写真の出典:己の如く愛した人 永井隆
http://www.city.nagasaki.lg.jp/peace/japanese/abm/insti/nagai/nagai_s/nagai005.html
35年ほど前、
私は医学部大学受験に一度失敗し、
心ここにあらず・・といった心境の中、
何となく長崎に一人旅にでました。
なぜ、長崎を選んだか・・
あまり、記憶に残っていないのですが、
高校生のとき、近所の教会からもらった聖書に
心が疲れた時とか、嬉しい時といった
その時、その時に読むとよいページが書かれていて、
何かと紐解いていたことが理由だったように思います。
平戸から長崎に行き、
浦上天主堂に行こうと思った時、
ふと目に留まった建物に
如己堂と言う名前が付けられていることを知りました。
長崎大学放射線科の永井隆先生が
この庵でお二人のお子様と生活された場所でした。
聖書の一節である、
己の如く人を愛せよ
から取った名前でした。
如己堂
そこで本を購入したのが、
この子を残して
でした。
うとうとしていたら、いつの間に遊びから帰ってきたのか、カヤノが冷たいほほを私のほほにくっつけ、しばらくしてから、
「ああ、……お父さんのにおい……」
と言った。
この子を残して――この世をやがて私は去らねばならぬのか!
母のにおいを忘れたゆえ、せめて父のにおいなりとも、と恋しがり、私の眠りを見定めてこっそり近寄るおさな心のいじらしさ。戦の火に母を奪われ、父の命はようやく取り止めたものの、それさえ間もなく失わねばならぬ運命をこの子は知っているのであろうか?
枯木すら倒るるまでは、その幹のうつろに小鳥をやどらせ、雨風をしのがせるという。重くなりゆく病の床に、まったく身動きもままならぬ寝たきりの私で あっても、まだ息だけでも通っておれば、この幼子にとっては、寄るべき大木のかげと頼まれているのであろう。けれども、私の体がとうとうこの世から消えた 日、この子は墓から帰ってきて、この部屋のどこに座り、誰に向かって、何を訴えるのであろうか?
――私の布団を押し入れから引きずり出し、まだ残っている父のにおいの中に顔をうずめ、まだ生え変わらぬ奥歯をかみしめ、泣きじゃくりながら、いつしか 父と母と共に遊ぶ夢のわが家に帰りゆくのであろうか? 夕日がかっと差しこんで、だだっ広くなったその日のこの部屋のひっそりした有様が目に見えるよう だ。私のおらなくなった日を思えば、なかなか死にきれないという気にもなる。せめて、この子がモンペつりのボタンをひとりではめることのできるようになる まで……なりとも――。
(中略)
「なぜ、窓にマリアさまを描いたの?」
「神さまを悦ばすために」
「神さま、ほんとうに悦びなさったの?」
「ほんとうに悦びなさったよ」
「そう。――よかったわね」
カヤノはまたじいっとそのステンドグラスを見つめていたが、やがてたどたどしいラテン語でアヴェ・マリアを歌い出した。これもこの絵に何百年か前、名も ない職人がこめた信仰の力におのずから引き出された賛美歌であったにちがいない。そしてカヤノもまた神を悦ばせたい一心から歌っているのであろう。真の信仰とはこんなに単純なものであった。私もカヤノの声について口の中で歌った。
そのまま快い眠りに入ったものらしい、私が目をあけたときには、まくらもとにはだれもおらず、雨も上がったものと見え、障子に夕方らしい陽が明るく差していた。
その障子の腰ガラスに絵が描いてあった。女の子であろうか、肩に羽が生えているからあるいは天使かもしれない。頭に花の冠をいただいて、あどけなく笑っている。
(中略)
お父さんの跡をついで医者になりたいような話だったが、もし医者は死ぬ患者の命を救うようなよいことをするから、という理由でなりたいのだったら、あてが外れるよ。
(中略)
それでは医者はなんのために患者の手当てをするのか? と聞きたいだろう。
医者の仕事は病人と共に苦しみ、共に楽しむことだ。病人が腹の痛みに苦しんでおれば医者もいっしょに苦しんで、さてどうしたらこの苦しみを軽くしていた だけるかとそれを念ずる。患者が死にかけて、はらはらしているときには、医者もはらはらして、なんとかして死の手から離したいものだと心を砕く。病人の熱 が下がってほっとすれば、医者もほっとする。病人がようやく元気になり、おかげさまでとあいさつすると、医者もおかげさまでとあいさつを返す。……
(後略)
(この子を残して 永井隆
底本:「この子を残して」サン パウロ 1995(平成7)年4月20日初版発行
2006(平成18)年7月20日初版15刷発行
初出:「この子を殘して」大日本雄辯会講談社 1949(昭和24)年4月30日発行
インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)
http://www.aozora.gr.jp/cards/000924/files/49192_39848.html)
放射線科学を専攻していた永井先生は、
漏れた放射線の影響で
慢性骨髄性白血病を発症されていました。
そこに、原爆投下の爆心地すぐにいらっしゃり、
体は、追い打ちをうけるように
悪化されていく様が書かれています。
著しい脾臓の腫大が進み、
幼い2人のお子さんが抱き着いたりしただけでも、
脾破裂のリスクがあったようで、
自分に近寄っていはいけないことを約束したのでしょう。
それも承知で、お父さんの匂いを確かめる
幼い娘さんの様子が冒頭に書かれていました。
このこの子を残してを読み、
如己堂、浦上天主堂をたずね、
帰郷し、この話をクリスチャンの家で育った祖母にしました。
偶然にも、祖父の弟と永井先生は
大学で同級生でした。
この出来事は、私に、
再度受験勉強に取り組むエネルギーを与えてくれました。
医師になることに揺らいでいた私の道を照らしてくれました。
今日は、長崎に原爆が投下された日です。
第57回日本婦人科腫瘍学会へ参加するために
盛岡に出張でしたが、
帰京して、改めて、今、読み返してみて、
私が緩和ケア医になったのは、
必然ともいえる道のりだったように感じました。
この本に書かれていることは、
まさに緩和ケアの本質でした。
あの時、むさぼるように読んだ私は、
ずっと、このようなことに
魅かれていたのでしょう。
長崎一人旅の当時も、
私がアメリカでホスピスに足を運び始めた時も
気が付いていませんでしたが・・・
35年前のあの場所を
今の私はどう感じるのだろうか・・
原爆の日として映し出される長崎に
心馳せる思いです。
ワタシの伯父は深堀康郎といって小児科医院でした。もう30年前に天国にめされましたが・・・・・病弱なわたしは本当にお世話になってました。
時々あなたの様のブログが気になるのは・・・・同じものを感じ取っていたからなのでしょうか
何期生か全く私は知らないのですが、同じ大学に在学していたことでしょう。見ず知らずでありながら、そっとこうして繋がりを感じることができるのは、先達のお蔭ですね。
このブログを気にかけてくださり、本当にありがとうございます。何だかとっても嬉しかったです。
二つコメントを頂いていたようで、二つ目をアップさせて頂いています。もし、一つ目の方がよいようでしたら、おっしゃってくださいませ。
電動だったのはわたくしだけでしたけど・・・・会場は満席でした。
映画の終わりでヨハネパウロ2世「1981年2月25日のメッセージが”過去を振り返ることは、将来に対する責任を担うことです。
本も感動しますご返事頂けて嬉しかったです。
「この子を残して」昭和58年の映画を、長崎美術館で観てきたばかりだったものですから少し驚いていまって
コメントした次第です。
映画の終わりに~ヨハネ・パウロ2世「1981年2月25日”過去を振り返ることは将来に対する責任を担うことです。”のメッセージがいたく感銘してしまって・・・・
ご返事ありがとうございました。
だから、毎年、この日のお祈りは「ごめんなさい」から始まります。
長崎も、あの日は曇っていたのに、一瞬、雲の切れ間があり地上が見えて投下した…という話を、つい最近知りました。
悲しくて、やりきれなくて、悔しい気持ちもわきました。
終戦記念日静かに祈りたいと思います。
九州の北の方向ですね。
でも、それは、その地にお住まいの方のせいではないです。
戦争のせいです。
落とす原因をつくった国も、落とした国も振り返らなければいけないことです。
本当に悲しいことです。
コメント、ありがとうございました。
嬉しいです。
私も、永井隆博士のことがいつも心にあります。
死ぬまでにしておきたいことの一つに、記念館を再訪することでした。
先だって、その機会に恵まれ、記念館でゆっくり永井博士の歩まれた道に思いを馳せることができました。
「己の如く人を愛せよ」
この気持ちに少しでも近づきたいと思っています。
今夜は、疲れた心が元気になりました。
ありがとうございます。
そして、友達と、無言で、隅々まで、見て回り本も購入し、読みました。
もう、34年も前なのに。。。
友人に電話をすると、一緒だった友も、みんな、あのときのことは覚えています。。
己のごとく人を愛することには遠く及びませんが。。
それぞれの人生の一コマとして青春時代の強烈な影響をそれぞれにいまだにもっている。。。
と、思っています。。
再訪なさったのですね。
どんな風に感じられたのかしらと、心を馳せながら、私も、近いうちに、いつか・・と思っています。
コメントありがとうございました。