2023年度版 馬場あき子の外国詠53(2012年6月実施)
【中欧を行く 虹】『世紀』(2001年刊)P105~
参加者:N・I、崎尾廣子、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
レポーター:藤本満須子(急遽代理のため書面のみの参加)
司会と記録:鹿取 未放
388 はるか見るチェコ原子力発電所稼働拒まれしままに立ちゐつ
(レポート)
列車かバスか移動しているのだろう。窓から見えるはるか遠くには原子力発電所が建っているが、その発電所は稼働を拒否されている。1999年頃の旅行の時、作者はこのような視点で原子力発電所に目をやった。尚、2002年にはついに稼働を開始したと聞く。(藤本)
(当日発言)
★高野公彦さんも原子力発電所を詠んでいた。何を孕んでいるか分からない原発に文殊
とか普賢とか最高の智恵の名前を付けているという歌。何年頃の歌かは知らないが。
(慧子)
★ドイツなどは自分のところでは作らないで、よその国から原子力の電気を買ってい
る。(曽我)
★バスか列車の中から見えたのをガイドが指さして、稼働はしていない云々と概略の説
明があったのではないか。チェルノブイリ原発事故は1986年。この旅は1999
年、随分時間は経過しているが、その事故の記憶がチェコの反対運動に拍車をかけて
いたのだろう。作者が原発に注目して詠ったのも、チェルノブイリ事故あってのこと
だろう。ここに詠まれているのはテメリン原子力発電所です。(鹿取)
(後日意見)
【1987年に建設を開始したが、抗議活動が続き、幾度も建設は中断した。1999年建設支持は47パーセントまで落ちていたが、同年5月、政府による建設継続の最終決定に基づき建設続行、2002年に1号炉の営業運転を開始。2003年には2号炉の運転開始。現在はテメリン2基に加えドコバニに4基の原発が稼働しており、原発によりロシアへの依存が減り、電力輸出国としての地位を築き上げた。2011年の日本の原発事故後も原発促進を固持する国の一つとなっている。隣国オーストリアやドイツなどの反対は根強いが、国内での反対はあまり表面化していないようだ。】(Wikipediaなど数種のネット情報より)
作者の旅行は1999年秋なので、上記情報によるとまだ原発は完成していない。ただ反対運動は続いていたのかもしれない。それが完成はしていないが「稼働拒まれしままに立ちゐつ」と詠った所以だろう。3・11後の今読むとどきりとする。作者がこの歌を詠んだ折、チェルノブイリ原発事故のことが強く意識にのぼっていただろう。そして日本の原発についても漠然とした不安を感じていたのだろう。当日意見にある高野公彦の歌とは「近江なる観音を見て若狭なる<もんじゅ><ふげん>を見ず帰る旅」(『地中銀河』1994年刊)のことだろうか。 (鹿取)
【中欧を行く 虹】『世紀』(2001年刊)P105~
参加者:N・I、崎尾廣子、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
レポーター:藤本満須子(急遽代理のため書面のみの参加)
司会と記録:鹿取 未放
388 はるか見るチェコ原子力発電所稼働拒まれしままに立ちゐつ
(レポート)
列車かバスか移動しているのだろう。窓から見えるはるか遠くには原子力発電所が建っているが、その発電所は稼働を拒否されている。1999年頃の旅行の時、作者はこのような視点で原子力発電所に目をやった。尚、2002年にはついに稼働を開始したと聞く。(藤本)
(当日発言)
★高野公彦さんも原子力発電所を詠んでいた。何を孕んでいるか分からない原発に文殊
とか普賢とか最高の智恵の名前を付けているという歌。何年頃の歌かは知らないが。
(慧子)
★ドイツなどは自分のところでは作らないで、よその国から原子力の電気を買ってい
る。(曽我)
★バスか列車の中から見えたのをガイドが指さして、稼働はしていない云々と概略の説
明があったのではないか。チェルノブイリ原発事故は1986年。この旅は1999
年、随分時間は経過しているが、その事故の記憶がチェコの反対運動に拍車をかけて
いたのだろう。作者が原発に注目して詠ったのも、チェルノブイリ事故あってのこと
だろう。ここに詠まれているのはテメリン原子力発電所です。(鹿取)
(後日意見)
【1987年に建設を開始したが、抗議活動が続き、幾度も建設は中断した。1999年建設支持は47パーセントまで落ちていたが、同年5月、政府による建設継続の最終決定に基づき建設続行、2002年に1号炉の営業運転を開始。2003年には2号炉の運転開始。現在はテメリン2基に加えドコバニに4基の原発が稼働しており、原発によりロシアへの依存が減り、電力輸出国としての地位を築き上げた。2011年の日本の原発事故後も原発促進を固持する国の一つとなっている。隣国オーストリアやドイツなどの反対は根強いが、国内での反対はあまり表面化していないようだ。】(Wikipediaなど数種のネット情報より)
作者の旅行は1999年秋なので、上記情報によるとまだ原発は完成していない。ただ反対運動は続いていたのかもしれない。それが完成はしていないが「稼働拒まれしままに立ちゐつ」と詠った所以だろう。3・11後の今読むとどきりとする。作者がこの歌を詠んだ折、チェルノブイリ原発事故のことが強く意識にのぼっていただろう。そして日本の原発についても漠然とした不安を感じていたのだろう。当日意見にある高野公彦の歌とは「近江なる観音を見て若狭なる<もんじゅ><ふげん>を見ず帰る旅」(『地中銀河』1994年刊)のことだろうか。 (鹿取)
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