アチャコちゃんの京都日誌

あちゃこが巡る京都の古刹巡礼

683 アチャコの京都日誌  武者と戦った天皇たち  ゆかりのお菓子(偉い人も食べた?)③ おせき餅 鳥羽街道

2020-04-15 20:49:41 | 日記

③ おせき餅 鳥羽街道

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 後鳥羽上皇は、承久の変を仕掛ける為にしばしば笠懸・流鏑馬と称して「城南寺」に兵を集めた。城南寺とは、鳥羽離宮辺り(現在の城南宮近辺)にあった寺で平安京朱雀門からは鳥羽街道(現在の京阪国道)を3キロほど南下したあたりにあった。その街道沿いに、「おせき餅本店」がある。
 現在は、城南宮の門前菓子となっているが、450年ほど前に街道沿いで、おせきという娘が「茶屋」を営み旅人に売っていた餅である。おせきは編笠の裏に編笠の形をした餡餅をおいて食べさせた。その工夫と味が大変な評判であったようで多くの旅人で賑わった。現在は、白いお餅とヨモギのお餅のセットで提供している。餡は程よい甘さの粒あんで餅は意外に腰が強いので、特にヨモギ餅は噛んでいる内にヨモギの味わいがする。店内では抹茶や煎茶のセットでいただく。おはぎも同じように店内でいただけるので合わせて食べて帰りたい。(同伴者と分ければ二つ味わえる。)

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 この場所は、承久の変だけでなく南北朝時代でも幕末でも京都と大坂の行き来に使われた街道で、多くの武士や公卿、また勤王の志士なども行き帰りのひと時、おせき餅を食べたかも知れない。新選組の近藤勇が立ち寄ったのは記録に残っている。後鳥羽上皇はどうだろう。450年前?承久の変は、800年以上前なので、残念ながら後鳥羽上皇たちは食べていないが、江戸時代の皇族がお忍びで食べていたかも知れない。もしかしたら大阪へ使いに出かけた側近がお土産にして、天皇や高級公家が食した可能性はあるだろう。

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682 アチャコの京都日誌  武者と戦った天皇たち  ゆかりのお菓子(偉い人も食べた?)② みたらし団子

2020-04-15 08:13:27 | 日記

② 亀屋粟義 「みたらし団子」

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 今や全国どこでもある夜店の定番「みたらし団子」は、下鴨神社の御手洗川(みたらしがわ)が由来となっている神聖な門前菓子なのである。下鴨神社東側の下鴨本通りに「加茂みたらし茶屋」という看板を挙げている亀屋粟義は日本全国のみたらし団子の元祖だとされる。五つの団子は人間の5体を現わしていて、うち一つだけやや離れて刺してある。それは人の頭を意味していて後の四つは、四肢を現わすと言われている。これは後醍醐天皇が、建武新政の時に下鴨神社を訪れ、境内糺の森の中にある御手洗川で手を漱ごうとしたとき1つの泡が出てきてその後続けて4つの泡が出て来た。その様子を模したものだとも言われている。また、その昔、葵祭の主役である「斎王」が手を清める為に川に手を入れた時の水泡を形どったものと言う説もある。

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 いずれにしても神聖な菓子が、庶民の大人気の定番菓子になったのである。関東では醤油のつけ焼きで食べるが、こちらは黒砂糖をとかせたとろみのある独特の甘みのある蜜で食べる。夜店で子供たちが服に垂れて汚すのも構わず食いつく姿はおなじみである。ただし、「加茂みたらし茶屋」の店内でいただくみたらし団子は、楊枝で一つずつ丁寧に上品に頂くのである。


 戦乱から戦乱に生きた後醍醐天皇が、この団子を食べたとは思えないが、戦場においての非常食にしたかも知れない。後醍醐を起源にすることになったのは、歴代の南朝方の公家たちが必勝を祈願するために下鴨神社を訪れ、その時に好んで食したと考えたい。

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