渡辺松男研究24(2015年2月)【単独者】『寒気氾濫』(1997年)83頁~
参加者:かまくらうてな、崎尾廣子、鈴木良明、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
レポーター:崎尾 廣子 司会と記録:鹿取 未放
◆欠席の石井彩子さんから、まとめ後にいただいた意見も載せています。
198 深帽のキェルケゴールのまなうらに樹は枯れしまま空恋いつづく
(レポート)
〈死〉によってもたらされる絶望を回避できないと考え神による救済の可能性のみが信じられるとした(Wikipediaより)キェルケゴールの神への信仰の厚さを表していると思う。西洋の人々の暮らしに深く根づいていたキリスト教という宗教の不思議さも伝わってくる。(崎尾)
セーレン・オービエ・キェルケゴール(1813年5月5日 - 1855年11月11日)は、デンマークの哲学者、思想家。今日では一般に実存主義の創始者、またはその先駆けと評価されている。キェルケゴールは当時とても影響力が強かったゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル及びヘーゲル学派の哲学あるいは青年ヘーゲル派、また(彼から見て)内容を伴わず形式ばかりにこだわる当時のデンマーク教会に対する痛烈な批判者であった。
キェルケゴールの哲学がそれまでの哲学者が求めてきたものと違い、また彼が実存主義の先駆けないし創始者と一般的に評価されているのも、彼が一般・抽象的な概念としての人間ではなく、彼自身をはじめとする個別・具体的な事実存在としての人間を哲学の対象としていることが根底にある。「死に至る病とは絶望のことである」といい、現実世界でどのような可能性や理想を追求しようと<死>によってもたらされる絶望を回避できないと考え、そして神による救済の可能性のみが信じられるとした。 (Wikipedia)
(意見)
★レポートにWikipediaからの引用を載せたので興味のある方は読んでください。レポートを書き
終わって思ったのですけど、この「枯れしまま」とうのは絶望の深さを詠っているのかなあと。
それから「恋いつづく」は絶望を回避したいと思っている心の表現。(崎尾)
★キェルケゴールは実存主義者ですよね、でも実存というのは神の存在を否定するんですよね。で
すので、キェルケゴールが神を信仰しているというのがわからない。(うてな)
★キェルケゴールは人間の存在から考えていくわけで、神から出発しているんじゃないんです。だ
から視点の違いなんじゃないかな。神から始まって人間の本質を神に持ってくるやり方ではなく て、今現在存在しているところから出発するんですよ。神を否定するとかじゃなくて存在してい
ることからものごとを考えていくんです。この神はキリスト教的な神ではなくて存在の根拠のよ
うなものです。(鈴木)
★そうすると私のレポートの一般的なキリスト教について書いた部分は間違いですね。(崎尾)
★では、この神はキリスト以前の綜合神的なものですか?(うてな)
★この神はむしろ今に近い感じ方では。われわれには何かによって生かされているという思いがあ
るじゃないですか。存在の根拠を神と言っている。一神教の神ではないです。(鈴木)
★レポーターは「キェルケゴールの神への信仰の厚さを表している」と書かれていますが、そうで
はなくて、自分のかたくなな何かを信じているという、この空は自分のことでしょうかね、単独
者のそういう在り方を詠われたのじゃないかと。(慧子)
★「深帽のキェルケゴール」と言っているので単独者がキェルケゴールに繋がりますね。キェルケ
ゴールが存在の根拠として神の恩恵のようなものを感じる訳ですよ。自分自身は虚無だけどそう
いうものによって支えられている。ということで枯れしまま移ろうものとしての自分を自覚しな
がら空の神の恩恵を追い続けていますよということじゃないかと。(鈴木)
★私単純だからどうして短歌でこんな難しいことを詠うのかと。そういう思想があるなら文章で表
せばいいのに。短歌には限界があるので、特殊なことを短歌にするのは無理というのがあって。
塚本邦雄はすごく理屈っぽいけど分かるんですね。だけどこの人は分からないです。(うてな)
★いや、私は違う考えです。むしろ短歌の限界を超えて詠っているところが松男さんの力だし魅力
だと思います。散文ではなく短歌を松男さんは選んだんです。正直私にはこの歌の下の句よく分
からないですし、松男さんの歌理解できないものもたくさんあります。でも、短歌にできる内容
には限界があるとか、哲学を詠み込むのは無理とかは思いません。伝統を破ることが伝統を継続
する力になるんじゃないですか。別に短歌だけじゃなくて、これが絵か!と言われたピカソが絵
画の世界を広げ、これが音楽か!っていわれて音楽の世界は広がったんです。定家だって塚本だ
ってこれが歌かと言われて歌の世界を広げてきたわけですから。松男さんもそういう歌を広げて
ゆく一人だと思います。(鹿取)
★塚本邦雄の時からそういう議論はありましたね。(鈴木)
(まとめ)
レポーターがWikipediaから引用されているが、最後の「そして神による救済の可能性のみが信じられるとした。」の続きが大切だし分かりやすい部分だと思うので(あまりWikipediaに頼りすぎるのはよくないが)下記に引用させていただく。
これは従来のキリスト教の、信じることによって救われるという信仰とは異質であり、ま
た世界や歴史全体を記述しようとしたヘーゲル哲学に対し、人間の生にはそれぞれ世界や
歴史には還元できない固有の本質があるという見方を示したことが画期的であった。
(Wikipedia )
この歌の鑑賞の場で、「神」についていろいろ意見が出たが、キェルケゴールは「デンマーク教会に対する痛烈な批判者であった」だけで、救済を求めた対象は従来の一神教の神であった。ただ、教会や牧師を媒介としない、神と〈われ〉が直で繋がることを希求したのだ。うてなさんの「実存というのは神の存在を否定する」というのは、直接にはレポートの「神への信仰の厚さを表している」の部分に対する疑義だと思うが、そこだけ取り出すと誤解を招きそうだ。無神論的実存主義と言われたサルトルや、「神は死んだ」(もちろん文字通りではないが)と言ったニーチェには当てはまるかもしれないが、この歌のキェルケゴールには当てはまらないからだ。確かにキェルケゴールは「実存主義の創始者、またはその先駆けと評価されている」が、膨大な書物を書いて彼はずっと神を希求しつづけた人だ。
歌に戻ると「樹は枯れしまま空恋いつづく」は、直前の「樹冠に空が張りついている」の続きとして読むべきだろう。(鹿取)
(後日意見)
197番歌(油絵のじっと動かぬ大楡は樹冠に空が張りついている)で憂鬱という絶望状態の楡は時間が経過し、枯れてしまったのである。『死に至る病』では、神を離れ、見失っている人間の状態を「絶望」ということばで表現している。「絶望」して、枯れてしまった人間。キルケゴールは絶望しつつ、常に真のキリスト教者になろうと苦悶している。そんな彼の神への救済を求める心が「空恋いつづく」ではないだろうか。
鈴木さんの「キリスト教的な神ではなくて存在の根拠のようなものです」はキルケゴールの書物のどこからも出てきません。このような根本的理解を誤ると「単独者」が理解できなくなります。 (石井)
参加者:かまくらうてな、崎尾廣子、鈴木良明、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
レポーター:崎尾 廣子 司会と記録:鹿取 未放
◆欠席の石井彩子さんから、まとめ後にいただいた意見も載せています。
198 深帽のキェルケゴールのまなうらに樹は枯れしまま空恋いつづく
(レポート)
〈死〉によってもたらされる絶望を回避できないと考え神による救済の可能性のみが信じられるとした(Wikipediaより)キェルケゴールの神への信仰の厚さを表していると思う。西洋の人々の暮らしに深く根づいていたキリスト教という宗教の不思議さも伝わってくる。(崎尾)
セーレン・オービエ・キェルケゴール(1813年5月5日 - 1855年11月11日)は、デンマークの哲学者、思想家。今日では一般に実存主義の創始者、またはその先駆けと評価されている。キェルケゴールは当時とても影響力が強かったゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル及びヘーゲル学派の哲学あるいは青年ヘーゲル派、また(彼から見て)内容を伴わず形式ばかりにこだわる当時のデンマーク教会に対する痛烈な批判者であった。
キェルケゴールの哲学がそれまでの哲学者が求めてきたものと違い、また彼が実存主義の先駆けないし創始者と一般的に評価されているのも、彼が一般・抽象的な概念としての人間ではなく、彼自身をはじめとする個別・具体的な事実存在としての人間を哲学の対象としていることが根底にある。「死に至る病とは絶望のことである」といい、現実世界でどのような可能性や理想を追求しようと<死>によってもたらされる絶望を回避できないと考え、そして神による救済の可能性のみが信じられるとした。 (Wikipedia)
(意見)
★レポートにWikipediaからの引用を載せたので興味のある方は読んでください。レポートを書き
終わって思ったのですけど、この「枯れしまま」とうのは絶望の深さを詠っているのかなあと。
それから「恋いつづく」は絶望を回避したいと思っている心の表現。(崎尾)
★キェルケゴールは実存主義者ですよね、でも実存というのは神の存在を否定するんですよね。で
すので、キェルケゴールが神を信仰しているというのがわからない。(うてな)
★キェルケゴールは人間の存在から考えていくわけで、神から出発しているんじゃないんです。だ
から視点の違いなんじゃないかな。神から始まって人間の本質を神に持ってくるやり方ではなく て、今現在存在しているところから出発するんですよ。神を否定するとかじゃなくて存在してい
ることからものごとを考えていくんです。この神はキリスト教的な神ではなくて存在の根拠のよ
うなものです。(鈴木)
★そうすると私のレポートの一般的なキリスト教について書いた部分は間違いですね。(崎尾)
★では、この神はキリスト以前の綜合神的なものですか?(うてな)
★この神はむしろ今に近い感じ方では。われわれには何かによって生かされているという思いがあ
るじゃないですか。存在の根拠を神と言っている。一神教の神ではないです。(鈴木)
★レポーターは「キェルケゴールの神への信仰の厚さを表している」と書かれていますが、そうで
はなくて、自分のかたくなな何かを信じているという、この空は自分のことでしょうかね、単独
者のそういう在り方を詠われたのじゃないかと。(慧子)
★「深帽のキェルケゴール」と言っているので単独者がキェルケゴールに繋がりますね。キェルケ
ゴールが存在の根拠として神の恩恵のようなものを感じる訳ですよ。自分自身は虚無だけどそう
いうものによって支えられている。ということで枯れしまま移ろうものとしての自分を自覚しな
がら空の神の恩恵を追い続けていますよということじゃないかと。(鈴木)
★私単純だからどうして短歌でこんな難しいことを詠うのかと。そういう思想があるなら文章で表
せばいいのに。短歌には限界があるので、特殊なことを短歌にするのは無理というのがあって。
塚本邦雄はすごく理屈っぽいけど分かるんですね。だけどこの人は分からないです。(うてな)
★いや、私は違う考えです。むしろ短歌の限界を超えて詠っているところが松男さんの力だし魅力
だと思います。散文ではなく短歌を松男さんは選んだんです。正直私にはこの歌の下の句よく分
からないですし、松男さんの歌理解できないものもたくさんあります。でも、短歌にできる内容
には限界があるとか、哲学を詠み込むのは無理とかは思いません。伝統を破ることが伝統を継続
する力になるんじゃないですか。別に短歌だけじゃなくて、これが絵か!と言われたピカソが絵
画の世界を広げ、これが音楽か!っていわれて音楽の世界は広がったんです。定家だって塚本だ
ってこれが歌かと言われて歌の世界を広げてきたわけですから。松男さんもそういう歌を広げて
ゆく一人だと思います。(鹿取)
★塚本邦雄の時からそういう議論はありましたね。(鈴木)
(まとめ)
レポーターがWikipediaから引用されているが、最後の「そして神による救済の可能性のみが信じられるとした。」の続きが大切だし分かりやすい部分だと思うので(あまりWikipediaに頼りすぎるのはよくないが)下記に引用させていただく。
これは従来のキリスト教の、信じることによって救われるという信仰とは異質であり、ま
た世界や歴史全体を記述しようとしたヘーゲル哲学に対し、人間の生にはそれぞれ世界や
歴史には還元できない固有の本質があるという見方を示したことが画期的であった。
(Wikipedia )
この歌の鑑賞の場で、「神」についていろいろ意見が出たが、キェルケゴールは「デンマーク教会に対する痛烈な批判者であった」だけで、救済を求めた対象は従来の一神教の神であった。ただ、教会や牧師を媒介としない、神と〈われ〉が直で繋がることを希求したのだ。うてなさんの「実存というのは神の存在を否定する」というのは、直接にはレポートの「神への信仰の厚さを表している」の部分に対する疑義だと思うが、そこだけ取り出すと誤解を招きそうだ。無神論的実存主義と言われたサルトルや、「神は死んだ」(もちろん文字通りではないが)と言ったニーチェには当てはまるかもしれないが、この歌のキェルケゴールには当てはまらないからだ。確かにキェルケゴールは「実存主義の創始者、またはその先駆けと評価されている」が、膨大な書物を書いて彼はずっと神を希求しつづけた人だ。
歌に戻ると「樹は枯れしまま空恋いつづく」は、直前の「樹冠に空が張りついている」の続きとして読むべきだろう。(鹿取)
(後日意見)
197番歌(油絵のじっと動かぬ大楡は樹冠に空が張りついている)で憂鬱という絶望状態の楡は時間が経過し、枯れてしまったのである。『死に至る病』では、神を離れ、見失っている人間の状態を「絶望」ということばで表現している。「絶望」して、枯れてしまった人間。キルケゴールは絶望しつつ、常に真のキリスト教者になろうと苦悶している。そんな彼の神への救済を求める心が「空恋いつづく」ではないだろうか。
鈴木さんの「キリスト教的な神ではなくて存在の根拠のようなものです」はキルケゴールの書物のどこからも出てきません。このような根本的理解を誤ると「単独者」が理解できなくなります。 (石井)
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