
ネット社会でもない当時、沿線の情報を得る事が撮影と同様に重要でした。山陽線を沿うように走る国道を走るバスもその有無とかその時刻とかを現地に入って調べる事に苦労したことを忘れられません。この撮影地もバスで行った気がしますがほとんど記憶にありません。ちなみに現在ではこの撮影地の背景には高速道路が写ってしまいます。 76,04,07 3852レ
40年前の04月は初めてセノハチを訪れています。今さら説明も必要ないのでしょうがセノハチとは山陽線瀬野ー八本松間を意味しますが、鉄ちゃん仲間では区間はもとより同区間に存在する急こう配に備えた補機専用機のEF59とそのEF59の配置区であった瀬野機関区までを含んでの総称を言う事が主流です。今もセノハチは存在しますので貨物列車の一部は補機用に製造されたEF210300番代が連結して運転しています。
40年前のセノハチはEF53とEF56から改造されたEF59が重連で補機運用をこなしていました。当時はブルトレはEF58だったために同区間は補機が必要となり客貨にわたりEF59のお世話になっていました。また補機区間も現在は広島貨物ターミナル―西条間に限られていますが当時は瀬野―八本松間を主として広島―八本松間の運用もあり、さらに全国的に珍しい補機の走行開放も八本松構内で行われていました。余談ながら晩年、この走行開放での閉塞の取扱に興味を持ちいろいろ調べたこともありました。と言うのも走行開放すると閉塞区間に2列車が存在する事になり1閉塞1列車の大前提が崩れる事になります。これをどうやって説明するかをネットで投げかけたところ関係者らしい方から回答があり走行開放は八本松構内で行われているので走行開放された瞬間に補機は列車から車両になり1閉塞1列車の大前提を犯していないという事でした。

EF59は下関側にはゼブラ塗装がありましたが大阪側にはなくほぼ原形のEF56やEF53の姿を見て撮影することが出来ました。特にEF53は現役で走っている姿を見たことがなくEF59と名を変えてセノハチで活躍する元EF53を見て往年の活躍を偲んだものでした。 76,04,07 瀬野機関区
さて話をセノハチの事に戻す事にします。この時の撮影は高校のご学友だった北の親爺さんとEF58撮影の合間に訪れたと記憶しています。どの様な行程だったかは記憶にありませんが一日セノハチで撮影していた様です。フイルムから察するに当時の私にしては珍しく駅構内以外にも駅間での撮影を2か所以上しています。当時の薄れかけた記憶をたどると山陽本線と沿うようにある国道を走る路線バスに乗って撮影地を移動した記憶がありまが、どこで食事したとかは全く記憶にありません。ただ言えるのはこの当時EF58しか眼中になかった北の親爺氏を良くもまぁセノハチへ連れて行ったものだと我ながら感心してしまいます。

暖かい4月の午後、瀬野駅の待合室も時間がゆっくり過ぎていきました。こんな光景を脳裏に焼き付けられただけでも幸せな世代だと思います。 76,04,07 瀬野駅