かまくらdeたんか 鹿取未放

馬場あき子の外国詠、渡辺松男のそれぞれの一首鑑賞。「かりん」鎌倉支部の記録です。毎日、更新しています。

馬場あき子の外国詠 223(中国)

2019-04-25 12:11:55 | 短歌の鑑賞
  馬場あき子の旅の歌29(2010年6月実施)
    【李将軍の杏】『飛天の道』(2000年刊)175頁
     参加者:Y・I、T・K、曽我亮子、T・H、藤本満須子、渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:T・H 司会とまとめ:鹿取 未放


223 遠景は蜃気楼とぞ陽関のかなた蹌踉と死者浮かびいづ

     (レポート)
 敦煌は乾燥地帯であるので、しばしば蜃気楼が現れるようだ。きっと車で走っておられた際、遠景に湖などを見られたのであろう。蜃気楼はしばしば人を惑わし死に追いやる。「陽関のかなた」陽関を出ずれば人影もないといわれた遙かシルクロードのかなた。遠景に湖のような蜃気楼を見て、水を求める旅人がそれを目当てに歩いていき、命を落とした人々を、今、先生は思い出しておられ、その死者の霊を慰めたいと願っておられる。(T・H)


      (まとめ)
「陽関のかなた」は、有名な王維の詩「渭城の朝雨軽塵を邑す/客舎青青柳色新たなり/君に勧むさらに尽くせ一杯の酒/西の方陽関を出づれば故人無からむ」(「元二の安西に使ひするを送る」)が下敷きになっている。
 安西は、現代の庫車で烏魯木斉の南方にあり、陽関からタクラマカン砂漠を越えたはるか西にある。帝の使者として安西都護府(とごふ)へ旅立とうとする元二に、陽関を過ぎたら知っている人は誰もいないのだから、もう一杯お酒を飲めよと勧めている詩だ。(レポーターは「陽関を出ずれば人影もない」と書いているが、「故人」はここでは知り合いの意味なので、人がいないのではなく、知っている人がいないのである。)元二は役人だから兵士と比べれば生きて帰れる確率は高いだろうが、陽関から安西に続く道は熱砂のタクラマカン砂漠である。(「タクラマカン」はウイグル語で「入ったら二度と出られない」意味だという。)馬場はこの歌の中で、生きて帰れなかった古代の無数の兵士や求道者や隊商など、砂漠で死んでいったもろもろの死者たちのことを考えたのであろう。
 「遠景は蜃気楼とぞ」と伝聞でいっている。実際、遠方に何かが見えてガイドさんがあれは蜃気楼ですよと教えてくれたのかもしれない。あるいは、陽関のかなたの果てしなく続く砂漠に、古代からの無数の死者たちがよろめいている姿が馬場には見えたのかもしれない。有名無名の無数の死者たちを悼む馬場の心の目がみている蜃気楼であろう。(鹿取)

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馬場あき子の外国詠 222(中国)

2019-04-20 17:18:15 | 短歌の鑑賞
♠明日から四日間、ブログお休みします。


  馬場あき子の旅の歌29(2010年6月実施)
    【李将軍の杏】『飛天の道』(2000年刊)175頁
     参加者:Y・I、T・K、曽我亮子、T・H、藤本満須子、渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:T・H 司会とまとめ:鹿取 未放


222 人いまも李広杏(りくわうあんず)と呼ぶ杏購ひて猛将のひと生あはれや

      (レポート)
 先生は李将軍の一生を哀れに思われて、その杏を求められた。(T・H)


      (まとめ)
 李広は大変な弓の名手で、一念をもって当たれば何事も可能という「石に立つ矢」のことわざも彼から出た、というほどの人である。また若い頃は皇帝の面前で羆と戦い、拳で倒したという逸話もある勇猛な人物である。
 馬場のエッセーによると、李将軍の人となりは、戦闘の後兵が水を飲み終わるまでは自ら飲まず、食べ終わるまでは自ら食べず、人望は比べるものがなかったという。この慎み深い性格から「桃李もの言わざれども下自ずから蹊を成す」のことわざもできたという説もある。(ちなみに、敦煌あたりでは「李広杏」の他に「李広桃」というのも名産としてあるらしい。)しかし、文帝、景帝、武帝三代に仕えた李広は、次第に老い、若い衛青・霍去病などの活躍する前線からは遠ざかった。最後は願って前線に出たが、道に迷い衛青・霍去病らの臨んだ決戦に遅れ、自分の時代が去ったことを悟って自刎したと伝えられる。若い衛青は李広同様に謙虚な性格で、位が李広を超えても彼を敬愛していたという。勇猛ながら結果としてはあまり恵まれなかった武人李広の植えた杏が、その名をつけて今も売られており、作者は猛将をしのんでその杏を買ったという。下の句には懐かしみと深い詠嘆がある。(鹿取)

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馬場あき子の外国詠 221(中国)

2019-04-19 19:10:35 | 短歌の鑑賞
  馬場あき子の旅の歌29(2010年6月実施)
    【李将軍の杏】『飛天の道』(2000年刊)175頁
     参加者:Y・I、T・K、曽我亮子、T・H、藤本満須子、渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:T・H 司会とまとめ:鹿取 未放


221 李夫人の兄李将軍そのひと生(よ)たたかひて今に杏残せり

     (レポート)
 「李夫人」の兄「李将軍」は、その一生を匈奴との戦いに終始し、晩年はあまり恵まれなかった。馬場先生の「李将軍」への哀惜の情がよく出ていると思う。(T・H)


      (まとめ)
 馬場のエッセーの中に「前漢の武帝は李夫人を熱愛し」、「政治的駆け引きに疎いその兄李広は恵まれず、一生を戦闘に費やした。」とある。李広は李夫人の兄というところは馬場の勘違いのようだ。
 李夫人には李延年と李広利という二人の兄がいる。長兄李延年は作曲家で、美人の妹を武帝に引き合わせたことで帝の寵を得た。次兄李広利は軍人として活躍したが、匈奴に投降後、匈奴に重用されたがために周囲からは妬まれ処刑されたという。杏を植えたのは李夫人の次兄李広利ではなく李広だが、名前が似ている上に同じ武帝に仕え匈奴と戦った軍人である点、紛らわしい。李広の没が紀元前119年、李広利の没が紀元前88年ということなので、李広利の主な活躍は李広没後ということになろう。李広利・李広・李夫人ともに生年が伝わっていないので年齢差は分からない。
 蛇足だが有名な李陵は、杏を植えた李広の孫に当たり、唐の詩人李白は李広の末裔だという。李白は万人が知るところであるが、李陵の方は李将軍に劣らず悲劇的な生涯を送っている。すなわち武将として活躍したが匈奴に降伏し、それがもとで家族は処刑される。しかも李陵を庇った『史記』の作者司馬遷は死刑はまぬがれたものの宮刑に処せられた。後日談がまだあって、李陵の郷里隴西の人々は匈奴に降伏した李陵のことを長く恥じたと伝えられている。ところで隴西に李という名字は多かったのであろうか。中島敦『山月記』の時代設定ははるかに下った唐代だが、主人公李徴は隴西出身の李氏ということになっている。(鹿取)

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馬場あき子の外国詠 220(中国)

2019-04-18 22:28:58 | 短歌の鑑賞
  馬場あき子の旅の歌29(2010年6月実施)
    【李将軍の杏】『飛天の道』(2000年刊)175頁
     参加者:Y・I、T・K、曽我亮子、T・H、藤本満須子、渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:T・H 司会とまとめ:鹿取 未放


220 隴西(ろうせい)の雲暗き日の李将軍物思ひ埋めし敦煌の杏

     (レポート)
 「隴西」中国甘粛省南東部。蘭州の南東部約140キロメートルにある県。李将軍の物語は『史記』下巻列伝参照。彼は幾多の匈奴との戦いに出征し、武功を立てたが、晩年はあまり恵まれなかった。馬場先生は敦煌の杏をご覧になって、その李将軍の心中を思いやっておられる。物思いを埋めたとの言葉に、深い哀愁を覚える。(T・H)


     (まとめ)
 前述のエッセー「李将軍の杏(あんず)」によると、『和漢朗詠集』に、「隴西(ろうせい)雲暗く李将軍家に在り」という詩句があるそうだ。エッセーの中で、馬場はこう書いている。「将軍が家に居るかぎり戦争はない。そんな平穏なある日、李将軍は何を思って砂漠の広がる辺土に杏を植えたのだろう。」と。
 Wikipedia等で調べると、一説には作物の乏しい貧しい民の飢餓対策として杏や桃を植えたとある。李広は勇猛な武将だったので匈奴からは「飛将軍」とあだ名され恐れられたが、必ずしも政治的には恵まれなかった。そんな李広が戦いのない日日鬱々と物思いに沈みながら植えた杏の苗。もちろん、民の飢餓を救いたい純一な思いの他にも、世に思うように入れられない暗いたぎりがあったであろうその複雑な胸中を思いやった歌である。(鹿取)

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馬場あき子の外国詠 219(中国)

2019-04-17 20:12:09 | 短歌の鑑賞
  馬場あき子の旅の歌29(2010年6月実施)
    【李将軍の杏】『飛天の道』(2000年刊)175頁
    参加者:Y・I、T・K、曽我亮子、T・H、藤本満須子、渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:T・H 司会とまとめ:鹿取 未放


219 敦煌の杏乾びて早き秋『史記』は李将軍の杏を載せず

     (レポート)
 今、馬場先生は、敦煌の街中で、いろいろな果物を売る店頭の景観を楽しんでおられる。するとそこに「李広杏」と記された果物を発見された。「ホウ、李広将軍とは『史記』にあるアノ李広将軍のことか。」と。シルクロードの果物と言えば、西瓜と葡萄、それにマクワウリなどがよく写真で見受けられるが。(T・H)


     (まとめ)
 馬場あき子の朝日新聞に載ったエッセー「李将軍の杏(あんず)」(2001年12月19日付け)によると、敦煌の休日、自由市に山盛りの干し杏が売られていて「李広杏」と書かれていたという。上記エッセーの中で干し杏は「天然の蜜の粘りを泌ませていかにもおいしそうに燿いている」とあるので、もう早い秋が来ている敦煌で「乾びて」いるのは木に残った杏のことだろうか。以前から好きだった李将軍の名を冠した杏が名産として売られていた発見と興奮がこの歌から読み取れる。それなのに『史記』の「李将軍列伝」には、李将軍が杏を植えた記事が出ていない、それが馬場には疑問なのだ。
 ネットのによると、「西漢時代の名将李広が大宛を征伐した後、新疆からもちかえった」
(中国現代グルメ情報)ことから李広杏の名が付いたとある。(鹿取)


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