『浪華奇談』怪異之部 14.遊魂あだを報(むく)う
2024.4
少し昔のことである。土佐堀に有名な淀屋源右衛門という者がいた。
お上より、御用商人に取立ようとの御沙汰があったが、辞退した。
源右衛門の願いにて、諸侯方の米穀を引受け、浜先にて米穀の取引を行って、商売許可の御朱印も頂戴した。
二代目の故庵、三代目の辰五郎と相続した。
淀屋がもっとも繁盛していた時代には、私(筆者)の居宅ある浜に橋をかけた。
今に淀屋橋と言ってその名が残っている。
我が家のうしろの街路を淀屋小路と称して、今にもその名が残っている。
さて、この家は代々法花宗(法華宗)であるので、ー族や従業員の者どもも伊勢参宮への参拝を禁じるのを家風としていた。
二代目故庵の代にあたって、大和の当麻(とうま:奈良県葛城市)より十歳ばかりの幼童を年季勤めに召し抱えた事が有った。
しかし、この子供は、或る時行方知れずとなった。
どこへ身を隠したのか、と不思議に思う所に、十日程過て立ち帰ってきた。
「何方に行っていたのか?」と尋ねた。
「実は、近頃、近隣の友達たちが伊勢参宮をすると言うので、私も大変に羨しく思いましたが、奉公の身なので、この事を願っても、聞いてはくれないだろうと、だまってひそかに抜参宮(ぬけまいり)をして来て、今帰ってきました。
罪をおゆるし下さい。」と詫びた。
しかし、主人は、大変に怒り、
「憎きふるまいかな。我ヶ家は、代々 お伊勢参りを禁じている。我が家の禁止事項となっていることは、聞いた事もあるだろう。」
罪人に今後の見せしめにと、引き立てながら打擲した。
しかし急所にあたったのであろうか、一声叫んで息絶えてしまった。
驚き騒ぎ治療をほどこしたが、その甲斐もなく死んでしまった。
家内は、こぞって後難を恐れ、どうしようかと協議をしたが、良い対策は、出てこなかった。
老分の手代に知恵があって、
「これこれこのようにすれば、事は済みましょう。外ヘは、病死と知らせましょう。」
と家内の者達に口止めした。
そして、当麻の彼の親を呼び寄せて、
「昨日の暮頃より腹痛しきりにしたので、医療をつくしたが、甲斐なく、今朝、亡くなった。
みなみな残念に思っている。
あなた様も、子が急死したのは、さぞ悲しい事であろう。
日頃 私心なく仕事をしてくれたので、主人も殊の外に残念がった。
亡き跡の追善として金五拾両を与えよう。」と。
父は大いに歎き悔んだが、
「これが、運命でしたら、どうにもならないことでしょう。
医薬のかぎりの治療をしたいただいたことは、我が家では、出来ないことです。その上、過分の金子をお恵み下さる事は、お礼の申しようもありません。」
と感謝して、子供の亡骸を故郷に引取った。
これで、この謀りごとは、事なく済せられたのを悦こんだ。
しかし、悪事千里を走るの諺のとおり、誰言うともなく、世間の人々にこの事を知られた。
世人は、ひそひそと語り合って、淀屋を憎んだ。
(敬典?著者?が付け加えると、似たような事は、しばしばある。
寛政年間、この場所の一町(100m位)南の加嶋屋九蔵が、召し使いの小童を害して、罰をうけ、摂蝶?摂津か??へ移った。
寛政中、かいや町にて父を殺した者があった。
又もや文化年中に同じ町にて父を殺した者があった。
これは、仏法に言う因縁というものである。
そうであるから、軽率に悪いことをするものではない。)
かくて、年月を送る所に故庵は病死して、嫡子の辰五郎が家名を継いで、家業は、ますます繁盛した。
そのころ、畿内(きだい)に強盗が起こり所々に押し入り、金銀をうばい取る事が多かった。
或る夜、淀屋の宝蔵に盗賊が多く入ったと見え、数万両の金子が盗まれ、金蔵が空っぽとなった。
不思議なことに、蔵の鍵は、秘密の所に厳重に隠してあったのに、その鍵をもって戸口をひらき、多くの金銀を運び出したのだと思われた。この事をお上に訴え、調査を願った。しかし、きびしく調べたが、その盗賊達のことは、わからなかった。
淀屋の財産の三分一がこの時に失われた。
このような、損害に遭ったのなら、その身を慎むべきであるのに、若輩の辰五郎は、放蕩者で日夜遊興にふけった。
その上、高貴な方のまねをして町人にあるまじき振る舞い無駄づかいをした。
分に過ぎた彼の奢りの有さまは、お上の禁忌にふれて、財産を没収された。
本人は追放になり、数代にわたって蓄えた和漢の名物珍器は、この時に散逸して、その家名は断絶した。
それは、ひとえに辰五郎の不行跡のゆえである。
辰五郎は、追放された後は、頼るあてもなくて、八幡(やわた:大阪市中央区)にゆかりが有ったので、彼はそこにひっそりとすんだ。
そして、神官の養子となって、その家をつぎ、その子孫は八幡にいるそうである。
淀屋の家が亡びて後、淀屋の金銀を奪い取った賊がとらわれた。
拷問の上で白状に及んだ。
「どんな手引で、淀屋の財を盗み出したのか?」と尋問された。
かの賊が言うには、
「一味の仲間数十人で淀屋の宝庫に近付いたが、堅固であったので忍び入る事が出来なかった。
盗賊の一味は、手に手に道具の用意をしていたが、そこに不思議なことに、どこからか十歳ばかりの子供が来た。
そして、我らに向って、手引きをしましょう。
こちらへ来て、と宝蔵の戸前に案内し、これを用いてここを開けよ、と鍵を渡された。
それで、何の労する事もなく内へ人って、思うままに金銀を盗み出した。
その後、子供は行方が知れなくなった。
今にも、不思議なことである。奪い取った大金は、皆で山分けして、使い尽くした。」
と答えた。
この賊の言葉から考えるに、無惨に殺された幼童の恨みが残っていて、幽魂が仇を報じて、終にはその家を亡ぼした事は、間違いない。
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