
広域農道って言うのは、通常はあり得ないルートで道が出来るので、想定外の撮影地を生む事があります。この撮影地が一番の例です。 92,02,11 三春―要田 5770レ TMY スキャナー : Nikon COOLSCAN ⅣED
20年前だと磐越西線のDD51客レと共に磐越東線でもDD51も活躍していました。この磐越東線のDD51を一躍有名にしたのがレイルマガジンの創刊号でした。当時、東北本線黒磯口にはED75の三重連となる列車があり、また磐越東線にもDD51の三重連になる列車があり、南東北で形態の異なる三重連が撮れると撮影地ガイドが掲載されて磐越東線のDD51が認知される様になりました。その後、磐越東線の三重連は解消されたものの、磐越東線のDD51は良い被写体として鉄ちゃんの姿が絶えない様になりました。
昭和40年代には繁忙期だけですが上野から小野新町まで直通の急行が運転されていました。当時は中学生で時刻表を眺めるだけの時代でしたが、あの当時に磐越東線を訪れていれば定期の普通列車も客車設定もあったので、飽きるくらいDD51が撮影出来たのではないでしょうか?
その後、磐越東線の貨物列車は本数は激減しましたが、それでも不定期列車を含め撮影時間帯に3往復もあり、全て重連運用を組んでいました。他線区を含め、まだまだ狙わなくてもターゲット(被写体)が多かった時代ですので、平日に休みが入れば漠然と磐越西線か磐越東線に出掛ければ充分満足出来る時代でもありましたが、高速道路のハイカも出来る前ですので割引制度は一切なく、高速道路料金節約のために途中から一般道路を走った憶えがあります。客レのある磐越西線非電化区間は魅力的なのですが高速道路を使ったにせよアクセスが悪く、お手軽に行けた磐越東線で一日を過ごす事の方が多かった気がします。
磐越東線を訪れる様になった、かなり初期には郡山―平(現:いわき)間の直通貨物列車もありましたが(小川郷駅構内でスイッチャーを見た記憶があります)、晩年は郡山―大越間のセメント列車のみでしたが、その列車が長く、撮り堪えのある列車でした。
また、この頃は磐越東線全線がタブレット閉塞で交換駅では必ず駅員がいて、暖かく向かい入れてくれたものでした。

積車が下り勾配の列車であると言う特殊事情もありますが、これだけ長い編成は見応えがあります。 92,02,15 要田―三春 5791レ スキャナー : Nikon COOLSCAN スキャナー : Nikon COOLSCAN ⅣED
この磐越東線にも時折、客車組成の団臨が運転される事がありました。普段は地味な貨物列車の先頭にしか立たないDD51がブルーの12系や14系座席車の先頭に立つすがたは絶好の被写体になった事は言うまでもありません。
運転日には懲りもせず撮影に出撃したのは言うまでもありませんでした。

磐越東線の起点は平で震災で一躍有名になった常磐ハワイアンセンターと言う一大観光地を控えたために団臨が時折設定されていました。また常磐線へ抜けるルートとして重宝がられました。 92,02,15 要田―船引 9734レ スキャナー : Nikon COOLSCAN