マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

鶴岡公園(鶴岡で その2)

2011年07月11日 | 

 7月3日(日)、再び鶴岡公園を訪れました。緑豊かな城址公園です。
 市観光連盟によると、鶴岡公園は次の様に紹介されています。

『酒井家が庄内藩主として約250年来居城とした「鶴ヶ岡城」跡です。敷地内の堀や石垣、樹齢数百年の老杉が城の名残りを感じさせます。また市の中心部に位置する公園には四季を通して美しい花々が咲き揃います。ことに園内にある730本の桜は「日本の桜百選」に選ばれ、県内随一の桜の名所として知られています。また、文化財や史跡が集中するこの一帯は、藤沢文学の「海坂藩」の舞台にもなっており、城下町の風情が色濃く残っています』



 この時期桜はありませんが、730本の桜木が咲き競う姿は見事でしょう。「日本の桜百選」も頷けます。(市観光連盟の写真を拝借しました)










(夜桜も見事だそうです:市観光連盟から拝借)



 映画「花のあと」の撮影がこの公園内で行われました。初夏のその日は青々と茂る杉木立が心地よく、建物の内部見学は大寶館のみに留め、城跡内をそぞろ歩きました。見事な堀割りや石垣が一層の趣を醸し出し、水面に映る緑や水辺に咲く花々を眺め、時として土塁跡に立ち、古城の良さを堪能しました。

 









         (大寶館)






    (中央に土塁跡が垣間見えます)


 時間の関係で、致道館と致道博物館は外から眺め、鶴岡発11時5分発の普通電車で余目方面を目指しました。(致道館入口付近)

 


 

 


          (庄内藩レトロバス) 


藤沢周平記念館(鶴岡で その1)

2011年07月10日 | 

 7月2日(土)、特急つがる2号弘前発が6時19分。秋田で特急いなほ8号に乗り継いで酒田着が10時42分。酒田滞在は僅か4時間弱で鶴岡へ。

 その酒田では山居倉庫を見学し、「海鮮どんや とびしま」で昼食。山居倉庫は吉永小百合の”大人になったらしたいこと”のポスターでも知られた場所。「とびしま」はその日が土曜日であったためか、30分も並ぶ大盛況。家族連れで賑わいます。私たちは廉価な具沢山の丼ものを食しました。(山居倉庫)




       (海鮮どんや とびしま)

 酒田から、再度特急いなほ号に乗車し鶴岡着は14時43分。駅から3分のホテルルートインに到着すると、家人はここでついにダウン。30度は越える炎天下、酒田市街を、この地も又徒歩のみで案内した私の罪です。已む無く、ここからは薄情にも、私一人で行動開始。慌てて観光案内所へ出向き、茨木のり子眠る浄禅寺への、加茂行きバスの時刻を尋ねると、最終便は出てしまったとの事。今回の旅行で、浄禅寺へ行くことを断念。初めてバスを利用し市役所前で下車します。目的は藤沢周平記念館です。
 かっての鶴ヶ岡城の跡地は鶴岡市街地のほぼ中心に位置します。江戸時代には庄内藩の藩庁でした。平城で土塁が造られ、その痕跡が残っています。現在、本丸と二の丸跡周辺は鶴岡公園となり、その中に荘内神社や大寶館が建ちます。三の丸跡には致道博物館が、鶴岡公園南東には藩校致道館が残っています。その公園に隣接して市役所が建ちます。要するに、今も昔も、ここが鶴岡の中心地なのです。



 その鶴岡公園内に昨年4月29日、藤沢周平記念館がオープンしました。昨年1月、雪の季節に友のTさんとこの地を訪れ、記念館を訪ねようとした事がありました。あと数ヶ月後に開館されると知らされ残念な思いでここを去ったのでした。あれから1年半、再度、この地を訪れる事が出来たことが何よりも嬉しく感じられます。大宝館を正面に見て公園内に入り、荘内神社も横目で見るに留め、直ぐに記念館に。端正な、比較的こじんまりとした記念館でした。


  展示の構成は3部
 第1部 「藤沢文学」と鶴岡・庄内・・・庄内地方の四季折々が映像でも紹介されます。
 第2部 「藤沢文学」のすべて・・・藤沢文学をジャンルごとに紹介し、その魅力を解説。東京から移築した書斎を再現しています。
 第3部 作家藤沢周平の軌跡・・・担任をした中学生達の中で笑っている写真が特に印象に残りました。
  特別展示は開館一周年記念「用心棒日月抄」の世界。(写真:記念館入口

 既に知っている知識が映像と文字で語られます。これらの展示に接して、未読の本のみならず、読んだことのある本を再読したいと思いました。

 帰路、街を少し散策していると、住居表示に「馬場町」とあるのに気が付き、あっと思いました。ブログ「轟亭の小人閑居日記」の著者馬場紘二さん縁りの地は、確か鶴岡公園付近と聞いていましたから、ここか!と思い到るのでした。その鶴岡公園へは翌日、家人と二人で散策しました。次回のブログに書きますが、兎も角素晴らしい公園です。


(訂正文:「馬場町」に関しまして勘違いをしていました。ご本人の馬場紘二さんから、コメントを頂き、本文を修正しました。この次のブログ「鶴岡公園」での
馬場さんからのコメントもお読みください。このブログ7月13日追記)


      (公園内の植物園)


     

 

 


夜の弘前(弘前で その3)

2011年07月09日 | 

 弘前に2泊しました。宿は弘前城から徒歩5~6分のところにある「ドーミーイン弘前」。ネットで調べたら、二人一室朝食付きで7000円という超格安の値段のホテルでした。後日「ドーミーイン博多」開業記念セールであった事を知りましたが・・・。
 兎も角、夕食は2日とも外出しなければならないので、前もって予約をしておきました。6月30日が「すずめのお宿」、7月1日が「郷土料理 杏」です。「すずめのお宿」はかって家人が利用したことがあり、非常に感じが良いお店で、美味しかったとの話。「郷土料理 杏」は飲食しながら、生の津軽三味線を聴かせる店です。
 

 すずめのお宿は清潔感あふれる懐石料理のお店。木曜日のこの日1階18席はほぼ満席の繁盛振り。2階では宴会が催されている様子。4000円のコース料理では全部で11品の料理が出され、料理全般に薄味の味付けで、満足度高い夕餉となりました。特にお刺身が新鮮。平目は小泊での捕りたてとのこと。女将の接客態度がプロ。さり気無い会話から始まり、いつの間にか再度ここを訪れたい気持ちにさせられました。



       (新鮮なお造り)



    (ズッキーニの花とその中はかぼちゃ)


    
     (じゅんさいの酢のもの)



          (デザート)



 翌7月1日の夜に出掛けたのは「津軽三味線と郷土料理 杏」。ここは津軽三味線生演奏のお店。生演奏は19時30分と21時30分から。どちらの部も予約しておかないと席の確保が出来ないらしく、予め19時30分の部を予約。





 演奏開始1時間前くらいに入店下さいとの事でしたから、18時半には到着し、飲みものと食べ物の数々を注文。郷土料理を謳うだけのことはあり、十三湖の岩ガキなど近海で捕れた魚料理と地酒が多数。ただ幾分お値段が張りますから、そこはお酒も少量に抑えて演奏開始を待ちます。

 19時30分少し前演奏者入店。この店常連の演奏者3人の内、今日の演者は小山内薫。店主の紹介とお店のホームページからの彼の横顔を寸描すると、
 小山内は1979年青森県生まれの32歳。津軽三味線に対する姿勢が一途な職人気質。その卓越したテクニックは師の多田あつしも舌を巻くほどとか。ロックバンドとの競演等、活動の幅を広げる若手のホープだそうです。
(演奏者:小山内薫)

 演奏開始前には31席の座席は全て座席が埋まっています。19時半丁度演奏開始。4曲の演奏の中でも特に最後の津軽じょんがら節が心に響き渡ります。穏やかなバチの叩きが突然激しいバチ叩きへ。それにつれて、音も静かな調べから激しい響きへと変化し、それが何度か繰り返されます。時とともに人の気持ちが、平穏から激動へ、動揺から平安へと移り変る様に、音の調べが激しく移り変わるのでした。津軽三味線は、人の気持ちを演奏に吸い込んでしまう様な感じでした。

 演奏後、夜の弘前をそぞろ歩きました。飲み屋が密度が濃く存在します。外から覗くどのお店も繁盛しています。この国の不景気がここ弘前では嘘の様です。どうしてなのか?かって、”流通する貨幣量=存在する貨幣×貨幣流通速度”といった古典的経済学を習ったことがありました。それをそのまま援用すれば、弘前では貨幣の流通速度が異常に速いのだと、勝手に解釈しました。
 ここでホテルドーミーインの宣伝を。2人1泊7000円と書きました。更には、品数多い朝食バイキング・天然温泉・夜食ラーメンのサービス、室内での電動椅子設置、その上、駅前までの往復無料タクシーのサービスまで付いていました。
 7月2日早朝6時、そのタクシーで弘前駅へ。特急つがるといなほを乗り継いで、酒田・鶴岡方面へと向かいました。


藤田記念庭園(弘前で その2)

2011年07月07日 | 

 今期(第69期)将棋名人戦は、挑戦者森内俊之九段が出だし3連勝した後、羽生善冶名人が3番を返し、最終第7戦にまでもつれ込み、最終局は挑戦者森内九段が熱戦を制し、念願の名人復帰を果たして終了したのでした。その第4戦が、弘前市内にある藤田記念庭園内の和館で行われました。その観戦記を読んでいると、両対局者とも藤田庭園の素晴しさに感動したと書かれており、弘前散策を計画していた私は、是非ここも訪れようと決めていました。

 庭園は予想を遥かに超えて見事なものでした。庭園の素晴らしさは大きさで競うものではないでしょうが、総面積は21800平方メートル(約6600坪。因みに旧古河庭園は9300坪)は、東北地方では、世界文化遺産に登録された平泉の毛越寺庭園に次ぐ広さ。繊細さ、華麗さ、手入れの丹念さでは東北随一、日本でも有数の庭園と見ました。

 この庭園は、弘前市出身で、勅撰貴族院議員だった藤田謙一が、1919年(大正8年)に別荘を構える際、東京から庭師を招いてつくらせた江戸風な景趣の庭園で、1991年(平成3年)7月、市が市制施行百年記念事業として開園したものです。藤田記念庭園も藤田謙一も寡聞にして全く知りませんでしたが、藤田はたばこ製造販売会社他60社以上の会社代表や取締役を務め、日本商工会議所初代会頭にも就任したことのある人物とのこと。(庭園内には洋館と和館があります)

 庭園は、東京北区にある旧古河庭園のように、高台部と低地部からなる立体的な造り。庭園を入ると広々とした芝生状の庭の左手には、昨日のブログに登場させた洋館(国指定有形文化財)がまず目に入ります。

 右手側には、5月17日~18日に掛けて行われた名人戦の舞台となった書院造りの和館(これも有形文化財)が。庭園側の主座敷の裏に廻ると、岩木山を借景とするはなれ座敷が。その両棟を廊下で連結した造りになっています。この離れの座敷からも、高台の庭からも、青森県のシンボルたる岩木山が望めるという趣向の、贅沢な庭園です。(名人戦の行われた部屋)



      (縁側にはこう書かれた札が)



 高台から13mほどを、階段伝いに降ると、そこが池泉廻遊式庭園で、水琴窟・茶室・梅園などを配置されています。(有料で借りられる茶室)








 特に池には多くの種類の花菖蒲が今を盛りと咲き誇り、しかもその一つ一つに手入れ良く名札が付けられているのでした。この廻遊式庭園を、池をぐるりと一周し、ハナショウブ、滝、などの景趣の変化を眺めながら散策すると心豊かな気分になれるのでした。一見の価値ある庭園でした。









洋館とフランス料理の街(弘前で その1)

2011年07月06日 | 

 弘前は久し振りの再訪でした。
 記憶に誤りがなければ、24年前の夏、一家で下北半島は脇野沢付近にある、当時の同僚Sさんの実家に数泊したことがありました。陸奥湾内の、更なる波静かな湾内に小舟を出し、Sさんは釣ったばかりの魚を天麩羅に揚げてくれました。我が家にとって、特に幼かった息子にとって忘れえぬ夏の思い出です。その帰途、脇野沢から船で青森へ。青森から弘前へ。そこで初めて弘前城とその付近を散策し、夜行バスで帰京しました。
 
 弘前はリンゴのみならず、春の桜祭りと夏のねぷた祭りが有名ですが、それ以外にも、津軽三味線や、自ら名乗るように”洋館とフランス料理の街”としても知られ、今回の旅では特にこの洋館群を訪ね、津軽三味線を聴いてみようと思っていました。
 市立観光館発行の地図入り資料には12個の洋館が紹介されていて、到着した日には、これらのすべてをどう廻ろうか思案しました。7月1日(金)は丸一日弘前の街の散策に当てたのですが、移動を徒歩のみに頼った事もあり、午後になって疲れが出てきて、全部で10個の洋館を観ただけに終わってしまいました。
 洋館内を案内してくれる建物もあり、外部から眺めるだけの建物もあります。その10箇所のなかで特に印象が強かったのは、「旧弘前偕行社」(重要文化財)と「旧弘前市立図書館」の建物と「藤田記念庭園」です。

 弘前の市街地は、東西も南北も3~4Km位の長方形の中にすっぽりと入ってしまうほどの、こじんまりとした街並ですが、旧弘前偕行社はそのほぼ西の外れ、弘前大学付近に位置します。明治40年(1907年)、陸軍第八師団の厚生施設(=社交場)として、名工堀江佐吉が建てた最後の建築物だそうで、イタリアルネッサンス風のデザインを基調とした造りです。(旧弘前偕行社玄関:旧青森駅を彷彿させるとの事)


 中心街から遠く離れているからか訪れる人も疎ら。係員の方がゆったりと案内をしてくれました。大きなホールでは社交ダンスパーティが催され、大会議室は映画「八甲田山死の彷徨」の撮影に使用されたとも。玄関前の風景は「津軽千年食堂」の撮影の際には、旧青森駅に見たてて撮影されたとの話も披露してくれます。(八甲田山・・の撮影現場)

 明治期の洋風建築に驚いていると、もう一つの驚きに出合いました。建物内部から広大な広場を覗くと、付属幼稚園の150人近い児童たちが、上半身裸で乾布摩擦を楽しそうに始めています。幼稚園児達が遊び、生活するに絶好の場所として、建物の広場は利用されているのでした。(広場と園児達)



 
 弘前城付近の「旧東奥義塾外人教師館」内でランチとし、隣接する旧市立図書館に寄りました。ここは時間の関係で入館はしませんでしたが、その外観の美しさに見惚れ、かなり長い時間佇んでいました。(旧弘前市立図書館:正面を撮影)







    (旧弘前市立図書館:裏から撮影)



   (旧東奥義塾外人教師館:ここでランチ)

 案内をしてくれた方々には「弘前には何故この様に沢山の洋館が残されたのですか」と尋ねました。どなたからも明快な返事はありませんでしたが、旧偕行社で聞いた答えは「明治時代に、名工堀江佐吉が多くの建物を建築してくれたからでしょうか」とありました。
 小京都と呼ばれる地方都市を幾つか歩きました。その多くが日本的風情を色濃く残していたのに対して、ここ弘前は街全体が洋風のたたずまいを見せます。信州上田の街を思い出しました。

 

       (弘前昇天教会)


    (旧制官立弘前高校外国人教師館)
  

     (弘前市立百石町展示館)


      (カトリック弘前教会)


    (日本キリスト教団弘前教会)



      (藤田記念庭園 洋館)


        (青森銀行記念館)