『浪華奇談』怪異之部(全十七話)怪談概論
2024.2
世人は論語に「子不語怪力乱神(シはカイリキ・ランシンをかたらず)」とあるのを根拠として、怪談するのを大いに排斥している。これでは、ある事にこだわって、ひろく事物を見ないことになる。
論語の言葉は、孔子が、門人に対しては、詩経や書経を講じ、礼記を解説し、さては六芸の話に及び給うのが常であるので、門人達が見聞き(みきき)していないのに推量を用いて「子不語怪力乱神」と言った迄の事である。
実際には、聖人がみずから「我不語怪力乱神」とは、のたまってはいない。
或いは、怪異なりとして排斥すれば、「易経」なども第一に排斥すべきではなかろうか?
そうであっては、聖人(孔子のこと)の心に背くにも至ることになるであろう。
詩書礼楽のみ訓導したまわったのは、さしあたって、今日の世務に資益が多いを以っての意味である。
こういったことを、よく考えるべきである。
こういう観点から見ると、孔子に怪を聞いた箇所は、少なくない。
土の怪は、*羊防風氏(ふんようぼうふうし?)の骨一疋鳥(こついっぴきちょう)の鼓舞(ちょうのこぶ)、江中の萍実(こうちゅうノへいじつ)、木石(もくせき)の怪は鬼魍魎(キもうりょう)、水の怪は、龍罔象(りゅうもうしょう)、粛慎の石?(しゅくしんノせきど)など、いづれも怪にあらず、と言う事はない。
そうではあるが、先生(孔子)は、常には、怪異とは、のたまわってはいない。
聖人(孔子)は、弟子からの質問にすぐに答えてくださる。
聖人(孔子)は、博く物を知っているので、これらの外にも、御心中に記せられた奇怪の事ごとなども有るであろう。
まして書経、詩経、易経、左氏伝などには、怪なることが、記されている。
よって、私は、怪を語るのも真理探究の一つと思うのである。
そうであれば、野狐が人に化けたのは、手腕を握って知る事が出来、古狸が人に化けたの衣装の模様を見て、知ることが出来る。
龍が人に近づいて迫って来る時は、頭髪を焼いて、悪臭を出すと逃げ去らしめる事ができる。或いは、食物が空中を飛んで行くのは、蝦墓のしわざであると知ることが出来る。
このように、理を究めて、不思議なことに対処すれば、惑い怖れることはない。
従って、奇怪の談を読んでおく事も、実は、怪奇な事に対処する心得とも成るものである。
これが、私の怪談に対する考えである。
以上の狐狸龍蟇(こり りゅう がま)については、後の文に詳しく記した。
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