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かまくらdeたんか 鹿取未放

馬場あき子の外国詠、渡辺松男のそれぞれの一首鑑賞。「かりん」鎌倉支部の記録です。毎日、更新しています。

渡辺松男『寒気氾濫』の一首鑑賞 351

2024-11-25 15:53:32 | 短歌の鑑賞
  2024年度版 渡辺松男研究42(2016年9月実施)
    『寒気氾濫』(1997年)【明快なる樹々】P143~
     参加者:M・S、鈴木良明、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放     
     レポーター:鈴木 良明    司会と記録:鹿取 未放


351 行く雲の高さへ欅芽吹かんと一所不動の地力をしぼる

        (レポート) 
欅の大木は「行く雲の高さ」を目指して高く高く芽吹こうとしている。地力は本来備わっている力のことだが、欅自身の力というより、背後に自然そのものの生命力の強さが思われる。(鈴木)
  


    (当日意見)
★「行く雲の高さ」というところが遙かな志のようでいいですね。 (慧子)
★松男さんらしい歌ですね。「一所不動」というところ、木というのは動かないのが本
 来で、動かないことを選択したんだという歌もありました。動かないことによって本
 来の力を発揮できるのが面白い。(鹿取)
★「一所不動」であるころで自然の力を全部吸い上げてしまう。地力ってそういう感じ
 なんだと思います。(鈴木)
★辞書には「土地が作物を育てる能力」「土地の生産力」とあります。松男さんは「土地
 の、土そのものの持つ力」と言う意味合いも込めて歌っているように思います。(鹿取)
★「一所不動」という言葉はあるんですか。(M・S)
★合わせた言葉ですね、力強い言葉。(鈴木)
★私もこの歌はこの言葉で出来ていると思う。一生懸命だったらつまらない。(M・S)


      (まとめ)
 以前にも引用したが、この歌と関連のある松男さんのエッセイ「樹木と「私」との距離をどう詠うか」より引用します。
【木の内側の大部分は死んでいるということは木の不動性と垂直性に関連している。木は生き方として不動性を選択したときに垂直性を運命づけられた。一所に行き続けるためには上に伸びなければならないからだ。伸びることを、内側の死という塊が支え、そして塊は年々太っていくのsである。】
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渡辺松男『寒気氾濫』の一首鑑賞 350

2024-11-24 11:09:29 | 短歌の鑑賞
  2024年度版 渡辺松男研究42(2016年9月実施)
    『寒気氾濫』(1997年)【明快なる樹々】P143~
     参加者:M・S、鈴木良明、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:鈴木 良明    司会と記録:鹿取 未放


350 樹々の根のあらわな崖に音たてて春の疾風がぶつかりつづく

    (レポート)
 山の中では崖崩れなどによって樹々の根があらわになっているところをよく見かける。そこに春の疾風が容赦なく打ち付けて、さらに浸食はすすむだろう。山中の森の樹々といえどけっして安泰ではなく、日常の大きなうねり、返歌の中でかろうじて命を繋いでいる樹々もあるのだ。(鈴木)


    (当日意見)
★簡潔に状況を捉えた歌いおこしがすてきだなあと思いました。滋味だけどとてもい
 い歌。( 慧子)
★崖崩れでなくても根のあらわな崖はよく見かけますね。樹にとっては「春の疾風がぶ
 つかりつづく」のは辛い状況でしょうが、読む方は小気味よい感じがしますね。爽快
 な感じ。(鹿取)
★これは春一番を歌っている気がします。その後、春が来て芽吹きが始まるんですね。
   (M・S)
★春一番も含むでしょうが、「ぶつかりつづく」だから、ある一日のことではなくもう少
 し長いスパン、この所毎日毎日「疾風がぶつかりつづく」状態なのだと思います。
   (鹿取)
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渡辺松男『寒気氾濫』の一首鑑賞 349 

2024-11-23 11:59:31 | 短歌の鑑賞
  
        「短歌と書」展より
  かあさんは手紙ひらけばそこに在る夕枯野よりやって来るひと  渡辺松男

 2024年度版 渡辺松男研究42(2016年9月実施)
    『寒気氾濫』(1997年)【明快なる樹々】P143~
     参加者:M・S、鈴木良明、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:鈴木 良明    司会と記録:鹿取 未放


349 春さむき大空へ太き根のごとく公孫樹の一枝一枝のちから

      (レポート)
 公孫樹の枝は、欅の繊細な枝などとは異なり、幹からいきなり太い枝を差し出す。まだ寒さの残る春に、そのような公孫樹の裸木が大空に向かって「太き根のごとく」 枝を差し出している姿を目にして、公孫樹の「一枝一枝」のみなぎる「ちから」を作者は感じているのだ。(鈴木)


     (当日意見)
★大空に向かって根のような枝が伸びるのが面白い。(曽我)
★「一枝一枝」の部分をレポーターの鈴木さんは「ひとえだひとえだ」 と読まれました
 が、私は「いっしいっし」 と読みました。ルビは振られていないのですが、「いっし
 いっし」 の方が音数に収まるし、枝の伸びる力強さが出るように思います。(鹿取)
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渡辺松男『寒気氾濫』の一首鑑賞 348

2024-11-22 12:05:25 | 短歌の鑑賞
  2024年度版 渡辺松男研究42(2016年9月実施)
    『寒気氾濫』(1997年)【明快なる樹々】P143~
     参加者:M・S、鈴木良明、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
   レポーター:鈴木 良明    司会と記録:鹿取 未放





           「短歌と書」展  渡辺松男の歌



348 あこがれのハヤブサを見しばかりにて鐘なるごとき冬空の紺

     (レポート)
 隼はタカ目ハヤブサ科の猛禽類。飛翔しながら小鳥などの狩りをするが、急降下時の速度は一説によると時速390キロに及ぶという。巣を作らず、断崖の窪みなどに卵を産み、生息数は減少しているので、普段目にすることも少なく、隼はあこがれの存在なのだ。その隼が冬空に偶然飛翔する姿を目にしたために、鐘の音と冬空の紺色の響き合った。(鈴木)


      (当日意見)
★あこがれハヤブサを観た喜びが「鐘なるごとき冬空の紺」によく現れている。(慧子)
★「鐘なるごとき」はウエディングベルのような幸せ感かな。(M・S)
★正岡子規の句の「柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺」はお寺の鐘。この歌では鳴ったと
 言ってはいないけど鐘の音の厳かな感じとか爽快感とか、ハヤブサを見た一瞬の感動
 を重ねている。そしてそれが冬空の深い紺色にも通じると。(鹿取)
★具体的にお寺とか教会とかいうのではなく、鐘でハヤブサのスピード感を表してい
 る。(鈴木)
★佐藤佐太郎に夕焼けが轟くごとくという歌があるのですが、景を音で例えるという主
 事法がある。(慧子)
★佐太郎には聴覚の歌が多いですよね。佐太郎を読むと耳の良い人なんだろうなといつ
 も思います。(鹿取)
★音と色彩を合わせた。紺には何か音があるような気がする。(鈴木)
★この間鑑賞した歌にも、 凧がそれぞれの紺の空にあるというのがありましたね。
   (鹿取)


      (まとめ)
 渡部慧子の当日発言の歌
はなやかに轟くごとき夕焼けはしばらくすれば遠くなりたり『歩道』
鹿取発言の歌
それぞれにそれぞれの空があるごとく紺の高みにしずまれる凧『寒気氾濫』
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馬場あき子の外国詠 422 ドイツ

2024-11-21 15:23:28 | 短歌の鑑賞
2024年度版 馬場あき子の外国詠58(2012年11月実施)
    【ラインのビール】『世紀』(2001年刊)213頁
     参加者:K・I、崎尾廣子、曽我亮子、藤本満須子(紙上参加)、
        T・H、渡部慧子、鹿取未放
    レポーター:渡部 慧子 司会とまとめ:鹿取 未放
     

422 ライン川の地ビールが酔はせてくれた夜を誰か小声の敦盛の歌

      (レポート)
 「ライン川の地ビールが酔はせてくれた」とは直接にはビールだが、誰か土地の神のような介在が思われて、それが「酔はせてくれた」と解したくなる。そんな時、「誰か」「小声の敦盛の歌」をききとめたのだ。この作者にして「誰か」とは気配のようなものと思うことしばしばだが、この「誰か」に誰を当て嵌めれば深い味わいになるのだろう。作者の旅の「夜」に、幻が出入りして、「酔はせてくれた」り「敦盛の歌」を聞かせてくれたりしたと想像する。「敦盛の歌」を残念ながら知らないのだが、一首の魅力は十分味わえる。(慧子)
   

      (紙上参加意見)
 ドイツの地ビールをみんなで飲んでいる。少し酔いが回ってきたのか、しかし大声で唄ったり騒いだりはしない。誰かが敦盛の歌をうたっている。「誰か小声の敦盛の歌」がこの一首の抒情を深めている。お能でも歌舞伎にも題材になっている平敦盛。お能幸若舞の敦盛の一節であろう。半歌仙、敦盛、熊谷直実に討たれた悲劇、この一連、ライン川を観光しながら作者の本来の姿というか作者自身の思想というか、旅にいながらもその姿が見えてくるような一連である。(藤本)


      (当日意見)
★これは謡曲ではないか。(曽我)
★レポーターのいうように敦盛の歌を幻で聞くよりも実際に聞こえる方が面白い。昼間
 は歌わなかった日本人も夜になってだいぶん酔ってきて、ふっと小声で誰かが歌い出
 したのではないか。あるいは自分が歌ったことをぼかして誰かと表現しているのかも
 しれない。こういう「誰か」は作者の歌によく登場する。もう自分たちだけで小部屋
 にでもいるのかもしれない。(鹿取)
★敦盛の歌というより詩吟なのではないか。(T・H)
★「青葉の笛」って敦盛を歌った歌ではないか。一の谷の軍(いくさ)破れって。
   (崎尾)
★詩吟だと小声では感じが出ない。「青葉の笛」は哀調のある歌ですから、この場にふ
 さわしいかもしれないですね。(鹿取)


     (まとめ)
 旅の終わりに酔って敦盛の歌を歌うところが唐突だが面白い。ドイツにあってローレライではなく日本の、しかも古い歌を歌うところがいかにもありそうな気がする。作者自身もそうだし、周囲に謡曲をたしなむ人は多いから謡曲でも好いし、哀調のある「青葉の笛」(一の谷の軍(いくさ)破れ討たれし平家の公達(きんだち)あわれ)でもいいだろう。また、作者が一人の部屋に戻った夜中、自分で敦盛の歌をうたっているととってもいいだろう。ドイツの旅の終わりに敦盛という悲劇の貴公子を出してくるところに日本人の根っこのようなものが感じられて興味深い。(鹿取)
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