
80,06,11
この写真は今は現存しない横浜機関区の在りし日の姿です。現在は横浜の真新しいオフィスビルの一角となってしまいましたが、訪れた当時は立派な扇形車庫を有し、格調高く入換用のDD13(後に写真のようにDD13に変わってDE10)の配置もあり活気にのあふれる機関区でした。
私がまだ小学生の頃、まだ高島貨物線にはD51が活躍していて新鶴見(操)-高島貨物駅を往復していました。そして高島貨物駅の横に横浜機関区があり高島貨物駅まで来たD51が折返しのわずかな時間をここで過ごしていました。
夏休みなどD51見たさに、親から往復の運賃だけをもらい、横須賀線に乗って横浜機関区に向かいました。横浜東口を出て(当時はレンガ造りの重厚な駅舎でした。たまたま当時の駅舎の写真があったので最後にご紹介します。)徒歩10分程度で横浜機関区に到着します。運転当直で名前を書くと許可をもらえます。その時にどの助役も必ず「気をつけて」と言われたのを記憶しています。そして運転当直の目の前がD51の機留線でした。家を手でから40分くらいでD51に逢えるという時代だったのです。
木造の建物の影でテンダーの石炭をかき寄せる燃料掛が涼んでいます。(あの頃は詰所には冷房なんて言う物はなかった気がします。)「こんにちわ!」挨拶をすると必ず「また来た!」と言われました。別にこちらは憶えていないのですが、向こうは印象に残っていたのでしょう。私の姿を見ると笑顔で迎えてくれた事がとても嬉しかったものです。
機留線に居るD51を眺めた後は燃料掛の横に座ってD51がやって来るのを待ちます。高島貨物駅まで貨物列車を牽引してやってきたD51は給水・給炭を済ますと写真のターンテーブルで方向を変えます。燃料掛が構内機関士に話してくれて給炭線からターンテーブルを経て機留線までキャブによく乗せてもらいました。
飽きることなく、いつまでもD51を眺めていたいのですがさすがに夕方になると帰らなくてはなりません。若い(今思えば20歳少し過ぎかな?)燃料掛に「帰ります!」と挨拶をすると「そんな真っ黒な顔で帰ったら家で怒られるゾ!」と言って機関区の風呂に連れて行ってくれ、顔だけでも洗えと言ってくれたのを今でも思い出します。幼児体験とでも言うのでしょうか。鉄道員の優しさと言うとあの燃料掛の笑顔が今でも思い出されます。
あの頃高島貨物線は毎時1本ないし2本の貨物列車が設定され入江・東高島・高島や高島の更に奥にある横浜港まで多くの貨物を輸送していました。
網の目のように港に向けて張り巡らされた専用線へ入換に勤しむD51やDD13の姿が懐かしく思えます。たいして長くもない線区にあの当時、あれほどの貨物列車の本数と入換機関車の数は鉄道貨物が物流の基幹だった証と言えるでしょう。
横浜機関区は59,2ダイヤ改悪による貨物の大合理化でその役目を終えたと記憶しています。その後、名ばかりの横浜機関区は残りました。また、扇形車庫もしばらくは残り保存運動もおこりましたが、いつしか解体され更地になったと思ったら、すぐに綺麗なオフィスビルが建ってしまいました。
ところで最近疑問に思うのですが、あの当時すでに根岸のオイルターミナルはあったと思うのですが高島貨物駅から根岸までD51で運転していた記憶はありません。当然、その頃は高島貨物線は電化されていないのでELでの運転も不可能です。機関車は何で牽引していたか疑問でなりません。ただうっすらですがDD13の重連が停車していた姿をよく見た記憶があるのでひょっとしたらDD13が重連で牽引していたかも知れません。
最後に蛇足ですがこの機関区の名前を一般の人にまで一躍有名にした事件がありました。国労横浜裁判と呼ばれる事件です。これは国鉄末期に横浜機関区で国労組合員に非人道的な国鉄当局の弾圧が行われ、その中で国鉄当局がありもしない暴力事件を捏造し、国労組合員を処分したと言う出来事です。この事件で国労側の筆頭弁護士となったのがオウム真理教に抹殺された坂本堤弁護士なのです。その後この裁判は国労側が全面勝訴して終わっています。この国労横浜裁判は国鉄当局の非道さを物語る事件であったとともに、正義と闘う人を見ると助けないわけには行かなかった坂本弁護士の生きざまを象徴する事件として語り継がれています。

レンガ造りで格式のあった旧横浜駅東口 72,10,14