに入りフェリペ三世に謁見したが藩主正宗が教徒でないため非
公式謁 見であった。ローマ市は支倉に「公民権」を贈る。書状は白い
羊皮 紙に金泥のラ テン語で記され日付は「1615年12月12日」
とあ る。この時教主と支倉常 長の肖像画をフランス人画家に描かせ
贈る。(伊 達家に伝わっている)。日本では徳川家康キリスト教禁止
令(直轄地)を出す
1620年49歳 支倉常長帰国
1622年51歳 支倉常長死亡
支倉の生涯を想うとき「夢に大西洋かがやけり一生」が胸に沁みる。(T・K)
(発言)
★ 八・五・八・九・八とやはり字余りである。(鹿取)
(まとめ)(2015年12月改訂)
天正使節が帰国したのが1590年で、支倉が慶長使節として石巻の月の浦を出航したのはそれから23年後、江戸幕府がキリスト教禁止令を出した翌年の1613年10月のことである。(つまり先の歌の伊東満所の死の1年後である。天正使節の伊東は13歳で出国したが、支倉の出国は42歳、支倉はずいぶん後世の人のように思っていたが実は伊東満所より2歳の年下に過ぎない。)
ところで、『戦国乱世から太平の世へ』(シリーズ日本近世史①・藤井譲治)を読んでいると戦国大名が乱世の中でどんな権謀術数の渦中にいたかがよく分かる。大名達は乱世を生き抜き、のし上がるために戦さの資金が必要であり、海外貿易はその資金を得る最も有効な手段だった。だから秀吉も家康もキリスト教と貿易のはざまで危うい綱渡りをしてきたし、徳川家と姻戚関係にあった仙台藩主伊達政宗も例外ではなかった。政宗は重臣ではない支倉を遣欧使節に任じ、幕府からお咎めを受けそうな時はいつでも切り捨てられるよう備えたというのが、大方の研究者の説くところである。政宗が遣欧使節を派遣した目的は、同行した宣教師ソテロに陸奥への宣教師派遣を許す見返りにスペイン領国への通商に、法王の尽力を願うところにあったと言われている。しかし国が禁教に舵をきって久しく、信者が処刑されている当時の時代状況を考えると、政宗が宣教師派遣を真剣に考えていたとはとても思えない。また、支倉の通商交渉が成就しなかったのは日本でのキリスト教弾圧が現地に知れ渡っていた為といわれている。帰国した支倉は、己を派遣した政宗にも厭われ、失意のうちに二年後五十一歳で病没した。しかし彼はキリスト教を棄てなかったらしい(棄教したという説をとる研究者もいる)。遠藤周作の小説「侍」によると、ローマ法王に会うため支倉はソテロによって便宜上洗礼させられたことになっているが、藩主の命令で己の内心に背いて洗礼を受けたのなら、弾圧や処刑から身を守るために改宗するはずである。改宗しなかったとしたら、例えはじめは偽りの洗礼であっても長い歳月を経て支倉が心底キリスト教徒になっていた証しだろう。
遣欧使に任ぜられた支倉は大西洋を渡るのに六ヶ月以上を要している。当時の船旅はいつ沈むか分からない日々命がけの旅だが、使命に燃えて来る日も来る日も眺めていたであろう大西洋を、失意の晩年、支倉は夢に見続けた、しかも夢の大西洋はかがやいていたと馬場はいう。昂揚して越えた大西洋の輝きを、失意の晩年、せめて夢の中で見せてやりたかったのだろう。(鹿取)
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