2024年度版 馬場あき子旅の歌44(11年10月実施)
【コンヤにて】『飛種』(1996年刊)P146~
参加者:泉可奈・N・I、K・I、崎尾廣子、藤本満須子
T・H、渡部慧子、鹿取未放
レポーター:T・H 司会とまとめ:鹿取 未放
323 神学校の屋内に瞑想の泉ありて苦しめるものは耳を休めき
(当日意見)
★今はこの泉に水はない。325番歌(水涸れし瞑想の泉に膝つきてかの日いもうとが
みしものを見む)に水が涸れていると詠われている。(藤本)
★三句目十一音にもなるのに泉ありてと「て」を入れているのはわざと。また、「き」
は過去の助動詞だから耳を休めたのは昔の話。(鹿取)
(まとめ)
神学校の屋内には今も瞑想の泉の跡が残っているのであろう。しかし水はもう涸れているのだ。はるか昔、その神学校で学び、生の苦しみを取り去りたくてそこで瞑想していた者たちは、その泉の音に耳を休め、心をなぐさめられたのだろうなあ、と想像している。(鹿取)
【コンヤにて】『飛種』(1996年刊)P146~
参加者:泉可奈・N・I、K・I、崎尾廣子、藤本満須子
T・H、渡部慧子、鹿取未放
レポーター:T・H 司会とまとめ:鹿取 未放
323 神学校の屋内に瞑想の泉ありて苦しめるものは耳を休めき
(当日意見)
★今はこの泉に水はない。325番歌(水涸れし瞑想の泉に膝つきてかの日いもうとが
みしものを見む)に水が涸れていると詠われている。(藤本)
★三句目十一音にもなるのに泉ありてと「て」を入れているのはわざと。また、「き」
は過去の助動詞だから耳を休めたのは昔の話。(鹿取)
(まとめ)
神学校の屋内には今も瞑想の泉の跡が残っているのであろう。しかし水はもう涸れているのだ。はるか昔、その神学校で学び、生の苦しみを取り去りたくてそこで瞑想していた者たちは、その泉の音に耳を休め、心をなぐさめられたのだろうなあ、と想像している。(鹿取)
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