⑥ 事後処理
乱後の事後処理も速やかに行われた。
仲恭天皇
まず、順徳上皇の子である今上天皇(仲恭天皇)は、廃された。即位した事も消された為、九条廃帝とも言われる。仲恭と諡号されるのは明治になってからだ。義時は次期天皇を後鳥羽の兄である守貞親王の皇子茂仁親王とした。後堀河天皇である。従って、守貞親王は天皇を経ず、「治天の君」になる。後高倉院という大上天皇の尊号を送られる歴史上初めての事態だ。別項「光格天皇尊号一件」で重要な先例となるので押えておきたい。
守貞親王(後高倉院)
これにて、保元の乱以来の「武者の世」の到来を告げた時代は、大きな画期を迎える。義時・泰時の親子は、「御成敗式目」を制定し法の支配も強め武家社会の安定に努める。平家合戦の記憶も遠くなりこの70年に及ぶ戦乱の犠牲者を悼む動きや、「平家物語」などの軍記読み物も出来てくる。そのような一時の平和の訪れで、3上皇の「恩赦」や「還幸」を期待する動きもあった。現に、九条道家など両勢力に姻戚関係を持つ前関白は、幾度か幕府に働きかけたようだ。しかし後鳥羽は、60歳で崩御。最後まで都への思いを断ち切れず、未練の死であった。また、後堀河天皇から譲位された四条天皇の急逝を受けて、順徳上皇の皇子に次期天皇の期待が高まったが、それも破れ、結果土御門上皇の皇子後嵯峨天皇に決まった。この時すでに、土御門はこの世になく、幕府は生きている順徳に「治天の君」を狙う動きがおこることに警戒したのだ。徹底的に承久の乱の影響を廃したい姿勢は変わっていなかった。遂に、ここに順徳も「還幸」の望みを絶たれ配流池で絶命する。最後は、自ら食を絶つという壮絶な死であった。
順徳天皇と万葉集
当然、それぞれの怨霊を恐れた。特に後鳥羽は生前から霊力を発揮し、乱後すぐ北条政子始め幕府の重鎮の死を招き、餓死者を多く出す飢饉をおこした。身内でも、後の天皇はことごとく早世した。先の、道家の「還幸」の願いは「怨霊」を恐れてのことだった。幕府は、諡号に順徳同様に後鳥羽にも顕徳院と「徳」のつく怨霊封じの諡号を送ったが、それでも霊力が強く、泰時が懊悩の末に頓死するのを見て、後鳥羽と改めたほどだ。後世、後鳥羽天皇というのはここに始まる。
大原陵
武家と戦う天皇を、後鳥羽天皇から書いたが、武力の前に全面敗北であった。その後、後醍醐天皇が一瞬「中興」する。それでもまだ皇室が武力を行使できた時代である。戦国時代には、武力どころか経済力もなくなり、後水尾天皇は権威だけで幕府と戦おうとする。本格的尊王思想の高まりは、光格天皇を経て、王政復古を果たすのは、まだまだ先の幕末であり、ここから600年も後のことである。