かまくらdeたんか 鹿取未放

馬場あき子の外国詠、渡辺松男のそれぞれの一首鑑賞。「かりん」鎌倉支部の記録です。毎日、更新しています。

渡辺松男の一首鑑賞 2の200

2019-09-25 19:35:58 | 短歌の鑑賞
   ブログ用渡辺松男研究2の27(2019年9月実施)
     Ⅳ〈蟬とてのひら〉『泡宇宙の蛙』(1999年)P133~
     参加者:泉真帆、岡東和子、A・K、菅原あつ子(紙上参加)、
         渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:泉真帆、渡部慧子    司会と記録:鹿取未放

  ◆5年以上の長きにわたって共に学んできたT・Sさんが
   9月5日急逝されました。感謝してご冥福をお祈りします。
  ◆秋田の菅原あつ子さんが、紙上参加で加わってくれました。

200 てのひらののっぺらぼうにぎょっとせり結んでひらくてのひらは妣(はは)

          (レポート①) 
 母との遊戯の記憶、またその手に包まれたり、握りしめて貰った記憶はいつよりか、作者の手が母の手をまた笑顔をつつむようになっていただろう。あるとき掌中の大切を確かめるように掌を開いてみたのかもしれないが、そこに見えるはずの母の笑顔どころか表情さえなく、のっぺらぼうだという。なるほど、あるときの死者はのっぺらぼうかもしれない。が、この、のっぺらぼうという言葉を選んだ作者に〈ああ母はとつぜん消えてゆきたれど一生なんて青虫にもある〉があるが、この内容と掲出歌とどこか通い合うものがあるように思う。死をことさらに厳粛視していないゆえんの何か。掲出歌と前述の歌の二首に限れば母の死についての言葉選びは土に関わっていて死への向き合い方がみえる。先に厳粛視していないとしたが、達観や諦念とも違うつきぬけたものがあると思う。(慧子)


     (レポート②)
 妣は亡き母のこと。妣がおもむろに開いた手をみると、そこにあるはずの手相や指紋などが何もない。「のっぺらぼう」だったので思わずぎょっとした、というほどの一首だろう。意表を突かれぎょっとするその臨場感や、ぬらりとした触感や、得体のしれない不気味さが、ユーモアをもって描かれている。表現工夫を見てみたい。まず初句で「てのひらののっぺらぼう」を提示することで、あののっぺらぼうの風貌が白いてのひらの形と重なり、ぬっと現れる。次いで腰の部分に置かれた「ぎょっとせり」の心情が、下句によってより強調される仕組みとなっている。「妣のてのひら」とは詠まず「てのひらの妣」と詠むことで、存在の全てがただ「手」だけになっているような怖ろしさも醸しだされる。また、開く、だけでも充分伝わるところを、あえて「結んで」をつけたことにより、ひらかれるまでの時間が加わり、情の焦点がより手のひらへのおどろおどろしさへと移行される。このような表現の工夫のため一首には情報を多く入れることができず、これは夢なのか、作者の幼い頃の記憶なのか、幽霊を見ているのかなどなど、場面を特定することが難しくなっているように思う。だがそのミステリーこそがこの歌の味だともいえよう。(真帆) 


     (レポート③)(紙上参加意見)
 手を握った時のじんわりとしたぬくもりは、手を開くとふわっとひろがって、すぐに消えてしまう。そして、また握れば現れる。確かに亡き母のようでもある。愛する者の喪失は、死後も鮮やかな実感を伴って繰り返される。その酷い瞬間を切り取った歌だと思う。けれど、上句の怪談めいた怖い表現でぎょっとさせながら、下句のあかるさときっぱりとした言い切り方によって、母の手のひらに包み込まれるような深い愛の歌にしていて、すごい表現力だと思う。(菅原)


          (当日意見) 
★渡辺さんは感覚から入る人ですね。上の句は誰にでも言えるかもしれないけど「てのひ
 らは妣」という下の句が渡辺松男さんですよね。掌は何にも無いと見えた途端に、ああ
 これこそがお母さんなんだと思った。理屈ではないんです。まして今の母親と昔の母親
 は違うから、こざかしいことを言ったりしたりしない。生命線とか運命線とか言われま
 すがそれは人間が後から考えたことで、本来はのっぺらぼう。のっぺらぼうには違い 
 ないんだけど足の裏でもなく腕でもなく胴体でもなく、てのひら。普通は結ぶか開くか
 一方しか入れないけど両方の動作を入れて、これがお母さんなんだなあと。抱えるよう
 な包むような支えるような感じ。(A・K)
★A・Kさんの説はとっても説得力がありました。ところで「てのひらは妣」というのは
 直喩ですか?暗喩が高級で新しい喩法と思っていましたが、永田和宏の『私の前衛短歌』
 に岡井隆との対談が載っていて、そこに暗喩はプリミティブなもので昔からあるけれど
 直喩は近代から始まった、直喩こそ新しくて難しいと書いてあったので恥ずかしながら
 びっくりしました。直喩を極めることこそ大事ってあって、例として「オリーヴのあぶ
 らの如き悲しみを彼の使(し)途(と)もつねにもちてゐたりや」(『白き山』)って斎藤
 茂吉の歌が あげられていました。(鹿取)
★佐藤佐太郎も直喩の大切さを説いています。短歌の極意は直喩だって。(A・K)



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