47番 源光庵
京都市北区鷹峯北鷹峯町47
山号 鷹峯山
開基 徹翁義亨 (復古堂)
宗派 曹洞宗
本尊 釈迦如来
別称 復古禅林
二つの窓
再び市内に戻り、北区鷹峯方面の名刹をいくつか訪ねる。まず源光庵は、数年前に「そうだ京都に行こう。」キャンペーンで紹介され一躍人気寺院になった。丸い「悟りの窓」と四角い「迷いの窓」を通じて眺める四季の移ろいが楽しい。〇は、拘りのない宇宙であり純粋な悟りを現わし、□は、「生老病死」という人の根本的苦悩を現わす。本堂右横の庭園に向かってこの窓があり、そこに座ったり寝転んだり日がな一日過ごすのは贅沢な時間だ。秋の紅葉が一番人気だが、寒いが雪景色も一層趣深い。
寺の創建は室町時代で当初、臨済宗大徳寺派だったが、江戸時代に曹洞宗に改宗した。京都には数少ない曹洞宗寺院である。北山を借景とした枯山水庭園の苔むした趣が良い。稚児の井という古井戸からは今でも名水が汲める。
徳川幕府成立の立役者 忠臣鳥居元忠
しかし本当に注目してもらいたいのは、「血天井」だ。関ケ原の戦いに至る前段階で、家康は京都伏見城を出て奥州の上杉征伐に出かける(実は反石田勢力を徳川に味方する戦力にするため)。従って、その留守中に石田三成一派が伏見城を攻める事が予想された。留守居役の鳥居元忠の役目はただ一つ、時間を稼ぐ事だった。主力の兵を残そうとした家康に対して、「天下をお取りになる殿の為に・・・。」と、残兵は最小にするように進言した。彼は家康からの感状(戦場で手柄を後日保証する為その場で部下に渡す書状)を、私と殿との関係でそんな形式は不要と拒んだくらいの忠臣である。その元忠はすでに死を覚悟していた。事実数十倍の三成勢に対して十二分に時間を稼ぎ、関ケ原での家康勝利を実現した。後日、伏見城に戻った家康は、元忠始め自害した部下を丁寧に葬るが、床板にしみ込んだ血の跡は取れず、その為床を天井板にして長く弔う事とした。その寺院が京都には数か所ある。七条東大路の養源院、西賀茂の正伝寺、宇治の興聖寺、三千院近くの宝泉院、そしてここ源光庵だ。生々しいその血痕を見上げて欲しい。ぞっとする(怖)
次は、隣の常照寺へ
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