かまくらdeたんか 鹿取未放

馬場あき子の外国詠、渡辺松男のそれぞれの一首鑑賞。「かりん」鎌倉支部の記録です。毎日、更新しています。

清見糺の一首鑑賞   73

2020-10-22 16:11:18 | 短歌の鑑賞
   ブログ版 清見糺の短歌鑑賞 10 スペイン・ポルトガル
                            鎌倉なぎさの会 
  
73 暗い絵のラビュリントスに画家ゴヤの苦しみにかなり離れ立ちおり
                 「かりん」95年9月号

 「プラド美術館へ」というタイトルの一首。よくある旅行詠とは違う独特の心の見せ方をしており、作者の人生にシンクロするところが面白い。
 「かなり離れ」とは随分散文的な言い回しであるが、そこが作者のねらいである。「かなり」と表現することで逆にゴヤの内面に強く吸い寄せられている作者の姿が見えるようだ。ゴヤは作者が非常な関心を寄せていた画家のひとりである。
 宮廷画家だったゴヤは、晩年耳が聞こえなくなりマドリード郊外の別荘で「暗い絵」のシリーズを描いたといわれている。(梅毒の治療に水銀を用い、その副作用で聾者になったという説もある。)その「暗い絵」のシリーズをゴヤは自分の別荘に掲げていたそうだが、現在は壁から剥がされてプラド美術館に展示されているらしい。代表的なものに「わが子を喰らうサトウルヌス」などがあり、それらの絵については作者が日常的に話題にしていたのを覚えている。「ラビュリントス」は迷宮。プラド美術館の一画、ゴヤの暗い絵のシリーズが掲げられた場を迷宮といったのだろう。そしてそれは描いたゴヤのこころの迷宮でもある。
 ところで掲出の歌について米川千嘉子さんが「かりん」九五年一〇月号の前月号作品鑑賞に鋭く濃い鑑賞をしていらっしゃるので、長いが引用させてもらう。ちなみに作者はこの米川評をとても喜んでいたのであった。

 「プラド美術館へ」の一連、多かったスペイン旅行詠のなかで、観光から一歩入ったところで詠んでいる面白さが光った。「滑走する機窓に見えてうらがなし成田空港フンサイの塔」「ベラスケス模写するゴヤを重ねつつゴヤを模写する人見るわれは」など、技巧や視点のおき方はいつもながらのものだが、その作為の後味がいつもより濃く残らず、旅行詠としてうたわれることで、作者の意識の流れが自然に感じられるのを、興味深く思った。「暗い絵のラビュリントス」と「画家ゴヤの苦しみ」は同格。「かなり」は意識的な口語の使用で、画家ではなく、作者の意識の側に一首をひきよせるのにうまく働いている。「かなり離れ」ということで、逆に「暗い絵のラビュリントス」につよく照らされている作者の場面がたしかに感じられる。作者自身のなかにもそんな「暗さ」「苦しみ」があるのだと直接いっているわけではないし、いってしまっては面白くなくなるのだが、「暗さ」に照らされている確かな場面性、「かなり離れ」という言葉から、むしろ逆に、離れ立つ人間の内面的陰影が濃く浮かんできているのが面白い。(米川千嘉子)



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