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東海道新幹線60周年に想う!



 私が国鉄に入社した当時は0系しかありませんでした。ちょうど開業当初の編成が20年弱の耐用期限が来て0系が0系に置き換わり始めた頃でしたが、今思えば同一形式に置き換わると言うそのものが技術停滞の証であり国鉄の危機の前触れだったのかもしれません。    77,10,30   東海道新幹線東京ー新横浜   OLYMPAS OM1

 本日、東海道新幹線開業60周年を向かえる事が出来ました。この間、いろんなトラブルがあったものの、まずは鉄道事業者側の過失による人身事故は起きておらず、この60年で新幹線は安全な乗り物として世の中に認知された事は、半生を新幹線職場で過ごした身としては至極の喜びであり、何よりもの誇りでもあります。
 私が国鉄新幹線総局東京第一運転所に配属されたのが04月の入社からの新任研修経て昭和52年(1977年)の夏でした。当時、東海道新幹線は10年のキャリアがあり安定期に入りかけていた頃で、職場も明るくいろいろ勉強させてもらいました。特に東海道新幹線開業時に在籍されていた方が多くいらっしゃって開業の頃に大変なご苦労されたからこそ、今日があると言うお話を聞くのが何よりも勉強になりました。
 私は若いからから今以上に頑固者の天邪鬼でしたので先輩や同僚にはいろい迷惑も掛けたと今も思っています。ただ信念として〝安全は誰にいわれても曲げてはならぬ〝と信じ込み、検査が終わったら編成で不備を見つけると、それを公に口にして大問題になった何度かありました。何を言われようとそれが新幹線の安全につながると硬く信じていましたが、何もわからない若造が職場を掻き回して周囲はたまったもんじゃなかっと思います。
 この60年の間、東海道新幹線では大事故につながる今で言う重大インシデントがいくつかありましたが、それらは卓越したプロ意識を持った現場の人々の勘と技術で乗り越えて来ました。特に1966年(昭和41年)04月25日 に〝ひかり42号〝42Aで発生したトラブルでは車軸作製の作業工程にミスがあり材質に欠陥が発生。豊橋駅駅で臨時停車して床下点検すると軸が曲がっていて前途運休した事象がありました。原因は金属疲労を引き起こしたというもので、もし停止手配が遅れていれば新幹線の列車転覆事故になっていたであろう事象ですが、新幹線に携わる職員は全て異常があれば躊躇なく列車を停止させると言う基本は徹底されていて大事故につながる事象でも淡々と仕事をされたのだろうとそのレベルの高さを誇らしく感じた記憶があります。
 最近だけでも台車亀裂や保守用車の追突脱線などいろんな重大インシデントが発生したものの、運が良かった事もあり現在に至っています。特に最近になり携わる係員のレベル低下からでしょうか人為的なミスが目立つ様になった気がします。いくら自動化された鉄道も最後は人の手・眼で守られています。これから未来永劫、安全で安心して乗れる乗り物として新幹線があるために現役社員の奮闘を期待するものであります。

 三島を通過する上り〝ひかり〝です。この当時はまだ210K/Hで今見るとのんびり走っている様に想うかもしれません。この頃と基本的に運行体制は変わってませんが速度向上が図られ過密ダイヤとなり、あの頃に今の東海道新幹線の姿を誰が予想出来たでしょうか?      80,04,※※    静岡ー三島   





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