かまくらdeたんか 鹿取未放

馬場あき子の外国詠、渡辺松男のそれぞれの一首鑑賞。「かりん」鎌倉支部の記録です。毎日、更新しています。

写真入り 馬場あき子の外国詠 145(ネパール)

2021-02-23 18:11:13 | 短歌の鑑賞

   これはジョムソン近郊ではなく、もっと都市近郊の棚田

  ブログ版馬場の外国詠 18  
    (09年5月)【ニルギリ】『ゆふがほの家』(2006年刊)89頁~ 
    参加者:K・I、N・I、佐々木実之、曽我亮子、T・H、渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:N・I 司会とまとめ:鹿取 未放


145 眼の下は千段棚田その標高三千なりネパールを耕しし手よ

       (レポート)
 日本でさえ棚田は大変なのに、ネパールの標高三千というところで作業する労働力と手業のけなげさに驚異を覚えた作者の思いが読む者にも伝わります。(N・I)


       (まとめ)
 これは飛行機から見下ろした風景。ほんとうに細かい棚田が山の頂上付近まで続いているのが見えた。機械化はされていないので、手作業でそんな高地を耕しているのだ。その作業の苦労に対して、また棚田の美しさに対して感嘆しているのだろう。その感動が「ネパールを耕」すという国名を用いたところにも現れている。
 ちなみに、もう少し都市部でも山の頂上まで続くような棚田をたくさん見た。そして移動するバスから見ると、耕しているのは女性ばかり、ついぞ男性が田畑で働く姿を見かけなかったが、たまたまそうだったのだろうか。田畑を耕す女性はたいてい集団で、みなさんいろとりどりの裾の長い衣服を纏っていて、働きにくいのではと思ったことだった。山のような刈草を背負っているのも女性だった。この国の男性は何をしているのかと憤慨したが、それこそ山のように農作物を積んだトラックを運転しているのは男性だった。カトマンズでは、ベッドの大きなマットを背中に担いで裸足で急ぐ男性も見かけた。(鹿取) 


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写真入り 馬場あき子の外国詠 144(ネパール)

2021-02-22 19:40:16 | 短歌の鑑賞

   ジョムソンを上空から見たところ


 カリガンダキ河に沿うジョムソン街道を行く人々、扉はジョムソンの農業研修所 

  ブログ版馬場の外国詠 18  
    09年5月)【ニルギリ】『ゆふがほの家』(2006年刊)89頁~ 
    参加者:K・I、N・I、佐々木実之、曽我亮子、T・H、渡部慧子、鹿取未放
    レポーター:N・I 司会とまとめ:鹿取 未放

144 ヒマラヤをカリガンダキ河に沿ひ溯る貧しき裸足の道ありき俯瞰す

       (レポート)
 小さな飛行機から見た風景でしょうか。たぶん石ころ道のほこりっぽい道を素足で歩く人が多いのでしょう。これから訪ねる土地への挨拶歌と読みました。(N・I)


       (意見)
★挨拶歌とか挨拶の句は、土地褒めが習わしでしょうから、これはそれとはちょっと違う感じです
 よね。(鹿取)


      (まとめ)
 馬場あき子がヒマラヤを訪問した2003年当時、ポカラからジョムソンまで車は通っておらず、地元の人たちはカリガンダキ河に沿う道を使っていた。この道を行くには馬や驢馬に乗るか、歩くしかなかった。そして土地の人の多くは大きな荷物を額に掛けた紐で支えて往来していた。しかし裸足であるかどうかまでは飛行機やホテルからは見えないから、かつて裸足で行き来したということを詠んでいるのだろう。それが「道ありき」と過去の助動詞「き」が使われている理由だろう。かつてこの街道は「塩の道」と呼ばれ、チベットの岩塩をインドに運ぶための道であった。カリガンダキ河はなんとガンジス川の支流なのである。ヤクに岩塩を乗せて運んだというが、ヤクを引く人々は裸足だったのだろうか。ちなみに2003年当時、裸足の人は、首都のカトマンズでも多く見かけた。日本なら小学校高学年くらいの女の子が上半身裸で裸足ということもあった。この歌、5・11・5・8・9と大幅な字余りであり、結句は5音と4音の大胆な句割れになっている。これは貧しさへの詠嘆であろうか。(鹿取)
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渡辺松男の一首鑑賞 168

2021-02-21 18:07:05 | 短歌の鑑賞
  ブログ版 渡辺松男研究 21 2014年10月 
     【音符】『寒気氾濫』(1997年)70頁~
     参加者:石井彩子、泉真帆、鈴木良明、曽我亮子、N・F、渡部慧子、鹿取未放
      レポーター:鈴木 良明 司会と記録:鹿取 未放


168 白き気配廊下よこぎりゆく見えてするすると喪はあけてゆくなり

          (レポート)
 この歌では、「白き気配」と詠んでいるが、前の歌で詠まれた「魂」の「古来多く肉体を離れても存在するとした」死後の魂の行方を詠んでいるのだろう。身内の葬儀のあと喪が明けるまでは「魂」はそこに留まっていたが、その時が来て解放されて外に出ていった。日本の風習のなかで暮らしていると、死後の魂の存在を認める認めないに関わらず、このような感じは良く分かる。(鈴木)


        (意見)(2014年10月)
★気配というのは魂が昇天する気配だと思うのですが、するするって普通は言えない。でも全然違
 和感がなくて。変わった表現をされますね。(曽我)
★渡辺さんって自分と周りの境がない人だと思います。廊下というのは時間の経過を表していると
 思います。時間は有限ですから、喪に服す思いもやがて消えていくんですね。それのひとつの合
 図が白き気配じゃないですか。時間はピリオド。喪に服する気持ちが終わってしまったのが、「白
き気配」なのかな。(石井)
★私はこの気配には尻尾のようなものがあって、だからするするかなあって。それが廊下を去って
 いくことで喪が終わる。人間の気持ちから見ているのではなくて、時間の方に主導権があって去
 っていくような。廊下はリアルな方が面白い気がする。(鹿取)
★これ、相対性理論でしょう。時間と空間が関数になっているんでしょう。(石井)
★私の住んでいる所は古い土地だから、親しい人が亡くなると必ず兆候がある。白い鳩とかの形で。
 渡辺さんが住んでいらっしゃる群馬にはもっとそういう話があると思う。だから白くもあーと廊
 下を抜けるものがあると、ああ死者が去って喪が明けたのかと、そういう言い伝えも背景にあっ
 て詠まれたのではないか。(N・F)
★私もそういう白い鳩のたぐいの話は昔から聞いています。でも、本当かどうか確かめようがない 
 ですよね。(鈴木)
★昔のシャーマニズムがどこか奥底にあるのかなと。(N・F)
★でも、そういうこといっさい私は信じられない人だから、渡辺さんの表現のすばらしさとして味
 わいたいと思います。(曽我)

※田村広志さんから後日、「2、3句の句跨りが面白い」という評をいただいた。
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渡辺松男の一首鑑賞 167

2021-02-20 17:58:35 | 短歌の鑑賞
  ブログ版 渡辺松男研究 21 2014年10月 
   【音符】『寒気氾濫』(1997年)70頁~
    参加者:石井彩子、泉真帆、鈴木良明、曽我亮子、N・F、渡部慧子、鹿取未放
      レポーター:鈴木 良明 司会と記録:鹿取 未放


167 寒林のなかに日当たるところあり抜けやすきわが魂はよろこぶ

        (レポート)
 辞書によれば、「寒林」には、「冬枯れの林」のほかに、「屍を葬る所、墓地」という意味もある。冬枯れの林であれ、墓地であれ、そのような中に明るい冬の日ざしが射していると、誰しもその場所に魅かれ、曳かれる気持ちになるだろう。歌ではそれを「抜けやすきわが魂はよろこぶ」と詠んでいる。「魂」は、辞書によると「肉体に宿って心のはたらきをつかさどると考えられるもの。古来多く肉体を離れても存在するとした」とある。歌もこれを念頭に詠んでいると思われる。
  ※私見では、辞書の前段は認められるように思う。その人の肉体に宿って心身(意識・無意識)の
   はたらきを統合的につかさどるものの存在(脳ではなく)は、何かあるだろう。それは心身を超
   えたものであるから「魂」とよぶのにふさわしい。このことは163番歌「手と足と首がてんで
   んばらばらにうごきはじめて薄明に覚む」の歌からも感じられるが、後段は、現時点では確認す
   るすべがない。(鈴木)


          (意見)
★魂とはいえ動くときは明るい方へ行きたいのかなあ。(慧子)
★下の句が面白い。魂が体から抜け出してつい憑依とかしやすい私にとって、私の魂は日だまりを
 好むと言っていて、魂が集まっているのは愉快なもの、楽しいものとそもそもが思っておられる。
   (真帆)
★和泉式部は蛍を私からあくがれて出ていった魂だって詠んでいますね。また、掲出歌の後の方の
 頁に、雪の野原に一本の樹があって、魂が集まっている、みたいな歌があったと思うのですが、
 それも抜け出していく魂だったのかな。日だまりを好む魂って、懐かしい感じがします。(鹿取)
★私は真帆さんとも鹿取さんとも魂の捉え方が違って、体の中にあって直感も含めて感じるものと
 とらえている。それは体の外に出て行くものじゃなくて、体の中に留まっていて、気持ちが冬の
 日だまりに行っちゃうと言うのは誰にも有るんじゃないですか。惹かれる気持ちを魂は喜ぶと言
 っているだけで、体から離れて行くまで言わなくていいと思う。(鈴木)


       (まとめ)
鹿取の発言にある和泉式部の歌は〈物思へば沢の蛍も我が身よりあくがれいづる魂かとぞみる〉で、この歌の「あくがる」は普通「魂が肉体からさ迷い出る」意味と考えられている。また、雪の野原の歌云々というのは、『寒気氾濫』78頁の〈ひとつ死のあるたび遠き一本の雪原の樹にあつまるひかり〉を念頭に置いていたが、この167番歌との関連は薄いようだ。(鹿取)

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渡辺松男の一首鑑賞 166

2021-02-19 19:27:00 | 短歌の鑑賞
  ブログ版 渡辺松男研究 21 2014年10月 
   【音符】『寒気氾濫』(1997年)70頁~
   参加者:石井彩子、泉真帆、鈴木良明、曽我亮子、N・F、渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:鈴木 良明 司会と記録:鹿取 未放


166 平面はぐにゃぐにゃとなることもなきわがQUARTZの秒針の影

         (レポート)
 「物質が存在すると時空が曲がる」(アインシュタインの一般相対性理論)が念頭にあって、この歌が詠まれている。この理論によると物質の質量(重さ)が大きいほど周囲の時空は大きく曲がるが、正確な時間を刻むはずのQUARTZ腕時計にも、この原理が及んでいることを作者は感じている。さすがに、空間(平面を含む)がぐにゃぐにゃになる「空間の曲がり」を見ることはないが、「時間の曲がり」=「時間の遅れ」を「秒針の影」に見ているのだ。 (鈴木)
  ※(1)辞書によると、QUARTZとは水晶に一定の電圧を加えると決まった時間内に決まった回
    数、正確に発信するという特性を利用した、水晶発振式時計である。水晶の温度が高くなると
    狂いが生じてくるので、大型の保温装置を必要としたが、六十四年の東京オリンピックのと
    き、電流の流し方で温度を調節できる小型化に成功し、腕時計も可能とした。
  ※(2)相対性理論には「特殊相対性理論」と「一般相対性理論」がある。
     前者は、「物体が等速直線運動を行っている場合」にのみ当てはまる理論であり、これに修
      正を加えて加速度運動(重力)にも当てはまるようにしたものが、後者。



       (意見)
★ダリの絵でこういうのがありますね。時計がぐにゃっとして垂れ下がっている。あの絵の意味は
 よくわからないのですが、あの絵に近いものを感じます。(N・F)
★「時間の固執」でしたっけ?松男さん、ダリが嫌いで僕はマグリットが好きですといろんなとこ
 ろで言っている。これも、僕の時計はダリのようにはならなくて、秒針の影もしっかり見えてい
 るって。マグリットの端正な感じが秒針の影のイメージにはあるのでしょうか。ダリはよく分か
 らないから言えないけど、冷静に技巧駆使した結果の絵は情念のどろどろが出てるような気がす
 る。ああいう情念の放出の仕方が、松男さんは嫌なのかな。(鹿取)
★ダリの絵、「記憶の固執」じゃないですか。普通時間って直線ですよね。でも、ニーチェなんか
 循環していますよね。仏教にも循環がありますけど、そんなふうな自然の移り変わりや生まれ変
 わりって意味なのかなあ。(石井)

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