JR青梅線の河辺駅を調べていたら沼で 笑
詳細は除きますが旧駅舎の意匠について
注釈として、多分ですが、当時は著作権なんて考えてないだろうから、設計図を買い取ったか使うぞ!くらいがベターな方で、あるいはパクった! ごめん!
ちなみに、旧駅舎の改札口は東京に向かう上り方向で右側だけでした
さらに、(奥多摩駅は不明ですが)建て替え後の新駅舎は、三角屋根のデザインを残す、誇張するなどの方法で継承されています。さらに、多分、その三角屋根は左側に移っています なぜだ!
さらに、さらに、国立駅以外の駅の資料はとても少なく、それだけ生活に根須いづいていて、あたりまえの物になっていたのでしょうか、開業当初は、貨物運輸が主で、人を運ぶということは従だったはずです。そのことからも、当初はホームと管理のための小さい小屋から、地域住民、レジャー客の乗降増加に伴い駅舎を新設立ところもあったと推察します。その後、老朽化と複線化と線路両側からの乗降問題解決のために建て替えし、貨物運輸の使命も無くなり、都内からの通勤圏内となり乗降客が増加して街が発展していってきたわけです
国立駅は、建て替えが最近の事でもあり、資料を残そうという気運が高い!
羽村駅
1896年(1894年との記載も)開業 ただし、もしかしたら、駅舎らしいものが当時無く、ホームだけだったかも
なんとなく、旧家風で、山小屋風ではありませんね
1973年に建て替え開業後は大屋根の三角屋根にデザインされています
国立駅
1926年開業
ミュージアムとして保存されています エライ!
駅舎の設計は、帝国ホテル新館建設時にフランク・ロイド・ライトに師事した河野傳が行い、清水建設が工事を担当した との事です。
さすがに、記録が残されています
ミュージアムより拝借 ありがとうございます 感謝! 謝!
屋根は左に大きく流れているモダンな造りです
当時は、林の中に突然と表れたシンボルです
羽村駅
時系列的に再度記載 : 大正末期に駅舎が建てられたという話があり。もしかして、開業当初は、”羽村の堰”のメンテナンスが主の駅で、資材運搬重視のホームだけだったところに駅舎を建てたのかも
再度記載しますが、屋根は両流れが同じで、
なんとなく、旧家風で、山小屋風ではありませんね
河辺駅
1927年に開業、国立駅の開業1年遅れであることと、意匠が似ていることから、パクった説!(ごめん!)
左に流れているデザインが同一
畑の中に忽然と建ったシンボルです
1973年に建て替え後は、北口側が三角屋根で左に大きく流れているデザインです。つまり、進行方向で見ると逆になってます
さらに、さらに、南口の駅構内(だろうな)階段下に建っている旧駅舎に似た建屋は、店舗です。少し残念!
その後!その後!北口開発に乗っかって、作ってしまった卑猥な回廊によって、道路からは三角屋根の駅舎が見えなくなりました。残念!
回廊からは綺麗に見えます
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追記です
現在の河辺駅構内にある三角屋根 これは駅舎ではなく商業施設です。現在は無店舗 その右側にも参画屋根があるのですが、そちらはトイレ
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奥多摩駅 旧氷川駅
付録的ですが、旧名称 氷川駅 ⇒ 奥多摩駅も三角屋根です。こちらは、お城のようなデザインです
たぶん!たぶん!ですが、リニューアル程度のことはしてますが、建て替えもせず現存しているものと推察されます。改札付近に太い太い柱があります
1994年に氷川駅新設と記録がありますので、ホームだけで駅舎が無い(管理程度の小屋)状態が長く続いたのではと推察します。たぶん、上記の羽村駅も、そんな状態だつたかも
最後に
中央線~青梅線の間で、東中野駅=立川駅 立川駅=拝島駅 拝島駅=小作駅 小作駅=東青梅駅
と、折れ線グラフのように直線で線路が引かれています
武蔵野台地の麦、ジャガイモ、サツマイモ、そして草だらけの台地だからこそ、直線で架設でき、当時の街、住居のすぐ北側(一部東側)に架設したわけです。
このことからも、列車開通は歓迎されていたと推定でできます。
また、それが、改札口が東京進行方向右側に改札口の多い駅舎の理由と推定します。三角屋根も同様です
その後、区画整理等で上下水道、道路整備が整った左側が開発され、それにともない駅舎の建て替えが進み、シンボル的な三角屋根も左側にデザインされ残されたと推定できます
今日の教訓 三角種の駅舎に栄光あれ!
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